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重度カードゲーマー女子、過労死転生した異世界でも恋愛をプレミして詰んだ件  作者: 酣睡


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愛することも、愛されることも、完璧なアリバイがある

天幕の奥で繰り広げられていた三兄弟の重苦しい罵声と、食器が激突する耳障りな音は、分厚い垂れ幕が下ろされた瞬間に背後へと遮断された。


晩秋の早朝は、肌を刺すような冷気を孕んでいる。太古絶嶺の底に淀む朝霧はまだ晴れず、天幕の脇に広がる草葉や立ち枯れた低木には薄い霜が降り、昇り始めた朝陽の微光を浴びて淡い水気をきらめかせていた。


身を切るほどの極寒ではないものの、深く息を吸い込めば、秋の終わりに特有の乾いた冷たさが喉の奥をかすめ、遥か遠方から漂う松脂の燻る匂いと焦土の気配が混じり合ってくる。


ヴァレリーの手には、中身の空になった厚手の硝子薬瓶が握られたままだ。カリーナが差し向けたその魔導薬は、さすがに一級品と呼ぶにふさわしい即効性を備えていた。


ほんのりと甘い薬草の香りがする濃密な溶剤を胃に流し込んだことで、ヴァレリーの頬を覆っていた紙のように白い虚ろさは幾分和らぎ、眉間に張り付いていた疲労の影もほどけて、どうにか人心地ついた様子を見せている。


「ふう……やっと生き返ったわ」


ヴァレリーは長く息を吐き出すと、身を屈め、巡回の衛兵に踏み砕かれないよう、路傍の柔らかな枯草の茂みにそっと空瓶を置いた。それから法衣の胸元を整え、両手をだぶついた袖の奥へと滑り込ませると、呆れたような、それでいてどこか苦笑交じりの視線を隣の黒髪の女へ向けた。


「でも、あらかじめ言っておくけれど、いざ本格的な戦いになったら、精々後ろから見ていてあげるのが関の山よ。魔力回路が干からびかけた直後に大掛かりな詠唱なんて強行したら、今度こそ私の肺腑ごと弾け飛んでベッドに逆戻りだもの」


「最初から、あなたに無茶をさせる気はないわ。大人しく休んでいて」


ルシアは、人の半身ほどもある抱き枕ほどの巨躯を誇る機械梟――『刻刻(こくこく)』を両腕でしっかりと抱え、湿り気を帯びた泥と落葉を踏みしめながら、静かに歩みを進めていた。


ずっしりとした重みを持つ真鍮の梟は、ルシアの華奢な胸元を覆い尽くさんばかりに収まっている。


その黄銅の装甲は朝霜を浴びてひやりと冷たいが、胸腔の奥深くで微小なゼンマイが刻み続ける「カチ、カチ」という規則正しい噛み合わせの響きと、炉心が発する微かな温もりは、厚手のコート越しに確かな質量と安らぎを与えていた。


刻刻の双眸に嵌め込まれた暗金色の硝子玉が静かに巡り、精緻な歯車が眼窩の奥で焦点を合わせながら、時折「カチ、カチ」と嘴を鳴らして主の歩調に応えている。


やがて二人は、宿営地の背後に位置する切り立った断崖の縁へと辿り着いた。ルシアは少し息を乱しながら刻刻を腕から下ろす。真鍮の巨躯は、霜の降りた岩肌の窪みにどっしりと腰を据え、重厚な金属の鉤爪が枯葉を踏みしめて、かすかな擦過音を立てた。


ここから見下ろせば、太古絶嶺の裾野に広がる情景が一望できる。


セリフィア帝国の黒灰色の天幕群は、冷たい大地に這いつくばる巨大な獣のようにどこまでも連なり、その外縁では、第七軍団の予備役や輜重隊に同行する難民たちが粗末な竈を囲んで、寒風の中で身を寄せ合いながら暖を取っていた。


立ち上る青白い柴煙は、中腹に立ち込める朝霧に溶け込み、人の世の苦渋とやり場のない無力感をぼんやりと滲ませている。


冷たい大気の中で、沈黙がじっと澱んでいた。遥か頭上で時折響く、地を揺るがすような魔導の雷鳴だけが、この険峰が今まさにどのような深淵の縁に立たされているのかを否応なく告げている。


