真の忘却魔法は物理的脳震盪による記憶喪失術だった件?
東の空が白み始め、太古の絶嶺特有の冷え切った灰白色の霧が軍営全体を重く覆っていた。
昨夜、万能霊薬による強制的な肉体再構築と、その後に続いた際限のない荒唐無稽な乱痴気騒ぎを経て、ルシアはおぼつかない足取りを引きずりながら天幕の外へと這い出た。
深く沈んだ墨緑色の瞳をわずかに細め、黒髪は無造作に首の後ろで束ねている。首元を覆うハイネックのインナーは、昨夜二人の高貴な令嬢たちによって刻みつけられた生々しい鬱血痕を、これ見よがしに隠し通していた。
だが、清晨の静寂を享受できたのはほんの三秒にも満たなかった。
太鼓を打ち鳴らすかのような重苦しい肉体衝突音と無残な悲鳴が、張り詰めた軍営の殺気を無慈悲に引き裂いたのだ。
ドゴォッ! バキッ! ボキリッ!
臨時に切り拓かれた広大な練兵場の片隅で、カリーナの白銀の髪が朝風に激しく揺らめいていた。甲冑すら身につけず、ゆったりとした純白の道着を纏っただけのその姿。
雪のように白く瑕疵ひとつない両腕には青筋が微かに浮かび上がり、拳は耳障りな風切り音を伴いながら、頑丈な大柄の肉体へと正確無比かつ残虐に叩き込まれ続けていた。
ルーカスだった。
泣く子も黙るグラフィエン公爵の実の甥にして、至高の権能を宿す天才青年。だが今や、その整った美貌は実の叔母の手によって見る影もなく叩き潰されていた。
鼻梁はへし折れて曲がり、眼窩は青黒く腫れ上がり、口端からは血反吐が地面へと撒き散らされている。身に纏っていた高価な軽装甲甲冑に至っては、原形を留めぬ鉄屑の残骸へと成り果てていた。
「……お、叔母貴……話を聞い……ぶへぇっ?!」
「話だと?」
カリーナの真紅の双眸には、もはや実体化せんばかりの濃密な殺意が渦巻いていた。容赦のない苛烈な膝蹴りが実の甥の腹部を正確に抉り抜く。
ルーカスの巨体は海老のように折れ曲がり、数メートル後方へと吹き飛んで泥土の上に生々しい血の跡を刻みつけた。
「貴様のその権能は、最初から最後まで全てを記憶していたはずだな。忘却の神殿の理ですら、その脳髄を洗い流すことは適わなかった。……それで、結果はどうだ? 私と貴様の従叔母が記憶を奪われ、戦場で首のない蠅のように狂奔している様を高みの見物と決め込み、あろうことか実の甥である貴様が、何食わぬ顔で暗がりに潜んでいたそうではないか!」
カリーナは軍靴の足音を響かせながら冷然と歩み寄り、練兵場の縁に突き刺さっていた一本の鍛鋼製訓練用重戟を引き抜いた。その眼差しは、道端の転がる屍肉を見下ろすかのように冷え切っている。
「実家を欺き通し、狩猟祭が終わった後、何も知らぬ私とクレアの隙を突いてルシアを一人で拐かし、独占する肚積もりだったのだろう? ルーカス……今日ばかりは貴様の父親が棺桶から這い出てこようと、その骨という骨を叩き折り、雪狼の餌にしてくれる」
冗談ではない。本気で殺す気だった。
「やめなさい! カリーナ、正気なの?!」
今まさに分厚い鉄戟の切っ先がルーカスの脳天を叩き割らんと振り下ろされた瞬間、ルシアの墨緑色の瞳が引き絞られ、全身の軋む激痛も忘れて前へと飛び出した。そして、カリーナが振り上げたその腕を必死に掻き抱いた。
「どれほど阿呆でも、あなたの実の甥でしょう! グラフィエンの正統な血を引く者を陣前で叩き殺して、これからの狩猟祭をどう乗り切るつもりなのよ?!」
黒髪の少女が縋り付いてきた柔らかな感触に、カリーナの纏う狂暴な殺気はようやくわずかな翳りを見せた。忌々しげに舌打ちを鳴らすと、手放された重戟が泥土へと鈍い音を立てて倒れ込む。
一方、泥の中にへたり込み、豚のように顔を腫らしたルーカスは、ルシアが駆け寄ってきた姿を捉えた瞬間、打ちのめされ濁りきっていた赤瞳をパッと異様な輝きで爛々と輝かせた。
