膠着する戦況と、余儀なき交渉
狩猟祭の幕開けからそれほど刻を経ぬ主戦場は、いまや視界の及ぶ限り、緑みを帯びた濃濁たる白煙に塗り潰されていた。
幾千もの魔獣の骨肉が高熱によって蒸発した焦臭。そこに刺客たちの甲冑に塗布された猛毒の油膜が焼き焦がされた、ねっとりと甘い死の悪臭が絡みつく。
ぬかるんだ凍土はとうに煮え滾る暗赤色の泥濘へと成り果て、断ち割られた巨大な肋骨、炭化した刺客の四肢、そして黒ずんだ内臓が、腐泥のように無造作に折り重なっていた。
足を踏み下ろすたび、泥の下で押し潰された骨髄が弾け飛ぶ、生々しく滑った音が響く。
その焦土と死寂の中心に、純白の機械騎士【ベテルギウス】が屹立していた。
かつては優美で傷一つなかった外殻装甲は、いまや黒く凝固した竜血とミンチ状の肉片にまみれ、放熱ルーバーの隙間にすら断裂した魔獣の筋膜が焼きついている。
その巨大な胸甲は小刻みに上下し、内部で酷く歪んだ真鍮の伝動シャフトが、噛み合わせの焼き付き寸前を告げる「カチャ、カチャ」という耳障りな摩擦音を立てていた。
高温の冷却液は煤けた機械油と混ざり合い、鋼鉄の関節から灼熱の泥水へと滴り落ちては、鼻を刺す青い煙を立ち上らせている。
そして、ベテルギウスの右肩甲に伏すルシアの無惨な姿は、その足元の鋼鉄の巨躯に勝るとも劣らなかった。
職人としての防塵マントは、先刻の無差別な死線による蹂躙によってすでに幾筋もの黒い襤褸切れと化し、裾には半ば凝固した黒血の塊がぶら下がっている。
右腕を覆う外骨骼錬金ガントレットは過負荷の熱が冷却されたことで無残に変形し、合金の関節は完全に噛み合ってロックされていた。
暗赤色に変色した金属は内張りの布地を炭化させ、水膨れと血痕に塗れた彼女の腕の生肉に焼き付いている。神経がわずかに動くだけで、皮膚が引き裂かれる激痛が走る。
吹き荒ぶ烈風が、汗と返り血と灰塵で一束ごとに固まった黒髪を乱雑に煽り立てる。
もともと小柄で華奢なその顔面には一滴の血色もなく、まるで氷室から引きずり出された死体のように蒼白だった。ひび割れた口元には、魔力の酷使による逆流で吐き散らした暗赤色の血痕がこびりついている。
激しく上下する肩。胸が肺胞の熱傷に喘ぐたび、乾いた掠れ音が漏れる――体力はとっくに断崖の縁を踏み外しており、枯渇した二重回路は針で刺し貫かれるような痙攣痛を刻み続けていた。
薄い身体は、ほんのわずかな突風が吹くだけで倒れ伏してしまいそうに見える。
だが、その瞳の奥の焔だけは、決して消えてはいなかった。
煤けた前髪の隙間から覗く深緑の双眸には、敗残者のそれたる虚脱など微塵もない。それは極限の死地において極限まで研ぎ澄まされた、骨を断つ鋼の刃そのものだった。
どこまでも凶暴で、厭世と冷酷な気迫に満ちた強烈な闘志――たとえ右手が潰れようと、魔力が底を突こうと、過負荷で次の瞬間に心臓が止まろうと。
目の前に現れた人の皮を被った道化がわずかでも牙を覗かせれば、爪で引き裂き、残った骨をぶつけてでも、相手の頸動脈を食いちぎる覚悟がそこにはあった。
焦げ爛れた肉片と鼻を突く白煙が立ち込める静寂の中、細骨と鉄錆の混ざった熱波を巻き上げて微風が吹き抜ける。
その実体化せんばかりの殺気を浴びながら、青年は慎重に半歩前へと足を踏み出した。両手を掲げた降伏の姿勢のまま、貴族特有の気取りと、命知らずの狂喜が入り混じった奇妙な笑みを浮かべている。
「改めて自己紹介を――セリフィア帝国第三皇子、ユリアン・サン・ローランだ。もっとも、俺が野垂れ死ぬのを待ち望んでいる身内どもの目には、『余計な出来損ない』か『使い捨ての囮』としか映っていないだろうがね」
