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重度カードゲーマー女子、過労死転生した異世界でも恋愛をプレミして詰んだ件  作者: 酣睡


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罪証なんて、後からいくらでも用意できますわ

酒場と名ばかりのその掘っ立て小屋は、帝国の建築技術そのものを声もなく嘲笑っているかのようにみすぼらしかった。


頭上を覆うのは、黒カビに塗れ湿気でわずかに湾曲した数本の枯れ杉で辛うじて支えられた、不揃いな茅と朽ちかけた木板の乱雑な継ぎ接ぎに過ぎない。


その隙間から吹き込む晩秋の夜風が、油煙で薄汚れたカンテラの灯火を頼りなげに明滅させていた。


平らにならすことすら放棄された地面には、黄土と砕石が敷き詰められ、長年にわたって地中へと染み込んだ酸鼻を極める安麦酒の臭気、粗悪な獣脂の油煙、そして干からびた汚汁が混ざり合い、ブーツの底にへばりついては不快極まりない湿った粘り気を伝えてくる。


あたりには粗雑な手斧の削り痕が生々しい無骨な丸太の腰掛けが散らばり、片足が半ば欠け、下に砕石を噛ませて水平を保っている脂ぎった長机の傍らには、叩き割られた粗陶器の破片がひっくり返った深紅の野果酒に浸っていた。泥の上を踏みにじられた果肉とともに、暗く澱んだ粘つく染みを広げている。


小屋の屋根を吹き飛ばさんばかりだったヴァレリーの怒声が、隙間風の鳴る梁の間にいまだ低く木霊し、滾る怒りが実体化した金色の魔力火花となって彼女の指先でパチパチと爆ぜていた。だが、そんな光景もクレアの双眸に映れば、梢を撫でるそよ風よりも取るに足らない。


クレアの睫毛は、頭から腐った果肉をぶちまけられた大魔導士の姿に微動だにしなかった。


彼女の世界は、視線が交わった刹那に完全に閉ざされていた。冷たい風に吹かれれば今にも折れてしまいそうな、目の前の華奢で病的な影――ただそれだけのために。


クレアの紫紺の瞳の奥で渦巻いていた氷が、いつしか病的なまでの湿り気と偏執へと変貌を遂げ、その唇の端には、見る者の背筋を凍らせるほどに微かで柔らかい笑みが浮かんでいた。


「……ルシア」


骨の髄に刻み込まれたその名を、ほとんど吐息のように漏らした瞬間、ルシアの深い翡翠色の瞳が小さく収縮した。それと同時に、クレアは泥濘を踏みしめて間合いを詰めていた。


複雑な魔力の手順など介さない。身を捩るような抵抗の余地すら残さなかった。クレアの所作はどこまでも優美で、そして冷酷だった。


氷水に浸した絞首索のごとく白く冷ややかな腕が、毛皮のショールを纏ったルシアの細い背中に強引に回り込み、もう一方の手が躊躇いなく少女の膝裏をすくい上げる。根こそぎ刈り取るような勢いで、ルシアの全身を宙へと抱き上げていた。


名うての「お姫様抱っこ」――だがそれは、鉄の枷にも等しい人外の膂力に裏打ちされていた。


ルシアの身体から唐突に重力が失われ、鼻腔は一瞬にして、クレアの纏う清冽で高価な、それでいて息が詰まるほどに重苦しいシダーウッドの冷たい香りに呑み込まれた。


小柄な少女の顎はクレアの冷たい鎖骨へと押しつけられ、その優美な白首の下で、狂乱じみた独占欲によって激しく脈打つ血管の鼓動を生々しく感じ取っていた。


「クレア! 耳でも腐ったの、この狂い女が! その子を離し――!」


背後で、ヴァレリーの信じがたいといった激昂と、ガルクが猛然と大剣を引き抜く金属音が同時に爆ぜた。


だが、クレアはただ淑やかに身を翻しただけだった。滝のように流れる紫の髪が冷風を切り裂いて翻り、あらゆる喧騒も、殺意も、詰問も、すべてを背後へと冷淡に置き去りにする。


