狩猟祭前夜の静けさと、教皇が背負う血脈の呪い
太古の絶嶺を照らし出す最初の朝光は、凍てつく大地に張り詰めた冷酷な霜白を踏みしめるようにして這い上がってきた。
夜明け前の死寂は、一糸乱れぬ角笛の咆哮によって無残に引き裂かれる。帝国の辺境に横たわるこの古の山脈は、今や数万を数える鋼鉄の甲冑と無数の軍旗によって寸断されていた。
狩猟祭の初日は、今なお厳格な古の慣習に従って執り行われる。各国の正規軍団や大貴族の私兵たちは、未だ陣営の再編、魔導武装の点検、そして補給の配分に追われていた。
本番たる血塗られた包囲殲滅戦の幕が切って落とされるのは、明日の黎明を待たねばならない。黄昏時までの刻限を作戦時間とし、正午にはごく短い停戦と休息のひとときが挟まれる手筈であった。
だが、大気に満ちる殺伐とした気配は、すでに呼吸すら困難なほどに濃密に凝結していた。
無数の重装騎士たちが無骨な丸太の長卓を囲み、地図に刻まれた危険地帯を指先で指し示しながら、侵攻路の選定と挟撃戦術の策定に低い声を交わし合っている。
一方で、死線を潜り抜けてきた傭兵たちは、その傍らで干からびた燻製肉を貪り食い、油布で冷たい刃光を放つ破甲刃を丹念に研ぎ澄ましていた。
彼らの下卑た笑い声の奥底には、血の匂いと法外な賞金に対する剥き出しの飢渇が渦巻いている。
人々の密やかな囁きは、やがて例外なく、ただ一つの狂気じみた噂へと収束していった。
太古の絶嶺の最深部――年中暗鬱な濃霧に閉ざされた禁忌の秘境において、伝説の不死神鳥【フェニックス】が目撃されたという。
それは、そこらの高位魔獣などとは次元を異にする、神話と古典教義の頁の中にのみ息づく神性の被造物であった。
主催側はすでに水面下で触れを出している。かの神鳥の翼、あるいはその心臓を祭壇へと持ち帰った者は、他のいかなる獲物の積分を計算することもなく、即座にこの狩猟祭の至高の栄冠を手にすることができる、と。
軍功に飢えた将領にとっても、一足飛びに人上人への成り上がりを目論む傭兵にとっても、それは魂を焼き尽くすに足る血塗られた一攫千金の切符に他ならなかった。
そして無数の貴族たちもまた、この不朽の栄誉をもって、子爵から伯爵へと己の爵位を一気に跳ね上げる千載一遇の好機と見定めていた。
張り詰めた弓弦のごとき重苦しい戦備の空気が各陣営を覆い、辺りには馬油と火薬、そして嵐の前触れ特有の生臭い気配が漂っている。
――その、鉄血と野心が支配する冷徹な軍陣の縁に、周囲の光景とはあまりに不釣り合いな、ひどく小柄な影が姿を現した。
ルシアは、朝の寒風の中で狂ったように震える両脚を引きずりながら、オースの陣営を目指して痛々しく身悶えするように歩を進めていた。
その脚の状態を何か正確な物に喩えるとするならば、それは沸騰した湯から引き上げられたばかりの、微風が吹いただけで空中に三筋の波を描いてしまう茹ですぎた麺麭そのものであった。
黒髪の女の面輪は、出来立ての安物漉き紙のように血の気が引いて白く、その目元には極めて重苦しい青黒い隈が刻まれている。
一歩を踏み出すたびに、膝頭は制御を失って内側へと虚ろな痙攣を繰り返し、全身の骨髄を抜かれ、粗悪な歯車を強引に嵌め込まれた廃材の人形のごとく頼りなく揺れていた。
二歩進んでは三度よろめき、この太古の絶嶺の風がほんの少しでも強く吹きつけようものなら、今にも前のめりに無様な平地転倒を演じてしまいかねない有様である。
大剣を腰に吊るした筋骨隆々の傭兵たちが、破魔弩を用いていかに巨獣の頭蓋を撃ち抜くかを昂然と論じ合っていたところへ、陣路の真ん中をとぼとぼと這い進むその小さな異物が唐突に視界へ入り込んできた。
「……おい、見ろよ。あそこの二重回路の女」
一人の傭兵が干し肉を噛み千切りながら、マシュマロを踏みしめるかのようなルシアの怪異なる歩様をまじまじと見つめた。
