リアルな現在か、それとも理想の未来か
ルシアは、自分がどうやってあの彫刻入りの長椅子から立ち上がったのか、定かではなかった。
背中には、カリーナの熱く柔らかな胸が残した温もりがまだ微かに染みついており、耳元には、あの女公爵の低く掠れた吐息が今なお木霊しているかのようだった。
――『あのひと握りの砂は、人を害するためではない。命を救うためのものだ』
その言葉は、赤く焼けた鉄の楔のように彼女の頭頂へ無慈悲に打ち込まれ、前世の人生観も、今世で職人として培ってきた矜持のすべてをも、ぐちゃぐちゃの血肉の泥濘へと叩き潰していた。
天幕を出る際、カリーナは柳の編み籠いっぱいに高級薬剤や魔力溶剤を無造作に詰め込み、拒む暇も与えずに彼女の腕の中へ押し込んできた。
冷え切ったルシアのうなじを、カリーナの指先が軽く抓る。それは最上位の捕食者がお気に入りの小動物に向ける甘やかしであり、同時に音のない追い立ての合図でもあった。
『お行き、私の可愛い職人。現実がいかにして理想を粉々に砕くのか、その目で見てくるといい』
背後で重厚な遮音結界が閉ざされた瞬間、太古絶嶺の早朝特有の、霜の生臭さを孕んだ乾いた冷気が、一気にルシアの気管へと流れ込んできた。
骨の髄まで凍てつく寒さだった。
それは冬の吹雪などではなく、高嶺の深秋だけがもたらす『霜降』の気候だ。
見渡す限り、赤黒く枯茶色に染まった針葉樹林はとっくに生命の息吹を失い、魔力を湛えた巨木や蔓草だけが異様な輪郭を保ち、無骨な岩肌や縮こまった枯れ灌木、足元の固く凍った草地には、青白く光る分厚い霜がびっしりと降り積もっていた。
凍てついた土石を踏みしめるたび、ルシアの足元から「ザッ、ザッ」と小気味よくも乾いた硬い音が鳴る。
抱え込んだ重い柳籠が、肋骨に食い込んで鈍い痛みを走らせる。粗いラシャ布越しにも、厚手のガラス瓶から容赦のない冷気が伝わり、歩くたびに「カラン」と微かに澄んだ音を立てる。まるで気力のない死神の鈴のようだった。
ルシアは籠を抱え直し、ふと足を止めた。底冷えのする深い灰緑色の瞳が、無意識のうちにさらに標高の高い岩盤プラットフォームへと向けられる。
そこは、第二の会戦が繰り広げられている戦場だった。
夜明けの光が立ち込める濃霧をようやく切り裂き始めたばかりだというのに、見上げる巨大な岩台の上は、すでに絶え間なく炸裂する魔導術式によって、まるで白昼のように照らし出されていた。
赤黒い爆炎、青白い連鎖雷撃、幾何学模様を描く防護結界が高所で激しく激突し、地響きを伴う重低音となって、霜の降りた岩層を伝い足元を揺らす。
『オース』の陣営が最初の二日間で叩き出した狂気じみた高スコアが、全帝国の足並みを完全に崩してしまったのだ。
各国の強豪精鋭たちは出し惜しみを許されず、早朝から戦線をあの開けた高台へと一気に押し上げざるを得なくなった。
爆炎の照り返しが、ルシアの青白い横顔を淡く染め上げる。
霧の奥で幾重にも弾け飛ぶ閃光を見つめる彼女の双眸には、感嘆の色などなく、ただ凍りついたような麻痺感だけが漂っていた。
本当に、強い。
反吐が出るほどに強大だった。
数千メートル彼方から一分の狂いもなく火力制圧を仕掛ける最高峰の魔導士たちや、一撃で岩盤を粉砕する重装軍団長たち……山ひとつを容易く消し去るような国家規模の暴力の前では、自分が工房で削り出してきた精密な部品など、秋霜に凍えて死ぬ蟻と何も変わらない。
まさに、カリーナが暴き立てた残酷な真理そのものだった。
何千万もの命が蠢く巨大な盤上において、個人の力など、飢饉ひとつ、暴動ひとつすら押し留めることはできないのだ。
