崇高なる理想と、泥濘の現実
食卓を取り巻く喧騒は、カリーナが最後の侍女を下がらせた瞬間、完全な死寂へと帰した。
重厚かつ豪奢な防音結界が無言のうちに展開し、殺伐とした秋嶺の最前線に設えられたこの天幕の食堂を、あたかも外の世界から隔絶された孤島のように塗り込める。
目の前の銀皿に並べられた豪奢の極みは、どこか荒唐無稽なまでの反差を帯びていた。
天幕の外は太古の絶嶺特有の冷え切った蕭瑟たる深秋。見渡す限りの高地針葉樹林はとっくに濃褐や暗紅に染まり、早朝の刺すような寒風が枯れ果てた灌木を撫で抜けては、無骨な岩層や草甸の上に分厚く白い秋霜をびっしりと結ばせている。
だが、この彫刻が施された長卓の上では、グラフィエンとシルヴィアという二大公侯家の兵站魔術師たちが、力尽くで帝国南方の最も富饒な真夏をルシアの目前へと現出させていた。
厚切りの高嶺鹿のステーキは、表面を香ばしく焼き上げられながらも芯には艶やかな赤みを残し、高温の鉄盤の上でパチパチと細かな音を立てて身を震わせている。
野生の木イチゴ特有の微かな酸味と甘やかな芳香を放つ濃厚なサワーチェリーソースが、獣肉の野趣を極めて端正に包み込んでいた。
その隣に置かれた白銀の深鉢には、保温術式によって極弱火で煮込まれた濃厚な魚介クリームスープ。乳白色の滑らかなスープの中で、脂の乗った肉厚な白身魚と手のひらほどもある大粒のホタテが、タイムの温かな湯気の中でゆったりと揺れている。
焼き立ての蜂蜜ナッツソフトブレッドは琥珀色の艶を帯び、手で軽く引き裂けば、湯気を立てる柔らかな生地が香ばしい小麦の香りを立ち上らせる。
さらには銀皿の端に、千里の彼方から保鮮氷晶によって急送されたメロンと紫黒のブドウが整然と並び、その果肉には細やかな霧状の糖霜が輝いていた。
骨を砕かれ、魔力を根こそぎ絞り取られ、あまつさえ万能霊薬によって無理やり肉体を修復された直後、二人の貴族女性の手で夜通し弄ばれたルシアの華奢で薄い肉体は、とっくに極限の飢餓と虚脱の縁にあった。
彼女は俯き、細くも細かな傷痕が無数に残る指先でずっしりと重い鋼の銀フォークを固く握りしめ、細かく切り分けた鹿肉を惜しむように口へと運んだ。
甘酸っぱく濃厚なソースが熱々の肉汁とともに舌の上で弾け、熱いスープが乾ききった食道を通って冷えた胃袋へと滑り込む。
その瞬間に込み上げた満腹感に、常に冷徹で警戒を怠らないその墨緑色の瞳が、思わず微かに細められた。目尻には温もりと満ち足りた安堵による微かな涙の膜が浮かぶ。
いまこの瞬間の黒髪の女子は、普段の錬金工匠としての刺々しい針を完全に引っ込め、荒れ狂う外の世界で風霜に晒された末、ようやく温かな炉端で腹を満たした一匹の黒猫のように、全身に張り詰めていた防壁を跡形もなく崩れ落ちさせていた。
彼女の隣に腰掛けるクレアの面持ちは極めて柔順だった。侯爵家の令嬢はすでに身体に馴染む薄紫の絹のドレスへと着替え、滝のように流れる紫髪を優美な金の簪で頭の後ろに束ねて、形の良い美しい白首を覗かせている。
彼女は己の食器に手をつけることもなく、ただ小ぶりで精巧な白磁のティーポットを両手で包み、ルシアの杯へ柑橘の蜜茶を静かに、そして丹念に注ぎ足し続けていた。
その紫水晶の瞳には至れり尽くせりの情愛と憐憫が満ち溢れている――昨夜、暖閣の寝台の上で嫉妬に狂って泣き叫び、ルシアの全身に歯形を刻みつけた張本人とはとても思えないほどに。
そして、ルシアの正面に座るカリーナが、優雅な所作で手にした銀のナイフを卓上へと置いた。
刃先が磁器の皿に触れ、微かな金属音を澄んで響かせる。
