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重度カードゲーマー女子、過労死転生した異世界でも恋愛をプレミして詰んだ件  作者: 酣睡


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現実と理想の選択、決断の皇子と揺らぐ錬金術師

太古の絶嶺は、秋の夜の深淵において物々しい青き稜線へと沈み込み、見渡す限りの冷徹な満天の星々が、まるで黒天に撒き散らされた砕氷のごとく高く天を刺していた。


節気はすでに霜降を過ぎ、山裾に満ちる乾燥した冷気は音もなく凝結していく。


尾根を撫でて吹き降ろす夜風が原生林をかすめるたび、幾重にも重なる紅楓と枯れた黄褐色の柏葉の縁には、薄く脆く、白く輝く霜が宿っていった。


積もった落ち葉を踏みしめれば、乾いた冷たい音でさくりと微かな悲鳴を上げ、吐き出す息さえも極めて淡い白霧となって夜気へほどけていく。


だが、この白霜の清冽な寒気も、狩猟祭の熱気に包まれた山麓の臨時夜市によって、融々たる温もりの裂け目へと押し戻されていた。


風を防ぐ数千の灯火が石畳に沿って金竜のようにうねり、街のあちこちに据えられた無骨な鋳鉄の火鉢では、赤く熾った果樹の炭がパチパチと爆ぜている。


漂うのは、極めて濃密な深秋の匂い――松脂の香、枯草の薫り、熟しきった野苺の甘酸っぱさ、そして太い鉄串に刺され、脂を滴らせながら炭火を煽る野獣の肉の香ばしさ。


毛皮の襟巻きを羽織った狩人たちが大声で酒を酌み交わし、行商人は澄んだ訛り声で客を呼び、霜降を過ぎたこの長夜を白昼のように沸き立たせていた。


ルシアはそのきらびやかな人波のただ中を歩いていた。


彼女の体躯は極めて痩せ細り、小柄であった。身に纏うやや大ぶりな烏羽色の厚手外套が、かえってその華奢で頼りなげな骨格を際立たせ、まるで深秋の冷たい風に吹かれただけでふわりと揺らいでしまいそうに見える。


フードから覗くのは、清らかに痩せた物静かな横顔。大人の女性としての歳月と落ち着きを宿しながらも、その美しい顔立ちはあまりに小さく、見る者の胸を締めつけるほどに痛々しい。


ただ、満ちる街の灯りを映す澄んだ瞳だけが、世のすべてを見透かしたかのような静けさと柔らかな光を湛えていた。


彼女の右手には、炭火から下ろされたばかりの角鹿の串焼きが握られており、冷気にさらされた指先がほんのりと赤みを帯びている。


木の串に刺された肉はこんがりと香ばしく焼き上げられ、深秋特有のスパイスがたっぷりとまぶされ、薄霜の空気の中で微かな湯気を立ち上らせていた。


彼女はわずかに首を傾げ、唇を開いて小さく一口だけ食む。熱い肉汁が舌の上でほどけると、わずかに寄っていた眉間がほどけ、その表情に淡い安らぎが浮かんだ。


そしてユリアンは、一歩も離れることなく彼女の傍らに寄り添っていた。


青年の長身で均整の取れた体躯は、前を行く小柄で頼りなげな影を、夜風と酔漢たちの雑な肩当たりから完璧に遮っていた。


ただ、今の彼の両腕には隙間ひとつない――左腕には深秋の霜地茸を詰めた黒陶の壺がしっかりと抱えられ、右手には乾かした魔獣の腱やずっしりと重い鉱砂の詰まった革袋が三、四個も提げられている。


