泥濘の陣営と、先手必勝の密談
草の梢に降りた朝霜が溶け切らぬうちに、山裾の湿った泥土が重々しい蹄に踏みしだかれ、ぐちゃりと鈍い音を立てた。
ルシアは今、毛並みの乱れた小柄でずんぐりとした「小頭地牛」の背に跨っていた。
オースの陣営が二文同然の安値で借り受けてきたこの駄獣は、滑稽なまでに身体との均衡を欠いた小さく丸い頭部を持ち、のろのろと揺れながら歩を進めては、数歩ごとに荒々しい鼻息を漏らしていた。
昨夜散々に弄ばれ、茹ですぎた麺麭のように力なく痺れた両脚は、地牛の幅広く温かな背骨の上に預けられることで、ようやく朝一番に関節を完全に狂わせずに済んでいた。
ルシアは翡翠の双眸を微かに眇め、顎を上げると、地牛の揺れる短く太い角の向こうに横たわる太古の絶嶺を仰ぎ見た。
それは、およそ通常の意味における山脈と呼べる代物ではなかった。
山裾から直立する灰黒の巨岩は刃で削ぎ落とされたかのごとき断崖をなし、幾重にも重なる原生の冷杉と針葉樹の樹海は、凝固した緑黒の怒濤となって山腹を呑み込み、天へと這い上がっていた。
さらにその上層に至れば山容は俄かに狭まり、垂直に天を突き刺す。
剥き出しの霜岩は年中晴れることのない濃濁の灰雲と噛み合い、まるで神話の時代に天の神々によって地上へと遺棄された、へし折れたバベルの巨塔そのものであった。冷徹で、殺伐としており、頭上から見下ろす圧倒的な暴力の圧迫感を放っている。
「壮観だろう? 太古の絶嶺は、僕たちの国だけの狩り場というわけではないのさ」
傍らで、オースがやや見栄えのする斑毛の駄馬に揺られながら、清晨の冷風に白い教皇衣の裾をなびかせていた。
手には未だ食べ終えていない焼き甘藷の欠片を握りしめ、朝光を浴びた純良な横顔には人畜無害な笑みを浮かべ、山道を挟んで整然と居並ぶ豪奢な二大軍列を気まぐれに指し示した。
「海を越えてやってきたお客様方は、どなたも一筋縄ではいかない連中ばかりだよ、ルシア」
オースは手にした枯れ枝で、まず左翼の陣容を指した。白鱗の駿馬が一糸乱れぬ隊列で牽く豪奢な馬車、その車体と重鎧には潤いのある翠玉と微光を放つ複雑な魔晶石が惜しげもなく嵌め込まれている。
護衛の腰に佩かれた刀鞘すら、極めて精巧な透かし彫りの玉石で覆われていた。
「あれはセリフィア帝国の部隊だ。大陸全土の七割を超える最高級の温玉と高品位の魔鉱石は、すべてあの帝室の採掘権に握られている。あの貴族どもは玉石の輝きで人間の貴賎を値踏みする習性があってね。彼らの指の隙間から零れ落ちた端材一つで、帝都の荘園が丸ごと一つ買えるほどさ。けれど、精巧に磨きすぎた玉器と同じで、連中の骨の髄には潔癖症じみた傲慢さが染み付いている」
そこまで語ると、オースは身を右側へと向け、枯れ枝の先を野性味あふれる無骨な大陣営へと振った。
そこからは低く響く角笛の音とともに、炙り肉の脂が焦げる濃厚な香気が漂い狂っていた。
巨獣の頭蓋骨で飾り立てられた重厚な鉄巻きの大車輪が数里にわたって連なり、車轅に吊るされた燻製肉や油漬けの干しチーズが、野性的な食欲をそそる匂いを放っている。
「そしてあちらは、バルトーク帝国の軍勢だ。吹き荒れる荒野の烈風と凶暴な獣の群れに揉まれ、狩猟と牧畜によって築き上げられた国さ。連中は小綺麗な魔鉱石など歯牙にもかけないが、草原のあらゆる生類を驚くべき美味へと仕立て上げる術を知っている。大陸全土で最も上等な干し肉、熟成ハム、それに溶かした黄金のように濃厚なチーズの脂肪分は、すべて彼らの工房から生まれるのさ。あそこでは、獣の腹を裂き、鞣し革と塩漬けの手順を弁えていない男は、家の敷居を跨ぐことすら許されない」
オースは手元の甘藷を一口齧ると、観劇でも楽しむかのような軽薄な調子で視線を戻した。
