焦熱地獄の覇者、敗残兵たちのかりそめの安息
千メートルの上空へと立ち昇る暗赤色のきのこ雲が緩慢に拡散し、太古の絶嶺の主戦場は完全なる阿鼻叫喚の煉獄へと成り果てていた。
大地は猛火によって数尺の表土を生きたまま剥ぎ取られ、方円数百メートル圏内には原形を留めた土壌も岩石も一片たりとも存在しない。視界を埋め尽くすのは、粘稠に煮えたぎり、鼻を突く白煙を立ち上らせる赤熱のマグマばかりであった。
かつて無数に折り重なっていた魔獣の骨骸や死士の四肢は、数千度に達する真空の爆轟によって灰すら残さず焼き尽くされ、地表に焼きついた斑模様の硝子結晶へとその姿を変えている。
大気は極限の超高熱によって狂乱の水紋の如く歪み、呼吸を一つ刻むごとに、肺腑を突き刺す焦熱と焼け焦げた鉄錆の味が喉の奥へと滑り込んだ。
ウォン――
マグマの縁に淡い金色の波紋が揺らぎ、カリーナとクレアの身を包み、核爆発級の衝撃から耐え抜いた防御魔術がようやく光の粒子となって霧散する。
白髪の女公爵が纏う純白のマントは、狂暴な熱風に煽られて裾野が黒く焼け焦げ、血糊の滴る長剣が虚しく大地へと垂れ下がっていた。クレアの紫の瞳には未だ爆風による激しい動揺の残滓が揺らめき、胸元を小刻みに上下させている。
彼女たちだけではない。遮蔽物や結界、あるいは砕けた岩の裂け目から続々と姿を現した各陣営の強者たち――セリフィア帝国の重装私兵、ノーランド帝国の精鋭死士、果ては幾多の修羅場を潜り抜けてきた大手傭兵団の古強者たちに至るまで、誰もが全身を灰と泥に汚し、天地を根底から作り変えた破滅の巨大クレーターを前にして戦慄を隠し得ずにいた。
幸いにして、この爆発はすべて純粋な魔力によって構成されたものであり、放射能汚染のような後遺症をもたらす要因は存在しなかった。それゆえに狩猟祭そのものが回復不能な機能不全へ陥る事態だけは免れていた。
この瞬間、三大帝国の主城、各大行省の広場を覆う蒼穹の天幕には、狩猟祭の凄惨な実況を死角なく映し出す巨大な魔法スクリーンが展開され、そのレンズは熔火渦巻く最中央へと焦点を固定していた。
投射映像を通じて戦況を見守る億単位の視線が、寸分の狂いもなく同時に息を呑み、死のような静寂へと呑み込まれる。
深さ数丈に達する、隕石孔のごとき巨大クレーターの真下。
天から降り注ぐ火の粉と黒灰のただ中に、忽然と一本の影が屹立していた。
それは紛れもなく、少年教皇オースであった。
彼が身に纏っていたはずの神聖教袍も、内張りの下着も、果ては身につけていた装飾品の類に至るまで、先刻の極限なる連環爆轟の高熱によって跡形もなく焼き尽くされていた。少年は一糸まとわぬ全裸の姿で、灼熱の熱波と焦土の上に毅然として仁王立ちしていたのである。
未だ稚拙さを残しながらも筋骨の引き締まったその肢体において、切断された頸部から神聖血髄によって紡ぎ出された暗金の肉芽が、悍ましく蠢いて気管と骨を繋ぎ止めている。
紙のように蒼白な肌と相まって、そこにはどこか妖異な怪異じみた雰囲気が漂っていた。
吹き荒ぶ焦熱の風を浴びながら、オースはわずかに顎を上げ、その面容には恥じらいも動揺も欠片ほどすら浮かべず、ただただ身の毛のよだつような冷酷と傲慢のみを湛えていた。
その場に居並ぶ歴戦の強者たち、そして各大帝国の幾億の臣民が息を止めて凝視する中、少年は緩慢に腕を持ち上げ、煤に汚れた細い人差し指を、天を焦がす暗雲の彼方へと極めて尊大に突き出した。