大陸にその名を轟かせる北境の戦乙女は、身に纏っていた天を衝くほどの殺気と血腥さを、いまや骨の髄まで完全に押し殺していた。
ゆったりとした漆黒の軍用外套を無造作に羽織り、前襟は寛げられ、初冬の新雪のごとく白く冷ややかな素肌と、深く切れ込んだ鎖骨の輪郭が鋭利なまでの色香を放っている。
彼女は片肘をついて顎を乗せ、雪白の両肩は暖橙色の魔晶灯の明かりを受けて潤んだ玉のような光沢を帯びていた。月華の如き白銀の長髪を豊満な胸元へ無造作に垂らし、宝石のように鮮烈な赤瞳で、ルシアの一挙手一投足を瞬きもせず見つめている。
その眼差しには、公爵として凡民を見下ろす際の冷酷な威圧など微塵もなかった。そこにあるのは、相手を溺れさせてしまいそうなほどの深い寛容と寵愛だけだ。
「ゆっくり食べなさい。誰も貴女の口から奪ったりはしない」
カリーナの薄い唇が微かに綻び、どうしようもないほど愛おしげな苦笑の弧を描いた。傍らに置かれた雪白の絹布を取り上げると、しなやかに身を乗り出す。
北境公爵の長身が不意に間近へと迫り、その銀髪がルシアの鼻先をかすめた。カリーナは布を使わず、すらりと伸びた、指腹に微かな残り香を纏わせた玉指を伸ばし、極めて優しくルシアの口元を撫でて、そこに付着していた紅いソースを拭い去った。
ルシアの熱を帯びた唇の上を、その指先がどこか淫靡に二度三度と撫でる。強者特有の滾るような熱い血気が肌を通して伝わり、黒髪の女子の耳朶を一瞬にして艶やかな赤に染め上げた。
カリーナは座席へと身を引き、その真紅の瞳をわずかに幽玄に細めると、まるで食後のデザートの感想でも求めるかのように、穏やかで柔らかな口調で切り出した。
「お腹が満たされたのなら、そろそろ私に本音を聞かせてくれないか……ルシア」
カリーナは首を微かに傾げ、その面持ちは穏やかなままでありながらも、すべてを見透かす射るような眼差しでルシアの僅かな表情の変化を完全に捉えていた。
「貴女はユリアンと契約を交わし、あの帝国が今どのような泥沼の中でもがいているのかを直にその耳で聞いた。……ユリアンというあの毒蛇について、そして、他国の被災民をも救おうと全力を尽くしている彼の二人の兄について、貴女の胸の内ではどう思っている?」
居丈高な糾問の気配は微塵もなかった。だがそれは、ビロードに包まれた解剖刀のように、ルシアが心の最奥で必死に目を背けようとしていた傷口を正確無比に抉り抜いた。
ルシアが銀フォークを握る手がぴたりと止まった。
深邃な寒潭のごとき墨緑色の瞳がゆっくりと伏せられ、皿の底に残ったチェリーソースを見つめる。唇には乾いた自嘲が浮かんでいた。長い沈黙ののち、彼女は重苦しい息を深く吐き出した。
「私は……あの二人の皇兄は、あまりにも理想主義に過ぎると思っているわ。けれど、ユリアンのやり方を何一つ蟠りなく受け入れろと言われても、私の心の底にある一線がどうしてもそれを許さないの。カリーナ……他国の難民を惜しみなく受け入れるという崇高な大義と、いま現実に生きている足元の民の生存との間に、何かしらの折衷案を見出すことは本当にできないのかしら」
ルシアの声には、濃密な疲労と迷惘が滲んでいた。
彼女が目の当たりにした現実はあまりに過酷だった――ユリアンの二人の兄は、疑いようもなく高潔な人物たちだ。
彼らには開拓者としての気魄があり、さらには無数の貴族たちが資源を独占しながら納税を逃れている病根をも見抜き、国家の財政が破綻する危険を冒してまで辺境の流民を何万人も力尽くで受け入れ、急進的な屯田制を推し進めた。そうして国家の将来的な労働者階層のあり方を根本から変革しようとしたのだ。