「一方は大地の底に眠る魔鉱と玉髄で自らを高貴と誇り、もう一方は山野を埋め尽くす肉と家畜で原野に君臨する……僕たちのいるノースランド帝国のように、日々の民生用の銅鉄の配分や、広大な麦畑の収穫高、世界中に走らせる商船の香料のマージンばかりを計算している国とは大違いさ。小綺麗な玉石の旦那方や、獣臭い荒野の狩人たちから見れば、金勘定に塗れたノースランドなど、パンと香料で成り上がった成金に過ぎないのさ」
ルシアは小頭地牛の幅広い背に揺られながら、三国の内情と身分制の偏見を身も蓋もなく解剖してみせるオースの弁舌を、無表情のまま聞き流していた。
山風が額の黒髪を揺らす。左手に煌めく豪奢な玉石の光芒を見遣り、右手に漂う脂と塩の匂いを吸い込み、そして自らが跨る、毛並みすら整えられず枯草を噛みながら鼻を鳴らす小頭地牛を見下ろして、口角に冷ややかな嘲笑を刻んだ。
玉石、熟成肉、香料、そして黄金。
太古の絶嶺を国力と富の誇示の場と錯覚している名門の連中は、まだ気付いていないのだ。
この天を衝く巨塔の深奥から真の黒潮が雪崩れ落ちてきた時、高価な温玉であろうと熟成チーズであろうと、無慈悲な殺戮の前には、骨灰に塗れた同じ餌へと成り下がるという現実に。
もっとも、今のルシアにとって、そうした国家規模の大局など頭を悩ませる種にはならなかった。
万が一取り返しのつかない大混乱が巻き起ころうとも、自分は一番目立たない後方へと滑り込み、泥の中の泥鰌のように息を潜めていればいいだけの話だ。
もし絶嶺の頂から獣潮が奔流となって叩きつけられれば、各国とも我が身を守るのに手一杯で、オースを亡き者にしようなどと画策する余裕など誰一人として残されていないはずだった。
ルシアと少年教皇の視線が、示し合わせたように交錯した。その刹那の暗黙の了解――二人の思考は、まったく同一の卑劣で危険な計略の上を疾走していた。
この太古の絶嶺に潜む危険の度合いが尋常でないことは、すでに水面下で広く囁かれており、開戦と同時に果てなき車輪戦へと泥沼化する公算が極めて高い。
裏を返せば、オースを骨の髄まで憎み、この私生児の教皇を先代の皇太母の眠る墓場へと叩き落とそうと狙う政敵どもにとって、刃を届かせ得る好機は、狩猟祭初日の混乱の最中をおいて他にないということだ。
二日目に突入し戦況が完全に統制を失えば、正午の束の間の休戦はおろか、夜間の休息すら無尽蔵の黒潮に踏み躙られ、絶嶺全体が昼夜を分かたぬ消耗の底へ引きずり込まれる。
そうなれば、オースと共謀して風下の窪地に衝撃波を避けるための深い横穴を掘り、二人で転がり込めば済む。
外で天が裂け地が崩れ、血の川が流れようと、穴の底で乾パンでも齧りながら持久戦の終息を待ち、事態が片付いた頃を見計らって外套の土埃を払い、何食わぬ顔で這い出してくれば事足りる。
危険であることは否定しないが、体制の隙間を縫って怠惰に生き延びる社畜の知恵なら、前世の記憶に嫌というほど染み付いていた。
オースの腹の内もまた、寸分違わず同じ盤面を描いていた。温和で無垢な光を宿した瞳を細め、あたかも漫然と山容を眺める風を装いながら、どの断崖へ向けて大口径の魔導砲を撃ち込めば連鎖崩落を引き起こし、眠れる魔獣の群れを一度に叩き起こせるかを密かに逆算している――それこそが、混乱の中で姿を晦まし、禍を他陣営へと擦り付ける唯一の活路であった。
従来の狩猟祭は、太古の絶嶺の特殊な階層地形に依拠して進められてきた。
山全体が巨大な環状の段ケーキのように階層を成し、広大な平原から順を追って上層へと掃討を進め、白雪に覆われた頂の祭壇に君臨する覇王級の魔獣を討ち果たすことで、華々しく高貴な幕引きを飾るのが通例であった。