ルシアは視線を戻し、襟元に顎を埋め、白く染まる秋霜を淡々と踏みしめながら、日陰に佇むユリアンの黒い本陣へと歩を進めた。
陣地の外縁に近づくだけで、張り詰めすぎて今にも爆発しそうな火薬の気配が正面から突き刺さってきた。
警戒に立つ死士や親衛隊員たちは、朝霜の中で揃って首を垂れ、凍りついた鉄杭のように微動だにしない。
甲冑が擦れ合う微かな音すら立てることを恐れていた。天幕を張る革紐を吹き抜ける風の音さえも、中から漏れ出る怒号によって引き裂かれている。
「……こんなものは戦術などではない! ただの虐殺だ! 貴様は第七軍団の予備役を何だと思っている!? 先鋒だぞ! まだ成人したばかりの子供たちではないか!」
「撤退だと? 撤退してその分の魔晶鉱を、お前のその高貴な歯で掘り出すとでも言うのか、兄上!? あんたのその立派な騎士道精神など、辺境じゃカビの生えた燕麦一袋の価値にもなりゃしないんだよ!」
分厚い帳幕越しに、ユリアンの神経質で尖った叫びと、もう一つの野太い怒声が激突し、ルシアの鼓膜をびりびりと震わせた。
天幕の前で、ルシアは二秒ほど足を止めた。
両腕の感覚は麻痺しかけており、手を使って幕を開ける余裕などない。彼女は半身を滑り込ませ、肘と柳籠の縁を使って、薄霜の降りた重い毛皮の帳幕を強引に押し開けた。
帳幕の隙間から朝の光が斜めに差し込むと同時に、熱い苦茶、汗、そして濃烈な血の混ざり合った異様な熱気が鼻腔を突いた。
長机の上の羊皮紙地図は無残に引き裂かれ、昨晩こぼれた茶が机の端で薄い霜となって固まり、転がった銀杯が絨毯の上で力なく揺れていた。
ルシアの目に飛び込んできたのは、朝光に分かたれた長机を挟み、三角関係のように対峙する三つの端正な姿だった。
机の真正面では、ユリアンが死人のように青ざめた顔に、神経質な冷笑を張り付かせている。
そしてその向かいには、二人の男が立っていた。
骨格、顎の鋭い輪郭、さらには深く落ち窪んだ威厳ある眼差しに至るまで、ユリアンと六、七分通り瓜二つ――三人の身体には、寸分違わぬセフィリア皇族の血が流れていた。
長兄たる第一皇子エドワードと、次兄たる第二皇子ロバート。
今にも弦がちぎれんばかりに引き絞られた強弓のように、ロバートは全身を強張らせていた。
机に叩きつけられた両拳には青筋が浮き上がり、血走った瞳をユリアンに突き刺して激しく肩を上下させている。一秒後には実の弟の鼻柱を殴り飛ばしかねない剣幕だった。
そしてエドワードは二人の間に立ち、鉄のように青ざめた顔でロバートの肩を力任せに押さえつけていた。その瞳は、底の知れない古井戸のように重く沈んでいる。
ルシアが帳幕を押し開けた微かな隙間風と、籠の中で重心を崩した二つのガラス瓶が立てた「チリン」という鋭い音。その響きは、一触即発の天幕の中で痛々しいほど耳障りに響き渡った。
刹那、同じ皇血を宿しながらも全く異なる炎を宿した三組の視線が、薄暗い朝の光を貫いて、薬籠を抱えた黒髪の娘へと一斉に突き刺さった。
朝光に照らされたルシアの姿を認めた瞬間、男たちの表情は一様に微かな硬直を見せ、張り詰めていた空気すらも奇妙に半拍止まった。
この血統と階級に縛られた世界において、「ルシア」という存在はあまりにも特殊で、あまりにも異質だったからだ。
彼女は、ノースランド帝国の頂点に君臨する二人の権力者から、病的なまでの偏愛と庇護を受けている。一人は誰もが恐れ慄く北境の女武神カリーナ公爵、もう一人は莫大な富と人脈を握る侯爵令嬢クレア。
