↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
重度カードゲーマー女子、過労死転生した異世界でも恋愛をプレミして詰んだ件  作者: 酣睡


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

78/129

初戦初日、おたくの財務責任者を吹き飛ばしたのはわざとじゃない

警告の甲高い叫喚を最初に上げたのは、人類の角笛ではなかった。何らかの大型重魔導弩(クロスボウ)が大気を切り裂いたことによる、耳を劈く破裂音だった。


山裾を包む空気は、頭痛を覚えるほど急激に張り詰めた。先刻まで隊列を整え、怒号を飛ばし合っていた各国の大軍が一瞬にして死の静寂へと沈む。


通り抜ける晩秋の寒風がカラマツ林を揺らし、まるで刃が岩肌を擦るような鋭い擦過音だけを響かせていた。


広大な開けた荒野は、極めて濃厚で、実体すら持ちそうな殺気に塗り込められている。胸を圧迫され、息を吸い込むたびに氷の破片を飲み込んでいるかのように喉が痛んだ。


遥か彼方、太古の絶嶺の第一断崖を覆う濃霧が、何条も打ち上げられた信号魔火によって無残に引き裂かれた。


手柄を焦った名門の先鋒部隊――正式な開戦の鐘が鳴り響く直前にもかかわらず、その強欲を抑えきれず、高価な付魔装備を恃みに越境し、獣を誘き出すための「血髄魔弾」数発を中腹の洞穴群の深部へと撃ち込んだのだ。


次の瞬間、山嶺の骨組みそのものが、重く低い悲鳴を上げたかのようだった。


足底の奥深くから、大地が微かに震え始める。直後、暴虐と飢餓、そして無数の重なり合う咆哮が入り混じった絶叫が山の霧の深部から轟然と炸裂した。


崩れ落ちる巨石や薙ぎ倒された大木を巻き込み、千メートルの高みから立ち上る黒塵の奔流となって、雪崩のように山裾の群衆へと雪崩れ落ちてくる。


それは単なる野獣の群れなどではない。血と魔力によって強制的に活性化され、限界まで膨れ上がった魔獣の暴走(スタンピード)だった。


「……戦功のことしか頭にねえのかよ、あの馬鹿どもは」


ガルクは背負った無骨で重厚な大剣の柄に片手をかけ、手の甲の青筋を浮き上がらせていた。


オレンジ色の髪の少年に、普段の飄々とした軽薄さは微塵もない。引き締まった顎のラインを伝って冷や汗が泥濘の凍土へと滴り落ちる。奥歯を噛み締め、その視線は鷹のように空を覆い尽くす黒い影を射抜いていた。


天賦の才を持つ彼でさえ、天災級の暴虐な生命の濁流を前にしては、神経を千切れんばかりに張り詰めざるを得なかった。


オースは相変わらず雑毛馬の傍らに立ち尽くしていた。


巻き起こる突風に白い法衣が激しく翻る。吹き乱れる鮮やかな金髪の下、いつもの無垢で愛嬌のある笑みは完全に消え失せていた。


その澄んだ深邃な碧眼の奥で、無数の因果と生死を推し量る冷徹な微光が目まぐるしく巡る。


冷や汗が無言のままうなじの襟元を濡らしていたが、彼は振り返りもせず、ただ微かに横顔を向け、奥歯を噛み締めながら吐き捨てた。


「誘導信号の弾道がズレている……衝撃波がそのまま第一平原の風上側を薙ぎ払うぞ。ルシア、あの先鋒どもは獲物を奪いに行ったんじゃない、囮にされたんだ……山ひとつの魔獣が、根こそぎ叩き起こされた」


ルシアは何も答えなかった。


彼女は腕の中に抱えた重く堅牢な刻刻をきつく抱きしめていた。金属装甲の冷たさが薄い衣服を通して皮膚へと染み込むが、背筋から吹き出す粘りつくような冷や汗を抑えることはできない。


