逃避ではない、最初の一杯
三大陸の諸帝国と名だたる精鋭傭兵団が合同で開催した狩猟祭は、三日目の第二陣が静かに幕を閉じようとしていた。
宿営地の後方に設営された救護所には、止血草の青臭い香りと焦げ付いた肉の臭気が立ち込め、負傷者たちの呻き声が絶え間なく重なり合っている。
ルシアが所属する部隊は、ほぼ全員が戦闘不能の損害を被っており、短時間で立て直すことなど土台不可能だった。
狩猟祭の峻厳な規律に従うならば、たとえ彼女自身が一騎当千の戦力を誇ろうとも、単独の編制で強引に出撃することは叶わない。
どれほど破壊的な力を秘めていようと身動きが取れないというその閉塞感は、綿にめり込む打撃のように、ルシアの胸底へ深い無力感と疲労を沈みびかせていた。
衰弱したヴァレリーをユリアンの天幕まで送り届け、然るべき処置を終えた後、ルシアは自らの天幕へは戻らなかった。
人の半身ほどもある抱き枕のような巨躯を誇る機械梟――刻刻を両腕に抱えたまま、各陣営の狭間に仮設された雑多な市場の通りを、当てもなく彷徨っていた。
晩秋の黄昏が放つ斜光が、太古絶嶺の薄い靄を射抜き、連なる天幕の天蓋をおどろおどろしい赤褐色に染め上げている。
その夕映えは一見すると強烈な熱を帯びているように映るが、肌に触れても一片の温もりすらもたらさない。冷たい風が吹き抜けるたび、かえって胸の奥を締め付けるような、言い知れぬ鬱屈と痛痒ばかりを煽り立てていた。
明日には、雌雄を決する第三陣の幕が上がる。
二日目の初陣において、オース陣営が暴力的なまでの火力をもって絶望的な点差を叩き出したことが発端だった。
焦燥に駆られた各勢力は、第二陣において狂気じみた進軍を強行し、太古絶嶺の占領前線を一気に数百メートルも押し上げてしまったのだ。
この太古の霊峰が描く段丘は、幾重にも重なる巨大な階層ケーキを思わせる。上方へ登り詰めるほど、足場となる平坦な地勢は狭まり、逃げ場のない隘路へと姿を変えていく。
太古絶嶺そのものは、群がり集まった無数の強者を呑み込むに足る巨躯を備えている。
しかし、戦線が極限まで煮詰まり、狭隘な地形の中で高位魔導や広域殲滅術式が連鎖的に暴発すれば、友軍ごと魔力の奔流に呑み込まれ、消し炭へと変わる悲劇は避けられない。
何よりもルシアの心を重く圧し潰していたのは、明日の戦局から決して逃れられないという事実だった。
彼女は混沌を極める戦場の中で、セリフィア帝国の第一皇子と第二皇子を、自らの手で確実に排除しなければならない。
その命題は、錆びついた鉄釘のように彼女の脳髄へ深く打ち込まれ、歩みを進めるごとに鉛のような重みとなって足元に絡みついていた。
俯き、果てのない思考の底へ沈み込んでいたルシアは、自らの足が枯れ枝を踏み砕く音にすら気づいていなかった。眼前に立ちはだかる巨大な影の存在に、気づくはずもなかった。
「ごつん」と鈍い衝突音が響き、ルシアの額は鉄壁のごとき逞しい胸板へと吸い込まれるようにぶつかった。
「大姐頭、昨日からずっと顔色が優れないみたいだけど……何か悩み事でもあんの?」
頭上から降ってきたのは、澄み渡るような張りと気遣いを孕んだ少年の声だった。
額を抑え、呆然と視線を持ち上げたルシアの墨緑の瞳に映ったのは、体の大半を白い包帯で覆われながらも、泰然と背筋を伸ばした橙髪の少年――ガルクの姿だった。
巻き付けられた包帯の隙間からは、薬草の淡い緑色が滲んでいる。だが、その痛々しい装いをもってしても、朝陽のように真っ直ぐで力強い彼の気骨を曇らせることはできていなかった。