その身振りは雄弁に物語っていた――平原を呑み込み、数万の狩人と魔獣の群れを瞬時に気化させ滅したこの天罰は、すべて自分ひとりの手による神業であると。
「……化け物め……」
「あの規模の爆轟を、生身で耐え抜いて生きていただと……?!」
「ありゃ本当に教皇なのか……それとも名状しがたい狂人なのかよ……?!」
マグマの穴を取り囲む各国の強者たちの喉仏が激しく上下し、その眼底には信じがたい恐怖と動揺が渦巻いていた。ユリアンは佩剣の柄を力任せに握り締め、灰色の瞳を引き攣らせて激しく震えている。
命を塵芥のように見下してきたカリーナですら、その紅い瞳を一瞬にして収縮させていた。
「ぷはあっ!」
その重苦しく、圧殺されるような死寂を破り、クレーターの縁の熱が冷めやらぬ焦土が激しく崩れた。
桃香が全身に汗をびっしょりと滲ませながら土遁の術を解き、両手で地表を掻き分けると、息を切らせながら、抱きかかえていた血塗れのルシアを地底から強引に引きずり出した。
「ゴホッ……ケホッケホッ! ガルクは……どこよ……ッ!」
引きずり出されたばかりのルシアは泥灰を吐き散らし、カリーナの蹴りによって粉砕寸前に追い込まれた下腹部を押さえながら、切迫した様子で周囲を見渡した。
しかし、疲労と殺気に満ちたその深緑の瞳がクレーターの中央を捉えた瞬間、彼女の思考は完全に凍りついた。
視界の中心。先ほどまで首と胴体が泣き別れになりかけていた高貴なる少年教皇が、いまや全天下の数百億の視線を全身に浴びながら、胸を張り、素っ裸の尻を晒して煮えたぎるマグマの縁で神の降臨を気取った無敵のポーズを固めていたのだ。
あろうことか、下半身の風に揺れる青臭い秘部までもが、魔法転播水晶の超高画質ズームによって克明に映し出されている。
「――あんた、何恥ずかしげもなくポーズ決めてんのよぉぉぉぉッ?!」
ルシアの脳内で理性のタガが派手に消し飛んだ。重傷の身である虚脱も劇痛も、あまりに理不尽な光景の激震によって完全に吹き飛ばされた。
彼女は折れた肋骨も、体内の干涸らびた二重回路の激痛すらかなぐり捨て、這うようにして灼熱の焦土を猛ダッシュし、呆然と見守る強者たちの眼前でオースの足元へと飛び込んだ。
次の瞬間、ルシアは血と煤にまみれた両手をなりふり構わず突き出し、少年教皇の股間の最も恥ずべき要所を、全力でがっちりと塞ぎ止めた!
「少しは慎みなさいよこの露出狂教皇! 大陸全土が生中継で見てるのよッ!!」
ルシアは両手を力任せに押し当てて離さず、激痛と羞恥と怒りで小さな顔を真っ赤に染め上げ、嗄れた叫び声を焦土の静寂に木霊させた。
「…………」
その場にいた全員が、完全に言葉を失った。
ほど近い岩壁の影に佇んでいたカリーナとクレアの顔から、冷徹な警戒の仮面が一瞬にして粉々に砕け散った。
クレアの理知的な紫の双眸は限界まで見開かれ、桜色の唇はぽかんと開いたまま、石化の呪詛を食らったかのように硬直していた。その脳裏では何万匹ものゴブリンが狂乱の鐘を乱打しているかのようだ。
そして氷の鬼神と化していたはずのカリーナは、白皙の額に青筋をピキピキと跳ね上がらせ、ルシアのその両手が「寸分の隙間もなく」他人の雄性の肌に密着している光景を、深紅の瞳で狂おしく凝視していた。
剣の柄を握る指関節が激怒と動揺のあまり白く軋み、冷艶な美貌が今にも崩壊せんばかりに引き攣っていた。
ブオォォォォン――――ッ!