だが、此度の祭典が突如として前倒しされたのは、深山に蠢く魔獣の繁殖速度が正気を疑うほどに異常を極めていたからに他ならない。
その背後にいかなる凶兆の陰謀や母体の変異が潜んでいるのかは定かではないが、今回の総量が過去の数百倍に達していることだけは疑いようのない事実であった。
この大陸に、天を衝く強者が不足しているわけではない。
カリーナは現世における最強の五指に数えられる至高の天井である。
それどころか、此度の絶嶺の包囲網には、当代最強の五人のうち実に四人までもが集結していた――残る一人は妻が激しい急性腸炎を患い、幼子の世話をする者がいないという理由で、国を背負う伝説的英傑でありながら台所の隅に縛り付けられ、やむなく不参加を決め込んだと伝えられている。
だが、それほどまでに豪奢な戦力を揃えながらも、頭上から見下ろす底知れぬ黒い樹海を前に、現地に立つ四人の頂点すらその胸中に重苦しい陰りを宿していた。
果たして六日という限られた刻限の中で、この大災禍を完全に鎮圧し切れるのかと、微かな危惧を抱き始めていたのだ。
どれほど絶大な破壊力を誇ろうと、個の相性という限界は拭えない。
カリーナが備える、自身の「死の概念」すら否定せしめる絶対の戦闘力は戦慄すべきものだが、彼女の武芸はあくまで一点突破の刺殺と最強の個に対する瞬殺に特化しており、終わりなき絨毯爆撃のような広域制圧手段を持ち合わせてはいない。
無尽蔵に湧き出る異形の奔流に包囲されれば、彼女という難攻不落の孤壁をすり抜ける術を、魔獣の群れとて本能で嗅ぎ分けるだろう。主防衛線を一手に担う防壁とはなり得ないのだ。
一方、残る三人の強者は山頭すら消滅せしめる超広域殲滅術式をその身に刻んでいるものの、人間砲台のごとく代わる代わる前線へ立ち、果てしない車輪戦の防波堤を務めるとなれば、魔力回路の冷却と反動による負荷だけで、最高峰の肉体すら悲鳴を上げざるを得ない。
そして何より致命的な時限爆弾は、底辺の戦士たちの内部に埋め込まれていた。
ノースランド帝国の軍列においては、ルシアが事前に密かに放った「二重回路出力補正算式」の恩恵により、国内の二重回路持ちの魔術師や騎士たちの実力は大幅に底上げされ、並列分流の技術をものにしつつあった。
だが、他国の二重回路の戦士たちは、今なお名門の教科書が説く旧弊な偏見の中に囚われたままである。
戦局が泥沼化し主力兵力が損耗し尽くした暁には、分流の秘訣を持たぬ底辺の二重回路戦士たちが軍令に駆り立てられ、副回路の限界突破を強要されて無窮の肉挽き器へと放り込まれる惨劇が目に見えていた――
待っているのは魔力の逆流による内臓破裂か、回路管壁の晶化破砕によって血を噴き出しながら悶絶死する末路のみである。
骨肉が砕け散り、焦げた内臓を吐き出すその惨状を脳裏に思い描くだけで、ルシアは冷え切った指先を擦り合わせ、深い翡翠の瞳の奥に耐え難い嘔吐感を滲ませた。
栄誉と栄達の美名の下に開かれるこの狂乱の宴席は、その幕が上がる前から、すでに大地の底より鼻を突く血生臭さを漂わせていたのだ。
「明日の初戦をどう生き残るか、何か算段はあるの?」
ルシアは首を傾げ、警戒を孕んだ眼差しでオースを見遣った。崖っぷちに追い詰められたこの男の頭蓋の中で、いかなる自己防衛の方程式が組み立てられているのか、彼女には未だ計りかねていた。
見渡す限り、三大帝国の近衛軍、名門貴族の精鋭私兵、そして死線を潜り抜けてきた傭兵団の面々が、地図と砂盤を囲んでは激昂した唾を飛ばし、いかにして膨大な魔核を狩り獲り栄冠を掴み取るかの野心を滾らせている。