ルシアは一瞬だけ虚を突かれたように目を丸くし、次いで、諦めと自嘲の入り混じったかすかな笑みを口元に浮かべた。
「人間なら、誰だって悩みの一つや二つはあるでしょう。私はあなたと違って、世界樹の天辺まで登りつめるなんて大層な夢は持ち合わせていないわ。目標も夢もなく、ただ無為に飯を食って死んでいくだけ……そして……」
言葉の半ばで、ルシアの声は秋風に切り落とされたかのように、喉の奥で不意に途切れた。
本当なら、どこか静かな場所を見つけて、好きな人と平穏に生きていきたい――そう口にしたかったのだ。だが、つい先刻、断崖の縁でヴァレリーに突きつけられた残酷なまでの真実が、未だ耳底にこびりついて離れない。
愛することも、愛されることも、その能力すらとうに枯れ果てた自分が、どうしてそんな望みを軽々しく口にできるというのか。
「教授の姉さんから聞いたよ。大姐頭がひどく迷ってるって」
言葉を詰まらせたルシアの横顔をじっと見つめ、ガルクは飾らない声でそう切り出した。
実際のところ、ガルクはずっと以前から察していたのだ。この黒髪の女の精神が、誰もが想像する以上に深く損なわれ、破綻の縁に立たされていることを。
初めて刃を交えた日の情景を、ガルクは今も鮮明に覚えている。一瞬の油断が命取りとなる極限の斬り合いの最中、この細身の女はあろうことか彼の重剣を真正面から見据えながら、どこ吹く風といった様子で赤ワインを呷ってみせたのだ。
あの頃のガルクにはその狂気が理解できなかった。だが、今なら痛いほど分かる。常に泥酔と忘我の狭間に身を浸していなければ、この女は自らが背負う傷痕の重みに耐えかねて、とうの昔に発狂していたはずなのだ。
ここ二日ほど、彼女の瞳が僅かに正気を取り戻していたのも、初陣で見せた無茶苦茶な暴走ゆえに過ぎない。
首を失ったオースの巨躯を引っ提げて戦場を蹂躙し、暴発寸前だった魔力を際限なく撒き散らしたことで、その精神を蝕んでいた守護者の狂気はようやく底を突いたのだ。
オース陣営が叩き出したあの絶望的な点差は、側で見ていたガルクですら背筋を凍らせ、冷汗を流すほどの破壊の爪痕そのものだった。
「……ヴァレリーに言われたわ。私には人を愛する能力も、愛される能力も欠落しているって」
ルシアは顎を刻刻の冷ややかな真鍮の額へそっと預け、感情の起伏を押し殺した平坦な声で紡いだ。虚勢を張ることもなく、取り繕うこともしない。
「酷く胸に刺さったけれど……よくよく考えてみれば、彼女の言った通りだった。何一つ、間違っていなかったのよ」
ルシアは、誤魔化しというものを心底嫌っていた。
前世において一介の平民として生きていた頃から、物語の中で繰り広げられる陳腐な行き違いを憎んですらいたのだ。
腹を割って言葉を交わせば一瞬で解けるはずの結び目を、なぜわざわざ終局まで引き延ばしてこじらせるのか、と。
他者が自分に向ける視線に対しても、自らが他者に差し出す感情に対しても、彼女はいつだって真実を白日の下に晒すことを選んできた。
だからこそ、カリーナに対しても、クレアに対しても、そして目の前に立つ純朴な橙髪の少年に対しても、彼女は何一つ飾ることなく己の欠落を告白したのだ。
その言葉を耳にしたガルクは、困り果てたように手を伸ばし、無造作な短髪をがしがしと掻きむしった。
教廷の暗部を歩んできた審判者として、彼は異端審問所や拷問の現場で、精神を歪め、破滅し、狂気へ堕ちていった罪人や狂信者を嫌というほど見届けてきた。
深淵の底で獣のように咆哮するそれらの魂に比べれば、目の前で機械梟を抱き抱え、己の『不能』を静かに受け止めているルシアの姿は、信じられないほど健全で、理性を保っているように思えたのだ。