全身の骨折や流血など痛痒にも感じていないかのように、激しく折檻されながらも飼い主の姿を認めた大型猟犬よろしく、泥まみれになりながら四つん這いで這いずり寄ってくる。
そして、ルシアの華奢な足首へと無様に抱きつくと、その長靴の筒へ恥も外聞もなく頬を擦り付け、腫れた口を歪めながら情けなく咽び泣いた。
「うぅ……っ、ルシア先生……会いたかったよぉ……っ! 僕がこの間、どれだけ先生を恋しく思っていたか……っ!」
ルシアのこめかみに青筋が猛烈に跳ね上がった。深く息を吸い込み、墨緑色の瞳を半分伏せて足元のみっともない大型犬を見下ろす。もう片方の足でその顔面を踏み抜いてやりたい衝動を必死にねじ伏せながら、冷徹に言い放った。
「……離しなさい、ルーカス。これ以上擦り寄るなら、叔母様にもう一回殴らせるわよ」
その一言にルーカスはびくりと背筋を凍りつかせ、慌てて手を引っ込めると、大人しく泥水の中に突っ伏して死んだふりを決め込んだ。
実のところ、この期間に彼が巡らせた思惑は決して浅いものではなかった。ルシアを我が物にしたいという欲求は今に始まったことではない。
だが、彼女が敬愛する実の叔母を愛しているという厳然たる事実の前に、彼は身を引き、祝福することを選んでいたのだ。
それだけに、カリーナがルシアを綺麗さっぱり忘却した際、彼は唯一記憶を保持しているという優位性を笠に着て、実の叔母を相手に強気で挑発的な態度に出てしまっていた。
だが、その虎の子のアドバンテージが灰燼に帰した今となっては、尻尾を巻いて泥を舐めるしか生き残る道はなかった。
天幕の前から、軍団集結を告げる角笛の重々しい音色が響き渡った。
本日の第二陣における掃討と進軍の総指揮を執るのはカリーナではなく、シルヴィア陣営の頂点――クレアの父親であった。
すらりと伸びた長身に、揺るぎない威厳を湛えた中年の偉丈夫。クレアと寸分違わぬ気品ある紫髪は一分の隙もなく撫でつけられ、深邃な紫眸には歴戦の帝国軍事貴族特有の老獪さと覇気が宿っている。
彫りの深い精悍な顔立ちをした、文句のつけようもない「紫髪紫眸の美丈夫」であった。
精緻な古代ルーンが刻まれた将軍甲冑を纏い、威風堂々たる軍馬の上から出撃を控えた重騎兵連隊を閲兵していた彼だったが、抜剣の直前、ふと顔を巡らせた。その視線は朝霧を貫き、練兵場の片隅に佇む小柄なルシアの姿を捉える。
先ほどまで戦場の鬼神のごとき冷徹さを漂わせていたその偉丈夫が、あろうことか全軍将兵の面前で、悪戯っぽく破顔したのだ。
そして、極めて自然な所作でルシアに向けて親指をグッと突き立て、何やら万事了解と言わんばかりの賛意と目配せを送ってきた。
ルシア:「……?」
ルシアはその場に完全に縫い止められた。その底知れぬ墨緑色の瞳には、無数の疑問符が浮かび上がっている。
あの侯爵閣下は、昨夜自分がその愛娘を泣き腫らすほど激しく抱き潰した事実を把握しているのだろうか? あのサムズアップは工匠としての腕前を認めたものなのか、それとも知るはずのない別の事情を察しての奇行なのだろうか。
困惑から抜け出せずにいるルシアの背後から、凍てつく冬梅の冷香が再び忍び寄ってきた。
カリーナは足元に転がる実の甥へと外傷用の軟膏を無造作に投げ捨てると、腕を組みながらルシアの隣へと並び立った。赤き双眸で土煙を上げて進発する軍勢を見つめ、まるで今朝の朝食の献立でも語るかのように、平然とした口調で切り出した。
「ところで、ルシア。貴女が昨晩気を失った後、あの【忘却の石板】……つまりあの走馬灯の理を、完全に解き明かしたぞ」
「……解析したの?」
ルシアは虚を突かれ、濃墨を擦ったかのような墨緑の瞳に一転して険しさを宿らせた。
「どうやって? あれは神殿の法則そのものを体現した遺物よ。私でさえ魔力出力の周波数と記憶再構築の均衡点を見出せていないというのに……」
「簡単なことだ」