さらに厄介なことに、彼女自身が極めて稀有な高位の戦闘能力と、神業じみた魔導開発の腕を備えていた。
平民出身の実習導師に過ぎない身でありながら、上位者に対する媚びや怯えは微塵もなく、かといって貴族然としているわけでもない。
身に纏うのは、どこまでも泥臭い職人の気配と、体制そのものを冷ややかに見つめる醒めた視線だけだ。
彼女はこの大陸の理の外側に佇む、巨大な特異点そのものだった。その背後に絡み合う庇護と彼女自身の鋭い刃を直視すればこそ、帝国の皇子たちといえども、無用にこの厄介な変数を刺激する愚は避けたかった。
ロバートは拳の関節を白く染めながらルシアを射抜くように睨みつけたが、やがてギリと奥歯を噛み締め、喉まで出かかった怒声を無理やり飲み下した。
彼はルシアの存在を無視することを選び、その行き場のない憤怒の矛先を、再びユリアンへと叩きつけた。
「ユリアン! セフィリアはお前の手によって滅びるぞ! この国に一片の愛でもあるというなら、今我らに必要なのは、腐敗した旧法に縛られぬ、若く純粋な新たな民であることくらい解るはずだ!」
「ならば、その不確かで保証もクソもない『未来』のために、まずあんたの手で『現在』を切り裂き踏みにじるってのか?」
ユリアンの口元に冷酷な嘲笑が浮かぶ。その双眸は血走っていた。
「明日のパンすらどこにあるか見えない連中が野垂れ死んでるってのに、未来を語るだと!?」
ユリアンは細く長い腕を乱暴に振り上げ、震える切っ先のような指先を長机越しに、天幕の最も薄暗い片隅へと突きつけた。
そこには、この場にあまりにも不釣り合いな、細い人影が小さく縮こまっていた。
ヴァレリーだった。
狩猟祭の緒戦において魔力を徹底的に搾り取られた反動は未だ抜けておらず、今の彼女は触れれば砕け散りそうな空殻のようだった。
前世である地球への執着からか、あるいは別の気まぐれか、彼女は陣営にあった粗末な小麦粉と下級の火元素晶石を使い、一本の長細い硬皮の『フランスパン』を焼き上げていたのだ。
本来なら、熱いスープに浸して少しずつふやかして食べるつもりだったのだろう。
だが先ほど三兄弟が机を引っくり返さんばかりに口論を始めたせいで従者たちは逃げ去り、手元にはパンを切り分ける小刀ひとつ残されていなかった。
結果として、かつて各勢力や魔法学院の師弟たちを震え上がらせたあの教授は、今や小腕ほどの長さがあるカチカチのパンを両手で抱え、無表情のまま、途方もない労力を費やして丸ごと齧り付いていた。
乾いたパンの皮を噛み砕くたび、小さく頑固な「バリッ、ガリッ」という音が響く。
ユリアンの意図は明白だった。
今を生きる人間が一口のパンを食うのすら命がけだというのに、玉座に座る貴様らは、天下万民の命をチップにして中身のない大業を賭けているに過ぎないのだと。
そしてヴァレリーはといえば、三人の怒号の応酬をとっくに聞き飽きて麻痺していた。
ユリアンが突きつけてきた指先に対しても眉ひとつ動かさず、ただ冷淡に、どこか鬱陶しそうに華奢な背中を向け、喚き散らす皇族たちに冷たい後頭部を晒したまま、頑ななバゲットと孤独な死闘を続けていた。
隅っこでパンを齧るその哀愁漂う姿に、入ってきたばかりのルシアすら目元を引き攣らせ、かつての相棒がひどく不憫に見えて仕方がなかった。
ルシアは重い柳籠を天幕の太い木柱の脇へそっと下ろし、床に散らばる割れた茶器の破片を避けながら、静かにヴァレリーの隣へと歩み寄った。衣服の裾を払い、冷え切った彼女の肩に寄り添うようにして腰を下ろす。
「……どういう状況なの? これ」