だからこそ、少年の瞳には異端を蔑む色など微塵もなく、ただ彼特有の真っ直ぐさと、愚直なまでの真剣さだけが宿っていた。
「いやさ、大姐頭はもう十分すぎるくらい立派だよ。世の中の大半の奴は、自分の心が病んでることすら気づかないまま壊れていくんだからさ。自覚できてるなら、いくらでも治しようがある」
ガルクの口調は穏やかで、壊れやすい薄氷を手のひらでそっと掬い上げるかのように優しかった。
目の前の女が並大抵ではない地獄を潜り抜けてきたことなど、痛いほど察している。
だが、気の利いた慰めなど口にできない不器用な少年は、錆びついた己の記憶を掻き毟り、泥臭く誠実な言葉で彼女の防壁を溶かそうとしていた。
少年は伏し目がちに、ルシアの湿り気を帯びた墨緑の瞳を見つめた。
しばしの逡巡の後、彼は自らの胸底で重い決断を下したかのように、淡々とした、けれど微かな震えを押し殺した声音で、他人に決して明かすことのなかった過去の傷口を自ら切り開いてみせた。
「俺さ……十四歳で正式に教廷の審判者になったんだ。その頃は向こう見ずでさ、重剣さえ握りしめてりゃ神の名の下に正義を執行できるって本気で信じ込んでた。なのに……最初に下された任務が、審問所に極左の邪教認定された閉鎖集落の殲滅だったんだよ」
ガルクの瞳から、朝陽のような輝きがすうっと引いていく。普段の軽薄な笑顔は消え去り、少年の顔立ちには似つかわしくない、窒息しそうなほどの陰鬱さがその相貌を覆った。
彼は自らの胸を引き裂き、もっとも直視したくない心魔をルシアの前に晒していた。安っぽい慰めではなく、本気で彼女の手を引くために。
「そのクソみたいな村にはさ……何代も続いてきた悍ましい掟があった。『共有妻』とかいう制度でさ。思い出すだけでも胃液が逆流しそうな胸糞悪い話だよ。教廷から『色欲』と『冒涜』の大罪で、村ごと更地にしろって命令が下ったんだ……」
『共有妻』という単語が鼓膜を打った瞬間、ルシアが刻刻の外殻に添えていた指先が強張った。
悍ましい光景が脳裏を過り、ガルクの顔に浮かんだ冷徹なまでの嫌悪感が、それが単なる陋習などではなく、女という性別を家畜のように共有し、嬲り殺すために体系化された狂気の人間地獄であったことを物語っていた。
「……要するにさ、突入した後の俺は完全にブチ切れて、見境なく暴れ回ったんだ」
ガルクの語り口は奥歯に物が挟まったように途切れ途切れだったが、その節くれ立った掌に滲む冷汗と微かな震えが、血塗られた凄惨な結末を雄弁に物語っていた。
「立ち直るまで、本当に途方もない時間がかかったよ。あの地下室の腐った臭い、血反吐でぬかるんだ土……それから、部屋の隅でうずくまって、涙も涸れ果てた目で、ただ『殺してくれ』って何度も何度も縋り付いてきた女たちの顔……死ぬまで忘れられない」
十四歳の少年が振るう刃によって、暴力の主たちは一人残らず肉片へと変わった。囚われていた被害者たちも、形式上は『救出』されたはずだった。
だが、長きにわたる蹂躙は彼女たちの精神を完全に焼き尽くしていた。人間としての理性を喪失し、自活する能力すら奪い去られた抜け殻。
泣き叫び、速やかな死だけを請い願う生ける屍たちを前にして、駆け出しの少年審判者は、涙と血反吐に塗れながら、自らの手で彼女たちに最期の引導を渡すしかなかったのだ。
わずか十四歳の子供が、最初の任務で直面した人間の尊厳を噛み砕く深淵。ルシアは言葉を失い、胸を衝くような痛みと驚愕に打たれていた。