肩に斜め掛けされた荷紐にすら、苦みを帯びた香りを放つ枯草の蔓が二束括りつけられていた。


その涼やかな顔立ちには諦めにも似た無力さが滲んでいたが、足取りは極めて緩やかで確かであり、終始、隣を歩く女の気まぐれな歩調に合わせられていた。


「ユリアン、一口食べる?」


ふと、真鍮の風鈴が無数に吊るされた露店の前でルシアが足を止め、振り返った。


青年の胸元に届くほどの背丈しかない彼女は、その痩せ気味の素顔をかすかに仰ぎ見せる。その瞳には、年長者が後輩をからかうような悪戯っぽさと、温もりが滲んでいた。


彼女は串焼きを青年の唇の前へと差し出す。串の先端から立ち上る熱い肉香が、夜の冷気と混ざり合い、二人の間にひとすじの白い霞を描いた。


風鈴が風に揺れて細やかな涼音を立て、周囲の喧騒と夜気の刺すような寒さが、この一瞬だけ遠く退いていくかのようだった。


ユリアンは足を止め、口元に差し出された肉を見下ろし、次いで灯火に照らされた彼女の柔らかな瞳と、今にも折れそうなほど細い手首に視線を移す。


両手は塞がれており、指一本動かす余地もない。彼の胸がかすかに上下し、やがて極めて小さな吐息となって零れ落ちた。


言葉はなく、青年は素直に身を屈めると、彼女の冷たい指先越しに、香ばしく焼けた温かな鹿肉を静かに噛み取った。


太古の絶嶺の木々は霜を纏い、長街の千の灯火は昼のごとく煌めく。


深秋の霜が静かに落ち葉を覆いゆく中、この華やぐ市場の片隅に漂う二人の無言の調和は、山に満ちる秋の気配よりも静謐で、どこまでも長閑であった。


鹿肉を噛み砕く香ばしい音が口内に広がる中、ユリアンはまるでただの一片の落ち葉を飲み込むかのように、どこまでも平然と、ゆっくりと咀嚼した。


ルシアは串を引き、指先に残っていた微温は霜降の冷風にあっけなく奪われていく。


陶器の壺や薬草の蔓を抱え込んだ青年の姿を見つめる彼女の瞳から、先刻彼をからかっていた微かな光がすっと消え失せ、感情の色を読み取らせぬ冷たい深淵へと変わった。


周囲の市場はいまだ喧噪の中にある。酔い潰れた狩人たちが遠くで荒々しい異境の唄をがなり立て、商人の振る真鍮の鈴がちりんと鳴り響く。


だがルシアは、この沸き立つ人の海の中に、拭い去ることのできない、極めて深く潜む血の匂いを確かに嗅ぎ取っていた。


「ユリアン」


ルシアの声は低く、烏羽色の外套に包まれたその小柄な身体は、周囲の大柄な狩人たちの影に呑まれそうであったが、その発音は薄刃のメスのように鋭く切り裂いて響いた。


青年は首をわずかに傾け、その視線を彼女の痩せた顔へと落とす。


「今まで聞かなかったけれど、筋が通らないわ」


彼女は食べ終えた木の串を何気なく指先でパキリと二つに折り、すでに薄白い霜が降りた足元の土へと投げ捨てながら、淡々と口を開いた。


「他国の法までは詳しくないけれど。たとえどれほど血統が卑しかろうと、どれほど失勢していようと、金鳶尾の冠を戴く皇子であることに変わりはない。たとえ後継者争いに敗れたとしても、最も体面を保った結末は幽閉の果ての天寿であり、どれほど苛烈な手段であっても、無色無味の毒を呷らされて深宮でひっそりと片付けられる程度よ」


彼女は顔を上げ、その澄み渡る深い双眸を青年の瞳の奥へと突き刺した。


「けれど、貴方が背負っているのは『処刑令』。各州はおろか、帝国の暗部私兵に至るまで、姿を見れば即座に首を刎ねる殲滅の追殺令よ。こんなものは理屈に合わない。よほど……あのオースのように、朝廷をも軍部をも超越した絶対的な裁量権を持つ特権階級が自ら朱筆を執ったのでもない限り、他の皇子たちが結託したところで、これほどあからさまに天下へ一家根絶やしの殺令を布告できるはずがないわ」