彼女は腕の中で驚愕のあまり硬直している黒髪の少女を、自らの胸元へとさらに強く抱きすくめた。あたかも失われた至宝を取り戻し、慈しむかのように。割れた陶器と泥濘の散らかる床を踏み越え、今にも崩れそうな粗末な木戸を大股で潜り抜けていく。


夜風が吹き荒ぶ中、クレアは伏し目がちに、至近距離にある血の気の引いたルシアの顔を見つめた。微かに弾む低く柔らかな声は、耳朶に直接滑り込む呪詛のようだった。


「いい子にして……おうちに帰りましょうね」


確かにクレアはいまだ、ルシアに関する記憶を取り戻してはいなかった。


世界によって無残に削ぎ落とされた記憶の断層は、相も変わらず冷たく乾ききった荒野のまま横たわっている。


だが、ルシアの今にも壊れてしまいそうな儚い肉体を胸に抱き留めた瞬間――クレアの久しく凍てついていた心臓は、内側から張り裂けんばかりの激しい鼓動を跳ね上げたのだ。


血液が沸騰している。皮膚の隅々、神経の末端の一本一本に至るまでが、鋭く狂おしい歓喜の共鳴を上げていた。


肉体の渇望は嘘を吐かない。それは理性の導き出した結論などではなく、暗闇を手探りで彷徨っていた魂が、ようやく己の欠けた半身へとぶつかり直した証だった。


胸腔の奥底で狂い咲くこの熱情は、一切の留保なき純粋なときめき――すなわち、運命の鎖が再びその輪を締め上げた澄んだ音に他ならなかった。


因果によって何度消し去られようと、輪廻と忘却が幾度降りかかろうと。この小柄で痩せ細った女をその骨肉に抱き寄せさえすれば、すべては不条理なまでに原初の起点へと立ち返ってしまうのだ。


カリーナであろうと、この自分であろうと。彼女たちは生まれながらにして、目の前にいるルシアという女を愛するように定められている。


魂の深淵に刻まれたこの独占欲と愛執は、記憶喪失だろうが、呪いだろうが、あるいは神々の悪意であろうが、微塵たりとも削ぎ落とすことなどできはしない。


だからこそ、クレアはこの女が勝手に逃げ回ることを決して許すわけにはいかなかった。このような薄汚れ浅ましい掘っ立て小屋で、劣悪な酒精を煽っていたなどという事実を目にするだけで、自らの理性が生きたまま削ぎ落とされるような錯覚を覚えるほどだった。


「……止まれ」


低く擦れるような摩擦音が、風を裂く鋭い風切り音とともに炸裂した。クレアが半歩踏み出した瞬間、ガルクの持つ分厚く重々しい無刃の黒剣が泥濘の前に叩きつけられるように横たわり、彼女の行く手を強引に遮っていた。


少年の周囲の大気がにわかに粘度を増し、灼熱を帯びる。実体化せんばかりの紅蓮の闘気がその全身から立ち上り、足元の小石を微細に震わせていた。


聖庁最年少の異端審問官として、ガルクは幾多の血生臭い粛清の中で、この世のあらゆる異形や怪物を目の当たりにしてきた。


だが、全帝国から『初恋』と讃えられるこの侯爵令嬢の美しい皮膜の下に潜んでいるのは、強固に守りを固めた重装都市すら瞬きの間に粉塵へと変えてみせる絶対の天災だ。


彼女がその気になりさえすれば、指先をわずかに動かすだけで大地を引き裂き、万物を呑み込む大地震を引き起こすことすら造作もない。


(……この程度の闘気じゃ、あの女の護法障壁の表面すら削れやしねえ)


ガルクの喉仏が上下し、うなじの産毛が総毛立つ。歴戦の勘が頭蓋の内で警報を狂い鳴らしていた。クレアを相手にすること自体が勝ち目のない無謀だというのに、その腕には、触れれば砕けてしまいそうなルシアが囚われているのだ。