額の黒髪は汗に濡れて青白い頬に張り付き、その深緑の瞳が吹き荒れる風の中で鋭利に細められる。


近すぎる。


濃厚な硫黄と腐肉、そして狂乱した魔力が混じり合う生臭い悪臭が、突風に乗って鼻腔へと無理やりねじ込まれ、吐き気を催すほど強烈に漂っていた。


跨る小頭地牛(ちびじぎゅう)は怯えた低い鳴き声を上げ、短く太い四肢を泥深くに沈めて本能的に後退しようとするが、ルシアはその手綱を力任せに引き絞って逃がさない。


見渡せば、周囲を取り囲む三大帝国の正規軍も貴族の私兵たちも、一様に顔面を蒼白に染めていた。


セリフィアの普段は優雅を気取る騎士たちが慌てふためいて細剣を抜き放ち、温潤な魔晶装甲は戦慄のあまり乱れた光を明滅させている。


バルトークの狩人たちは苛立ち暴れる鉄甲の駄獣を狂ったように鞭打ち、隊列の間には甲冑の衝突音と荒い呼気ばかりが満ちていた。


この、間もなく阿鼻叫喚の煉獄へと変わる開けた土地において、矮小な人間など嵐の中で今にも踏み砕かれようとする枯葉に過ぎない。


腕の中の刻刻が、極めて微弱ながら超高頻度の歯車噛合音を立てた。暗金色の硝子眼が目まぐるしく回転し、崩壊寸前の重力と風圧のパラメータを彼女の脳裏へとフィードバックしてくる。


ルシアの爪が金属の翼の隙間に深く食い込み、体内にある二重回路は外界の暴走する魔力圧に晒されて激しく引き攣り、灼熱を帯びた。


来る。


地獄への門は、誰一人として息をつく猶予すら与えず、舞い散る黒雪と泥流の中で轟然と開け放たれた。


やがて、後方の監視望楼から、大気を引き裂くように長く物悲しい角笛の音が響き渡った。


それは狩猟祭の正式な幕開けを告げる合図だった。だが、千メートルの断崖から轟く咆哮とともに雪崩れ落ちてくる黒濁の天幕を前に、平原を埋め尽くす三大帝国の正規軍も、貴族の私兵も、命知らずの傭兵たちも、その瞬間、一様に凍りついたように立ち尽くした。


抜きかけた剣は鞘口で止まり、数万の隊列は圧倒的な恐怖に呑まれて、ただの一歩すら踏み出せない。


「お前には期待してない。泥穴にでも潜り込んでろ」


ルシアは泡を吹いてへたり込みそうになっていた小頭地牛の背を強く叩き、華奢な爪先でその背を乱暴に蹴り飛ばすと同時に、腕に抱えていたずっしりと重い刻刻を前方へと放り投げた!


深緑の瞳に冷徹な光が弾け、体内の二重回路が過負荷の並列共鳴を果たす。空中に掌を薙ぐと、精密に噛み合う重畳錬金陣が虚空にパッと展開され、刻刻はその術式核へと頭から突っ込んだ。


ウォン――ッ!


重苦しい金属の軋みなどない。ただ極限まで尖った機械の鋭い咆哮が上がった! 


猛烈な風圧と蒸気が魔方陣から炸裂し、身長およそ二メートル、黄銅の歯車骨格に純白無垢の装甲を隙間なく嵌め込んだ人型機械騎士が虚空を破って降臨した――【天刻の騎士・ベテルギウス】!


その機体には重機特有の鈍重さは欠片もない。極限まで引き締まった輪郭は鋭利そのもので、外装の純白装甲は冷徹な磁器のような光沢を放ち、黄銅の関節が噴き出す蒸気とともに急速に噛み合いロックされる。


着地の刹那、ベテルギウスの左の甲冑腕が風を切り裂いて横薙ぎに繰り出され、雑毛馬の傍らに立っていたオースを正確無比に脇下の防護死角へと掬い上げた。


同時に、ルシアの細身の影が黒燕のように宙を舞い、純白の重装甲に覆われたベテルギウスの右肩へと軽やかに降り立つ。


「しっかり掴まってなさい、教皇猊下!」


ドォンッ!


ベテルギウスの足底にある噴射回路から、目も眩むような蒼藍の烈火が一気に噴き上がった! 


