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重度カードゲーマー女子、過労死転生した異世界でも恋愛をプレミして詰んだ件  作者: 酣睡


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73/125

記憶喪失の令嬢による本能のお説教と、酒浸しの不憫な教授

教皇庁の黒甲地牛(アースブル)重装馬車が、広大な開けた土地へとようやく歩みを止めた時、太古の絶嶺が誇る息を呑むほどの壮麗な全容が、遮るものなく一同の眼前に広がりを見せた。


それはおよそ、現世の山嶺という物差しでは推し量れない代物だった。


天と地の狭間に横たわるのは、天を突くように屹立する超巨大な「通天の古塔」。


草木も生えぬ不毛な永久凍土などでは断じてなく、むしろ正反対に、絶嶺の全体が視界を埋め尽くすほど蒼翠に煙る太古の密林によって覆い尽くされていた。


途方もなく広大な高原の台地が、幾重もの環状の天階を形作るように下から上へと螺旋を描いて広がり、一段上層へと進むごとに古木はいよいよ天を遮ってそびえ立ち、微光を帯びて明滅する巨大な蔦や、異香を放つ奇花を垂れ下げている。


絶嶺全体が、それ自体で完結した原始の生命の神殿であるかのようだった。仰ぎ見れば、幾重にも重なり合う環状高原の狭間に、息を呑むような太古の残影を肉眼で捉えることすらできる――


丘陵のように重厚な巨躯を誇る陸行魔獣が、青々とした林莽の間を鈍重に踏み荒らして地響きのような唸りを響かせ、さらに上層の雲霧煙る絶壁の縁では、翼を広げれば天日を覆い尽くさんばかりの太古の巨竜が数頭、力強い大翼を広げ、極彩色の高空の光輪の中で低く悠久な竜鳴を轟かせながら、自らの縄張りを旋回巡視していた。


さらにその上へと視線を泳がせても、より高層の古木や群獣は濃密な雲海の深淵へと呑み込まれ、天へと真っ直ぐ届くはずの頂の姿を拝むこと叶わない。


野営の物資と雑多な道具の荷解きを終えると、ガルクはその巨大な刃無しの黒剣を地面へと突き立て、草木と土の清香が満ちた冷気を肺腑の奥深くまで吸い込み、白い歯をニッと見せて笑った。


「よしっ! 真っ昼間からの移動で、骨がバラバラになりそうだったぜ!」


少年のオレンジ色の短髪が微風に揺れる。彼は遠方で各軍団が陣を敷く一触即発の殺気などまるで意に介さず、振り返りざま、毛皮のショールに包まれたルシアを無造作に抱え上げた。


「わっ……な、何すんのよ!」


ルシアは激しい天地の回転を覚え、抵抗する間もなく、ガルクの頑強な肩の上へと片手ひとつでひょいと担ぎ上げられていた。


元より華奢で小柄な彼女の身体は、筋骨たくましいガルクの肩に乗っかると、まるで狩人が気まぐれに拾い上げた精巧な人形のように見えた。


「行くぞ、アネさん! 本物の美味い酒を飲ませてやる!」


ガルクは腰に下げた膨らみのある革袋を気前よく叩き、屈託なく笑い声を響かせた。


「麓の荒原猟師どもがやってる掘っ建ての酒小屋だが、味は荒っぽくても、一口煽りゃ胃袋の芯までカッと温まるぜ! 教皇庁の甘ったるい砂糖水なんかより、百倍スカッとするはずだ!」


ルシアは感情の抜け落ちた顔で口角を引きつらせ、どこか諦めたように頭を垂れた。


警戒を旨とする本能ゆえ、過剰に親密なスキンシップには辟易させられるものの、この少年の逞しい肩が前方から吹き付ける冷風の大半を遮ってくれていることだけは認めざるを得ない。


視界もぐんと高くなり、遠くの林莽で巨竜や魔獣が闊歩する壮観を一望することができた。


「……ちょっと待ちなさいよ、ガルク。先にこの金髪をどうにかするのが先でしょ」


ルシアはガルクの肩に揺られながら、地牛の傍らに立つオースを見下ろした。


先ほど大会の審判所へ執拗なまでに規則を再確認したばかりだ――太古の絶嶺における狩猟祭には、開幕前に極めて厳格な休戦条約が敷かれている。


正式に角笛が鳴り渡り猟場へと足を踏み入れるまでは、山麓の野営地で教皇に対して白昼堂々手を出そうものなら、三大大陸のあらゆる皇族に対する公然たる宣戦布告と見なされる。