「昨晩ずっと立ち番でもさせられてたのか? それとも三頭のワイバーンに代わる代わる尾っぽでしばき倒されたのか? どうやったらあんな角度に脚が波打つんだ?」
「おい、馬鹿、声を落とせ。昨夜、グラフィエン公爵の親衛隊が直々に本陣の主帥天幕へ連行していったって話だぞ……あの女武神様に、一晩中スパイ容疑で取り調べを受けたんじゃないかって噂だ」
相棒はぞっと身震いし、声を潜めながら、今にも倒れそうなその背中を畏怖の眼差しで見つめた。
「あの女公爵の軍幕で一夜を生き延びて、あまつさえ自分の足で歩いて出てくるなんざ……あの女、ただ者じゃねえぞ!」
その下世話な交雑を耳にしたルシアの眉間に不快感が走ったが、今の彼女には罵声を浴びせるだけの気力すら残されていなかった。
道の真ん中を歩むルシアは一切の表情を欠落させ、その深い翡翠の瞳には、前世で七日連続の夜勤を終えた後に魂が抜け落ちたかのような、底知れぬ虚無の死相が漂っている。
己の脚骨が折れてなどいないことは、ルシア自身が誰よりもよく弁えていた。
ただ、昨夜、極度の自愛と傲岸な支配欲の化身たる白髪の女公爵と、神経症じみた執着を抱く病的な女の二人に、玩具のように幾度も解体され、揉み解され、脅迫され続けた末の残骸に過ぎない。
今や全身の関節が悲鳴を上げて職務放棄を訴えており、足の裏が地を踏みしめるたびに、昨夜カリーナの柔らかな掌によって執拗に「恐怖と慰藉」を反復刻印された脛骨の芯から、痺れるような幻肢痛が這い上がってくる。
(……この、糞ったれな特権階級共が……)
ルシアは感情の死んだ心底で重い毒づきを吐き散らし、風に吹かれて再び情けなく交差した両脚を叱咤した。
凍てつく大気を深く吸い込み、奥歯を噛み締めながら、今にも砕け散りそうな尊厳を辛うじて保ちつつ、我が身の寒々しい天幕へ向けて、一寸、また一寸と執念深く這い進んでいった。
「アネさん! あ、生きてたんですか、アネさん――ッ?!」
冷杉林の木立ちを包む薄霧の彼方から、突如として雷鳴のような叫喚が轟いた。
目ざといガルクが、朝風の中で今にも吹き飛ばされそうなルシアの黒い影を見咎めるや否や、嵐の去った後に失蹤した飼い主の姿を認めた大型猟犬のごとく猛然と飛び出してきた。
逞しすぎる両脚を振り乱し、乱れ飛ぶ橙色の髪を揺らしながら、白霜に覆われた砕石と落葉をドタドタと踏み荒らして突進してくる。
その勢いたるや冷徹な突風を巻き起こすほどで、ルシアは「うわぁ、本当に谷底へ叩き落とされてバラバラになってなかったんだ!」と全身で雄弁に語る少年の愚直な顔を見上げ、ただでさえ震える膝頭が再び嫌な軋みを上げるのを覚えた。
黒髪の女は無表情のまま手を持ち上げ、血の気の失せた枯枝のような二本の指先で、今にも衝突せんばかりの少年の胸甲を押し留めた。その翡翠の双眸には、死んだ魚のような澱んだ光が宿っている。
「私が死んでたら、今お前の前で喋っているのは幽霊よ……それと、その葬式みたいな情けない顔をやめなさい。それより先に説明してちょうだい――どうして私たちの宿営地は、手入れを食らった後の難民収容所みたいに薄汚れているの?」
ルシアは重い瞼を持ち上げ、ガルクの肩越しにその背後を見遣ると、口角を微かに引き攣らせた。
各国の正規軍団が数里にわたって連ねる陣営が厳戒態勢の野戦臨時営区であり、三大公爵領の行館が豪奢な彫刻と暖煙を湛えた移動宮殿であるとするならば、オースの陣営に割り当てられたこの土地は、森の野猪ですら足を止めて鼻先で穿り返すことすら億劫がるような、掃き溜めの搾りかすであった。
宿営地は、古い冷杉林の最も陰湿な背陰の窪地へ、見捨てられたように放り出されていた。
地面には防湿のための分厚い油布すら敷かれておらず、名門貴族の足元を飾る貂皮や羊毛の絨毯など望むべくもない。
ただ、朝霜に打たれて硬直した灰黒の岩石が、腐敗した松針の積もる黒泥のあちこちへ不規則に突き刺さっているばかりである。
中央に鎮座する主天幕に至っては、涙を誘うほどに寒々しい代物であった。