二メートルの純白の機影は泥濘んだ凍土の抵抗など完全に無視し、動と静の切り替えの中で真っ直ぐな白の残影を引き連れ、凍土を砕きながら、まるで研ぎ澄まされたメスのように先陣を切って正面から押し寄せる魔獣の濁流のど真ん中へと突っ込んでいった!


その純白の影が大気を引き裂く鋭鳴を響かせながら最前線へと突き刺さるに至ってようやく、後方の豪奢な名門将領たちや各国の暗殺部隊は呆然自失から我を取り戻し、その表情を一変させた。


「不味い……! あの女、オースを連れて行きやがったぞ!?」


「止めろ! 獣潮の懐に突っ込んでいくつもりか!?」


各勢力の指揮官たちが怒号とともに喚き散らす。


大軍が足並みを揃えて進軍する混戦であれば、流れ弾や踏みつけ、あるいは背後からの狙撃など、目立たずにオースを始末する手段はいくらでもあった。


だが今、あの黒髪の女は純白の機械騎士を駆り、視界すら奪われる魔獣の群れの核心部へとオースを無理やり連れ去ってしまったのだ!


オースを殺したければ、刺客たち自身がこの底なしのミンチ機へとその身を晒さなければならない。綿密に張り巡らせたはずの暗殺の盤面は、その圧倒的な速度によって無残にも粉砕された!


吹き付ける生臭い突風が、ルシアの額の黒髪を狂おしく乱す。


ベテルギウスの腕に抱えられたオースは顔を上げ、風に乱れる金髪の隙間から、その澄んだ深遠な碧眼を肩の上の黒髪の少女の視線と素早く交錯させた。


視線が交わり、二人の双眸に極上の悪意と小気味よさを孕んだ冷笑が同時に浮かぶ。


初日を生き残る最善の策は、最初から池の水を徹底的に濁らせ、甘い汁を吸おうとする名門どもを根こそぎ狂乱に巻き込むことだ!


「オース、あんたの気配を標的に借りるわよ!」


ルシアの右腕が跳ね上がった。


硬質な錬金分解音とともに、聖竜の素材を精錬強化して作り上げられた外骨格錬金手袋が、虚空から彼女の右前腕へと鋭く噛み合う。


手袋の掌の真中心にある魔晶石が一瞬にして刺すような青白い閃光を放ち、体内の二重回路は狂乱する遊離魔能を暴走気味に過負荷吸引し、超高周波の鋭い唸りを上げた!


右腕の周囲の大気が、異常な高熱によって激しく歪む。


眼前に血盆の如き大口を開け、地響きを立てて突進してくる数十頭の凶暴な魔獣を前に、ルシアは深く息を吸い込んだ。


深緑の瞳に純白の輝きが宿り、手袋の掌にある集能符文がエネルギーを球状へと圧縮していく――。


次の瞬間、恐るべき密度にまで圧縮された純白の魔力光束が、鼓膜を引き裂く真空の爆鳴を伴って、彼女の掌から正面の魔獣群へと轟然と解き放たれた!


巨牛ほどもある極限まで凝縮された純白の光矢がルシアの掌から咆哮を上げ、その光軸の外周には螺旋状に狂い咲く青白い粒子の嵐が渦巻いていた。


光束は純粋な暴力となって、正面から衝突する獣潮の核心へとねじ込まれる。


ズシャァァァッ――!


それはもはや貫通などという生易しいものではなく、最も徹底的な物理的消滅と解体だった。最前列を走っていた十数頭の鋼角巨犀は、苦痛の呻き声すら上げる暇もなかった。


鉄よりも硬い重厚な骨甲が、白熱する渦流に触れた瞬間に光り輝く溶岩の滴となって融解する。


直後、荒れ狂う粒子乱流が筋肉組織を伝って乱暴に逆流し、体内の水分と血液が高熱によって瞬時に高圧蒸気へと相転移を起こし、数トンに及ぶ巨大な巨体を風船のようにその場で破裂させた!