換言すれば、少なくとも今夜の間だけは、オースのその光り輝く首級は安全の域にあるということだ。


「構いませんよ、ルシアさん。ガルクの言う通りです」


オースは風に乱れた淡い金髪を手櫛で整え、貴族特有の品格と微かな苦笑を滲ませながら、優しげに手を振ってみせた。


「皆さんは先に何か温かいものでも食べて、お腹を満たしてきてください。何しろルシアさんは今にも倒れそうなほど顔色が優れませんし、これ以上寒風に晒されては本当に倒れてしまいかねませんから。大会のエントリー手続きや陣営の照合作業は私に任せてください。桃香が付き添ってくれれば十分です」


影の中から、黒髪で面を覆った桃香が音もなく頷き、袖の裏に仕込んだ短刃を確かめるように寄せた。


「ならいいわ。教皇様直々のお達しだしね」


ルシアはガルクの頭をぽんと軽く叩き、視線を戻して平然と言い放った。


「ガルク、回れ右。その酒小屋とやらに案内しなさい。もしその酒が泥水みたいに不味かったら、あんたの給料から天引きするからね」


ルシアがガルクの肩の上から気だるげに給料天引きの軽口を叩いていたその時、数百メートル離れた公爵家専用の高台から、空気を焼き焦がさんばかりの冷え切った視線が二対、その華奢で小柄な背中へと突き刺さっていたことに、彼女は毛頭気づいていなかった。


カリーナとクレアである。


ここ最近というもの、帝国の権力と魔法の頂点に座すこの二人の女は、取り憑かれたように両家が保管するあらゆる痕跡や私的な日記、邸宅の隠し金庫に至るまでを秘密裏に洗い浚い調べ上げていた。


発端は、魂の深淵から湧き上がる理由なき鈍痛と、肉体に刻まれた生理的な渇望に苛まれたことだった。


しかし、消し去られ、再び繋ぎ合わされた数々の手がかりが浮き彫りになるにつれ、最後に導き出された真実は、誇り高き二人を巨大な震撼と不条理の渦へと突き落とした――


あの黒髪に深い緑の瞳をたたえた、病弱で浮世離れした少女こそが、かつて二人で寝食を共にし、枕を交わした唯一無二の恋人であったのだと。


そしてこの世界は、いかなる呪いのような不条理によるものか、「ルシア」という存在の痕跡を、あらゆる人々の脳裏から根こそぎ抉り取ってしまったのだと。


唯一、ルーカスを除いて。


グラフィエン公爵家の当代において原初の力を真に受け継いだ男児として、ルーカスは生を受けたと同時に【破妄】と呼ばれる特殊な権能を授かっていた――森羅万象を看破し、いかなる因果律や認識改変の惑わしにも屈しない至高の恩寵である。


過去、カリーナの夭折した兄もまた同じ権能を宿していた。兄の不慮の死がなければ、本来公爵の冠がカリーナの頭上に載るはずはなかったのだ。


歴代のグラフィエン公爵は、例外なくこの権能を以て北境を統治せねばならなかったのだから。


すなわち、帝国全土においてただ一人、ルーカスだけが最初から最後までルシアが何者であり、何を経てきたのかを鮮明に記憶していた。


だが、こともあろうにルーカスは、過去の一切合切について口を噤んで割ろうとしない。


この間、カリーナは考え得る限り苛烈な尋問手段を行使した。痛覚を増幅させる革鞭、魔力を封じる灼熱の戒具、果ては精神魔法による重圧まで浴びせたが、ルーカスは肉を裂かれ血に塗れながらも、カリーナと同じ緋色の瞳に冷徹な嘲笑を浮かべ、歯の隙間からただ一言を頑なに吐き捨てるのみだった。


「知りたいだと? ならテメェ自身の器量で思い出しな、公爵サマ」


公爵邸に残された生活の痕跡、寝台の傍らに誂えられた特注の枕、そして骨の髄まで染み付いた執着心に至るまで、ルシアが二人にとってどれほど重い存在であったかを雄弁に物語っていた。


おまけにカリーナは、幼少期より宝物を納めていた古びた小箱の中から、綺麗に切り取られた血痕の残るシルクのシーツを見つけ出していた。


鑑定の結果、それは間違いなくルシアの血であり、彼女とルシアが初夜を共にした際に残された痕跡であることは明白だった。


それなのに――


今まさに彼女たちの眼前で、どこの荒野から這い出てきたとも知れぬ無骨なオレンジ髪の小僧が、こともあろうに自分たちの愛しい人を、その広い肩の上へ我が物顔で担ぎ上げているだと!?