彼が纏う漆黒の狩猟装束は、先ほどの前転で泥まみれになっていたが、襟の折り返しに覗く金糸の刺繍は、彼がかの強大なる帝国の血筋であることを雄弁に物語っていた。
「……皇子?」
ルシアが口を開く。その声は、粗野な木肌を紙やすりで擦り合わせたかのように嗄れ、溢れ出る鉄の味を孕んでいた。
彼女は虚空に向けた指先を戻そうとすらしなかった。浮遊する手札は黄ばんだ頁をパラパラと繰り、先ほど召喚し直したばかりの魔力水晶もあらかた消耗し尽くし、最後の一粒となった微弱な結晶が、手首の傍らで頑なに冷たい青光を放ち続けている。
「馴れ馴れしく近づくんじゃない。あのオンボロ馬車をわざと私の射線上に誘導して、自分のお尻拭きに私を利用したくせに……よくもまあ、面の皮厚く結託なんぞ持ちかけてこれたものね」
落ち窪んだ眼窩の奥で殺気が跳ね上がり、呼応するようにベテルギウスの胸甲深部から苛烈な金属の唸りが軋んだ。
「三言あげる。何か価値のある言葉を吐き出しなさい。さもなくば、残ったこの一発の魔砲を、その尊いお口の中に突っ込んであげるわ」
剥き出しの脅迫を前に、ユリアンの喉仏が上下した。
いつでも刺し違える覚悟を宿した小柄な少女を見据え、その眼底に怒りはなく、賭徒特有の熱狂的な光がむしろ昏く輝きを増す。
「話が早くて助かるよ、ルシア嬢――それじゃあ単刀直入にいこう。言いたいことは山ほどあるんでね!」
ユリアンの顔から軽薄な笑みが完全に消え失せ、灰色の瞳が硝煙の中で氷のように沈み込んだ。
「一つ目:この狩猟祭において、軍権を握る二人の兄上から俺の『必殺令』が出ている。俺はこの嶺で死ぬ筋書きだ。対してあんた方は、全陣営のトップを独走するスコアを毟り取ったくせに、補給を削ぎ落とされた隙間風だらけのボロ野営地で夜を迎えなきゃならない。日没と同時に、群がるハイエナどもに生きたまま解体される運命だ」
彼は懐から帝国の金漆印が押された羊皮紙の公文書を乱暴に引き抜き、虚空へと広げてみせた。
「二つ目:大会の外交通商規約に基づき、俺とあんた方で正式な同盟協定を結べばスコアは共有され、全隊から毎日たった一名の『主将』が出勤署名を行えば事足りる。俺が皇族たる主将として、教皇の代わりに出勤してやるよ。そして俺の重装禁衛が誇る防衛拠点で、その首を失ったばかりの教皇猊下と、空で血反吐を吐きかけている大魔術師を匿ってやる。最高規格の防壁の中で、残りの六日間をまるまる眠って過ごさせてやるさ。誰一人としてケチはつけさせない!」
「そして、三つ目――」
ユリアンは泥濘む焦骨と血の海を踏み締め、一歩詰め寄った。すでに自身の署名が刻まれ、中央が空白のままの帝国特権宣誓書を高く掲げ、その灰色の瞳でルシアの深緑を射抜く。
「対価として、狩場の中で誰にも悟らせない二つの『事故』を偽装し、俺を棺桶送りにしようとしている二人の兄上を、手勢もろとも物理的に帳簿から消し去ってほしい! これは俺の命と、将来手にする皇権を担保にした白紙の手形だ――この絶嶺を出た暁には、セリフィア帝国のあらゆる資源、最高峰の錬金鉱脈、軍需部品、魔鉱……あんたが口にしたものすべて、派閥の総力を挙げて差し出そう!」
吹き抜ける山風が、ユリアンの掲げる契約書を激しく羽ばたかせる。
ルシアはすぐには答えなかった。
ベテルギウスの熱い肩甲に伏したまま、細められた深緑の双眸で、焦げた血肉と上質な羊皮紙のインクが混ざり合う異臭の中、我が身のすべてを凶器たる自身に賭け狂う帝国の狂人を冷ややかに見下ろしていた。
太古の絶嶺を吹き抜ける冷徹な風が、岩壁の間で甲高い音を立てている。
眼前でユリアン・サン・ローランと名乗る青年は、乱れた淡い青の短髪を揺らし、灰色の瞳に死線を踏み越える賭徒の光を宿していた。
ルシアはその帝国の権威たる羊皮紙に視線をくれず、ユリアンの肩越しに、数十メートル後方の死角へと瞳を向けた。