ルシアは言葉を切り、その痩躯を寒風の中に冷ややかに佇ませた。


「皇族が最後の体面すら脱ぎ捨ててまで、貴方を殺さずにはいられない理由……ユリアン、貴方の背負う罪は、決して『権力争いに敗れた』などという綺麗なものじゃない。間違いなく、洗い流すことのできない、国の根幹を揺るがすほどの暴虐よ」


長街を吹き抜ける秋風が、鈴の吊るされた露先を揺らし、不規則に乱れた乾いた音を鳴らした。


真正面から素性を暴かれた青年は、しかし剣に手を伸ばすこともなく、怒りに眉を寄せることすらしなかった。


ただ、胸元にしか届かない、風が吹けば倒れてしまいそうな女を見つめ、その瞳の奥にかすかな自嘲の色を浮かべるだけだった。


「ルシア」


彼が口を開くと、その声は乾いた夜気の中で酷く低く響いた。


「もし目の前に二股の道が置かれたとして、片方が崇高で無垢な理想、もう片方が血みどろの現実だとしたら、君はどちらを選ぶ?」


「現実よ」


ルシアには、半秒の躊躇すらもなかった。静かに、だが迷いなく言い放ち、その口元には冷たい皮肉の笑みさえ浮かんでいた。


「理想などというものは、腹を満たした連中が暖炉の前で紡ぐ幻にすぎないわ。あまりに実体がなく、あまりに綺麗すぎる。塵芥ひとつ許さないほど無垢なものよ。けれど現実に生きる人間は、いつだって泥濘を踏み抜いて生きている」


ユリアンの瞳に、微かな光が揺らめいた。まるで同類を見出したかのような、あるいは深淵に映り込んだ己の影を見たかのような光だった。


「そうだな。実体のないものだ」


青年は低く呟き、抱えた重い錬金素材を抱え直すと、夜市の端にある人通りのない物陰へと静かに歩を進めた。


火鉢の熱気から離れると、秋の霜が帯びる冷たさが瞬く間に石壁を伝って這い寄ってくる。黒陶の壺からは深秋の霜地茸特有の渋い苦みが漏れ出し、草蔓の冷気と混ざり合って、二人の間に重苦しい沈黙を敷き詰めた。


ユリアンは冷たくざらついた石壁に背を預け、長街の灯りが落とす濃い影にその貌を隠しながら、抑揚のない声で語り始めた。


「第一皇兄と第二皇兄は、この世で最も心優しい御方たちだった。羽を折られた小鳥を見かければ、自ら侍従に命じて離宮へと運び、丁寧に手当てをさせるほどにな。かつて南境で大水害が起き、西境で戦乱が起きた折、無数の流民と難民がバッタの群れのように王畿周辺の豊かな領地へと押し寄せた」


「朝廷の官吏たちが保身と政績のために押し付け合う中、立ち上がったのはあの御方たちだけだった。権勢を得て自らの屋敷を開いて以来、私財を傾け、炊き出しを行い、土地を分け与え、行き場を失った万を超える憐れな民を受け入れたのだ」


ルシアは何も言わず、ただ静かに聞いていた。その手の物語が、いかなる結末を辿るのかをあまりに知りすぎていたからだ。


「最初は皇室の仁徳と、天下の美談と称えられた」


ユリアンは口元を歪めたが、その双眸の奥は凍りついていた。


「だが、仁徳で腹は膨れない。五年が過ぎ、十年が過ぎた。ひとつの州が抱える税収と農地には限界があるが、難民の胃袋に限界などない。救済金は湯水のように消え、治水や城壁の修繕に充てられるはずだった財政は底をついた。そして、分け与えるべきパンが足りなくなった時、土の中から悪意が這い出してきたのだ」


市場の彼方から、粗野な怒鳴り声が微かに響いてきた。


どこかの酔漢が強い酒を奪い合い、陶器の碗が石畳に砕け散ったらしい。ユリアンはその音に耳を傾けながらも、微動だにせず、平然とした声で繁栄の皮を被った爛れた傷口を暴いていく。