帝国の輜重倉庫の最奥から掘り起こしてきた年代物と見え、煤けた粗野な帆布には濃淡の異なる麻の継ぎ当てが不格好に張り巡らされている。
清晨の高地から吹き降ろす冷酷な山風に煽られてはバタバタと悲鳴を上げ、東西へと不様に歪む様は、今まさに今際の息を引き取ろうとしている重度の肺病患者を想起させた。
支柱として立てられた数本の丸太は樹皮すら削ぎ落とされておらず、泥土の中へ斜めに突き刺さり、頭頂部は太い麻縄で酷く投げやりに固結びされている。
太古の絶嶺の上空を舞う伝説の神鳥がほんの一振り羽ばたいただけで、天幕ごと宙を舞い、四散してしまいそうな脆さであった。
幕舎の前にはオースの陣営を示す旗竿が傾いたまま突き立てられており、掲げられた旗は山風に千切られて端から糸を引いている。教皇の聖徽を象った紋様すら、判別不能なまでに掠れた古油の染みと化していた。
焚火の中で燻っているのは、名門が愛用する無煙の白炭などではなく、ガルクが森のどこぞから手当たり次第に拾い集めてきた湿った松の枝であった。
白灰色の煙が松脂の焼け焦げた刺激臭を孕み、地面を舐めるように陰鬱に這い回っては、この荒涼とした陣営全体を、いつ遺棄されてもおかしくない流刑者の野営地のように燻し上げていた。
重厚な防護柵と魔導防衛塔を周囲に張り巡らせ、冷厳な鉄甲の輝きを放つ列強の軍陣に比して、オースのこの数本の腐れ木を寄せ集めた粗末な小屋は、見世物小屋の一座のごとく、あまりに不条理で滑稽な異彩を放っていた。
「上層部から諸々の費用を削られてしまったのです。今回の運営担当者たちが教皇様に抱く悪意は、隠す気すらないようですから」
ルシアの帰還を認めた桃香が、丹念に煎じ詰めた熱々の黒砂糖入り生姜茶の椀をその冷え切った両手へ押し当てた。
次いで着物の前を寛げると、己の体温で肌身離さず温めておいた肉厚の肩掛けを取り出し、ルシアの肩へと優しく羽織らせる。
時は深秋。太古の絶嶺ほどの高地ともなれば、白昼に氷の粒を混ぜた霜雨が降り注いでも何ら不思議はない。大地の腐植土から這い上がる底冷えが、容赦なく骨の髄へと染み入ってくる。
「一国の教皇ともあろう御仁が、ここまで冷遇される姿というのも、ある意味で見事な見世物ね」
ルシアは熱を帯びた素焼きの椀を包み持ち、舌を刺す甘く辛い湯気を啜りながら、立ち上る白煙の向こうに佇む二人の姿へ視線を落とした。
酒紅色の長髪を揺らすヴァレリーは長杖を抱え込み、煙を吐き出す湿った松枝の傍らで微睡んでいた。朝霜に濡れた睫毛が規則正しく微震している。
その対角では、純白の教皇衣を纏ったオースが火元の前に蹲り、手にした木の枝で、灰の中で黒焦げになりかけた野性の甘藷を極めて真剣に転がしていた。
まるで目前に迫る凄惨な狩猟など眼中にないかのように、いかにして蜜の滴る完璧な焼き目を生み出すかという一点にのみ、その神経を注ぎ込んでいる。
夜が白み始める頃、天幕の奥で情欲の交歓を終えたカリーナとクレアは、ルシアを強引に引き留めようとはしなかった。
ルシアが出場登録を行っているのはオースの陣営であり、厳格な掟に縛られた太古の絶嶺において、他陣営の従属官を不当に拘束することは明確な規矩違反となるからだ。
だが、ルシアを解放する間際、カリーナはその乱れた衣帯を整えながら、少女の耳元へ帝都の宮廷を根底から覆しかねない皇室の醜聞を囁き落としていった。
現帝はかつて、自らの実妹である帝国の長公主を狂おしいまでに愛してしまったのだという。
倫理を冒涜したその密通の果てに、深宮の暗がりの中で一人の男児が産み落とされた――それこそが、眼前にいるオースであった。
近親交配の呪いを受けたその肉体は、理屈から言えば、生まれながらに不具と夭折を約束された奇形児であらねばならなかった。
しかし、運命は残酷で不条理な戯言を紡ぎ出した。海のごとく圧倒的で、神蹟そのものと呼ぶべき純粋な聖力が、彼の骨肉を髄から洗い清め、寸分の欠陥すら持たぬ強靭無比の肉体へと再構築してしまったのだ。