ルシアは膝を抱え込み、声を潜めて呟いた。視線の端では、青筋を立てる第一皇子エドワードと、顔を険しく歪める第二皇子ロバートが映っている。
「天幕の屋根が吹き飛びそうな勢いだけど。ずっと聞いてて、どっちの言い分に理があると思う?」
ヴァレリーがどの段階から聞いていたのかは定かではない。
けれど、カリーナの『砂の粥』の論理によって頭を鈍器で殴られたような衝撃の残るこの早朝、同じ地球の魂を持つ者から、この世界の狂気に染まっていない冷徹な見解を聞きたかったのだ。
ヴァレリーは、口の中でようやく噛み砕いたパサつくパン屑を強引に飲み下した。喉仏が苦しげに上下し、掠れた声が淡々と紡がれる。
「どういう状況も何も。昔、地球のモーニングニュースで国際欄を開けば、毎日垂れ流されてたような胸糞悪い話だよ。こっちじゃその問題が、制度と魔法のせいで輪をかけて複雑に、血生臭くなってるってだけの違いさ」
冷え切ったバゲットを抱えたまま、ヴァレリーは振り返ることもせず、極めて簡潔な言葉でセフィリア帝国の華美な外套の下に巣食う蛆虫だらけの骨組みを解剖してみせた。
死結の根源は、この古き帝国の法制度そのものにある。
蜘蛛の巣のように根を張る無数の門閥貴族が、魔晶鉱脈、肥沃な美田、交易の要所といった帝国の富の大部分を牛耳っていた。
にもかかわらず、太祖皇帝が定めた古法により、彼らには莫大な免税特権と領地の自治権が与えられている。
吸血鬼どもは腹を満たして肥え太りながら、国庫には銅貨一枚すら納めない。帝国の巨額な軍事赤字、対外戦争の重圧、官僚機構の維持費――その圧殺されそうな負担のすべてが、最底辺の土着平民の背中へと理不尽にのしかかっていた。
それは、内側から生きたまま干からびつつある巨大な死骸だった。
そして、第一皇子エドワードと第二皇子ロバートはその現実に気づいてしまったのだ。セフィリア本来の民だけでは、この階級の網目を破ることなど不可能だと絶望的に悟ってしまった。
土着の平民たちはあまりに長い間搾取され続けた結果、その精神の深層に至るまで「領主様に平伏してこそ飯にありつける」という恐怖に飼いならされている。
皇室が変法を押し進めて貴族に刃を向けようものなら、貴族が投げて寄越す残飯や、小作契約を打ち切るという脅し文句ひとつで、平民たちはあっさりと買収され、皇室の変法官吏の背中を平気で刺して裏切るのだ。
ゆえに、二人の皇子はひとつの大博打に出た。
――貴族の特権法に縛られない、外部の力を引き入れること。
彼らは財政が破綻しかねない致命的なリスクを背負い、戦火に喘ぐ周辺諸国へ向けて国境の門を押し開いた。数万に及ぶ異国の流民や難民を狂ったように受け入れたのだ。
外から来た者たちにはセフィリアに血縁のしがらみなどなく、威張り散らす旧貴族の顔色を窺う理由もない。彼らが忠誠を誓うのは、土地と食糧を与えてくれる皇室ただひとつ。
皇子たちには、過激な屯田制を断行するための人手がどうしても必要だった。飢え、野蛮で、ただ生き延びることだけに飢えた外来の血をもって、凝り固まった封建階級の壁を強引に突き崩すために。
変法の最も過酷な陣痛期を乗り越え、貴族の免税特権を完全に粉砕し、富が国庫と大地へと還流しさえすれば、この国が内側から腐り落ちることはなくなる。二十年後のセフィリアには、確かに未来が残されるのだ。
「壮大な救国の青写真に聞こえるだろ?」
ヴァレリーは冷笑を漏らした。他人の生き死にを語るような、乾いた声音だった。
「でもユリアンが見ているのは、今まさに踏み潰されて砕け散ってる骨のほうさ」