カリーナは何食わぬ顔で振り返り、雪のように白くしなやかな手を持ち上げると、空中で上から下へと何かを力任せに叩きつける軌道を描いてみせた。
「魔力を注ぎ込むのは、記憶を逆流させるための起動鍵に過ぎん。そして本命たる忘却の効果だが……走馬灯を直接、対象の後頭部へ叩きつけることで発動する」
ルシアは己の耳を疑った。
「……は?」
カリーナは極めて学術的な真剣さを崩さず、指を一本ずつ立てながら、至極真面目に実験データを披瀝し始めた。
「打ち据える打撃の強度が、忘却の威力を決定づけるのだ。軽くな、皮膚を浅く切り裂く程度で済ませば、今日の行動予定や朝食の献立を綺麗さっぱり忘れ去る。これが少々力を込め、三割ほどの闘気を用いて頭蓋を凹ませる勢いで叩き割れば、およそ三ヶ月分の記憶を削ぎ落とせる」
そこでカリーナは言葉を切り、どこか居心地悪そうに軍営の一角にある野戦病院へと視線を彷徨わせた。その後、何事もなかったかのように厳格な表情を取り繕ったが、ルシアはその挙動から、彼女が負傷兵たちを実験台にして頭をかち割ってきた事実を瞬時に察知した。
「そして最大出力だ。渾身の力を込めて一撃を見舞い、頭蓋骨粉砕の一歩手前――死に至らしめぬ極限状態まで叩きのめした場合、対象は己を産み落とした実の母親の顔貌すら完全に忘却する」
そう語り終えたカリーナは、泥に突っ伏したままのルーカスを忌々しげに一瞥した。
「先ほど貴女に止められなければ、あの馬鹿甥の後頭部を全力で叩き割り、この一年間の記憶をすべて吹き飛ばせるか検証するところだったのだがな」
泥水に顔を埋めていたルーカスの巨躯が、目に見えて激しく痙攣した。
ルシアは完全に絶句していた。理性的かつ冷徹を旨とするその墨緑色の瞳が、驚愕のあまり真円に見開かれている。
目の前で涼しい顔をして滔々と語る北境の戦乙女と、その足元で震え上がる公爵家の嫡流青年を見比べ、彼女の思考は荒唐無稽の極致へと投げ出されていた。
……神殿の権能を宿し、因果と魂の記憶を塗り替えるはずの古代の失落秘宝。その核心的な発動機構が、これほどまでに……『物理』だというのか?!
因果律の改竄はどこへ行った? 唯心論的な精神の奔流はどうした?!
これではただの、物理法則に基づいた脳震盪誘発記憶喪失打撃術ではないか!
「まあ、これで使い方は弁えたな? ……それから、もう一つ面白い事実を教えてやろう」
カリーナは細められた真紅の双眸を妖しく光らせ、唇の両端を極めて危険な角度へと吊り上げた。雪白の右手を掲げ、虚空の空間を爪先で軽く手繰り寄せる。
「私も、その石板の力を行使できるようだぞ」
ウォン――!
空気を震わせる重苦しい空間の共鳴とともに、冷ややかな金属光沢を放ち、外殻に精緻な楔形呪文を刻み込まれた走馬灯が、何の前触れもなくカリーナの掌上へと具現化したのだ!
ルシアの墨緑色の瞳孔が針の先ほどに収縮し、全身が総毛立って無意識に半歩後退した。
その瞬間、彼女は混乱する思考の奥底から、至高の魔法法則をようやく思い起こしていた。魂と肉体の双方が極限の親密さに達した高階梯の魔法師同士は、その体内の魔力回路を『深層共鳴および完全同期』させることが可能となるのだ。
昨日の太古の絶嶺における大混戦の最中、窮地に陥ったルシアが身を削るようにして暴発させたあの膨大な魔力。
その奔流の源泉は、彼女の華奢な肉体のみから生じたものでは断じてなかった。二人の交わり合う深層回路を介し、カリーナとクレアが抱える深淵のごとき膨大な魔力回路から、文字通り底なしに鯨呑し尽くした結果だったのだ。
即ち、魂の階梯で結ばれたこの回路網は、すでにルシア、カリーナ、そしてクレアの三人の間に、不可視の共生結界を構築し終えていた。
それは――【忘却の石板】という神殿の権能遺物すら、カリーナとクレアがその作動原理を十全に理解しさえすれば、ルシアを媒介とすることなく、自らの魔力のみで独立して投射できることを意味していたのだ!