あまつさえルシアは、あの野良犬に担がれたまま、冷たい風の中で無防備に足をぶらつかせているではないか。


カリーナの血のように紅い瞳がキュッと収縮し、白くなるほど指先を握り締め、胸中の激情は理性を焼き尽くさんばかりに滾っていた。


さらに、公爵の座を正当に奪い取った暁にはルシアを完全に我が物にせんと企むルーカスの、あの不遜な挑発の態度を思い出すにつけ、凶暴な苛立ちがカリーナの脳天を突き抜けていく。


だが、彼女は北境を統べる君主だ。大会の開幕を目前に控え、私情によって大局を蔑ろにすることは許されない。


「クレア」


カリーナは深く息を吸い込み、瞳の奥に渦巻く殺気を氷の仮面の下へと押し殺すと、凍てつく冬の氷を割るような低い声音を落とした。


「公爵家と侯爵家のエントリー手続きは、私が直々に大会審判所へ出向いて処理をつける。あちらは……何をすべきか、分かっているな」


傍らに立つクレアは、オーロラのように深遠で高貴な紫の瞳を微かに揺らし、優雅に、無言のまま頷いてみせた。


貴族の名利の渦中において、幼い頃より手を取り合って修羅場を潜り抜けてきた姉妹なのだ。カリーナが抱く発狂せんばかりの屈辱と焦燥を、クレアは痛いほどに理解していた。


二人が初手から大立ち回りを演じなかったのは、グラフィエンの女公爵とシルヴィア家の至宝としての矜持ゆえであり、短慮な痴情に狂った女のように盲動することなく、確たる証拠を掴んでから動くべきだと弁えていたからに他ならない。


もしどこかの狂言者が「ルシアは貴女がた二人の恋人だ」と吹聴しただけなら、即座に灰すら残さず消し炭にしていただろう。


だが、二人がルシアの正体を確信するに至った決定打は、先刻書斎に仕掛けられていた隠し魔導記録器に残された動かぬ証拠だった――


そこは公爵邸の中枢にして、クレア自身の手で刻まれた高位禁呪と探知阻害結界が十七重にも張り巡らされた絶対の聖域。


だというのに、あの黒髪の女は、警報の類を一切鳴らすこともなく、あまりにも平然と、散歩でもするかのように足を踏み入れてきたのだ。


彼女は迷いなく指先に魔力を走らせ、カリーナとクレアが二人だけで設定した魔法錠の暗号を軽々と解除すると、何一つ調度品を損なうことなく、極めて正確に帝国最高機密の公文書を引きずり出し、退屈そうに紙飛行機へと折り曲げてテラスの風へと放り投げたのだ。


神聖なる国家機密を反古紙のように扱うあの気だるげな仕草、二人の私的な癖の数々を我が事のように把握しているあの手慣れた所作……かつて寝所を共にし、幾夜を睦み合って過ごした枕元の相手でなければ、あんな不条理を成し遂げられる人間などこの世に存在するはずがない。


これほどまでに二人を苛み、狂いそうなほど探し求めていた相手が、振り返ってみれば別の男の肩に親しげに収まっているだと?


「ピシリ……」


カリーナの纏う制御を失いかけた魔力が無意識に漏れ出し、硬質な黒曜石の石畳に蜘蛛の巣のような白い霜の裂け目を走らせた。


背後に控える北境鉄騎の護衛や近衛魔術師たちは一斉に震え上がり、背筋に冷汗を流した。


普段の女公爵がどれほど冷徹かつ沈着であるか、彼らは熟知している。


だからこそ、素性も知れぬあの女の身辺を洗う際に見せた公爵の執念と狂気には、骨の髄まで凍りつくような恐ろしさを覚えていた――彼女は本気で、この件に魂のすべてを懸けているのだ。