しかし、現実は机上のシミュレーションではない。押し寄せた難民の奔流は都市の許容量を完全に破壊し、食糧価格は跳ね上がり、辛うじてその日を暮らしていた現地の最下層の民からは最後のパンすら奪い去られた。各地で暴徒が野火のように蜂起し、帝国の財政赤字はすべてを呑み込む底なしの深淵へと裂け広がっていった。
そして、その船が今まさに沈没せんとしたとき、ユリアンが立ち上がった。二人の兄の慈悲こそが全員を棺桶へと引きずり込む猛毒だと見定めた彼は、この世で最も汚らわしく、狂気に満ちた冷徹な鉄腕を振るった――人身売買、生体投薬実験、果ては無辜の婦女を虐げるような残虐極まりない所業の数々。
血塗られた闇の産業を白銀の硬貨と軍糧へと換え、瀕死の巨木に力尽くで血を注ぎ込んで延命させたのだ。
「では、貴女の目から見て、天下を憂うあの二人の皇子は間違っていると思うか?」
カリーナの指先が、冷え切った銀杯の縁を静かに撫で回す。赤瞳は血の澱みのように深く暗く、核心を鋭く突く問いを投げかけた。
ルシアはこれがカリーナによる試練だと理解していた。下唇を強く噛みしめ、膝の上のナプキンをぎゅっと握りしめる。墨緑色の瞳の奥で、激しい葛藤が渦を巻いた。
「……私にはわからないわ。無理に白黒をつけるなら、双方が己の信じる正義を貫こうとしているだけで、その歩む道があまりにも正反対なのだと思う。けれど私には……政治や権謀術数なんていう高尚なものは、本当に理解できないの」
黒髪の女子は目を伏せ、己の無力さを極めて率直に認めた。
平和で高度な文明を誇っていたかつての世界であれ、血の雨が降り注ぐこの過酷な異世界であれ、彼女の本質はどこまでも精密な機械仕掛けを愛する一人の錬金工匠に過ぎない。
歯車の噛み合わせの公差ならミクロン単位で完璧に弾き出せる。複雑怪奇な魔力回路の乱れなら完璧に解きほぐせる。
だが、政客の胸の奥で脈打つ冷血な計算だけは、逆立ちしても読み解けない――往々にして、上位者たちの口にする文明を救うための壮大な叙事詩と、平民の竈の上に家族が明日を生き延びられる糧があるや否やの悲鳴との間には、凡人には決して埋められない底なしの断絶が横たわっているのだから。
目の前で揺らめく黒髪の女子の純粋さと迷いを見つめ、カリーナの瞳の奥にあった冷淡な観察の光は、名状しがたい深い愛憐へと静かに融けていった。彼女は決して嘲笑うことなく、むしろ熟睡する恋人をあやすかのように、穏やかに話題を転じた。
「私の愛しいルシア……貴女がかつて生きていたあの世界にも、天下を覆い尽くすような飢饉は存在したのか?」
記憶を完全に取り戻したカリーナは、目の前の魂が遥かな星の彼方から落ち延びてきた存在であることを当然ながら知悉している。彼女は純粋に好奇心を抱いていた。
一体いかなる温床が、この過酷な異世界においてこれほど不釣り合いで、それゆえに狂おしいほど愛おしい、ルシアの柔らかな本質を育んだのかを。
ルシアは微かに虚を突かれ、追憶の霧の向こうへと墨緑の視線を泳がせながら、ありのままを呟いた。
「……あったわ。けれど私が生まれた時代には、飢饉なんて極端に貧しい土地や、戦火が絶えない遅れた地域でしか起きないものだった。真に進んで繁栄した国々では、食糧危機なんてものは現代的な農業技術によってほぼ完全に過去のものになっていたの」
カリーナは納得したように眉を引いた。