道理で! 道理で先ほどから、カリーナが「軽く殴れば朝食を忘れ、重く殴れば生みの親を忘れる」などという狂気の実験結果を平然と口にできたわけだ!
この悪辣な公爵は、ルシアが泥のように眠りこけている間に、己の魔力で走馬灯を喚起し、そこらの不運な兵士の後頭部を叩き割って回っていたのだ!
「さて、神殿の遺物の話は後回しだ」
カリーナが軽く手を払うと、掌の走馬灯は光の粒子となって霧散した。彼女はルシアの冷え切った細い指先を愛おしげに握り締めると、身支度を整えて貴族の優雅さを取り戻したクレアを伴い、ルシアをグラフィエン軍団の直轄天幕内にある専用食堂へと導いた。
天幕の内部に設えられたその食堂は、極寒の狩猟祭の前哨基地とは思えぬほど贅を尽くした空間であった。これぞ魔法という技術の粋というべきか。建築工学に通じた魔法師さえ揃っていれば、荒野の只中に一日で豪奢な要塞宮殿を現出させることすら造作もない。
足音を完全に吸い込む分厚い羊毛の絨毯、長大な赤樫の食卓には磨き上げられた銀食器が整然と並べられている。カリーナが指を鳴らすと、白黒の給仕服を纏った専属の従僕たちが一礼して下がり、周囲には一切の探査を弾く防音結界が張り巡らされた。
彫刻の施されたハイバックチェアを引いてルシアを腰掛けさせると、カリーナとクレアは申し合わせたようにその両隣を占拠した。
「では、本題に入ろうか」
カリーナは先ほどまでの戯れを完全に削ぎ落とし、白くしなやかな指をテーブルの上で組んだ。その冷徹にして絶世の貌に、北境の覇者たる冷厳な観察眼が宿る。
「貴女の口から直に聞かせてもらおう。……なぜ私たちに隠れて、ユリアンなどという毒蛇と裏取引を交わしたのだ? セリフィアの第三皇子がどれほど狡猾で残忍な男か、貴女が知らぬはずもあるまい」
「……知っているに決まっているでしょう」
左右から突き刺さる二つの視線――片や氷刃のごとく鋭利な深紅、片や濡れたように深く温かな菫色。挟み撃ちにされたルシアは居心地悪そうに身を縮こまらせたが、次の瞬間、込み上げてきた理不尽な鬱屈に勢いを取り戻した。
「だけど、あの時は選べる道なんてなかったのよ! オースは首を切り落とされて頭部だけで転がっているし、ヴァレリーは魔力の逆流でいつ死んでもおかしくなかった。背後にいたのは傷だらけの敗残兵ばかり……。そんな状態であなたを頼ったところで、その唯我独尊な性格で、オースたちのような赤の他人に貴重な資源を割いてくれるはずがないじゃない! それに……」
ルシアはぷいと顔を背け、墨緑色の瞳にありったけの怨念を滲ませながら、両頬をリスのように膨らませた。
「それに、狩猟祭の最初の遭遇戦で、あなたは私の言葉をろくに聞きもせず、問答無用で蹴り飛ばして肋骨を何本も叩き折ったじゃないの! 息をするたびに、今だってまだ痛むんだから!」
蒸し返された古傷に、黒髪の少女は今なお憤懣やるかたない様子で唇を尖らせる。
その毛を逆立てた子猫のような拗ねた態固に、カリーナの引き結ばれていた口元が、堪えきれずに微かな苦笑を零した。
「あの時は記憶を封じられていて、貴女が私の魂の伴侶であると確信が持てなかったのだ」
カリーナは首を横に振り、珍しく真摯な弁明を口にした。
「血煙渦巻く乱戦の最中、どこからともなく現れた小柄な工匠が、およそ釣り合わぬ身の丈で軍勢の只中を命知らずに駆け回り、全身を血塗れにしていたのだぞ。……私の思考は極めて単純だった。あの肉挽き機のごとき戦場であれ以上暴れさせれば、貴女は遠からず四散して死ぬ。ならば最小限の手間で意識を刈り取り、クレアに命じて後方の安全な天幕へと担ぎ込ませるのが最善だと判断したまでのこと」
二人が言葉を交わす間に、従僕の手によって豪奢な銀の皿が卓上に運ばれてきた。
カリーナは節くれのない白皙の指先で優雅に銀のデザートフォークを摘み上げると、香ばしく焼き上げられ、濃厚なバニラクリームを隙間なく詰め込まれた特製シュークリームを器用に突き刺した。
そして、ルシアが身構える間すら与えず、絶対的な上位者の強引さをもって、その巨大な菓子をルシアの小さな口の中へと容赦なくねじ込んだのだ!