そこの光景は、眼前の焦土よりも遥かに惨烈を極めていた。
すでに上空から墜落するように降下したヴァレリーは、ガルクの屈強な腕に半ば抱きかかえられるようにして支えられている。
いつだって毒舌で眠たげなあの女大魔術師が、いまや死人のように土気色の顔をし、ワインレッドの長髪は冷汗で額に張り付いていた。鼻腔の奥から溢れ出た暗黒の血泡が、顎を伝って法衣の胸元を汚している。
重く垂れた瞼。魔力回路の枯渇による神経の激しい痙攣が全身を震わせ、杖を握る指先すら白く脱力していた。
そしてガルクの足元の泥濘では、オースが震える両手で自身の生首を、血の滴る切断面へと必死に押し当てていた。
神聖血髄から生え出る暗金の肉芽が、狂乱した寄生虫のように気管と脊椎を貪り食い、無理やりに縫合し合っている。少年教皇はその激痛に耐えかねて瀕死の海老のように背を丸め、唇を紫色に変色させ、喉からは空気の漏れる「カ……カハッ……」という喘鳴を絞り出すのがやっとだった。立ち上がることすら敵わない。
そして桃香とガルク。二人の革鎧はすでに暗殺者の毒血と魔獣の粘液に濡れそぼり、激しく肩で息をしながらも、短刃と重剣の切っ先だけは依然としてユリアンへ正確に向けられていた。
全員が限界を迎えている。
ルシアの脳内にある歯車が、限界を超えた速度で激しく回転する。前世で社畜として、そして生死の境で泥水を啜ってきた彼女は痛感していた。
感傷に浸る猶予などない。眼前に突きつけられているのは冷酷な選択問題であり、判断に許された時間は三十秒すらない。
平原を覆う死線は縮まりつつある――
先刻のプリズム・バリアは周囲百メートルを一掃したとはいえ、天を衝くほどの魔力反応は暗闇の灯台と同じだ。周辺の偵察兵、各大手陣営の斥候、血の匂いに惹かれた飢えた魔獣どもが、五分も経たずに禿鷹のように群がってくる。
退路はあるか?
もしユリアンを拒絶した場合、誰を頼れるというのか?
脳裏に真っ先に浮かんだのはカリーナの姿だった。あの白髪赤瞳の冷徹で剛腕な女公爵。
もし自分一人を庇護するだけなら、これまでの誼もあり、カリーナは喜んで自分を手元に引き入れたがるだろう。だが、それはあくまで「自分一人」の話だ。
それに……カリーナが背負っているのはノーランド帝国だ。
いまやノーランドの上層部は、政治的な思惑から教皇オースを灰燼に帰したがっている。首と胴体が泣き別れになり、異質の神聖血髄を流す教皇をカリーナの陣営へ連れて行くなど、避難どころか自らオースをノーランド審判庭の断頭台へ差し出すようなものだ。
カリーナがどれほど自分を評価していようと、帝国公爵の身でありながら、国家反逆の咎を背負ってまで敵視される教皇を匿うはずがない。
その道は、完全に塞がれている。
ユリアンを蹴れば、この満身創痍の敗残兵どもを引き摺り、意識を失ったヴァレリーを抱え、いつ首が落ちてもおかしくないオースを連れて、補給を削ぎ落とされた隙間風だらけのボロ野営地へ這って帰るしかない。そんな場所で、初夜の暗殺部隊の包囲に耐えられるはずがなかった。
ヴァレリーの魔力は根源を傷つけるほど涸れ果てており、高階梯の魂魄温養薬が手に入らなければ、いつ廃人になってもおかしくない。
オースの肉芽にしても、無菌で堅牢な防壁がなければ、いつ忍び寄る死士にその息根を止められるか分かったものではないのだ。
オースの命に何の保障もなく、ヴァレリーが完全に戦闘力を失ったこの絶境において――彼女には、初めから第三の選択肢など残されていなかった。
ルシアの双眸に瞬時に走った利害の天秤と冷徹な決断を見透かしたように、ユリアンは自嘲の笑みを浮かべ、さらに札を曝け出した。