皇室はその拭い去れぬ汚泥を隠蔽すべく、生まれたばかりの私生児を辺境の荒れ果てた修道院へと遺棄し、野垂れ死ぬに任せた。
だが、誰が予想し得ただろうか。芥のごとく捨て置かれたその少年が、未来を予知する戦慄すべき権能と絶対的な聖力を武器に、無数の謀略を踏み躙りながら教皇の頂へと登り詰め、あまつさえ皇太子クロードの「従弟」という偽りの身分を掲げて、皇室の権力中枢へと堂々たる帰還を果たそうとは。
オースが甘藷を突っつく横顔を見つめながら、ルシアの胸裏に奇妙な荒涼感が広がっていった。
彼は、前世の自分と酷く似通っていた。誰からも愛されず、疎まれ、存在そのものが余計な過誤として泥濘に踏み躙られていた、あの「村雨」と呼ばれていた頃の自分と。
だが、オースは前世の彼女よりも遥かに強靭であった。後ろ盾の一切を持たぬ孤身でありながら、己の理不尽なまでの実力のみを頼りに帝国の権力の頂点へと駆け上がり、皇権の威光をも呑み込むほどの絶対者となった。今や彼は、帝国の喉元に突き刺さった、何としても排除せねばならぬ最大の棘なのだ。
皇太子のクロードは、オースという男を個人的には好いている。だが、クロードの悲劇は、彼が帝国のすべての民を等しく愛してしまっている点にあった。
あまねく衆生を愛するがゆえに、彼はオース一人を偏愛することなど決して許されない。
クロードは帝国の民を深く愛するがゆえに、秩序を維持するためであれば、法を乱すいかなる者をも自らの手で断頭台へと送り込むことができる。
もしもいつの日か、オースの権勢が帝国の運命を恣意的に断罪し得るまでに肥大化してしまえば、クロードは胸の内を血で濡らしながらも、躊躇なくこの従弟の首を刎ね落とすはずだ。
クロードとは、そういう男であった。誰一人として特別扱いせず、己自身をも愛さず、いかなる女に溺れる隙間すら残さない。
己の魂のすべてを帝国と民草のために差し出した、冷徹で、高潔で、窒息しそうなまでに純粋な怪物。
そして行館を発つ直前、クレアが涙の膜を張った唇をルシアの首筋へと押し当て、囁き残していった警告は、さらに直接的で凶兆に満ちていた。
此度の太古の絶嶺は、過去のいかなる秋狩とも根本から異なる、と。
樹海の深奥に集結しつつある魔物の総数はすでに常軌を逸しており、二日目に本番の角笛が鳴り響けば、この祭典は際限のない車輪戦へと雪崩れ込む公算が高い。
理性の範疇を絶した物量を前にすれば、恐怖と疲労と虚脱が、瞬く間に名門や軍団の戦意を根こそぎ干上がらせてしまうだろう。
ルシアはその手の絶望を、あまりに鮮明に知悉していた。
地球にいた頃、古典文学を映像化した陰惨な反戦映画を幾度となく目にしてきたからだ。
息をすることすら躊躇われる重苦しいフィルムの中で、若き兵士たちは祖国に栄光をもたらすという甘美な幻影を抱いて泥濘の塹壕へ赴き、そして腐爛した肉塊、毒ガス、終わりのない砲撃の雨によって魂を摩滅させてゆく。
彼らの精神が不条理な磨耗の中で摩り減らされていく一方で、後方の特権階級たちはビロードの帳の裏側で酒杯を交わし、山積みとなった白骨を利権の数字へと換金していた。
何よりも無残なのは、その幕切れであった。停戦条約が発効する直前、地獄の底を生き延び、ようやく故郷へ帰れると信じた青年が、夜明けの光が昇るわずか一秒前に、冷酷な銃弾によって胸を撃ち抜かれて絶命する。
あらゆる葛藤も苦痛も、白みゆく朝日の前で、ただの虚無として踏み躙られるのだ。
秋霜に閉ざされたこの太古の絶嶺は、貴族たちの優雅な遠足などではない。これから幕を開けるのは、純然たる消耗戦という名の地獄であった。
カリーナとクレアの二人は、確かに天を衝く暴力をその身に宿している。しかし、この原始の山脈はあまりに深大で、果てしない。