これほどの暗黒を背負わされながら、なぜこの少年は、陽だまりのように無邪気な笑みを浮かべていられるのか。
「……じゃあ、」
震える声を押し殺し、ルシアは掠れた声で問いかけた。
「あなたはどうやって、その苦痛に折り合いをつけたの?」
「折り合いなんて、つけてないよ」
少年の返答はあまりにも潔く、迷いのかけらすら存在しなかった。
ルシアは息を呑み、信じられない面持ちで顔を上げ、少年の双眸を凝視した。
晩秋の黄昏が急速に深まり、沈みゆく落日の余光が、ガルクの長身を凄艶な金赤の輪郭で縁取っている。
見上げるルシアの視界の中で、逆光に沈む少年の表情は微かに霞んでいたが、その橙色の瞳だけは、爛々と燃え盛る篝火のように輝いていた。
「あんなこと、綺麗さっぱり忘れられるわけないだろ?」
ガルクは口端を歪め、自嘲と揺るぎない覚悟を混ぜ合わせたような笑みを零した。
「でもさ、俺は生きていきたいんだよ。生き延びるだけじゃなくて、世界中の誰にも俺の存在を忘れられたくない。……忘れ去られることこそが、本当の意味での『死』だからさ」
少年は言葉を切り、連なる天幕の彼方、暮れなずむ空の果てを見据えた。
「あの任務から帰った後、何週間も毎晩悪夢で跳び起きたよ。それから俺、オースの旦那に泣きついて、一文字ずつ文字の読み書きを教わったんだ。組織の掟が盲目なら、世界がどれほど冷酷だろうと、俺が任務の中で見てきた真実を……隠蔽された災厄や犠牲の記録を、全部小説にして残してやろうって決めたんだよ。別の形で、この世に刻みつけてやるためにさ」
そこまで語ると、ガルクは気恥ずかしそうに己の鼻梁を擦った。以前なら貼られていたはずの湿布は、ルシアとの激突を経て剥がれ落ちたままで、その素肌の感触に居心地悪そうに指を彷徨わせる。
「まあ……俺の文才が絶望的すぎて、刷った本は信じられないくらい爆死したんだけどな。誰も見向きもしやがらねえ」
自らの不甲斐なさを笑い飛ばすように二度ほど声を立てた後、少年の眼光が鋭く引き絞られ、無謀なまでの熱情が再びその身から吹き荒れた。
「だから決めたんだ! 大陸中の人間全員に、俺の名を刻みつけてやるってな! 俺が雲の上まで登りつめて誰よりも有名になりゃ、野次馬どもが群がって勝手に本を買い漁るだろ? そうすりゃ奴らも、暗がりで本当に起きてる苦劇を知ることになる。そうやって少しずつ、この腐った世界を塗り替えていくんだよ。この夢だけは、死んでも手放さねえ!」
ルシアは呆然と彼を見上げていた。
年端もいかない未熟な少年がその背に背負っているのは、無邪気な英雄譚などではない。この太古絶嶺の山塊よりも重く、灼けつくほどに純粋な救済と執念だった。
彼は決して、ただの熱血漢などではなかったのだ。地獄の底を覗き込み、絶望の澱を素手で掴み取ってきたからこそ、その身に纏う陽光はこれほどまでに眩いのだ。
工房の影に蹲り、冷たい歯車の隙間に身を隠してきたルシアが、微かな嫉妬と劣等感を覚えてしまうほどに。
「だからよぉ――! 俺は世界樹の頂を獲る男だ! このガルク様が、へこたれるわけねえだろ!」
秋風を胸一杯に吸い込み、先刻までの陰鬱な気配を吹き飛ばしたガルクは、いつもの満面の笑みを浮かべた。ルシアに向けて親指をぐっと突き出し、世界樹の踏破を豪語する、あの向こう見ずな少年へと舞い戻る。
ルシアの唇の端が、ついに堪えきれずに綻んだ。瞳の縁に滲んでいた微かな湿り気が、ふわりと温かく融解していく。
この少年は、彼なりの強引で優しいやり方で教えてくれたのだ。苦痛など、無理に赦す必要も、過去として切り捨てる必要もないのだと。