ルシアは眼下の泥沼を見つめていた。揺らめく煙の行方を追うその深緑の瞳には、言葉にし難い晦渋な光が揺らめいている。やがて、彼女は断崖の静寂を破るように、ぽつりと呟いた。


「……ヴァレリー」


「ん?」と、ヴァレリーが首を傾げる。


「第一皇子も第二皇子も、貴族たちの既得権益を打ち砕いて、外部の難民を受け入れ屯田を推し進めることで、この国の未来を切り拓こうとしている。そしてユリアンは、今この足元にある限界を守り抜くために、自ら泥を被ってでも、目の前の民が踏み躙られるのを見過ごすまいとしているわ」


ルシアはその場にしゃがみ込み、足元に佇む刻刻の硬質な黄銅の翼へ両手を預けた。ひんやりとした金属の継ぎ目を指先で何度もなぞりながら、眉を微かに寄せ、拭い去れない困惑とやるせなさをその瞳に滲ませる。


「彼らは同じ血を引く家族で……誰よりもこの国を愛しているはずなのに。どうして膝を突き合わせて話し合えないのかしら。なぜ、互いの喉元に刃を突き立てるような極端な道しか選べないの?」


ヴァレリーはすぐには答えなかった。両手を袖の奥へ深くしまい込み、風化した巨岩に背を預けながら、霧の向こうを見やる。同じく異郷の地へと流れ着いた友の横顔を、じっと見つめていた。


晩秋の冷たい朝風がヴァレリーのワインレッドの髪を揺らし、その目元に浮かぶ淡い倦怠感を撫でていく。その唇元に浮かんだのは嘲りではなく、浮世の理を悟りきった者特有の、苦く乾いた笑みだった。


「村雨、本当にこの国を想っているからこそ、歩み寄るなんて土台無理な話なのよ」


ルシアは微かに息を呑み、当惑したように顔を上げた。


「もしもこの国に何の愛着もない奴らなら、適当に私腹を肥やして、地位と保身さえ手に入ればそれでいい。そんな相手なら話は簡単よ。利害を天秤にかけて、誰がどれだけの分け前を取るか、腹芸を交えて妥協点を探れば済むのだから」


立ち上る幾筋もの炊煙を眺めながら、ヴァレリーは淡々と、しかしどこか諦観の籠もった声で言葉を重ねる。


「けれど、あの三人は違う。あまりにも純粋に、歪なまでにこの国を愛しすぎている。だからこそ、僅かな妥協すら許せないのよ。エドワードたちの目には、一歩退くことは帝国の二十年後の未来に対する裏切りに映る。そしてユリアンにとってみれば、その壮大な改革に屈することは、今生きている無辜の民を自分の手で断頭台へ突き落とすも同然なのよ。愛しすぎているからこそ、自分が握りしめているものだけが唯一の救いだと信じ込んで、誰一人として引くことができない」


ヴァレリーは視線を戻し、物思いに沈むルシアの顔へと留めた。


朝靄を透かして射し込む柔らかな秋光が、黒髪の女の横顔を仄かに照らし出している。ヴァレリーの瞳から軽薄な冷笑は消え失せ、同じ苦難を分け合ってきた者だけが宿す、痛切なまでの真摯さと気遣いがその金色の双眸を満たしていた。


「……けれど、村雨。あの三人が血を吐くように争う姿を見ていて、あなた、心の底では何一つ共感できていないでしょう?」


ルシアの呼吸が微かに止まった。深緑の瞳が小さく揺れ、躊躇いながらもヴァレリーの視線を受け止める。


「それとも、こう言うべきかしらね」


ヴァレリーは薄霜を驚かせないように、ごく静かに、しかし魂の芯を撃ち抜くような重みをもって呟いた。


「あなたは最初から、人を愛することも、誰かに愛されることを受け入れる術も、知らないんじゃないの? 愛することも、愛されることも、ひとつの『能力』よ。そしてあなたには、そのどちらも綺麗さっぱり欠落しているんじゃないかしら」


ドクン、とルシアの心臓が不快な跳ね方をした。


「……急に、何を言い出すの?」


ルシアは視線をそらし、無意識のうちに刻刻の装甲へ爪を立てた。


「忘却の神殿で、あなたが石板を手にして世界の記憶から消し去られた時のことよ。あの時、あなたは何をした? 僅かにあなたを覚えていた私たちに相談するでもなく、一人で長生寺の片隅に引き籠もって、黙々と酒を煽っていたじゃない」