「代々血汗を流して税を納めてきた現地の民は、自らの畑が見知らぬ余所者に奪われたことを知った。跳ね上がった需要のせいで穀物の値は三倍に跳ね上がり、子供たちは街の工房にすら雇われなくなった。難民たちが半分の賃金で命を売り払うからだ。生活の場は容赦なく圧迫され、民衆の怨嗟は野火のようにくすぶり続けた。では、庇護された難民たちはどうだったと思う? 恩を感じていたと?」


ユリアンの瞳に、骨の髄まで冷え切った冷笑が走る。


「否だ。あまりに膨れ上がりすぎた彼らは、やがて広大で奇怪なスラム街を築き上げた。群れを成し、排他的になり、法も秩序も届かぬ地下社会を作り上げたのだ。官府の配給が三日遅れただけで役所を叩き壊し、商店の品が高すぎると言っては集団で店を襲った。強盗、密輸、疫病、人身売買、路地裏で犯される女子供の悲鳴……街の平穏を喰い破るあらゆる膿が狂ったように蔓延した。だが、我が慈悲深き兄上たちは、破壊された店と無惨に殺された平民を前にしても、神殿に祈りを捧げ、兵たちに『苦難に喘ぐ者に刃を向けてはならぬ』と説くだけだった」


ルシアは深く息を吐き出した。白い吐息が、霜の降りる夜の中に溶けて消えていく。彼女は目を伏せ、すでにその先の惨劇を悟っていた。


「パンの大きさは、最初から決まっていた」


ユリアンは冷徹に言い放った。それは何の熱も持たない、冷たい決断だった。


「穀物倉は底をつき、飢えた口ばかりが増えていく。もしあの崇高な慈悲をそのまま野放しにしていれば、訪れるのは光の救済などではなく、その地にいた全ての者――元からの民も、後から来た難民も、全員が共倒れとなって餓死し、飢餓の中で人を喰らい合う地獄だった」


彼は視線を落とし、数えきれない命を奪ってきた己の細く長い指先を見つめた。


「だから、俺が手を下した」


深秋の冷たい土へと落とされた言葉は、まるで毒を塗られた鉄のように重かった。


「私兵を動員し、最大規模の難民集落を封鎖した。暴動や略奪に加わり、血で手を汚した成人男子は、何ひとつ裁判を経ることなく、その夜のうちに広場の中央で全員を極刑に処し、死体を石橋に吊るして見せしめにした。残った頑健で罪の深い捕虜は、四肢をへし折り、錬金術師どもの地下牢へと極秘裏に送り込んだ。禁忌の魔薬と毒理実験の生体モルモットにするためにな――生きているだけで穀物を食い潰す蛆虫どもだ。死ぬ前に、せめて帝国の軍事医療のために少しは価値を吐き出させるべきだろう」


「そして、拠り所を失い泣き叫ぶだけの女どもは……」


ユリアンの口調には何の揺らぎもなく、狂気すら感じさせるほど無機質だった。


「軍費が空になった以上、何かしらで埋め合わせねばならん。全員に奴隷の焼印を押し、各軍港や国境沿いの遊郭へまとめて売り払った。手に入ったのは、きっかり四万枚の金貨だ。その全てを、干上がりかけていた防汛の軍資金へ補填した」


暗い路地裏は、完全な死寂に包まれていた。


遠くの市場の喧騒すらも、分厚い氷の壁を隔てたかのように遠のいていく。


ユリアンの行った手段は、もはや「苛烈」という言葉で片付けられるものではなかった。底知れぬ悪辣、人の心を捨て去った冷酷無比の所業。


彼は文明が築き上げた道徳の底をことごとく踏みにじり、最も泥に塗れた残虐なやり口で、奪われかけていたパンを強引に奪い返し、本来の持ち主へと投げ返したのだ。


「これを知った第一皇兄は血を吐いて倒れ、第二皇兄は議場にて俺を指差し、悪魔と罵った。皇室は俺を恥じ、その気高き血筋から血も涙もない屠殺人(人殺し)が出たことを受け入れられなかった」