声楽魔法の余波がわずかでも掠めれば、ルシアの肉体など耐えられるはずがない。進むも退くも地獄という焦燥が少年の奥歯を噛み締めさせ、辛うじて言葉という名の手綱を繰り出させた。


「おい……シルヴィア家の高貴なお嬢様が、白昼堂々こんな真似当たらぬ拉致紛いの真似を晒して、ご自慢の一族の栄光が地に堕ちるとは思わねえのかよ!?」


ガルクは、ルシアとクレアがかつて枕を並べる恋人同士であったことを重々承知していた。だが、先刻の二人の視線と言葉の交錯を見れば明白だった――


クレアはルシアを思い出してなどいない。記憶が白紙のままだというのに、この狂った女は何を根拠に、これほど平然と他人の首根っこを掴んで連れ去ろうというのか。


その詰問を耳にして、クレアの足が止まった。


彼女はわずかに首を傾げ、神の手によって彫り出されたかのような無欠の美貌を、黄昏とカンテラの鈍い光の中へと巡らせた。


腕の中のルシアをさらに優しく自らへと引き寄せ、唇の端に微かな笑みを浮かべる。それは一点の曇りもない、聖女の慈愛すら思わせる完璧な貴族の微笑みだった。


その笑みを浴びた瞬間、幾多の修羅場を潜り抜けてきたはずの審問官の息が詰まり、その精神に致命的なまでの揺らぎが生じた。


それは意志の強弱などとは無関係だった。『頭目を奪われた』という現実を差し引いたとしても、この大陸のいかなる生類であれ、クレアが微笑みを見せた刹那に平常心を保ち続けられる者など存在し得ないのだ。


それこそが、クレアが誰一人として明かさず、ルシアにすら悟らせていない生得の権能――【無差別の寵愛】。


生まれ落ちたその瞬間から魂の奥底に刻み込まれた、呪いに等しい神の恩寵。


老若男女を問わず、理性を保った人間であろうと、残虐非道な魔物であろうと、荒野を彷徨う物言えぬ獣であろうと――彼女の傍に寄り添うだけで、無意識のうちに純粋な好意と庇護欲を強制的に植え付けられてしまう。


この権能のせいで、クレアは物心ついた時から、自分を「真に」愛してくれる人間などこの世に一人として存在しないと諦めきっていた。


注がれる賛美も、跪きも、狂信的な求愛も、すべてはこの薄汚い権能が誘発した哀れな生理反射の産物に過ぎない。


あの、ルシアという黒髪の女が現れるまでは。


ルシアだけが、社畜特有の気だるげで冷めた瞳のままで自分を見つめてくれた。ルシアだけが、強制的な権能の干渉を綺麗に剥ぎ取った上で、真に自由な魂をもって自分をその腕に抱きしめてくれたのだ。


それなのに――あろうことか、自分はこの忌々しい忘却のせいで彼女を忘れ去り、この虚弱な身体を引きずらせて荒野を放浪させ、こんな薄汚い酒棚で安酒に溺れさせてしまった。


そこまで思考が至った瞬間、クレアの双眸を覆っていた柔らかな光の幕は、瞬く間に猛毒を孕んだ氷結の殺意へと反転した。


「よく存じておりますわ。聖庁が誇る高名な異端審問官、ガルクさん……でしたかしら?」


クレアの声は小夜啼鳥の囀りのように柔らかく、愛し合う者の耳朶に囁きかける睦言のように甘やかだった。だが、紡ぎ出される一言一言は、砂糖漬けにした毒針のごとく正確に少年の胸元を刺し貫いた。


「私とルシアがかつて将来を誓い合った間柄だとご存じなら、その誓約の重みがわからぬはずもございませんでしょう? 今……私は妻としての義務を果たし、泥酔して正気を失った愛しい人を天幕へ連れ帰り介抱しようとしているだけですの。それを、このように殺気を剥き出しにして大剣で遮るなど……まさか貴方、彼女が酔い潰れて抗えぬのをいいことに、私の正当なる伴侶と密通でも企てていらっしゃったのですか?」