炭化した肋骨の破片、砕け散った白い牙、そして熱波で半焼けになり黒ずんだ肉塊が、空中で豪雨のように撒き散らされる。


炭のように焼き焦げた腸が、油泡を吹く半融解の肝臓とともに、後続の魔獣たちの顔面へとドロドロと降り注いだ。


中には光束の周囲を渦巻く粒子の余波をかすっただけで全身の体毛を一瞬で焼き払われ、眼球が眼窩の中で弾け飛び、裂けた腹腔の裂け目から煮え滾る紫黒の臓腑をグチャグチャと泥の上にぶちまけて、刺すような焦臭い白煙を上げながら悶絶するものもいた。


幅数丈、長さ数十メートルに及ぶ血肉の真空の溝が、奔流する黒い群れの中に無理やり蒸発させられ、両脇の焦土は微光を放つ赤黒い硝子状へと瞬時に結晶化した!


「アネさん! こいつら、まだ群がってきやがる!」


背後でガルクが大剣を引きずりながら怒鳴り散らした。


「踏み潰せ、止まるな!」


ベテルギウスの右肩の上でルシアは身じろぎもせず、熱波で燻された焦げ滓を吐き捨てた。


二メートルの純白の機体は、降り注ぐ粘つく血の雨の中でも寸分の淀みも見せない。足底の噴射回路が眩い蒼炎を噴き上げ、背中に斜めに懸架されていた二メートルの大剣を逆手に引き抜いた。


キィィン――ッ!


大剣の刃縁に刻まれた高周波の鋸歯符文が狂乱の悲鳴を上げる。血霧の中から左右から飛びかかってくる裂面影豹(シャドウヒョウ)に対し、ベテルギウスは右足を軸に、その場で回転する純白の旋風と化した!


荒れ狂う機械の膂力と鋸歯の大剣が、余すところなく解き放たれる。


最前列で飛びかかった影豹は空中で胴体を真っ二つに両断され、下半身は慣性で数メートル吹き飛び、宙で痙攣する上半身は薙ぎ払われた大剣の峰に顔面を叩き潰された! 


骨屑と脳漿が折れた牙とともに暴風の中でミンチとなって爆散し、すかさずベテルギウスは逆手の凄絶な唐竹割りで、側面に食らいつこうとした巨熊を頭頂部から股下まで一刀両断にした。


真っ二つに裂けた断面から湯気を立てる臓腑と血の滝が凍土の上へと崩れ落ちる!


大剣はミンチ機の回転軸の如く荒れ狂い、白甲は血飛沫を浴びて妖しい光を放っていた。


だが、深部の獣群は血の臭いに当てられて完全に狂乱し、さらには遠方の名門私兵たちが混乱に乗じて放った破魔の重弩や悪意ある流れ弾までもが混ざり合い、前方の泥濘の隘路を黒々と塞ぎ止めていた。


「邪魔よ……ッ」


ルシアの深緑の瞳が険しく沈み、体内の二重回路は過負荷により悲鳴のような唸りを上げた。


彼女は腕の冷却を待つことすらせず、右腕の掌の刻印に周囲の魔力を強奪するように再び超急速充填を敢行した。外骨格の放熱スリットが金属の軋みとともにガシャリと跳ね上がる!


「――クソガキども、おやつよ!」


ズガァァァァァァッ――!!


二発目の凄まじい質量を誇る暴烈な光矢が、掌から再び撃ち放たれた!


二重回路の過剰な引き出しにより、威力は先ほどよりも遥かに暴虐を極めていた。大気は真円の白い衝撃波を弾けさせ、太古の絶嶺の第一平原全体が激しく揺れ動いた。


光束は天地を滅ぼす青白い渦流を従え、無双の審判の槍となって小石を粉砕し、大木を蒸発させ、隘路に群がっていた十数頭の重甲獣とその後背にある遮蔽物のすべてを、皮も骨もまとめて吹き飛ばし、百メートルの高さまで立ち昇る半球状の黒煙の火炎へと変えた!