ヴァレリーは詰め寄るでもなく、ただ旧友と他愛のない世間話でもするかのように平然と言い放つ。だが、その言葉の刃は、ルシアがもっとも触れられたくない急所を正確に抉り出していた。


「カリーナがあなたをどれほど特別扱いしているか、クレアがどれほど盲目的に心を寄せているか、あなた自身が一番よく分かっているはずよ。なのに、二人が好意を向けてくるたび、あなたの目はまるで算盤を弾いているみたいだった。『どれほどの恩を借りてしまったのか、どうやって同等の対価を返すべきか』ってね。すべてを等価交換で処理しようとするのは、誰かの偏愛を無防備に受け入れて、後からそれを失う恐怖に耐えられないからでしょう」


ヴァレリーの瞳には、同胞を見つめる柔らかな哀れみと、どうしようもない諦めが滲んでいた。


「愛することが怖いのは、あの三人の皇子のように狂気じみた代償を背負うのが恐ろしいから。愛されることを信じられないのは、自分なんかにその価値があると思えないから。だから工房の殻に閉じこもって、体温のない歯車ばかり相手にしてきたのよ」


「村雨。元の世界で息を潜めて生きてきたのはいいわ。でも、この世界に落ち延びて、一度は無残に死んだというのに……あなた、これからもずっと、いつでも関係を切り捨てて逃げ出せる『傍観者』のままでいるつもりなの?」


崖を吹き抜ける秋風が枯草を揺らし、ささやかな擦過音を立てる。


ルシアは口を閉ざしたままだった。


うつむいた彼女の手指が、刻刻の真鍮の翼の上で固く引き絞られ、指先が白く強張っていく。


これまで「職人の冷静さ」や「凡人の分際」という分厚い皮膜で覆い隠してきた防壁が、ヴァレリーの静かな言葉によって、残酷なまでに剥ぎ取られていく。


怒りも、取り乱しも湧いてこなかった。ただ、胸の奥底から、かつて味わったことのないほどの虚無と、形のない狼狽がせり上がってくるだけだった。


思い出すのは、カリーナが髪に触れてきた時の、薄い胼胝がありながらも火傷しそうなほど熱を帯びた指先。クレアが家の秘宝を惜しげもなく差し出してきた時の、何の疑いも抱いていない澄んだ紫の瞳。


そして……長生寺の薄暗がりで一人杯を傾けていた時、胸の奥を掠めた、あの浅ましくも紛れもない「安堵」の感覚。


――ああ、これでようやく、誰とも関わらずに済むのだと。


自分はただ、愛という重圧に怯えていただけだったのだろうか。


足元に蹲っていた刻刻が、主の魂の揺らぎを感じ取ったのか、カチ、カチと静かに嘴を鳴らした。丸みを帯びた真鍮の頭をもたげ、暗金色の硝子玉を明滅させながら、ずっしりとした重躯をルシアの脛へと摺り寄せてくる。その胸腔の奥から、低く温かなゼンマイの唸りが漏れ出していた。


ルシアは屈み込んだまま、刻刻の冷ややかな額を何度も、無心になぞり続けた。刻刻はその主の迷いを汲み取るように、喉の奥の歯車を「グルル……」と喉鳴らしのように震わせ、温順にその指先を受け止めている。


風が霧の裂け目を広げ、淡い日差しが二人の足元を照らし出した。


「……きっとね、自分という存在が、ずっと信じられないのよ」


ようやく唇を開いたルシアの声は、驚くほど平坦で、劇的な揺らぎなどなかった。けれどそこには、頑丈な甲冑を自ら脱ぎ捨てた者特有の、底知れない疲弊が滲み出ていた。


「ヴァレリー、あなたも元の世界で普通の人間として生きていたなら、あの感覚が分かるでしょう? 毎朝、汗の臭いが充満した満員電車に押し込まれて、息苦しいパーティションの中で画面に向かってキーを叩き、書類を直すだけの日々。人員整理や組織改編の紙切れ一枚で、自分がその場所に生きていた痕跡なんて、明日入ってくる新人に三分で塗り替えられてしまう。熱を出して仕事を休むことすら後ろめたくて、立ち止まってしまえば、自分が生きているかどうかなんて誰も気に留めていない現実に押し潰されそうだった」