これほど切迫した空気の中で、ただ一つこの寒々しい陣営だけが、呑気に草を食む小頭地牛の周囲で、殺意に満ちた狼の群れからいかにして首を繋ぎ止めるかという卑近な算段に現を抜かしていた。
オースは教皇という至高の身位にあるがゆえに、この大陸注視の式典において戦陣に臨まねばならぬ政治の足枷を嵌められている。
昨夜本当に血を吐いて病臥を装ったところで、皇室と神殿の政敵どもは儀仗兵を差し向け、彼を寝台ごとこの肉挽き器の真ん中へ堂々と担ぎ込んだに違いない――それこそが、虎の穴と知りながらこの死地から逃れ得ない根本的な理由であった。
だが、彼は座して死を待つような腑抜けではない。
「初戦は、こちらから奇襲を仕掛けるのさ」
オースは手元の甘藷の皮を道端の草むらへと放り捨て、掌の灰を払いながら、純良でありながら狡猾極まりない笑みを口元に浮かべた。
「初日に圧倒的な戦果を叩き出して、狩猟スコアで他を大きく引き離すんだ。その理不尽な数字を奴らの顔面に叩きつけてやれば、各陣営の足並みは一瞬で乱れる――裏で僕の首を狙って暗殺者を差し向けることよりも、落ちぶれ教皇が自分たちの頭上に君臨して優勝をさらうという政治的屈辱のほうが、連中にとっては遥かに耐え難い重圧になるはずだからね」
オースの論理は冷酷極まりなく、的を射た心理戦の防禦であった。
四方から包囲され暗殺の手が伸びる現実が避けられないのなら、逃げ惑って守勢に回るよりも、開幕と同時に主導権を奪い、傲慢な名門貴族たちの頭上へ巨大な競争の重圧を投げ返してやる方が遥かに効果的だ。
もし本当にオースが太古の絶嶺の冠を掴み取れば、彼が手にするのは神権の頂点たる権力に留まらず、主催側が掲げた「大陸全土における貿易免税特権」までもがその掌中に転がり込む――そうなれば、皇室と守旧貴族どもの喉首は半ば締め上げられたも同然となり、その甚大な代償は連中を狂乱させるに十分であった。
オースが首を縦に振らぬ限りその免税権は発効しないため、これを皇室との取引材料にせんと狙う貴族たちにとっても喉から手が出るほど欲しい特権である。
さらに、命を賭して戦う傭兵にとっても優勝の特権は莫大な富に換金できるため、この報酬は蟻の群れに落とされた砂糖の塊のごとく、あらゆる陣営の理性を狂わせていた。
ルシアは胸中で、手持ちの戦力リソースを静かに再計算した。
「聖龍の遺骸」という至高の素材を用いて全面的な再構築を果たした今の彼女の通常破壊力と継戦能力は、並の二重回路魔術師の領域をとうに超越していた。
手元へ自在に召喚できる錬金術の手札は、聖龍の骨髄による浸潤強化を経て、内部の術式刻印の演算処理速度と並列解析能力が妖異なまでに研ぎ澄まされている。
上位錬金術を行使する際の魔力損失は極限まで圧縮され、高純度の魔力水晶を直接接続して外部充填を行えば、放たれる錬金分解と構造再編の威力は幾何級数的に跳ね上がるのだ。
唯一、ルシアにとって甘やかな困惑の種となっているのは、身辺に侍る忠実なる機械の使い魔であった。
かつては手のひらに収まるほど愛らしかった真鍮の機械梟【刻刻】は、ルシアが無節操に各種の伝説級金属骨格、外装甲板、そして核となる衝撃吸収ダンパーを詰め込み続けた結果、風船のように一回り以上も肥大化してしまっていた。
かつての可憐な黄銅の梟は、今や鈍い銀光を放つ重厚な複合合金に覆われ、折り重なる金属の風切羽は隙間なく詰まり、さながら今にも炸裂しそうな小型の機械装甲弾の様相を呈している。もはやルシアの細く華奢な肩の上に安住できる重量では到底なかった。
ルシアは今や、重みのある金属の幼獣を抱きかかえるようにして、細い両腕で刻刻の胴体を胸元いっぱいに抱きしめ、冷ややかな顎先をその丸く滑らかな、精密なゼンマイ仕掛けの刻まれた機械の頭頂部へそっと預けていた。