「ルシア嬢、俺の意図を疑う必要も、俺がどこぞのギルドから差し向けられた回し者じゃないかと勘ぐる必要もない。なぜ俺が、あんたに吹き飛ばされる危険を冒してまで接触したか分かるかい?」
ユリアンは彼女の射抜くような冷徹な視線を受け止め、低く確信に満ちた声で告げた。
「この狩猟祭において、名門の私兵は家に縛られ、大手傭兵団の背後には三大帝国の財閥が出資している。手に血を塗った連中の背中には、ことごとく操り糸がついているんだよ。だが、あんただけは違う――あんただけが純然たる『自由陣営』だ。この絶嶺の全域を見渡しても、老獪な傭兵以上の異常な破壊力を誇り、いざとなれば理不尽極まりない砲火を撒き散らし、それでいて三大帝国の派閥にまつわる政治的立場を一切持たない怪物など……あんた一人しかいない」
青年は灰色の瞳をわずかに細め、その狂気じみた熱情の中に、冴え渡る正気を覗かせた。
「他を頼れば、いつ背後のスポンサーに寝首を掻かれるか分かったもんじゃない。だが、あんたとなら利害の一致だけで済む。あんたは俺にとって、汚れ仕事を完璧に片付けてくれる、この山嶺で唯一の純粋で扱いやすい最高の凶刀なんだよ」
受け入れれば虎の尾を踏み、狂ったセリフィア皇子のために狩場で命を張ることになる。
拒絶すればその場で緩慢な死を待ち、今夜のうちにヴァレリーとオースが八つ裂きにされるのを眺めることになる。
猶予の秒読みは終わった。
ルシアは硫黄と血の匂いが混ざり合う凍てつく大気を深く吸い込んだ。黒々とした睫毛の奥に沈む深緑の双眸から、一切の躊躇いと警戒が瞬時に削ぎ落とされ、研ぎ澄まされた冷酷な決断へと切り替わる。
背後の二つの命を守り切る。
たとえ足を踏み入れる先が新たな権力闘争の肉挽き機であろうとも、主導権だけはこの手で毟り取らなければならない。
「白紙の手形は後で受け取ってあげるわ、ユリアン殿下」
ルシアは冷たく言い放った。やすりで粗木を擦るような嗄れ声が、重苦しい鉄錆の匂いを撒き散らす。
「いいこと、同盟は受けてあげる。けれど、手付金はいまこの場で支払ってもらうわよ。値引きの余地は一切なし」
ユリアンの表情がわずかに強張り、灰色の瞳に驚きが走った直後、それは狂喜へと塗り替えられた。
だがルシアは、彼が口を開く隙すら与えない。
身下のベテルギウスの胸甲が乱暴な排気音を轟かせ、灼熱の白煙がユリアンの足元へ叩きつけられ、彼を無理やりに後退させた。
黒髪の女は血に汚れた顎をしゃくり、背後の仲間たちを指し示す。その言葉は機関銃のように容赦がない。
「第一に、直ちに貴方の親衛隊を動かし、最高規格の密閉防護担架でヴァレリーとオースを貴方の本陣へ運び込みなさい。セリフィア皇室が秘蔵する最高峰の造血剤、超高純度の魂魄温養香を用意すること。天幕の外周には最低でも三重の重装防護結界を展開しなさい。一つでも欠けていれば、この協定はその場で破棄よ」
ルシアは錬金ガントレットを嵌めた右手を持ち上げ、鉤爪めいた人差し指をユリアンの眉間へと突きつけた。
「第二に、大会裁判所へ提出する同盟文書の主将欄には、ユリアン・サン・ローラン、貴方の名をきっちり刻みなさい。オースの代わりに出勤し、もし裁判所が教皇側の規定違反を宣告したなら……真っ先に貴方の骨を軋らせてあげるわ」
言い終えるや否や、ルシアの無事な左手が虚空で翻り、袖口に隠されていた携帯用彫刻刀で荒々しく刻みつけられた羊皮紙の目録が、「バシィッ!」とユリアンの胸元へ叩きつけられた。
「第三に、二時間以内に、これらを私の目の前へ揃えなさい――」
ルシアの声音は氷のように硬く、一語一語が雹のように降り注ぐ。
「『特級生体神経接合修復剤』を二本、『高純度霊魂回路冷却溶媒』を四組。加えて、未充填の高純度火属性魔力原石を最低十二個、そして帝国軍規格の錬金術式刻印の消耗部材を一箱丸ごと」