ルシアの唇が、かすかな自嘲の笑みを刻む。


「そしてこの世界に放り出されて……私の最初の一週目。あの死に様は、リストラされる社畜よりも呆気なく、無意味なものだったわ。絶対的な力の前に肉片ごと踏み躙られたあの痛覚は、今でも昨日のことのように覚えている」


彼女は立ち上がり、コートの裾についた枯草を払った。けれど、その視線は足元の刻刻から離れない。


「そんな風にして二度も生きておきながら……ヴァレリー、私がどんな顔をして、カリーナやクレアのあの真っ直ぐな視線を受け止めればいいっていうの?」


ルシアはヴァレリーへと向き直った。その深緑の瞳には恨み言の色はなく、ただ底の透けて見えるような、残酷なまでの諦観と劣等感が揺蕩っていた。


「カリーナは北境の戦乙女で、帝国の武力をその手に握っている。クレアの背後にはシルヴィア家があって、大陸全土の富と動脈を支配しているわ。彼女たちは生まれながらにして雲の上に立つ人たちよ。それに引き換え、私は何? 前世の知識を少しばかり齧って、公差を計算しながら狡賢く生き延びてきただけの、しがない職人に過ぎない。あんな途方もない舞台の上じゃ、誰かの放った余波の術式ひとつで、いつだって消し炭にされる存在よ」


「だから、二人が近づいてくるたびに、先回りして恩を返そうとしたの? ……それどころか、ただ求められるがまま、自分の体さえ無感情に差し出して、二人を繋ぎ止めようとしたわけ?」


ヴァレリーの言葉は岩肌に寄り添うように穏やかだったが、その眼差しはルシアの急所を的確に見据えていた。もっとも醜悪な自衛の手段を暴かれたルシアは、反論することすら諦め、ただ静かにそれを受け入れるしかなかった。


カリーナが何を望み、クレアが何を飢えさせているのか、ルシアには最後まで理解できなかった。


求めてくるものが工芸品であるなら工房に籠もって全力を尽くしたし、肌の温もりを求めて縋り付いてくるのなら、望むがままにその身を委ねてやり過ごしてきた。


――なぜ、ルシアは決して自分を拒絶してくれないのか。カリーナもクレアも、その真意を測りかねて苦悩し続けていた理由が、まさにそこにあった。


「ええ。そうするのが、一番安全だったから」


ルシアは冷たい秋の空気を胸の奥まで吸い込み、伏し目がちに言った。


「すべてを『等価交換』にしてしまえば、彼女たちがどうして私なんかに優しくするのか、その理由を深く考えずに済むでしょう? 取引であるなら、いつか相手が飽きるか、私が役に立つものを差し出せなくなった時点で、契約は終了。私は荷物をまとめて長生寺の工房へ引っ込めばいい。誰にも義理を欠くことはないわ。けれど……もしもそれが『愛』なのだとしたら。ヴァレリー、愛には測るための目盛りが存在しないのよ」


黒髪の女の指先が、コートの裾を固く握りしめた。


「長生寺で忘却の石板を手に入れて、世界中の人間が私のことを忘れていくのを目の当たりにした時……あの瞬間に私の胸を過った最初の感情が、何だったと思う? ――『ああ、良かった』だったのよ」


ヴァレリーは遮ることなく、ただ静かに彼女の言葉を待っていた。


「浅ましいでしょう?」


ルシアは自嘲気味に息を漏らし、瞳の奥に滲む影を隠そうともしなかった。


「だって、彼女たちが私のことを忘れてくれさえすれば、『いつか私が平凡で利己的な人間だと知られて、幻滅して去っていくんじゃないか』っていう恐怖から、完全に解放されるのだから。最初から存在しなかったことにしてしまえば、この契約が不履行になることなんて絶対にあり得ない」