この壮大な変法がもたらす『陣痛期』こそが、ユリアンにとって死んでも呑み込めない呪いだった。
国境の門が開かれたことで、ただでさえ脆かった物価は一気に暴騰した。流れ込んできた流民たちは生きるために徒党を組み、街角で元々底をつきかけていた土着民の食糧を力づくで強奪する。
難民の子供たちは群れをなし、泥の中で現地の子供を取り囲んで殴り倒す。あまつさえ官府は、難民を懐柔するために土着民の冬越し用物資を強制的に徴発し始めた。
ユリアンは発狂した。
貴族が殺されるべき寄生虫であることなど、百も承知だ。だが彼は、変法を成し遂げるための薪として、自分たちの民の血と涙がくべられることだけは断じて容認できなかった。
彼の目には、そんなものは救国などではなく、飢えて死にかけた我が家の仔羊を噛み殺させるために飢えた狼を招き入れた狂気としか映らない。
彼が主張するのは現行体制の維持であり、最も薄汚く、日の当たらない裏稼業に手を染めてでも国庫を潤し、手飼いの私兵を育て上げ、羽が生え揃った後に正面から貴族を血祭りに上げることだった。
制御の利かない外来の流民という劇薬に賭けることではない。
「……本当に、ややこしいわね」
ルシアは膝を抱えたまま、自嘲混じりの深い無力感を滲ませて小さく零した。
政治という化け物は、やはり職人である彼女にとって一生解くことのできない死線だった。互いの立場に立って聞いてみれば、両者の主張のどちらにも、ぐうの音も出ないほどの正当性があったからだ。
難民を使わなければ、階級という名の死水は澱んだまま打ち破れない。土着の民は貴族に飼い殺されすぎており、いつ変法を裏切るかも分からない。
対して難民は皇族の約束を信じ切っており、特権を砕くための鈍色の刃になり得る。たとえその刃が今、自分たちの民の肉を無惨に削ぎ落としているのだとしても。
けれど、ユリアンの激怒のどこに間違いがあるというのだろう。
変革の成功など誰にも保証できないが、変革の過程で流れる血と犠牲はあまりにも生々しい。
どうして今を生きる民草が、二十年後の見えもしない絵空事のために飢えと略奪に耐え、家族を散り散りに引き裂かれなければならないのか。
いま目の前にいる民すら救えないのなら、未来の帝国を救ったとして何の意味があるというのか。
どちらも国を愛している。
どちらにも揺るぎない崇高な大義がある。
だが彼らの選んだ方角は、深淵の分岐点において完全に背中合わせだった。
いま生きる民にパン一つ行き渡らないというのに、二十年後の繁栄など語って何になる?
しかし、もし貴族にあと二十年間血を吸われ続ければ、セフィリアに残された猶予が尽きたとき、この巨大な帝国は一夜にして周辺列強に食い散らかされるだろう。
その時が来れば、現地の民であろうと外来者であろうと、全員が鉄の首輪を嵌められ、異国の奴隷市場で競り落とされる家畜に成り果てる。その結末とて、あまりに無惨ではないか。
天幕の中央、長机の前では、エドワードの怒号とユリアンの狂気じみた冷笑が、荒い呼気とともに再び激しく火花を散らし始めた。
幾千万の命運を決する天幕の片隅で、ルシアは横を向き、ヴァレリーの手にある小刀すら通らぬ硬いパンを見つめながら、額にかかる前髪を無言で払い、秋霜の冷気を帯びた白い息をひとつ吐き出した。
彼女には歯車の公差が見える。金属の疲労が見える。
けれど、無数の人間の血とパンで編み上げられたこの絶対の袋小路を前にして、しがない凡人の職人に過ぎない彼女には、胸の内で一つの答えを出す資格すら持ち合わせてはいなかった。