『他人の伴侶に横恋慕し、卑劣な企みを抱いた不届き者』――名門貴族の体面をかなぐり捨てたその泥塗れの汚名が、電光石火の速さで叩きつけられた。


「ま、待て! 滅多な言いがかりをつけんじゃねえ!」


己の大剣のみを信じて生きてきた直情径行の少年が、このような上流貴族の濡れ衣の着せ合いなど知る由もない。ガルクの顔面は瞬く間に羞恥と憤怒で朱に染まり、両手を狼狽えて振り乱しながら必死に潔白を叫んだ。


「俺はアネさんにそんな下劣でやましい真似なんざこれっぽっちも考えてねえ! ただ一緒に酒を飲んでただけだ! 寒そうにしてたから――」


言い訳を喚き散らしながら、ガルクは己の失策に戦慄した。この女の吐き捨てるような言葉に完全に踊らされ、そもそも自分が大剣を引き抜いた当初の目的をきれいさっぱり見失っていたのだ。


そして、クレアの腕の中で雁字搦めに拘束されているルシアは、表情を一切消したまま瞼を閉じた。


(……この駄犬、開幕で魅惑と濡れ衣を同時に食らって完全に詰んでやがる。もう頼りにならねえ)


「クレア……思い出してから堂々と連れて行ってほしいの。それまでは、私にだって個人の自由があるはずだし――それに、私たちまだ結婚してないでしょ」


ルシアは力なく睫毛を伏せた。ガルクを当てにするのは完全に諦めていた。この野犬がいかに牙を剥こうと、その本質は己の腕っぷし一つで世界樹の頂へ登り詰めようと夢見る、無垢な熱血漢に過ぎないのだ。


帝都の頂点に座す特権貴族が、微笑みを浮かべながら証拠を捏造し、一滴の隙もなく他人を社会的に圧殺する毒手など、見たことすらあるはずがなかった。


「思い出せなければ……連れて行っては差し上げられませんか?」


クレアの腕がさらに強固に締め上げられ、その白く細い指先が、衣服越しにルシアの腰の肉へと深く食い込んだ。


彫刻のように整った美貌に胸を締め付けるような哀怨の翳りが落ちるが、その深い紫の瞳の底に渦巻いているのは、粘り気すら帯びた剥き出しの独占欲だった。


「私たちはあんなにも愛し合っていたというのに、違いますか? ルシア、私を誤魔化すことなどできなくてよ。貴女がこのところどのような足取りを辿ってきたか、すでに調べはついておりますの……毎日毎日安酒を煽り、自暴自棄になって、ただでさえ脆いお骨と内臓をこれほどまでに痛めつけ散らかして。そんな風にご自身を踏みにじる貴女を見て……私がその『自由』などという戯言を、見逃せるとでもお思いになって?」


「酒ならやめるから! それでいいでしょ!」


ルシアの心臓が激しく跳ね上がった。まさにその瞬間、クレアの伏せられた視線の端が、行く手を塞ぐガルクの姿を唐突に捉えていたからだ。


それは強者が虫けらを見下ろすような無関心ではない。神経の奥底から滲み出た、純粋で冷酷な悪意――まるで、重度の潔癖症を患う貴婦人が、目障りな野良犬の餌椀の中に、絞り切ったばかりの汚い雑巾の泥水を一桶丸ごと注ぎ込んでやろうと企んでいるかのような、ねっとりとした残虐な嗜虐心。


ルシアの背筋に冷汗が伝い、なりふり構わず防波堤を引っ張り出した。


「でも、私には公務があるの! これは本当よ――オース様が証明してくれる!」


叫びざま、ルシアはクレアの腕の影から、ガルクへ向けて痙攣せんばかりの鋭い目配せを投げつけた。


少年の全身の神経が張り詰め、ようやく先刻の幻惑から力ずくで意識を引き戻した。彼は自らの舌先を思い切り噛み破り、荒野の猟犬たる凶光をその眼窩に宿らせる。


紅蓮の闘気が再び猛烈に噴き上がり、聖庁の審問官としての鉄血の気概を呼び覚ましていた。


「ルシアは現在、聖庁の緊急短期契約に基づき、オース様に直属する護衛官だ! シルヴィア家の令嬢であろうと、枢機卿府の正式な罪状状もなく聖職関係者を拘束し、あまつさえ審問官に危害を加えようというなら……帝国法および神聖法において、死罪に相当する重罪だぞ!」