極限の荒唐無稽と窒息するような対峙の中、太古の絶嶺の空に重厚で厳かな角笛の音が遠く鳴り響いた。
休戦を告げる鐘が鳴り渡り、初日の狩猟は正式に終幕を告げたのだ。
天空に浮かぶ裁判所の魔法光幕が激しく明滅し、先ほどの巨大爆発によって一掃された全魔獣のスコアを狂乱の勢いで集計、加算していく――
【第一位:オース・聖座陣営(自由同盟含む)、合計獲得スコア:六十万八千四百点】
【第二位:ノーランド・グラフィエン陣営、合計獲得スコア:七千九百点】
絶望的なまでの点差が真紅の数字となって、顔面を蒼白にした強者たちの頭上に突きつけられた。血と炎、そして底抜けの茶番の中で幕を閉じたこの初戦において、絶嶺のすべてを手玉に取った勝者が誰であるかを、残酷なまでに知らしめながら。
遠く山々に木霊する休戦の角笛が響き続ける中、先刻までの荘厳な滅亡の戦場は、完全に軌道を外れた喜劇の様相を呈していた。
「オース! 服だ! 服持って走ってきたぞぉぉぉッ!」
耳を劈く怒号が静寂を切り裂いた。溶岩穴の瓦礫の向こうから、ガルクの燃えるような橙髪が激しい息遣いとともに飛び出してきた。
この歴戦の若き重剣士もまた、衣服がまともに残っていなかった。地底で爆風と超高熱を生身で耐え抜いた結果、その鎧も外衣も粉々に吹き飛んでおり、下半身に辛うじて焼け焦げた襤褸布を二片ぶら下げているだけの、ほぼ全裸に近い露出狂同然の姿であった。
彼はどこぞの死士から引っ剥がしてきたのであろう破れたマントを抱え、筋骨隆々の太腿を剥き出しにしながら、灼熱の砂利を転がるようにしてクレーターの中央へと突撃し、そのマントをオースの頭から強引に巻きつけた。それによって、痙攣しかけていたルシアの両手はようやくその羞恥の拘束から解放された。
「引くぞ! 全員、直ちに防衛線へ後退だ!」
我に返ったユリアンが真っ先に号令を飛ばした。帝国の皇室闘争で泥水を啜ってきた博徒として、好機を逃す愚は犯さない。彼は即座に腕を振り、後方の親衛隊へと絶対の厳命を下した。
重装鎧に身を固めたセリフィア禁衛軍の数十名が、休戦の角笛の庇護を盾に迅速に進出し、異様極まる姿の敗残者たちを盾陣の中核へと厳重に匿う。
各国へと中継される魔法スクリーンの前、そしてカリーナの殺意を煮詰めたような冷徹な視線を浴びながら、血と黒煤に塗れた一行は足を止めることなく、屠殺場と化した焦黒の盆地から脱出を図った。
退却の道中、重苦しい静寂を埋めるのは荒い息遣いと鎧の軋む金属音だけであった。
「……ッ、痛っ……肋骨、確実に三本以上はいってるわね……」
桃香に支えられて揺れる密閉式の軍用担架へと横たえられたルシアは、呼吸を吸い込むたびに胸奥から鋭利な激痛を走らせていた。
彼女は辛うじて動く左手を震わせながら、親衛隊から差し出された【特級生体神経接合修復剤】のコルク栓を抜き、味わう余裕もなく、仄かな緑光を帯びた苦渋の薬液を「ごくっ、ごくっ」と喉の奥へ流し込んだ。
冷徹な薬液が食道を下るや否や、幾千もの細やかな氷の糸となって広がり、カリーナの蹴撃によって粉砕寸前まで痛めつけられた下腹部の激痛を強引に凍結、麻痺させていく。同時に、炭化した外骨骼の奥で壊死しかけていた右腕の筋肉神経を辛うじて宥めてくれた。
だが、干涸らびた川底の如く枯渇した体内の二重回路は、依然として魔力反噬の痙攣を刻み続けており、彼女は瞼を持ち上げることすら億劫なほどの脱力に沈んでいた。
そして隣の担架に目をやれば、ヴァレリーの有様はさらに悲惨を極めていた。
普段は優雅を気取り、毒舌と惰眠を愛するあの女大魔術師が、今や完全に魂を抜かれた泥人形のようにへたり込んでいる。
誇りとしていたワインレッドの長髪は冷汗と血糊でベッタリと枕元にへばりつき、鼻孔の奥には凝固した黒血の塊がへばりつき、精緻な貌には一切の生気がなく、水死体のように青白かった。