己の欠落を泥の中で責め立てるくらいなら、傷だらけの肉体を引きずりながら、自分に許せる歩幅で前へ進めばいいのだと。
「……そう言えば」
ルシアは即座に感情を切り替え、わざとらしく眉を寄せて不満げな表情を作ってみせた。話題を滑らかに塗り替えるための、ささやかな逃げ道を差し出すように。
「この前、クレアが乱入して台無しにしなかったら、あなたが自慢していた銘酒を今頃味わえていたはずなんだけど。あの貸し、まだきっちり覚えているわよ」
ガルクは虚を突かれたように目を丸くし、次いで、黒髪の女の瞳に宿る見慣れた悪戯っぽい光を捉えると、腹の底から快活な大笑いを破裂させた。
「ぎゃははは! なんだよ大姐頭、まだあの酒に未練があったのか!」
言い終えるが早いか、ガルクは逞しい腕を伸ばし、半ば強引に、しかし怪我をさせぬ絶妙な手際でルシアの体をまるごと抱え上げた。機械梟を抱いたままの彼女を、自らの広い肩口の上へと軽々と担ぎ上げる。
少年は身を翻し、晩秋の凍てつく泥土と落ち葉を蹴立てながら、絶嶺の片隅に佇む粗末な掘っ立て小屋の酒場へ向かって疾走を開始した。
「善は急げだ! あのイカれた女が嗅ぎつけて邪魔しに来る前に行くぞ!」
少年の肩に担がれたルシアの腕の中で、刻刻が「カチカチ、カタカタ」と激しく歯車を鳴らして抗議の音を響かせている。
逆巻く秋風が容赦なく吹きつけ、額を覆う重い黒髪を乱雑に掻き乱した。ルシアは観念したようにガルクの革鎧を掴み直し、呆れと晴れやかさの入り混じった声を張り上げた。
「だったらもっと速く走りなさいよ、バカ!」
残陽は完全に峰々の向こうへと沈み、金赤の残光が薄靄を切り裂いて、女を担いで駆けていく少年の影を遥か遠くまで長く引き伸ばしていた。
二人の笑い声は、晩秋の絶嶺を支配していた重苦しい冷気を、鮮やかに撃ち砕いていった。
風を真っ向から受けながら、少年の肩の上で揺られるルシアの視界は、激しい上下動を繰り返していた。
通り過ぎていく天幕の列と、あちこちで灯り始めた篝火が、滲んだ光の尾を引いて流れていく。足元で枯れ草が踏み砕かれる乾いた音が、小気味よく耳を打つ。
腕の中の刻刻が規則的な「カチ、カチ」という不満げな駆動音を漏らし、その硬質な真鍮の装甲が少年の肩当てにぶつかって、ルシアの手のひらに小刻みな痺れを伝えていた。
だが、少年の体から一切の躊躇なく放たれる熱量は、凍てつく大気を突き抜け、長いあいだ氷結していた彼女の心核を確かに温めていた。
その瞬間、ルシアの心を縛り続けていた頑なな結び目が、音を立てて解けていくのを感じた。
彼女は、理解したのだ。
苦痛とは、天秤にかけて重さを競い合うようなものではない。火球に胸を穿たれた焦燥と絶望も、狂気の屠殺場を目の当たりにした血の深淵も、それを背負わされた生身の人間にとっては、等しく世界が崩壊するほどの激痛なのだ。
ガルクが先刻自らの古傷を抉って見せたのは、「俺の方が悲惨なのだから、あんたの悩みなど大したことはない」と見下すためなどでは断じてなかった。
少年はただ、もっとも不器用な誠意をもって伝えてくれたのだ――痛むものは痛むのだから、無理に過去と和解する必要も、都合のいい『諦念』を学び取る必要すらないのだと。
血と涙に塗れた苦痛は、嫌でもその人間の魂の底へ沈殿し、人格を形づくるもっとも強固な礎石となる。
まさに、目の前にいるガルクのように。
この橙髪の少年は、眩いばかりの輝きを放ちながら、今なお驚くべき速度で成長を続けている。一見すれば無鉄砲な熱血漢でありながら、その胸中には途方もなく重く、澄み渡った大望を宿している。