ガルクは血に濡れた牙を剥き出しにした。目の前の優美な女が踏み込んではならない深淵であることは百も承知だった。


だが、聖庁という巨大な錦の御旗でほんの一瞬でも躊躇わせることができれば、己の片腕を一本へし折られる覚悟で、力ずくでルシアを奪い返す隙が生まれるはずだった。


空気が、完全に凍りついた。


だが、ガルクが期待した逡巡も動揺も、そこには微塵も現れなかった。


短い沈黙の後、クレアのわずかに弧を描いた紅い唇の隙間から――まるで暁の森に響く小鳥の囀りのような、鈴の鳴る美声が零れ落ちたのだ。


「……ふふ……ふふふ……」


清らかで、透き通るように甘やかな銀鈴の音。


爛れた果肉を顔から拭い去り、憤怒の形相で杖を手に飛び出してきたばかりのヴァレリーも、全身を強張らせていたガルクも、その軽やかな笑い声を耳にした瞬間、脳内を真っ白に染め上げられ、魂をまるごと吸い取られそうな錯覚に囚われた。


だが、その細い腕に絞め殺されんばかりに抱きしめられているルシアの血は、その瞬間、爪先まで完全に凍りついた。


知っている。彼女はこの笑い声を、あまりにも知りすぎていた。


それは歓喜でも、嘲弄でもない。クレア・シルヴィアが、もっとも無邪気で、もっとも残虐な虐殺の快楽に心を奪われた時にしか漏らさない――身の毛もよだつ『本気の昂ぶり』の旋律だった。


クレアは緩やかに首を傾げ、紫の美髪を肩先から滑り落とさせた。水蒸気を孕んだまま、しかし生きている人間の温度を一片も宿していない瞳で、憐憫と加虐の入り混じった視線をガルクへと投げ下ろす。


「貴方を殺すのに……罪証が要るとでも?」


囁くようなその声音は恐ろしいほどに柔らかく、それゆえに、人の骨髄まで凍結させる純度の高い殺意に満ちていた。


「審問官さん、何か酷い勘違いをなさっていらっしゃるようですわね。この世界において、罪証が揃ってから人間を殺めるなどという決まりはございませんの。――罪証などというものはね、貴方を殺した後で私が望むだけ、いくらでも帝国の書類机の上に積み上げて差し上げられますわ」


ガルクの呼吸が完全に止まった。魂の深淵から湧き上がるような死の鉄錆臭が、鼻腔を埋め尽くす。

脅しではない。彼女は本気だった。


クレアはこの場で、次の瞬間にでも、彼を肉塊に変えて蒸発させる腹積もりなのだ。


階級社会の頂点に君臨するシルヴィア家にとって、底辺から這い上がってきた審問官の首をへし折ることなど、路傍の羽虫を踏み潰すよりも容易い。


ましてや、彼を重用しているオース大司教は聖庁内部で孤立無援、すでに薄氷を踏む立場にある。もし今夜、ガルクがこの荒野の泥濘で物言わぬ肉塊と成り果てたところで、聖庁の高官たちは揉み消しのために、クレアが捏造した『不敬なる重罪の公文書』へ喜んで極上の封蝋を押すことだろう。


「私が貴方を殺すことと、貴方に何の関わりがありますの?」


クレアの声はどこまでも平穏を保っていた。だが、その言葉が落ちた瞬間、並外れた実力を誇るヴァレリーですら、首筋に死神の冷たい鎌を直に押し当てられたかのような錯覚に戦慄していた。


ガルクの持つ大剣が、激しく打ち震える。クレアの豪奢な袖口から覗く白魚のような指先が、しなやかに持ち上げられていた。その指先の周囲の大気が、肉眼で視認できるほどの歪みを伴って共振を始めている――


声楽魔法による体内共鳴爆破。肉を内側から沸騰させ、吹き飛ばすための前兆だった。


(やらかした……完全にやらかしたッ!)