たとえカリーナが強大な剣技と広域殲滅魔術をもって山嶺を埋め尽くそうとも、数百里にわたって押し寄せる無辺の獣潮を前にしては、暗黒の深海へ投げ入れられた線香花火に等しく、一撃のもとに戦局を覆すような殲滅効果など望むべくもなかった。
冷風が襟元を吹き抜け、ルシアは温い生姜茶の椀を指先で強く握りしめた。その深い翡翠の瞳に、氷のように冷徹な思索が沈んでゆく。
目前に迫る泥沼の消耗戦において、自らを高貴と信じて疑わないすべての血肉は、例外なく等質に腐敗してゆくことになるのだ。
「焼けたよ! ルシア、見て、やっと成功したんだ!」
濁りのない晴れやかな声が、焚火の傍らから弾けるように響き渡った。オースは尖らせた枯松の枝を手にし、黒く爆ぜた野性の甘藷を見事に貫通させて誇らしげに掲げていた。
朝の冷気に満ちた風の中、まるで得難い戦利品を勝ち取ったかのようにルシアへ向けて腕を振り、早く来て熱を分け合おうと無邪気に手招きしている。
焦げた皮の裂け目から、黄金色に煮崩れた熱い芋肉が覗き、朝光を浴びて甘い香ばしさを漂わせていた。
その瞬間、少年の瞳に宿った輝きはあまりに純真で、泥遊びの中でようやく立派な城を築き上げ、連れ合いに褒めてもらおうと駆け寄る幼子のそれと何ら変わりがなかった。
これこそが、オースという人間であった。
素焼きの椀を抱えたまま立ち尽くすルシアの瞳がわずかに収縮し、張り詰めていた心の琴線が、微かな震えの音を立てた。
思い出したのだ。
かつて無数の疑惑と欺瞞に直面した際、この男の底知れぬ危険性と底意を幾度となく見抜きながらも、土壇場で彼を信じ、その背後に立つことを選んだ真の理由を。
オースは決して無欠の聖者などではない。連環の計を弄び、手段を選ばず、その謀略は底の見えない暗渠のように陰険であった。
聖潔を絵に描いたようなその無害な美貌と皮膜を完璧に操り、あらゆる者を掌の上で転がし、利用価値のある者すべてを甘言の罠へと誘い込んできた男だ。
だが、そのすべては生まれ持った邪心によるものではない。この帝国が彼に与えたゆりかごが、初めから毒棘に覆われた凍てつく荒野でしかなかったからだ。
皇室の近親相姦という汚濁から生まれ落ち、本来ならば側溝で首を絞め落とされるはずだった奇形児。
修道院の最底辺の泥濘から、刃の切っ先を踏み越えて教皇の座へと這い上がる過程で、もし彼が欺瞞を纏わず、計算を尽くさず、己の全神経に劇毒を塗らなければ、とうの昔に深宮の冷たい石畳の下で名もなき白骨と化していたはずなのだ。
もしも、この世界がほんの少しでも彼に温もりを与えていたのなら、彼とてここまで神経をすり減らして策謀を巡らせる必要などなかったのかもしれない。
煙に燻されて細められる少年教皇の目元を見つめながら、かつての猜疑と鬱屈は潮が引くように薄れ、ただその存在の芯を捉えた冷涼な共感だけが胸中に残されていた。
ルシアは、オースを責める気にはなれなかった。
彼女自身もまた、かつて社会の最底辺で血肉を搾り取られながら、己の存在を証明する微かな光を求めて狂乱の中で足掻き続けた、あの「村雨」という名の労働者だったからだ。
生き延びるため、踏み躙られた尊厳の残滓を死守するために、彼女もまた凍えるような深夜の闇の中で、自らの心を硬く冷徹に研ぎ澄まさざるを得なかった。
目の前のオースもまた、彼なりの戦い方をもって、この巨大で無関心な帝国という名の怪物と死闘を繰り広げているに過ぎないのではないか。
「……枝で真ん中を突き刺しちゃったら、中の熱気が全部逃げてしまうじゃない。何が成功よ」
ルシアは桃香に着せてもらった厚手の肩掛けをかき抱き、未だ力なく震える両脚を引きずりながら、焚火の傍らへと身を寄せて腰を下ろした。
口からは情け容赦のない悪態を零しながらも、伸ばした蒼白の冷たい手は、差し出された熱々の甘藷を極めて自然に受け取っていた。
熱を逃すように両の掌で転がすその翡翠の双眸の奥底で、炭火の朱と甘い焦げ香に包まれながら、久しく忘れていた微かな体温が、淡く、確かに灯っていた。