ユリアンは煤と血の手形がついた目録へ視線を落とし、その目元を痙攣させた。帝国の皇子たる彼には一目で理解できた。ただの後方補給物資などではない。軍務省が厳しく目を光らせる、戦略級の禁制品ばかりだった。
「ルシア嬢、魔力原石や軍規格の刻印材ならまだしも……神経接合剤と回路冷却溶媒は、帝国の精鋭魔術師が致命的な過負荷に陥った際にのみ配給される特級軍需品だ。いくら俺の配額といえど……」
「能書きを垂れるんじゃないわよ」
ルシアの眼差しは冷酷を極め、高熱の冷却によって完全に噛み合い、炭化して黒ずんだ右腕の外骨骼ガントレットが力なく垂れ下がっている。それが、ユリアンの言い訳を叩き潰す現実の証拠だった。
「ガントレットもベテルギウスも私の術式による創造物よ。魔力を再構築して召喚を解除しさえすれば、何一つ欠損のない完全な状態で呼び直せる。けれど、私の右腕の生体神経は先ほどの逆流で焼け爛れ、体内の二重回路も野火に焼かれた荒野のように干涸らびているのよ。神経修復剤で生身の神経を繋ぎ止め、冷却溶媒で回路の暴走を鎮めない限り、手袋や機体を再召喚したところで次の戦闘に耐え切れるはずがないでしょう」
彼女は息を吸い込み、枯渇しかけた体内の微弱な魔力を浮遊する手札へと注ぎ込んだ。かつて幾度となく展開された予備の魔力水晶は、いまや手首の脇で最後の一粒だけが頑なに青白い光を放っている。
「私の魔力回路を修復しないことには、基本的な予備水晶の補充すら覚束ないのよ。右腕の神経が壊死し、体内の回路が焼き切れた廃人を手ぶらで放り出して、重武装した二人の兄上を事故に見せかけて暗殺しろとでも? あんたの脳みそは魔獣にでも蹴飛ばされたの?」
静寂。
吹き荒れる焦熱の風が死地を撫で、ベテルギウスの装甲に残された竜血の残滓を揺らす。
「私を政治的立場の縛りがない凶刀だと見込んだのなら、砥石と手付金をきっちり払いなさいな」
ルシアは高みから彼を見下ろし、その双眸の奥に凶暴なまでの冷気を渦巻かせた。
「仲間を安全に貴方の防衛拠点へ送り届けなさい。そうすれば、あの二匹の噛みつき犬どもを、誰にも暴けない事故死に仕立て上げてあげる。もし一つでも品が欠けていたり、天幕の中で妙な真似を企んでいると分かったなら……第二層の狩場で、次の超圧縮魔砲をその口にぶち込んでやるからそう思いなさい」
ユリアンは血痕の残る目録を握り締め、その指の関節を青白く軋らせた。
目の前で全身を黒煙に汚し、明らかに力尽きかけていながらも、圧倒的な殺気を放ち続ける黒髪の工匠。青年の息が完全に止まる。
理解したのだ。この少女は、提示された条件に釣られたのではない。
わずか数十秒の間に己の生理的限界と戦力差を冷徹に割り出し、仲間のために下した最も冷酷で、最も致命的な豪賭なのだと。
「……ハ、ハハハハ! さすがは教皇に選ばれた怪物だ」
一瞬の戦慄を通り抜けたユリアンの口元が、総取りを決めた博徒の凶悪な笑みへと歪んだ。
彼は躊躇いなく自身の人差し指を噛み破り、滲み出た鮮血を宣誓書へと叩きつけるように押し付けた。そして契約書を、鮮やかにベテルギウスの肩甲へと放り投げる。
「交渉成立だ、ルシア嬢! 一時間以内だ、要求された接合剤も冷却溶媒も原石も、奪い取ってでもあんたの作業机へ叩きつけてやる!」
宙を舞った契約書を、ベテルギウスの血塗られた鋼鉄の籠手が正確に挟み取った。
指針のように鋭い契約の縁を見据え、ルシアは疲労に満ちた深緑の瞳を静かに伏せた。その唇の端が、氷のように研ぎ澄まされた弧を描く。
「……手勢の足を速めさせなさい。ぐずぐずしていると、我慢できずに貴方で試し斬りをしてしまいそうだわ」