ルシアの心臓が早鐘を打つ。この女が狂気に堕ちた時、後の始末など微塵も顧みないことを誰よりも知っていた。このままでは、ガルクは一秒後には煮え爛れた挽き肉の山と化す。


電光石火の思考の果てに、ルシアは一切の矜持と抵抗をかなぐり捨てた。


彼女は勢いよく上半身を跳ね上げ、先ほどまで強張らせていた華奢な両腕を、クレアの指先から音波が解き放たれる寸前に、躊躇うことなくその白く冷ややかな首筋へと絡めつかせたのだ。


黒髪の少女は、熱を帯びた自らの頬を、高価なシダーウッドの香気を放つクレアの首筋へ深々と埋め込んだ。追い詰められた末の、泣きじゃくるような掠れた甘え声を絞り出し、クレアの耳朶に唇を寄せ、微かに震わせながら縋りつく。


「……クレア。寒いの……風が強くて、お酒も不味い……おうちに連れて帰って、お願い……」


微かに熱を含んだ荒い吐息が、安果実酒の酸っぱい甘みを帯びて、クレアの無防備な耳裏の素肌へと容赦なく吹きかけられた。


滅びの祝詞を紡ごうとしていたクレアの指先が、虚空でピキリと凍りついた。


大気の不気味な歪みと共振が、嘘のように掻き消える。


クレアは滅多に見せることのない呆然とした表情で、一瞬だけ硬直した。暴虐の殺意を湛えていた紫紺の瞳が見開かれ、次の瞬間――心から焦がれた女の肌の温もりを直に浴びた刹那、瞳の奥に渦巻いていた氷雪と狂気は、春の雪解けのごとく跡形もなく融解していった。


そこに残されたのは、世界を満たし尽くさんばかりの、病的なまでの充足と蕩けるような温もりだった。


ルシアが演技をしていることなど、百も承知だった。


目の前で震える哀れな番犬の命を買い叩くための、安っぽい打算に満ちた懐柔策であることなど、痛いほど理解していた。


だが、そんなことはクレアにとってどうでもよかったのだ。


魂が、骨肉が、歓喜の悲鳴を上げている。胸の内に溢れ返る愛執の重さに、目頭が熱く潤んでいく。腕の中の警戒心の強い黒猫が、自らその爪を引っ込め、その身を預けて甘えてくれた――それだけで、すべては報われて余りある。


「……ええ。おうちに帰りましょうね」


クレアの腕が再びルシアの全身を強引に抱きすくめた。その身体ごと己の肉体へと縫い付けんばかりの強烈な力で。彼女は優しく首を傾げ、冷たい薄唇を、ルシアの熱い額へと愛おしげに落とした。


そうして、まるで生き返った心地で立ち尽くすガルクを、流し目で冷ややかに見下ろす。


「参りましょう、私のルシア。私の天幕に入ったからには……もう二度と、私の掌から逃げられるなどと思わないでくださいましね」

今日、自宅の回線が小説家になろうのサイトに弾かれてしまいました……(泣)。

ずっと気合いを入れて更新したかったのですが、これまでの展開は自分でも少し急ぎ足で書き進めすぎていたなと感じています。

ようやく少し腰を据えて、じっくりと物語を紡ぐ時間が取れるようになりました。

これから描く「狩猟祭編」は少し長めの構成になる予定ですので、私の作品を読んでくださっている読者の皆様には、どうか温かい目でお付き合いいただければ幸いです。


それと……納豆って本当に美味しいですよね。

納豆が好きな人はみんな幸せになれるって、信じてます!


BY 酣睡 台湾・桃園にて 20:40

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