従者たちは額の脂汗をそっと拭い、遠くでオレンジ髪の少年の肩に担がれ、魔法学院の教授であるヴァレリーと談笑する黒髪の女を、生きた心地もせず見つめていた。


その場にいた全員の胸裏に、寸分違わず同じ予感が去来していた。


明朝、太古の絶嶺に狩猟の角笛が鳴り渡るその刹那……猟場では間違いなく血の雨が降る。


そして真っ先に八つ裂きにされ、肉片すら残らず屠られるのは、公爵閣下の愛しい人をあろうことか肩に担いだ、あの命知らずのオレンジ髪の餓鬼に他ならないだろう、と。


当の嵐の渦中にいるルシアは、そんな暗流など露知らず、ガルクに担がれるがまま揺られ、野営地の縁にある雑多な砕石の小道を抜け、鬱蒼とした古木の陰にひっそりと佇む寂れた露天の酒場へと辿り着いていた。


酒場とは名ばかりで、その実態はあまりにみすぼらしい。


適当にならされた狭い空地に、刃物で切りつけられたような傷の残る粗末な木製の机と椅子が幾つか転がり、傍らには朽ちかけた黒木と雑草で雑に組み上げられた半開放の低い小屋が、風除けの壁すらないまま突っ立っているだけだった。


だが、晩秋の肌を刺す冷風とは裏腹に、その粗末な酒小屋の中は立ち上る湯気と麦の香りに満ち、野太く陽気な笑い声と嬌声が渦巻いていた。


ガルクは手慣れた足取りで立て付けの悪い観音開きの木製スイングドアを蹴破るように押し開け、野太い声を張り上げた。


「マスター! ガルク様のお帰りだぞ! 一番自慢の強い酒を三杯、並々注いで持ってきな!」


元気一杯の怒声が響くや、騒がしかった小屋の中が一瞬にして静まり返った。油染みた長いテーブルの周りから、十数人もの視線が一斉に突き刺さる。


少年のオレンジ髪を認めるや否や、客たちから一斉に笑い交じりの罵声が上がった。


「この悪ガキが! 教皇庁の犬っころになり下がってから、滅多に顔を見せねえと思ったらよ!」


「全くだ! しかも今日は器量のいい小娘を二人も連れ込んで! 随分と偉くなったじゃねえか!」


ガルクの肩の上にいるルシアと、腕を組んで隣に立つヴァレリーは、目の前の光景に思わず呆気にとられた。


ここは血で血を洗うような殺伐とした傭兵の溜まり場などでは毛頭なかった。


薄暗い油灯の明かりの下、胸元をはだけて古傷を晒す屈強な男たちの傍らには、繕い物をする獣人の女たちや、ズボン一丁でパン屑を奪い合って駆け回るガキども、果ては熱いスープを運ぶ片腕を失った老兵の姿まであった。


ここはガルクと、動乱の中で行き場を失った底辺の人間たちが肩を寄せ合って築き上げた「家」だったのだ。


血筋の貴賎も、帝国の法度もない。ただひたすらに熱く純粋な情義と、互いを温め合う温もりだけが息づいている。


「うるせえ! 今日のあたしは上客サマを連れてきてんだよ!」


ガルクは得意げに鼻を鳴らし、逞しい胸板を叩いた。


「肩に乗ってんのはあたしのアネさんだ! 隣にいるのは帝都魔法学院の正教授サマだぞ! わざわざあたしたちに顔を立てて来てくださったんだ、お前らシャキッと歓迎しやがれ!」


二人の肩書きを耳にするや、酒場中が蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。


誰彼となく、自分の尻の下にある少しでもマシな椅子をルシアの前へと押し出し、両膝から下を失って木製の車椅子に座る老人までもが、慌てて木輪を軋ませて擦り寄ってきた。


「お嬢ちゃん、ここに座んな! ワシが温めておいた特等席だ、遠慮はいらんぞ!」


老人は顔いっぱいに人の良さそうな笑みを浮かべ、自らの車椅子ごとルシアへ差し出さんばかりの勢いだった。


場にいる者たちは皆、ガルクの戦闘力がどれほど規格外かを知り尽くしている。


あの荒原の狂犬が心服して「アネさん」と呼ぶ黒髪の女が、ただ者であるはずがない。その華奢で病弱な外見を見て侮る者など、ここには一人としていなかった。


「この馬鹿息子が、出世しやがって! 魔法学院の鼻持ちならねえ大教授サマまで引っ張ってくるとはな!」


油塗れのまえかけを締めたマスターとおかみは破顔一笑し、慌ただしく粗陶の器へ三杯の酒を波々と満たし、自家製の肉汁滴る燻製肉のサンドイッチを二つの大皿に盛って駆け寄り、手厚くヴァレリーを着席させた。


直後、おかみはガルクの後頭部へと容赦なく平手打ちを食らわせた。


パァン!