「つまり、貴女がその目で見てきた歳月の中では、皇室が軍を出して穀倉を封鎖し、蔵を開いて配給を行い、無数の襤褸をまとった飢民が一椀の薄粥を奪い合って刃傷沙汰に及ぶような光景は、見たことがないと?」
ルシアはきっぱりと首を横に振った。その墨緑の瞳はどこまでも澄み渡り、潔白だった。
「私の故郷の農業には、品種改良された高収量の穀物があり、保管設備には巨大な定温倉庫や成熟したコールドチェーンがあった。甲冑を纏った兵士たちが粥の配給所で秩序を維持し、万民が跪いて一口の施しにすがるような光景は……古い歴史の教科書の中にしか存在しなかったの。私の時代では、そんなの一度も経験したことがないわ」
知ったかぶりの虚勢など微塵もなかった。ルシアの胸の内は誰よりも冴え渡っている。カリーナは今、自分がこれまで触れたこともなかった血塗られた真理の皮を剥ぎ取ろうとしているのだと。
極寒の戦場と帝国の権力闘争の只中で血みどろになって勝ち上がってきた北境の女公爵は、温室の中では決して咲くことのない生存の猛毒を、彼女に教え込もうとしているのだ。
カリーナは彼女の濁りのない顔立ちを見つめ、その口元に酷薄さと深淵を同居させた淡い笑みを浮かべた。
「ならば……問おう。貴女が知る古い歴史の記録の中で、大いなる災厄が降り注ぎ、民が飢餓で斃れゆくその時、皇室の政務官が飢民へ配給する救済の粥の中に、大衆の面前で汚らわしい黄砂を一掴み放り込んだとしたら――貴女はどう思う?」
「砂を……?!」
ルシアの呼吸が不意に止まり、驚愕と荒唐無稽さのあまり椅子から跳ね起きそうになった。その墨緑の瞳には剥き出しの戦慄が走る。
「飢饉が起きて、人がまさに餓死しようとしているその土壇場に、被災民に砂の混ざった粥を食わせるというの?! そんなの……人を虐げることじゃない! 苛虐そのものじゃないの!」
黒髪の女子のその本能的な義憤を目の当たりにし、カリーナは隣で優雅に茶杯を傾けるクレアと視線を交わし合った。
帝国の頂点に君臨する二人の高貴な貴族女性の唇には、揃って微かな笑みが宿っていた――それは侮蔑ではない。幾重もの修羅場を潜り抜け、人間の底知れぬ過酷さを骨の髄まで知り尽くした者だけが湛える、冷徹な達観だった。
カリーナは窘めることもしなかった。
ただ手元にあった白銀のグラスを優雅に持ち上げ、澄んだ淡い黄金色の白ワインを静かに揺らす。晶簾のような酒越しに赤く燃える双眸を向け、怒りによって微かに上気したルシアの頬を静謐に見据えていた。
その無垢なまでの善良さは、あまりに眩しく、それゆえにあまりにも脆かった。
「苛虐? 被災民を痛めつけていると?」
カリーナはグラスを下ろし、薄い唇を極めて淡く、だが骨の髄まで凍りつかせるような弧へと吊り上げた。片肘を卓につき、動かしようのない自然の理を語るかのように平然と言い放つ。
「ルシア、貴女は真の飢饉というものを見たことがあるか? 書物に記された無機質な餓死者の数ではない。生きた人間が悪鬼へと堕ちていく、あの生々しい人心の崩壊を」
カリーナの声音に嘲りの色はなかった。ルシアが平穏と文明の温床で咲き誇った奇跡であることを、誰よりも知っているからだ。
だからこそ、彼女はルシアの目の前にある幻夢を自らの手で粉々に打ち砕かねばならなかった。己が一体いかなる男と契約を結び、どのような底なしの肉挽き機へと足を踏み入れたのかを、骨身にしみ込ませるために。
「大いなる凶作が訪れ、一升の穀物の価格が十倍、二十倍へと跳ね上がり、都市の全域、領地の全土で民が飢えに喘ぐ。その時、官府が穀倉を開放し、大釜を据え付けたとする。もしその沸き立つ大釜で炊き上げられたものが、真っ白で、米の甘い香りを放ち、一切の濁りもない極上の白米粥であったなら――ルシア、夜明け前から配給所の前に並び、釜の底を舐め尽くすように奪い去っていく最初の者たちは、一体何者だと思う?」