朝風が二人の髪を吹き抜け、遥か彼方の宿営地に掲げられた軍旗が、霧の奥でバタバタと冷ややかに鳴り響いていた。


「愛したくないわけじゃないのよ、ヴァレリー」


ルシアは顔を上げ、術式の閃光に赤く染まり始めた遠くの稜線を見つめながら、消え入りそうな声で呟いた。


「ただ……私自身の骨組みが、どれほど脆いかを思い知らされすぎたの。彼女たちの体温に一度でも甘えてしまったら、次に深淵から巨大な質量が降ってきた時、二度と立ち上がる力すら残っていないんじゃないかって……それが、たまらなく怖いのよ」


ヴァレリーはその告白を静かに受け止めると、瞳に宿っていた苦々しさを静かに溶かし、凪いだ水面のような穏やかな面持ちを浮かべた。


「ねえ、村雨」


ヴァレリーは袖から手を取り出すと、黒髪の女の肩へそっと手を置いた。布地越しに、確かな人の温もりが伝わってくる。


「昔、地球にいた頃にね、何の救いにもならない屁理屈を読んだことがあるの。『プレッシャーに耐えかねて酒を浴びるように飲み続けた男が死んだ時、彼を殺したのはアルコールか、それとも過去か?』って」


ルシアは小さく瞬きをし、怪訝そうに首を傾げた。


「答えた奴はこう言ったわ。『男は過去においても、酒を煽っている最中も生きていた。だから彼を殺したのは未来だ。けれど、未来には完璧なアリバイがある。まだ存在すらしていないのだから。ならば彼を殺したのは何だ? ――そう、未来が無いことそのものだ』ってね」


ヴァレリーは踵を返し、再び第二平臺から立ち上る絶え間ない火光へと視線を投げた。その声は風に消え入りそうなほど微かだったが、朝鐘のように二人の胸底を震わせた。


「見なさいよ。あの天幕の中で、過去と現在を木っ端微塵に踏みにじりながら、手に入りもしない未来を奪い合っている三人の皇子を。……そしてあなたも同じよ、村雨。『等価交換』という高い壁を築いて、自らの存在を記憶ごと消し去って。絶対に傷つかない頑丈な殻を選んだつもりで、自分の未来の息の根を、その手で締め上げているだけじゃない」


ヴァレリーは横顔だけで友を見やり、透き通るような眼差しを向けた。


「骨組みが脆いなら、折れた後でいくらでも補強すればいい。けれど、差し伸べられた温もりを受け取る勇気すら放棄してしまったら……あなたの人生には、誰にも文句のつけようがない完璧な『アリバイ』しか残らないわよ」


風の中に佇むルシアの指先が、かすかに震えた。晨光が深秋の朝霧を裂いて差し込み、彼女と足元に寄り添う刻刻の影を、冷えた岩肌の上に長く引き伸ばしていく。


やがて遠くから、低く鈍い角笛の音が響き渡り、第二平臺での決戦が刻一刻と迫っていることを告げた。そしてその瞬間、黒髪の女が長年張り巡らせてきた冷たい防壁の奥底に、誰にも気づかれぬほどの微かな亀裂が、確かに刻み込まれていた。


風の中で、ルシアの指先は微かに震え続けていた。


ヴァレリーが口にした「アリバイ」という言葉を反芻しながら、彼女は長い間、言葉を発することができなかった。


断崖を吹き抜ける秋風が、額に垂れた黒髪を乱暴に揺らす。差し込む陽光が瞳の奥を射抜き、長きにわたって平静を装ってきたその心の表面を、一枚ずつ溶かしていくようだった。その下に淀んでいるのは、二つの生を経てなお渇ききった泥濘だけだ。


やがて、黒髪の女は俯き、自らの何もない両の手のひらを見つめながら、自嘲に満ちた微かな苦笑をその唇に浮かべた。


「……ヴァレリー。アリバイ、だなんて」


ルシアの声はあまりに微かで、まるで遠い異国の昔語りでも口にしているかのようだった。


「前世で、まだ私が『村雨』だった頃……実家はね、酷く裕福だったのよ。大きな屋敷に、手入れの行き届いた庭。外から見れば、絵に描いたような幸福な家庭だったわ。けれど、両親の瞳に映っていたのは、いつだって弟と妹だけだった。妹のピアノの発表会に何時間も付き添い、弟の試合の戦績を褒め称えることには熱心だったのに、私がご飯を食べたのか、熱を出して倒れているのかすら、平気で何ヶ月も忘れていられるような家だったの。あの家で、私はただの余分な影法師だった。勝手に生まれ、勝手に息をしているだけのね」