「いってぇ! おかみ、何すんだよ!?」


「この石頭が! いつまでも担いでたら飯も食えねえだろうが! 見なさいよ、枯葉みたいにガリガリじゃないかい!」


おかみの一喝に呼応するように、女中や老兵たちも一斉に加勢し、遠方から来てくれた華奢なお嬢さんを飢えさせたままにするとは何事だと、唾を飛ばしてガルクを叱り飛ばした。


ガルクが頭を抱えて悲鳴を上げ、身内からの半ば本気の袋叩きに遭ってドッと笑いが巻き起こる中、ルシアはおかみの手によって、壊れ物を扱うようにそっと長テーブルの席へと降ろされていた。


彼女はその茶番劇を一顧だにせず、社畜が定時退社を迎えた時のような解放感を漂わせ、目の前の粗陶器に注がれた酒液を深い緑の瞳で物珍しそうに眺めた。


帝都の貴族が好むような気取った澄み切った葡萄酒などではない。柘榴のように鮮烈な深紅を帯び、野趣あふれる甘酸っぱい果実の香りと、麦芽のツンとした辛みが立ち上る手作りの野果酒。


その濃厚で温かな芳香が鼻腔をくすぐると、空腹でちくちくと痛んでいた胃袋が、本能的な食欲を疼かせた。


ルシアは青白く細い指を伸ばし、そのずっしりと重い陶器の器を持ち上げ、口元をわずかに綻ばせた。アルコールで神経を麻痺させてやろうと、口をつけて一息に煽ろうとした――その刹那。


ピタリ。


白皙で、細長く、ひんやりとした感触と高貴な香りを纏った細腕が、何の前触れもなく影から滑り出し、寸分の狂いもなく彼女の手首を掴み取った。


尋常ならざる膂力だった。かすかな震えすら帯びている。


ルシアの神経が鋭く張り詰めた。危機に対する反射速度のまま、即座に視線を跳ね上げる――


次の瞬間、彼女の瞳は、オーロラのように揺らめきながらも底知れぬ氷霜と動揺を渦巻かせた、深邃な紫の双眸と正面から激突した。


酒場の微光が、クレアの傾国と称すべき美貌を浮かび上がらせ、紫の髪が滝のように零れ落ちている。


視線が交錯した瞬間、周囲の喧騒も、ガルクの喚き声も、肉汁の芳香も、すべてが幻のように彼方へと引いていった。


背筋を伝って頭頂へと突き抜ける痛烈な悪寒に、ルシアは総毛立ち、全身の皮膚が粟立つのを覚えた。


クレアがこんな下賤な露天の酒場に現れるなど、天地がひっくり返ってもあり得ない。


シルヴィア家の至宝にして、帝都魔法塔の歴代最年少の首席。その豪奢なドレスの裾は、現世の泥の一粒すら寄せ付けたことのない高嶺の花だ。


そんな彼女がここにいる理由は二つに一つ。世界の忘却の権能が瓦解して過去の寝物語をすべて思い出したか、あるいは公爵邸で紙飛行機にされた極秘公文書の痕跡を辿り、犯人として自分に行き着いたかだ。


ルシアは粗末な木の椅子に腰掛けたまま、深い緑の瞳を硬直させ、かつて理不尽な取引先に追い詰められた社畜の生存本能をフル回転させて、脳内で必死に言い訳の草案を練り上げた。


――即座に病弱な少女を演じてその場に土下座すべきか? それとも持病の再発を装って口から泡でも吹いた方が誠意が伝わるだろうか?


しかし、手首の骨を締め付けるその掌は氷のように冷たく力強いものの、脈拍を押さえる指先は隠しきれない微小な震えを刻んでいた。


クレアは睫毛を伏せ、瞳の奥に吹き荒れる感情の荒波を覆い隠した。


冷風に吹かれて荒れかけたルシアの青白く痩せこけた頬を見つめ、唇をきつく引き結び、やがて、これまでの彼女からは想像もつかないほど抑圧された柔らかな声音で、ぽつりと告げた。


「貴女にお酒は向かないわ。脂っこい食べ物も駄目。……私と一緒に帰って。いいでしょう?」


詰問するような高圧さは微塵もなく、宙に浮いた懇願と戸惑いすら滲んでいた。


ルシアの高速回転していた社畜の脳髄が、ピタリと停止した。


彼女はその言葉の端々から、決定的な違和感を嗅ぎ取ったのだ――クレアは名門の筆頭たる貴族の令嬢であり、その骨の髄まで厳格な社交儀礼が染み付いている。


初対面の相手には距離を置いた「閣下」や「令嬢」を用い、目下の者には冷徹に名を呼び捨てにするはずだ。


だが今の言葉には、「ルシア」という名もなければ、距離感を保つための敬称すら含まれていなかった。


理由はただ一つ。かつて自分がルシアをどう呼んでいたのかが思い出せず、呼び間違えることを恐れるあまり、呼称そのものを丸ごと飲み込んだのだ。


――この女、私のことを何も思い出せていない!