ルシアは問い詰められて言葉を詰まらせ、ためらいがちに唇を引き結んだ。
「……それは……街の中で最も飢えた、被災民たち……?」
ルシアは自信なさげに問い返した。そしてふと、ここが異世界であることを改めて思い知らされていた。
この異世界へ転生してきて以来、火球に貫かれて命を落とした前周の記憶を含め、二度の生にわたって黒パンばかりを齧り続けてきたというのに、白米など一度として拝んだことすらなかった。それがまさか、ことごとく皇室の倉庫へと吸い上げられていたとでもいうのか。
「違うな」
カリーナの赤い瞳が微かに細められ、凍てつく湖面のような声音が落ちる。
「真っ先に駆けつけるのはな、家にまだ三日や五日分の蓄えを残している一般の市民や、街をうろつく無頼漢、あるいは豪商や貴族たちが差し向けた数百人の下僕たちだ。釜の中の粥が清らかで白く、まともな飯である限り、民草の目にはそれが『ただで手に入る濡れ手で粟の儲け』としか映らんのだよ」
カリーナは極めて真剣にルシアの双眸を見つめ、一語一語を研ぎ澄ますように言い聞かせた。
「家に食い扶持があろうと関係ない。奪えるものを奪わねば損をする! それどころか悪徳商人どもは、貧民街の浮浪者を雇い上げて列に割り込ませ、手に入れた救済粥を二束三文で買い叩き、それを本当に食糧の尽きた富裕層へと高値で転売して暴利を貪るのだ」
ルシアは息を呑み、背筋にぞわりと冷たい悪寒が走るのを感じた。
それは決して荒唐無稽な空想ではない――かつて地球で全世界を揺るがした感染症と物資不足が起きた際、マスクを買い占め、生活物資や解熱剤を買い漁っては高額で転売し、災厄に乗じて私腹を肥やした投機者たちがいかに横行したか。
人間の貪欲と浅ましさは、いかなる世界であれ、いかなる文明の危機の前であれ、金輪際変わりはしないのだ!
「ならば、本当に飢え果て、今にも息絶えようとしている被災民たちはどうなる?」
カリーナの指先が、冷たい銀の卓上をリズミカルに叩いた。その硬質な音が、ルシアの胸に重苦しい弔鐘のように響く。
「彼らは城外の荒野におり、都市の半分を這い進むだけの体力すら残されてはおらん。下水溝や泥水の中に突っ伏して死を待つだけだ。そして、その骨と皮ばかりの亡霊どもが、最後の力を振り絞って官府の炊き出しの門前へと這いずり着いた時――その大釜は、寒さにも飢えにも無縁な、頑健で小賢しい投機者どもの手によって、とっくに煤の一粒まで舐め尽くされた後なのだ」
ルシアの胸が激しく締め付けられ、心臓を不可視の巨手に握り潰されたかのように、墨緑色の瞳が激しく揺れ動いた。前世から培ってきた現代人としての確固たる人道主義が、いま恐怖を伴う盲点となって引き裂かれていく。
「だがもし……私が監糧政務官に命じ、全市民の面前で、列を成す群衆の目の前で、泥や枯草の混ざった汚らわしい黄砂の一籠を、ぐつぐつと煮え立つ白米粥の中へ直接ぶちまけさせたならどうなる?」
カリーナは黒髪の女子を見つめた。その真紅の双眸は、底知れぬ深淵のように暗い。
「粥には粗い砂利が混ざり、一口食えば歯茎から血が滲み、飲み下せば胃が雑巾を絞るように痛み、貴族の飼い犬ですら見向きもしなくなる。……だがその瞬間、家に固くなった昨日のパンが一欠片でも残っている者は、誰もが忌々しげに地面へ唾を吐き捨て、『腐れ役人が、人を人とも思わんのか』と罵声を浴びせて踵を返す。転売を目論んでいた商人どもも、砂利まみれのゴミ屑を買い取るために金を出すはずがない」