「むぐっ――?!」
冷たく甘美なクリームが一瞬にして口腔内に炸裂し、ルシアの両頬はハムスターのように限界まで膨らんだ。咀嚼を強いられながら、墨緑色の瞳でカリーナを恨めしげに睨みつける。
カリーナは銀フォークを皿の上へと放り出し、澄んだ金属音を響かせた。わずかに上体を前傾させ、初雪のごとく白く冷ややかな貌をルシアの鼻先へと迫らせる。吐き出される冷涼な吐息には、有無を言わせぬ重圧が宿っていた。
「それにだな、ルシア……胸に手を当ててよく考えてみろ。もしあの時、私が悠長に足を止め、戦場の只中で貴女と穏便に対話を試みていたとして……貴女はおとなしく武器を捨てて、私の軍門に降るような性格をしていたか?」
「んぐ……ごくんっ……」
必死にシュークリームを飲み干したルシアは、気まずそうに視線を泳がせた。
「出会ってから今まで、貴女が一度でも私の言いつけを守ったことがあったか?」
血のごとく赤い瞳が危険なまでに細められ、白く長い指先が無造作に滑り落ち、柔らかい革長靴に包まれたルシアの細いふくらはぎへと触れ、測るように力を込めた。
「それとも……隠し事と逃走の味を覚えた貴女は、私の逆鱗を試しているのか? かつてのように……その落ち着きのない両脚の骨を、再びへし折る度胸が私にないとでも思っているのか?」
ヒッ――!
ふくらはぎの骨に食い込むあの身の毛もよだつ握力に、ルシアの背筋は一瞬にして凍りつき、椅子から飛び上がりそうなほどの悪寒が全身を駆け巡った!
本気で恐ろしかった。
目の前に座るこの女は、言葉だけで威嚇するそこらの貴族とは根本から出来が違うのだ。カリーナ・グラフィエンという怪物は、愛する者の手足をことごとく叩き折り、深窓の檻の中に飼い殺してでも手元に縛り付ける、筋金入りの『実践派狂気』なのだから!
ルシアの思考は、かつて胸を火球で貫かれて二度目の転生を果たした直後の記憶へと引き戻されていた。地球にいた頃に目にしたライトノベルや恋愛シミュレーションの「ヤンデレ」など、眼差しが少々暗いだけで、本質的には甘やかすための記号に過ぎなかった。
だが、この異世界において彼女に宛がわれた現実は、一切の希釈を許さぬ純度百パーセントの実体だったのだ。
彼女は今なお鮮明に記憶している。かつて彼女の支配を脱し、王都の帝国魔法学院へ留学しようと足掻いた際、カリーナがどれほど穏やかな微笑みを浮かべて公爵邸の門を閉ざしたかを。
あれは痴話喧嘩などという生易しいものではなかった。連日にわたり顔の原形を留めぬほど打ち据えられ、四肢の骨を無慈悲にねじ切られ、最高峰の聖薬で繋ぎ合わされては、冷たいミスリルの鎖で豪奢な閨の深奥に繋がれ続けた漆黒の年月――!
あの魂を焼き尽くす地獄の記憶に比べれば……。狩猟祭の混戦で肋骨を数本蹴り折られた程度のことなど、この戦乙女が理性の限界まで手加減を重ねた、究極の「慈悲」ですらあったのだ!
「……わ、わかったわよ……」
ルシアは泣きそうになりながら足を引っ込め、辛うじて張り詰めていた気勢を跡形もなく霧散させた。雨に打たれた野良猫のように項垂れ、ナプキンをぎゅっと握りしめながら、蚊の鳴くような声で呟いた。
「言うことを聞くから……その手をどけてちょうだい……」
だが、どうしようもない。
これこそが自ら手酷く踏み込み、魂の最奥にまで焼き付けてしまった最愛の存在なのだ。
どれほど根が狂っていようと、どれほど痛烈に殴られようと……彼女は折れた牙を呑み下し、この二人の女に骨の髄まで貪り尽くされる運命を、甘んじて受け入れるしかなかった。