肉体と魂に焼き付いた生理的な本能に振り回され、臭いを嗅ぎつけた獣のように後を追ってきて、ただ見栄を張っているに過ぎないのだ。


手元に決定的な「記憶の証拠」がない以上、社畜が自ら罪を認める道理などどこにもない。


ルシアの胸中に燻っていた反骨心が瞬時に頭をもたげ、硬直していた背骨の緊張が解け、終業後のプライベートを邪魔されたことに対する不機嫌さが口元に浮かび上がった。


「手を放してくださらない、シルヴィア様」


ルシアは視線すら合わせず、手首をしなやかに捻るや、脱力による絶妙な手管でその冷たい拘束からあっさりとすり抜けた。


クレアの虚空を掴んだ硬直した指先を完全に黙殺し、手元にある鮮紅の野果酒を何食わぬ顔で再び持ち上げる。


一緒に帰る?


どこへ帰るというのだ。公爵邸で年中無休の無償待機を強いられる籠の鳥に戻れとでも? それとも貴族どもの反吐の出る社交界に愛想を振りまけとでも言うのか?


退勤時間は退勤時間だ。飲みたいものは飲む。ルシアは無表情のまま粗陶器を両手で掲げ、クレアの目の前で一息に胃袋へ流し込もうと顎を引いた――


パァン!


鋭く空気を引き裂く破裂音が、唐突に炸裂した。


ルシアが手を振り解いた瞬間、クレアの顔色は最悪なまでに冷え切っていた。


冷淡に撥ね退けられた痛みが、彼女の神経を無残に切り裂いたかのようだった。


理性が追いつくよりも早く身体が動き、その白皙の腕が払われるや、淡い紫の魔力を孕んだ突風が躊躇なく横合いから吹き荒れた。


ガシャン――ッ!


並々と注がれていた粗陶器が宙を舞い、泥の地面へと叩きつけられて粉微塵に弾け散った。


だが、怒りに任せて放たれた魔力の突風は目測を著しく誤っていた。


立ち上る酸味と辛みを孕んだ深紅の野果酒は、砕け散った陶器の破片諸共、ルシアの身体には一滴たりとも触れず、こともあろうに燻製肉のサンドイッチをまさに頬張らんとしていたヴァレリーの頭上へと、余すところなくぶち撒けられたのである。


「…………」


ヴァレリーは肉汁の滴る肉を口にくわえたまま、完全にその場で硬直した。


先ほどようやく清浄魔法で整えたばかりの豪奢な高位魔導士ローブは、襟元から胸元にかけてドス黒い粘り気のある酒液に濡れそぼり、潰れた果肉の残骸が自慢のワインレッドの長髪へと無惨にこびりつき、毛先を伝って足元の泥水へと「ポタ、ポタ」と滴り落ちていた。


酒場を包んでいた笑声が、潮が引くように消え去った。


頭を掻いていたガルクの手が宙で止まり、おかみの手から木杓が滑り落ちそうになる。


三秒の沈黙の後、張り裂けんばかりの絶叫が、この粗末な露天の酒場を根底から揺るがした。


「嘘でしょぉぉぉぉぉッ!? クレアッ! あんた脳みそに氷柱でもブッ刺さってんの!?」


ヴァレリーは口にくわえていたサンドイッチの残骸をテーブルへと叩きつけ、酒まみれの顔を腕で乱暴に拭い、全身を怒りで震わせながら、その黄金の双眸から本物の殺意の炎を吹き上がらせた。


「こっちは何十里も必死に飛んで骨の髄まで軋ませて、ようやく温かい飯にありつこうとしてたのよ!? 失憶モノのドロ沼愛憎劇を繰り広げたいなら、向こうの森にでも行って二人で殴り合ってきなさいよ! あたしが何をしたって言うの!? 何で毎回毎回、あたしばっかりこんな貧乏くじ引かされなきゃいけないわけぇぇぇぇッ!!」

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