大地は無惨に引き裂かれ、遅れて届いた衝撃波が万雷の如く轟いて、周囲の泥と肉片を豪雨のように空へと逆流させた。


ルシアは激しく肩で息をし、掌と指先からは熱い白煙が立ち上っていた。


だが、彼女が機体を旋回させて戦果を確認するよりも早く、魔砲によって粉砕された隘路の縁、火炎の余波をモロに食らった豪奢な陣列の後方から、喉を引き裂くような、裏返った絶望の絶叫が木霊した。


「ざ、財務官殿がぁぁぁぁぁ――ッ!!!」


「全軍攻撃中止! 衛生兵! 早く神官を呼べ! 畜生……財務が、さっきの一撃で消し飛ばされたぞ!!!」


「帳簿が! 帳簿が消滅したぁ! 金庫ごと鉄屑に溶けてる! 今回の遠征の軍資金も緊急予備金も全部あのなかなんだぞぉぉぉぉ――ッ!」


魂を根こそぎ抜かれたような凄惨で、絶望に満ちた悲鳴が硝煙を突き抜け、泥塗れの戦場に異様な滑稽さをもって響き渡った。


ベテルギウスの肩に立つルシアの全身が、ピキリと凍りついた。


氷のように冷徹だった表情が一瞬で硬直に変わり、深緑の目尻が引き攣るようにピクピクと痙攣する。


彼女はゆっくりと視線を落とし、白煙を立ち昇らせる自身の右手の掌を見つめ、次いで遠く、自身の魔砲によって塵一つ残さず消し飛ばされ、煙を吐く豪奢な馬車の車輪半分だけが転がっている巨大なクレーターを見遣った。


……ちょっと待ちなさい。


今、進路を切り開くついでに放ったあの超圧縮魔砲……。


どこかの大貴族の陣営が、功績の勘定と金勘定のためにわざわざ山に連れてきていた後方支援の財務会計士を、帳簿ごと、骨灰すら残さず……綺麗サッパリ消し飛ばしたんじゃないでしょうね?


「呆けてんじゃねえ!」


オースの裏返った怒声が耳元で炸裂し、ルシアの硬直を乱暴に引き裂いた。


少年の面影を残す教皇の、普段は無垢を装う整った顔面が獰猛に歪んでいる。白風に法衣を激しく翻らせ、片手でベテルギウスの胸甲の縁を必死に掴みながら、もう片方の手を風上へと突き出していた。


ルシアの心臓が跳ね上がり、深緑の瞳が収縮した。


硝煙と泥濘の奥から、光の反射を抑えた濃灰の外套を纏った五、六名の傭兵が、異常に低い姿勢で側面から飛び出してきたのだ。


隆起した脚の筋肉を唸らせ、猟犬のように上体を低く倒して泥濘を疾走する。手にした厚背の鉈刀には魔術の光など一切なく、ただ刃縁に甘い香気を放つ暗緑の猛毒が塗り込められていた。


その瞳に魔獣への恐怖などない。殺気すら極限まで殺し、ただ一点――ベテルギウスの腕に抱えられたオースの喉首だけを真っ直ぐに狙い定めていた。


乱軍の中で首級を刈り取ることを生業とする、本物の死士。魔砲の冷却と大剣の振り終わりによるわずかな隙を突き、その空白の瞬間を狙って教皇の首を切り落とす気だ!


「チッ……!」


悪態をつく暇すらなかった。左手を払うと、聖竜の髄液が染み込んだ錬金手札が甲高い紙擦れの音を立てて空中で扇状に開いた。


体内の二重回路は休まる暇もなく、激痛の中で再び並列共鳴を強行する。後方の友軍や傭兵に誤爆するかどうかなど、配慮している余裕は欠片もない。この肉片の飛び交うミンチ機の中で、生き残ることだけが唯一の絶対法則だ!


魔法術式――【破城の聖騎巨槍】!


展開された手札の法陣から、眩い神聖光が猛然と溢れ出した。


それは通常の魔導光槍などではない。高密度に圧縮された光炎を纏い、全長数丈にも及ぶ攻城用の超巨大ランスだ!


槍先が旋回しながら空気を抉り、身の毛もよ立つ螺旋の風圧を巻き起こしながら、砲弾の如く突き進む刺客たちの頭上へと撃ち放たれた!


ズドォォンッ!