指一本動かす力すら残されておらず、半ば閉じた金色の瞳を揺らし、胸をわずかに上下させながら、担架の揺れに合わせて掠れた無意味な呻き声を漏らすのが関の山であった。
初戦が終わったばかりだというのに、スコアボードの頂点に君臨する「第一位の陣営」の実態は、完全に骨の髄まで絞り尽くされ、全滅寸前まで追い込まれた満身創痍の敗残兵たちに過ぎなかった。
高階梯の術式によって編み上げられた三重の蒼き重装結界を潜り抜け、セリフィア帝国第三皇子が誇る豪奢を極めた行軍本陣へと足を踏み入れた時、一行はようやくうなじに張り付いていた死の気配から解放された心地がした。
「急げ! 聖座猊下と閣下方を奥の天幕へお連れしろ! 手荒な真似は一切許さんぞ!」
陣営へ足を踏み入れるや否や、ユリアンが鋭く声を張り上げた。
天幕の内部で控えていた数十名に及ぶ皇室直属の侍女たちと軍医たちが、寸分の乱れもなく、されど一刻を争う素早さで駆け寄ってくる。
空気の中には瞬く間に、上質な安神香と薬草が調合された温かな香りが立ち込めた。侍女たちは湯気を立てる温水の盥、柔らかな絹のタオル、特製の消毒薬露を携え、傷ついた者たちの全身を覆う泥土、煤煙、そして鼻を突く血糊を手際よく拭い去っていく。
ルシアは厚手の毛皮が敷き詰められた寝台へと慎重に横たえられた。熟練の女性軍医の二名が傍らに傅き、極めて繊細な手つきで、高熱によって炭化し皮膚に焼き付いた下着の残骸を鋏で切り分け、セリフィア皇室秘蔵の冷却軟膏を丁寧に塗り重ねていく。
その傍らでは、別の侍女たちが脱魂状態のヴァレリーの顔と髪を優しく拭い、魂を温養する高階溶媒を薫蒸の形でその口鼻へと吸入させていた。
同時に、主天幕の中央に据えられた白金刺繍の長卓には、湯気をもうもうと立ち上らせる最高級の美味佳肴が矢継ぎ早に並べられていった――
表面をこんがりと黄金色に焼き上げ、脂を弾けさせる雪原岩羊の背肉。高純度の魔導香辛料を用いて数時間じっくりと煮込まれた濃厚な牛尾のポタージュ。
麦の芳香を漂わせる焼き立ての白パンの山。そして丁寧に切り分けられた高階魔獣の燻製肉と、温められた果蜜のチーズ。
それらはただ腹を満たすためだけのものではなく、穏やかで活性に満ちた魔能を豊富に宿しており、地獄の縁から這い戻ってきた生存者たちの、麻痺しきった五感を揺り起こすように魅惑的な芳香を漂わせていた。
この狩猟祭の初戦は、惨烈という言葉ですら生ぬるいものであった。
天幕の中を見渡せば、オースの陣営は肉体的な機能においても魔導戦術の観点においても、徹底的に骨の髄まで削り取られ、活動限界を迎えている――ヴァレリーは魔力枯渇により昏睡に沈み、オースの首の肉芽は痛々しく再生の途上にあり、ルシアの体内の二重回路は過負荷により炭化して肋骨は折れ、ガルクも桃香も傷だらけであった。
だが、それでも。
頭上の天幕に燦然と輝くあの血のように紅い光幕こそが、この命知らずの亡命者たちにとって最大の防壁となっていた。
六十万八千四百点。
それは数百に及ぶ高階魔獣と無数の死士の骨血を生贄に捧げ、微小な核爆発のごとき真空の劫火によって力任せに叩き出した、常軌を逸した数値であった。
その圧倒的な点差は不可侵の免罪符となり、天幕の中で地獄から生還した敗残兵たちに、張り詰めた神経の底から貪り食うような安堵をもたらしていた。
少なくとも向こう数日の間、この絶対の玉座にスコアで挑みかかれる陣営など存在しない。彼らはようやく安心して瞳を閉じ、湯気を立てる食事と皇室の秘薬によって、この擦り切れた肉体を癒やすことができるのだ。
肉湯の湯気が安神香の煙と混ざり合って漂う中、ガルクは脂の滴る岩羊の肉を両手で引き裂き、口いっぱいに頬張りながら、寝台に凭れて薬湯を啜る黒髪の女工匠へと視線を投げかけた。