そこまで語ると、カリーナの唇には柔らかな弧が浮かんだ。彼女はすらりと長い腕を伸ばし、現実の人性の闇に打たれて青ざめ強張ったルシアの頬を、指腹で慈しむように優しく撫でた。その魂の奥底の戦慄を解きほぐすかのように。
「そうして、最後の最後に……あの黒煙を吐き出す、泥塗れの大釜の前に残り、震える手で欠けた器を掲げ、噛むことすら恐れて、砂の混じった不快極まりない泥粥を泣きながら胃袋へと流し込むのは……一体誰だ?」
カリーナの声は極めて静かだった。しかしそれは、ルシアの魂を砕かんばかりに重く穿ち抜いた。
「本当に、死にかけている者だけだ」
「この命を繋ぎ止めるためなら、草の根だろうと木の皮だろうと、白堊の土すら噛み砕いて呑み込む瀕死の者たちだけだ」
カリーナは手を引き、冷血でありながらも、人性を超越した高貴さすら漂わせる上位者の結論を平然と口にした。
「あの一掴みの砂はな、腹を満たすためのものではない。……淘汰のための選別なのだ」
「純白の粥では人は救えん。それはただ無数の強欲な禿鷹を呼び寄せ、真に死に瀕した者を泥の中に踏み殺すだけだ。万民から唾棄され、無慈悲と罵られるあの砂こそが、最も冷酷な防壁となり、有限な生への糧を、本当に息絶えようとしている者たちの口元へと狂いなく届けるのだ!」
静寂。
豪奢な軍天幕の食堂は、数十秒に及ぶ完全な沈黙へと沈んだ。
ルシアは彫刻の椅子に縫い止められたように硬直していた。手の中の銀フォークはもはや支えを失い、カラン、と澄んだ音を立てて上等な磁器の皿の上に転がり落ちた。
頭の中は真っ白だった。重く鈍い鉄槌を打ち込まれたかのようだった。文明社会の道徳律と良知が、カリーナの説く『砂混じりの兵糧』という残酷な論理の前に、粉々に砕け散っていた。
黒髪の女子は記憶の論理を手繰り寄せ、反論の綻びを探そうと足掻いた。だが、精密工匠としての理性が狂ったように警鐘を鳴らしていた――カリーナの言っていることが正しいのだと。
極限の資源不足と生存の危機において、純粋な善意は破滅を加速させるだけであり、悪鬼の仮面を被ることでしか、深淵の底にいる者へ最後の微光を正しく届けることはできないのだと。
「さて、私のルシア……これでユリアンが一体何をしていたのか、完全に理解できたか?」
カリーナは身を乗り出し、卓を越えて、黒髪の女子の冷たく強張った手をその掌の中へと包み込んだ。
北境公爵の掌は滾るように熱く、皮膚を通して途方もない生命力が奔流となって流れ込み、ルシアの冷え切った身体を温もりで満たしていく。
カリーナの赤瞳には、雛鳥がようやくその産毛を脱ぎ捨てる様を見守るかのような、稀に見る温もりと重厚さが宿っていた。
「ユリアンはな、帝国のあの大釜へ自らの手で砂をぶちまけていた狂人なのだ。女を売り飛ばし、奴隷を商い、生体投薬実験を行い、民の骨の髄まで絞り尽くす。そのやり口の汚らしさは、天下の聖人君子どもを悉く嘔吐させるほどだ。……だが、彼のあの高潔な二人の兄はどうだ? 天下の万民へ真っ白で清らかな粥を振る舞うことばかりを夢見ながら、自らの穀倉が底をついていることすら見えず、招き入れた強欲な暴民たちによって、帝国の骨肉が生きたまま食い荒らされている現実に気づきもせぬ」
カリーナは立ち上がり、食卓を回り込んでルシアの背後へと歩み寄った。豊満でしなやかな長身が、背後から黒髪の女子の細い肩を優しく抱きしめる。