弱者が泥濘の中で喘いでいれば迷わず手を差し伸べる無償の優しさを持ちながら、人の尊厳を踏みにじる巨悪に対しては躊躇なく重剣を振り下ろす冷徹さを併せ持っている。
十四歳のあの日に最悪の地獄をその瞳に焼き付けたからこそ、彼の心には決して揺らぐことのない正義が鋳造されたのだ。
ならば、他の者たちはどうだろうか。
天幕の中で顔を真っ赤にして罵り合い、互いの信念のために刃を交えるユリアンと二人の兄たち。
吹雪と権力闘争の中で、自らを冷徹な戦乙女へと仕立て上げるしかなかったカリーナ。
そして、あまりにも強大な名門の看板を背負い、傲岸と偏執をもって己を武装したクレア……そして、ルシア自身も。
彼らの誰もが、過去の生々しい爪痕によって、一刀一刀削り出されて今の姿になったのではないか。
痛みが今の自分を形作ったというのなら、どうしてその傷跡を、恥ずべき汚点として消し去らねばならないのか。
長きにわたって胸を締め上げていた見えない手綱が、今、完全に断ち切られた。ルシアは肺腑の奥まで冷気を吸い込み、その瞳を覆っていた死相のような暗がりは、透き通るような晴れやかさへと塗り替えられていった。
過去の二つの生において、酒は彼女にとって安っぽい麻酔に過ぎなかった。
喉へ烈酒を流し込んでいたのは、泥酔の微睡みの中で覚醒の痛覚から逃れるためであり、「私は何もかも気に留めていない」という分厚い壁を築いて、長生寺の暗がりに引き籠もる口実を得るためだった。
だが、今夜は違う。
彼女が自らあの酒の名を口にしたのは、現実から逃避するためでも、神経を麻痺させるためでもない。
先刻、輝くような少年の瞳の中に、彼がどれほど心からあの酒を愛しているかを見たからだ――だからこそ、彼と一緒に呑みたいと思った。
あの粗末な木組みの屋根の下で、この不器用で温かい友人と肩を並べ、同じ芳醇さを分かち合いたいと願ったのだ。
それは計算高き等価交換などではなく、心の安寧を求めて行う施しでも、物乞いでもない。
ただ純粋に、無防備に、「誰かと善きものを分かち合いたい」という、衝動そのものだった。
風に目を細めながら、ルシアの口元に、二度目の生を得て初めて心からの笑みが浮かんだ。
きっと……これが最初の一歩なのだ。
完璧なアリバイがあると信じ込んでいた、愛し、愛される能力は、決して死に絶えてなどいなかった。傷だらけの骨組みが、再び血肉を宿すその瞬間を、じっと待ち続けていただけなのだ。
ガルクが血の臭いを全身に纏いながら、それでも世界樹の頂を目指して駆け抜けられるというのなら、自分に何の手加減が必要だというのか。
誰かを愛することを学び、自分へと注がれる温もりを、恐れずに受け止める術を学んでいけばいい。
背中を預け合えるヴァレリーやガルクに対してそうであるように――遠くの天幕で、火傷しそうな指先で自らの首筋を撫でたカリーナに対しても、あの星のような執着を瞳に宿したクレアに対しても、同じように向き合っていけばいいのだ。
「おい、ガルク!」
少年の背中に凭れかかり、刻刻を抱きしめたルシアは、逆巻く夜風に向かって声を張り上げた。
「酒代なんて、銅貨一枚だって出してあげないからね! 今日は絶対に潰れるまで呑ませてやるんだから!」
「へっ! 大姐頭こそ、後で泣き言吐くんじゃねえぞ!」
少年の屈託のない笑声が晩秋の絶嶺に響き渡り、彼はその長い脚を力強く踏み出させて、紅蓮の炎のように、遠くで揺れる酒場の薄暗くも温かな灯火の渦へと飛び込んでいった。