「アネさん、これからどうすんだ? あの胡散臭い皇子と契約しちまったんだろ。俺はあんたに命を拾われた身だからな、火の中だろうが水の中だろうが最後まで付き合うぜ。だけどよ……撤退の時、あっちから飛んできた殺気、あんたも感じたろ? あんたの『お嫁さん』二人……この山嶺にいるイカれた古竜や魔獣の群れより、何千倍も厄介そうだぜ」
ガルクのうなじの産毛は、未だに不気味に逆立ったままであった。
審判庭の血みどろの粛清を幾度となく潜り抜けてきた天才重剣士として、殺気に対する嗅覚は骨の髄まで染み付いている。
だが、あの撤退の瞬間にカリーナとクレアから放たれた凄まじい重圧は、もはや闘志などと呼べる生易しいものではなかった。
己の逆鱗に触れられ、太古の絶嶺のすべてをあらゆる生命もろとも粉微塵にすり潰さんとする、凶暴極まりない嫉妬と憤怒の咆哮であった。
カリーナは本気で、常軌を逸した嫉妬に狂っている。
たとえあの女の記憶の深淵に冷たい霧が立ち込めていようと、過去のあらゆる温もりと逢瀬を忘却していようと、帝国の頂に君臨する強者としての本能が、残された魂の底で病的なまでに叫び続けているのだ――
目の前の小柄で華奢な、骨の髄まで反骨精神に満ちた黒髪の工匠は、絶対に手放してはならず、たとえ雷霆の如き暴力で全身の骨をへし折ってでも、己の手のひらに握り潰しておくべき至宝であると。
その結果がこれだ。血塗れの敗残兵どもが、各大帝国の魔法中継が捉える幾億の視線の下で、あ傲岸不遜な女公爵の「絶対の禁忌」である女を、堂々とセリフィア第三皇子の防衛拠点へと連れ去ってしまったのだ。
これはもはや陣営による後継者争いの領分をとうに越えている。ノーランド帝国最強の武力を誇る「グラフィエン公爵家」、そして帝国の経済を牛耳る富裕無双の「シルヴィア侯爵家」を、根底から完全に敵に回したに等しかった。
「……私が好んでこうなったとでも思うわけ?」
ルシアは空になった薬碗を寝台の脇机へと静かに置き、薬草の苦味を含んだ溜息を深く吐き出した。胸を動かすたびに折れた肋骨が針のように痛んだが、肉体の傷よりも、カリーナの存在が放つ精神的な威圧感のほうが遥かに致命的であった。
自分がどれほどの火種を抱え込んだかなど、彼女自身が一番よく理解している。
だが、この選択肢には最初から逃げ道などなかったのだ。
あの場でわずかでも妥協を見せるか、カリーナの手中に落ちていれば、あの歪んだ支配欲を滾らせる白髪の女公爵は、真っ先にルシアの体内の二重回路を完全に封印し、光の届かぬ冷たい鉄籠に押し込めて北境の公爵領へと連れ去ったに違いない。
その先に待ち受けているのは、温かな療養でも昔日の愛の再燃でもない――逃げ場のない軟禁、冷徹な鎖、そしてカリーナによる暴風雨の如く果てしない、狂気味を帯びた独占欲の発露と身勝手な略奪だけだ。
あの狂女は飢えた凶獣のごとく、昼夜を分かたず自分を組み敷き、骨の髄まで貪り尽くすだろう。ルシアを完全に我が物とし、その空白となった記憶の断片をすべて繋ぎ合わせるまで、決して解放することはない。
その光景を想像するだけで、ルシアは未だ癒えぬ腰と太腿の奥深くに、骨折以上の戦慄と脱力を覚えずにはいられなかった。
「あの狂女の手に落ちたら、私は残りの人生を二度とベッドから降りられずに終えることになるわ」
ルシアはズキズキと痛むこめかみを指先で揉みほぐし、白く乾いた唇に自嘲混じりの冷笑を浮かべた。影の差した墨緑の瞳の奥底に、再び鋭利で不敵な光が宿る。
「どのみち崖っぷちに追い詰められているのなら、少なくともユリアンの手元にいる方が、引き金を引く権利をこの手で握っていられる。まずは傷を癒やして、あの帝国の狂犬どもを片付けるわよ……カリーナとの修羅場については、この狩場の血が干からびた後で、肋骨をへし折られた分のツケをきっちり払わせてやるわ」