ユリアンは氷のような壁に背を凭せかけ、ルシアが買い求めたばかりの薬草の壺を抱いたまま、唇の端を極めて冷淡に歪めた。


「そうして、処刑令が下った。奴らにとって、俺を殺すことは神への贖罪であり、俺によって汚された皇室の『清廉』を雪ぐための儀式なのだ」


夜風がにわかに吹き荒れ、狭い路地を唸りを上げて吹き抜けた。


霜降の秋風は乾いた冷酷さを孕み、太古の絶嶺の険しい岩肌を削るように吹き降りて、ルシアの纏う烏羽色の厚手外套を激しく翻す。


散り乱れた幾筋かの黒髪が風に煽られ、彼女の痩せこけた頬を撫でて、これまで影と髪の奥に隠されていたその美しい顔を、街を白昼のように照らす灯火の前に惜しげもなく咲き誇らせた。


ユリアンは息を呑んだ。


常に揺らぐことのなかった冷徹な双眸に、誰にも悟らせぬわずかな波紋が走り、青年は思わずその場に立ち尽くしていた。


その顔に、彼はまったく異なる「美」を見たのだ。


彼はこれまで、数えきれないほどの美貌を見てきた。王畿の深宮で贅沢に育ち、高価な香油と温室の花露で磨き上げられた貴族の令嬢たち。白磁の肌と、優雅を極めた身のこなし。


そして、帝国において神殿の至宝と崇められ、万人から愛される「女神」クレアの、聖潔にして幻影のような美しさ。


だが、目の前のルシアは、それらのどれとも違っていた。


あまりに痩せ細り、あまりに小柄だった。


その枯れ木のように痛々しい身体は、だぶついた外套の中で頼りなく泳ぎ、まるで薄暗いスラムの死体の山から引きずり出されてきたばかりの孤児のように、深秋の寒霜に今にも折れてしまいそうな儚さを帯びている。


だというのに、その小さく痩せた顔には、神すらも目を奪われるような、魂を絡め取る美貌が宿っていた。伝説のクレアと並べたところで、いささかも色褪せることのない輝きだった。


それは貴族の女が持つ甘やかされた気高さではなく、市井の女が帯びる生活の垢でもない。


眉間と顎の線に宿るのは、どこまでも執拗なまでの「傲骨」だ。


それはまるで、深秋の断崖に張り付き、岩を割って咲く野花のようだった。天の恵みとなる甘露もなく、日夜吹き付ける霜雪に打たれようとも、最も険しく冷徹な姿で己に根を張ることを強いて育った花。


その花弁には泥が付き、血が滲んでいるかもしれない。


だがその繊維の一筋一筋から、息を呑むほどの野生と生命の脈動が放たれている。


彼女は誰のものでもなく、誰かのために咲こうなどとも思っていない。


その美しさは骨を刺すほどの警戒を纏い、彼女の魂は、最初から最後まで己の名だけを深く刻みつけていた。


ユリアンは静かに目を伏せ、灯火と霜の夜の中で次第に蒼白さを増していく彼女の貌から視線を外すと、己の指先に降りかかった薄い霜を見つめた。


青年の喉仏がかすかに上下する。遠い日の記憶に不意に刺し貫かれたかのように、その唇の間から、かすれた呟きが極めて小さく零れ落ちた。


「……道理で、あの女すらも愛するわけだ……」


「何て言ったの?」


もの寂しい秋風が通りを吹き抜け、落ち葉のように軽やかな言葉をかき消していった。


風の唸りの中で、ルシアは彼が紡いだ言葉を聞き取れず、ただ青年が頭を垂れ、満山の寒霜と遥かな過去に向けて、どうしようもない深い嘆息を漏らしたようにしか見えなかった。


青年は再び瞼を持ち上げ、遥かな記憶をその漆黒の双眸の奥底へとしまい込んだ。そして泥濘から咲き出でた野花のような女を見つめ、酷薄なほど真摯な眼差しで、再び問いかけた。