ルシアの黒髪の頭頂部へ己の顎を預け、布地を通して滾るような熱い体温がルシアの背中へ余すところなく染み渡り、息が詰まるほどの圧倒的な安心感で彼女を包み込んだ。
北境公爵は虚空を見つめ、黒髪の女子の耳元で、あらゆる英雄譚を木端微塵に打ち砕く終極の真理を囁き落とした。
「ルシア、政治とは決して『気高き善』と『卑劣なる悪』の二者択一ではない……真の上位者とはな、いついかなる時も『偽善による破滅』と『残酷による苟且の生』の狭間で、奥歯を噛み砕きながら、より多くの者を生き長らえさせるための一握の砂を選ぶ者のことだ」
「貴女は常に、己が強大でありさえすれば、術式が卓越していれば、手札をいくらでも持っていれば、誰もを救い出せると信じて疑わなかった。……そうだろう?」
カリーナの頬がルシアの冷たい横顔へと寄せられ、すり寄るように甘く撫でる。その声音は極上の優しさに満ちていながら、同時に極限まで冷徹だった。
「それは工匠としての純粋さであり、凡人の傲慢だ。強大さなど、人を救う免罪符にはならん。個の殺し合いにおいてなら、力は敵の喉首を断ち切ってくれよう。だが、何千何万という人間の命運が交錯する盤上において、純粋な武力など疫病一つ、飢饉一つすら押し留めることはできぬのだ」
「非常の時には、非常の手を打つ。万世の悪名を背負い、無為な慈悲を踏みにじり、最も汚らわしい泥と膿血の中に手を突っ込んで活路を抉り出す――それこそが、真の上位者が果たすべき責務なのだ」
カリーナはわずかに首を傾げ、ルシアの微かに震える目尻へと、熱く繾綣たる口づけを落とした。そして、その耳元で低く掠れた声で、あの血塗られた判詞を宣告した。
「官吏が粥に砂を混ぜぬことこそ、人を草芥のごとく見殺しにする所業。砂を混ぜてこそ、救いの糧は真に死にゆく者の口へ届く。――あの一掴みの砂は人を害しているのではない。あれこそが、命を救っているのだ」
命を救っている。
その言葉が、ルシアの脳の最奥で凄まじい衝撃を伴って炸裂した。
市場の暗がりで野狼のようにぎらついていたユリアンの灰色の瞳。万民の歓呼を浴びる双皇子の、一点の塵芥すら寄せ付けぬ純白の軍旗……あらゆる記憶の断片が、この生臭い「砂利」によって、ぞっとするほど精緻な一枚の絵図へと縫い合わされていく。
あの一掴みの砂は、粗く、汚らわしく、吐き気を催すほどの泥臭さを放っている。
だがそれは、己を高く売ろうとする偽善者や投機者たちをことごとく締め出し、最後の一滴の饐えた熱い汁を、真に息絶えようとしている者たちの喉へと流し込んでいたのだ。
「双皇子は純白の米をその手に抱きながら、帝国の骨髄が空洞化し、二十年後の完全なる滅亡へと突き進むのをただ座視しているに過ぎん。……そしてユリアンは、万民の呪詛が渦巻く泥沼に膝をつきながら、大釜の中へ砂を一掴み、また一掴みと投げ込み続けているのだ」
カリーナの腕が僅かに引き絞られ、激しい衝撃の余波で小刻みに震えるルシアの身体を、己の滾るように柔らかい胸元へと強く抱き寄せた。
その真紅の双眸は、天幕の入り口の隙間から覗く太古の絶嶺の深秋を見つめている。遠くには黄褐色と暗紅に染まった林海が広がり、骨を刺す朝風の中で、無骨な岩肌が分厚く白い秋霜をびっしりと纏っていた。
北境公爵は、低く厳かな声音で、最後の問いを投げかけた。
「さて、私のルシア……これでもまだ、ユリアンに代わってあの二人の皇兄の首を刎ねることが、ただの下劣で汚らわしい任務だと愚弄できるか?」
天幕の食堂の中には、カリーナの滾るような力強い鼓動と、ルシアの重く乱れた呼吸の音だけが、縺れ合うように響き渡っていた。