ルシアは両手をコートのポケットへと深く突っ込み、その中で指をきつく握り締めた。


「あの頃の私はね、毎日そればかり考えていたわ。私がどこか劣っているから愛されないのか、もっと聞き分けをよくして、もっと優秀な人間になれば、ほんの一秒でもあの人たちの視線を繋ぎ止められるんじゃないかって。……でも、どれほど必死に足掻いても、あの扉が開くことはなかった。あの時もう、私の中から『愛される能力』なんてものは綺麗さっぱり削ぎ落とされていたのよ。誰かに全身全霊で見つめられるってことが、どんな感覚なのか……私には、最初から分からないの」


ヴァレリーは岩肌に背を預けたまま口を挟まず、ただ静かに、孤独の影を纏う友を見つめていた。


「それから、訳も分からないまま死んで、訳も分からないままこの世界へ放り出された」


ルシアは晩秋の冷涼な空気を深く吸い込んだ。乾いた目元を擦ることもせず、深緑の瞳を、朝靄に沈む連峰の彼方へと彷徨わせる。


「そこで、カリーナに出会ったのよ。あまりにも眩しくて、あまりにも強大な人だった。……溺れる者が藁をも掴むように、世界が変われば私もやり直せるんじゃないかって、そう錯覚してしまったのね。丸三年よ、ヴァレリー。私はまるで道化のように、彼女の背中を追いかけ回し続けたわ。家事をすべて引き受け、彼女の佩くすべての剣を研ぎ澄まし、数え切れないほどの錬金道具を拵えて差し出して……人を愛することを学びたかったの。私だって、温もりを持って生きられる人間なのだと、証明したかった」


そこまで語ったところで、ルシアの息遣いが微かに詰まった。ポケットの中の拳が、痛々しいほどに震えている。


「でも、あの一週目の結末は……あなたも知っている通りよ」


彼女は自らの胸元へとそっと手を当てた。まるで、かつて肉体を貫いた灼熱の痛覚が、今なおそこに燻り続けているかのように。


「暴走した火球がね、真正面から私の胸を撃ち抜いたの。肉が焦げ付く臭い、心臓が瞬時に蒸発していく音……真っ赤な炎の向こうに、最後に私が見たのは、ただ冷酷な深淵だけだった。私が費やしたすべての献身も、必死の媚態も、圧倒的な暴力と無慈悲な現実の前には、枯草一本ほどの重みすらなかったのよ」


ルシアは顔を上げ、ヴァレリーの柔らかな視線を受け止めた。黒髪の女の唇が歪み、泣き顔よりも痛々しい、張り裂けそうな笑みがこぼれ落ちる。


「だからね、もしも本当に『アリバイ』なんてものがあるのだとすれば――」


「前世のあの冷え切った屋敷の中で、私の『愛される能力』はとっくに家族によって死刑を宣告されていた。そしてこの世界で、あの一週目に胸を貫いた炎が、私の『愛する能力』を灰燼に帰せしめたのよ」


ルシアはポケットから手を取り出し、力なく両手を広げてみせた。瞳の縁に薄い膜が張りながらも、どこか戯れ言でも吐き捨てるかのように、軽やかな声音で呟く。


「私の人生において、人を愛することも、愛されることも……最初から完璧なアリバイが成立してしまっているのよ」


長く白い息を吐き出しながら、彼女はやり切れない面持ちで眉間を押さえ、力なく首を振った。


「私って……本当に三流の探偵ね。自分のこのガタのきた骨組みの中を二代にわたってひっくり返して探し回っているのに、その二つの能力が一体どこの隅っこに隠れ潜んでいるのか、未だに欠片も見つけ出せないでいるのだから」


足元に蹲っていた刻刻が、主の言葉に滲むやるせなさを聞き分けたのか、再びカチ、カチと嘴を鳴らした。そして、その武骨で冷たい真鍮の頭をルシアの膝へと摺り寄せ、温順な歯車の唸りを胸腔から響かせた。


晩秋の朝風が最後の薄霧を吹き払い、切り立った崖の上には、ただ二人の静かな呼吸の音だけが残されていた。

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