「ルシア、これが俺の背負う罪だ。俺は半個州の財政と、そこに生きていた民を救った。だが、そのために地獄の手段を使ったのだ。さあ……もう一度選べ。理想か、現実か。君はどちらを選ぶ?」


路地を吹き抜ける夜風が、二人の間に凍りついた空気をかすかに震わせた。


底知れぬ暗さを湛え、自虐めいた冷徹さで見つめてくる青年の瞳を前にして、ルシアはすぐに言葉を返そうとはしなかった。


彼女の唇は、極めて平らで冷たい線を描いていた。理性の残酷な天秤の上において、彼女は道徳の高みからユリアンの行いを「間違っていた」と断じることなどできなかった――


資源が枯れ果て、すべての人間が一蓮托生で深淵へと転落しかけていた極限の中で、壊疽した肉を刃で削ぎ落とすことこそが、生体を維持するための唯一の止血法であったことは理解できる。


だが、その冷徹な理性の下で、自身もまた泥濘の底を這いずり回って生きてきた人間として、裁判すらなき虐殺、地下牢の生体実験、そして辺境の暗がりへと貨幣のごとく売り飛ばされた女たちの姿は、冷たい鋼の針となって、彼女の内に辛うじて残る良知と道徳の境界線を容赦なく刺し貫いていた。


これほどの血生臭さを、平然と受け入れられるはずもない。それは単純な善悪ではなく、ふたつの深淵が互いを引き裂き合っているようなものだった。


ルシアはそのまま、長い間ユリアンの瞳を凝視していた。その瞳は深秋の寒泉のように澄み、底知れぬ複雑な感情が渦巻いていたが、ついに一言も発することはなかった。


やがて彼女は視線を外し、嘆息すら漏らすことなく静かに背を向けた。


痩せ細った頼りなげな身体を再び大きな烏羽色の外套へと潜り込ませ、霜に濡れた落ち葉を踏みしめながら、足音もなく、沸き立つ街の灯りの波へと歩み去っていった。


彼女には、この血にまみれた真実を噛み砕くための時間が必要だった。


この命の軽い乱世において、自らの置かれた危うい境遇も、ひとつの選択が生死を分かつことも、誰よりも弁えている。そして今、彼女は己の胸の中で改めて秤にかけなければならなかった――


途方もない大罪を背負い、地獄の血で両手を染めたこの皇子を、己のすべてを賭けて助けることが、果たして正しき道なのかどうかを。


路地の影の下、両腕に冷たく重い錬金の陶壺と薬草を抱えたまま、ユリアンは遠ざかっていく小さく頼りない背中を追おうとはしなかった。


ただ静かに荒削りの石壁に背を預け、夜風と灯火の境界で揺れる彼女の外套を見送っていた。


彼は痛いほど分かっていた。これは数言の言葉で埋められる溝などではなく、彼女には沈澱させ、天秤にかけ、あの鼻を突く血の匂いを少しずつ呑み下すための時間が必要なのだと。


だが、彼の瞳に焦燥はなく、あの女が背を向けた後に己を裏切るのではないかという恐れも微塵もなかった。


黒髪を押し上げたあの萧条たる秋風の中で、彼はあの小さき顔立ちの下に眠る「骨血」をとうに見抜いていたからだ。


それは同類同士の焼き印――彼女は温室の中で大切に剪定され、人の世の苦しみを知らぬ花などではない。劣悪を極めた運命の中で、歯を食いしばり、血を流しながら、無理やりにでも地を割って生え出た野花なのだ。


真の深淵を見た者だけが、深淵の掟を理解できる。


ユリアンは静かに目を伏せ、深秋の夜霜が己の剣柄へと降り積もるのをただ許した。彼は確信していた。


ルシアはやがて、己の選んだ道を理解するだろうと。彼らの身体には、運命に首を垂れることを拒む、等しく冷たい血が流れているのだから。

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