深い翡翠の瞳を伏せ、腕の中に収まる等身大の抱き枕と化した太っちょの梟から伝わる規則正しい機械の脈動を感じ取ると、山風が吹き抜ける中、ルシアの蒼白で険のある横顔に、金属の重みによって満たされた稀有な安らぎが宿った。
「……上手く、いくかしらね……」
ルシアは微かに睫毛を伏せ、冷杉の枝葉を揺らす寒風の中へ消え入るような声を零した。
胸元に伝わる重々しい機械の鼓動をもってしても、指先の冷たさを完全に拭い去ることはできない。
明日、開戦の角笛が轟いた瞬間に引き裂かれるのは、騎士物語に描かれるような栄光の狩猟などではなく、誰も彼もを泥沼へと引きずり込む陰惨で過酷な悪意の絞殺戦であることは明白であった。
聖龍の遺骸によって錬金術式と継戦能力が変貌を遂げたとはいえ、平時の数百倍に膨れ上がった獣潮と、闇に潜む無数の毒刃を前にして、この僅かな底上げが肉挽き器の中でどれほど持ち堪えられるのか、彼女自身にすら確たる見通しは立っていなかった。
黒髪の女は身を捩り、粗末な帆布の天幕の隙間を通して、陣営の最奥に横たわる麻の寝袋の膨らみへと視線を落とした。
ヴァレリーは頭まで毛布に潜り込み、艶やかな酒赤色の長い髪だけを外へ投げ出して、規則正しく低いいびきを立てていた。
周囲を埋め尽くす大軍の威圧も、今にも割れんばかりの大地の唸りも、まるで自分とは無縁であるかのように無防備に泥睡している。
だが、その一見して自堕落な姿こそが、ルシアの胸中の警報を激しく打ち鳴らしていた。
ヴァレリーは飄々として見えて、その実、骨の髄まで研ぎ澄まされた実戦主義の女だ。
生存の法則のみを行動原理とするあの女が、狩猟祭の直前になって「食っては寝て、起きては食う」という極端な休眠状態に身を委ねている理由は、ただ一つしかあり得ない――野獣のごとき本能で、大気中に濃密に凝結した死の予兆を嗅ぎ取っているのだ。
怠けているのではない。冬眠を前に脂肪を限界まで蓄える猛獣のように、これから始まる幾日幾夜に及ぶ限界の損耗を耐え抜くための熱量と精神力を、貪欲に掻き集めているのだ。
あのヴァレリーですら、そこまでの備えを強いられている。
「明日、ね……」
ルシアは顎を持ち上げ、刻刻の重く冷たい合金の額に己の額を押し当て、翡翠の瞳に淡い迷いを浮かべた。
昨夜、豪奢な行館の奥底で交わされた記憶が、潮のように胸を締め付ける。
カリーナの圧倒的な安らぎをもたらす白髪と柔らかな体温、クレアの神経症的でありながら狂おしいほどに身を寄せてきた熱い吐息……あの彫刻と暖煙に満ちた豪奢な館は、今自らが跨る泥まみれの小頭地牛の背と比べれば、別世界の幻影のようであった。
もし首を垂れ、安っぽい自尊心をかなぐり捨てて、あの女武神の翼の下へと身を滑り込ませて玩弄されるがままになっていれば、少なくとも――この無慈悲な戦場において、最も絶対的な庇護を勝ち取ることができたのではないか。
二人を頼れば、あるいはこの六日間を無傷で生き延びられるのかもしれない。
だが、その甘い誘惑が脳裏に鎌首をもたげた刹那、ルシアは自嘲気味に口角を歪め、腕の中にある機械梟の冷たい装甲を軽く二度叩いた。
飼い殺しのカナリアが辿る末路なら、嫌というほど弁えている。自らの手にある梃子と交渉の切符を投げ捨てて手に入れる平穏など、他人のまな板の上に自ら首を差し出す行為と何ら変わりはしない。
ルシアは霜気を孕んだ氷の空気を肺腑の奥まで吸い込み、喉元に込み上げた一瞬の脆弱さを噛み砕くと、ずっしりと重い刻刻を再び胸元へ引き寄せた。
明日、この肉挽き器の歯車が噛み合えば、頼れるのはこの痛む身体と、各々の思惑を秘めた目の前の異端者たちだけだ。その手で、血の活路を切り開く他ないのだから。