先頭を走っていた二名の傭兵は刀を構える暇すらなく、肉体が巨槍の切っ先と接触した瞬間にその運動エネルギーと高熱で貫通された。


肋骨の砕ける鈍い音が魔力の炸裂音にかき消され、光の巨槍は二人をまるでボロ雑巾のように宙に串刺しにしたまま泥濘を抉り進み、断末魔の風切り音とともに百メートル先の岩壁に激突して、目も眩む光の飛沫と焦げた血霧へと四散させた!


だが、死士の狡猾さはそれを上回っていた。


正面の部隊が巨槍に粉砕されたその刹那、ルシアのうなじの産毛が総立ちになり、凍てつくような殺気が背骨を駆け上がって頭頂部を貫いた。


正面の連中は、ただの陽動。


本物の必殺の一撃は、彼女の背後から迫っていた――。

骨のように痩せ細った一人の刺客が、ベテルギウスの剣撃の死角を完璧に突いて、泥濘から音もなく飛び上がっていたのだ。ルシアの背後わずか半メートルの虚空に浮遊している。


その手に握られた毒塗りの短匕は、ルシアの首筋の皮膚まであとわずか数分(すん)の距離にまで迫っていた。


刃先から伝わる凍てつくような感触が、背中の冷汗を一瞬で氷へと変える。


躱せない。


大剣は戻らず、手札の防護術式も一瞬で再展開することは不可能だった。


硝煙に汚れたルシアの小さな顔に、恐怖の色はなかった。深緑の瞳の奥に宿ったのは、刺し違えてでも生き残るという狂暴なまでの敵意。


「死ねッ……!」


右腕の外骨格錬金手袋が放つ、皮膚を焦がすほどの熱痛に歯を食いしばり、体内の回路は過負荷で千切れんばかりの悲鳴を上げた。


彼女は振り返ることすらせず、関節をねじ切るような極限の角度で右手を背後へと突き出し、純白の合金と放熱スリットに覆われた甲冑手袋を、相手の刃目がけて乱暴に叩きつけた!


ギャリィィンッ!


短匕が合金の掌に当たり、激しい火花を散らした。だが、白煙を噴き上げるルシアの鋼鉄の爪は、刃を滑らせるようにして、そのまま相手の顔面を真っ向から鷲掴みにした!


指が締め上げられ、油圧プレスの如く合金の爪が相手の頭蓋骨と肉へとめり込む。


刺客の目は手袋の隙間で恐怖のあまり飛び出さんばかりに見開かれた。相手の手袋に残る魔獣の焦げた悪臭、そして掌に凝縮され、己の顔面を一瞬で水膨れに焼き爛れさせる恐るべき魔力を、彼は至近距離で嗅ぎ取った。


「ま――」


刺客の喉から漏れたのは、絶望的な半端な呼気だけだった。


ルシアに慈悲をかける気など毛頭ない。掌の真中心にある複雑な錬金刻印がゼロ距離で逆回転し、聖竜の髄が吸い上げた狂乱の魔能が一瞬にして破滅の特異点へと圧縮された。


ゼロ距離、発射。


ズモォォォォォンッ――!!


それは極めて鈍く、頭蓋の空洞の内部で炸裂したかのような重低音だった。


刺客の頭部は、超高熱で圧縮された純白の魔力によって一瞬で蒸発し、気化させられた。


直後、猛烈な衝撃波が頸椎を伝って全身へと暴力的に貫通し、首を失った肉体は宙で風船のように膨張したかと思うと、四肢も内臓もゼロ距離の白熱光の中で爆散。


炎を上げる焦げた肉片と化し、吹き荒れる暴風の中へと吹き飛ばされていった。


ルシアの右腕が激しく跳ね上がり、前腕全体の皮膚が高熱の反動で焼き付くような激痛を訴えた。


手袋にこびりついた焦げた血糊を乱暴に振り払い、鉄の錆びた匂いのする荒い息を吐きながら、冷や汗と血泥に塗れた青白い顔をゆっくりと巡らせる。


ベテルギウスの足元には泥濘に沈む無数の残骸と千切れた四肢。


そして彼女の深緑の瞳は、立ち昇る白煙を冷徹に見通し、泥濘の深部で蠢く影たちを真っ向から射抜いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。