最悪な陣営配置と、ちっとも面白くない異世界
教皇庁の黒甲地牛重装馬車は、太古の絶嶺へと続く山道の傍らに静かに佇んでいた。
ここは岩肌を縫うように清らかな渓流が流れ、古木が落とすまだらな木陰が広がる、本来なら申し分のない休息の場だった。
唯一の難点は、晩秋特有の肌を刺すような冷気だ。ルシアは分厚く柔らかな毛皮のショールに身を包んでいたが、湿り気を帯びた冷風は容赦なく華奢な骨の隙間へと潜り込み、ちくちくと苛立たしい胃の痛みを引き起こしていた。
もっとも、今のルシアには寒さを気にしている余裕など微塵もなかった。
なにせ両の頬を、青筋を浮かべた凶暴な両手でぐにぐにと弄ばれ、まるで無抵抗なパン生地のようにこねくり回されていたからだ。
「昨日の夜、出発時間を話し合ってた時さあ! あんたたちの舌は猫にでも引っこ抜かれてたわけ!? それとも脳みそを地牛に踏み潰されたの!? あぁん!? 今朝一番に出発するなんて一言も聞いてないんだけど!?」
ヴァレリーはまるで尾を踏まれた雌虎のように逆上していた。目尻を釣り上げ、全身から本物の怒気を放っている。
艶やかなワインレッドの長髪は暴風に煽られてボサボサに逆立ち、本来なら優雅で品格あるはずの魔導士ローブは、草の葉と泥まみれだった。肩で激しく息をし、荒い呼気を吐き出している。
唇をひしゃげさせられたルシアの目は完全に死んでいた。この同郷かつ悪友が、文字通りブチ切れていることを客観的かつ痛切に理解する。
無理もない。地牛の短く太い四肢による足取りは鈍重に見えるが、その実、太古の亜種たる血筋を引く重装陸行巨獣だ。
固有の権能により、その一歩は常人の数十歩にも匹敵する。こんな険しい山道で疾走された日には、並の魔術師が飛行魔法の出力を最大速度まで引き上げない限り、巻き上がる粉塵を拝むことすら叶わない。
つまりヴァレリーは、己の肺活量と魔力回路を限界まで絞り尽くし、数十里も引き離された後でようやく、文字通り這々の体でこの仲間を置き去りにしたクソ馬車に追いついたのだ。
物理的な意味でのデスレースを完走させられたのだから、同じ転生者であるルシアを捕まえて八つ当たりするのも、これ以上なく妥当な権利の行使と言えた。
「ま、まあまあ、落ち着いてください……ヴァレリー教授。喉を潤すために、少し温かいハチミツ水でもいかがですか?」
ルシアの青白く小柄な顔が真っ赤に腫れ上がっていくのを見かねて、オースが神聖かつ端整な美貌に困り眉を浮かべ、繊細な白磁のカップを両手でおずおずと差し出しながら仲裁に入った。
ヴァレリーはこの高貴なる教皇に視線ひとつ寄越さず、ひったくるようにカップを奪うと、煽るように一息で喉へと流し込んだ。
今の彼女にとって、礼儀作法など糞食らえだ。沸騰しかけた内臓を宥めるには、糖分と水分がどうしても必要だった。
「ぷはぁっ……生き返った」
ヴァレリーは袖で乱暴に口元を拭い、空になったカップをオースの胸元へと乱雑に押し戻した。
渓流の岩に腰を下ろしていたガルクは、巨大な刃無しの黒剣を両腕で抱え、オレンジ色の短髪を秋風に揺らしていた。
普段は単細胞でカラカラと笑ってばかりいるこの野犬のような少年だが、今はその野性味を帯びた瞳を珍しく深く沈ませている。
底辺の泥沼を這い回って育った聖殿の審判官として、彼は権力闘争が放つ血生臭さに対して、獣じみた本能的な嗅覚を持っていた。
「ところでよ……ヴァレリー教授。あんた、本気であたしたちと太古の絶嶺なんていう泥沼に突っ込む気なのか?」
ガルクは無骨な親指で鼻の頭を擦り、いつになく真剣な声音で口を開いた。
「狩猟祭自体がもともと肉挽き器みたいなもんだが、問題はそこじゃねえ。オースの首を欲しがってる奴らが、太古の絶嶺から帝都の城門までずらりと列をなすほどいるってことだ。あんた、帝都魔法学院の前途洋々たる教授サマだろ。あたしたちみたいな泥舟に付き合って命を捨てるなんて、割に合わねえんじゃねえのか?」
客観的な立場から言えば、ガルクは自分のアネさんがそもそもオースの厄介な依頼を引き受けるべきではなかったとすら思っていた。
現在のオースの境遇は、もはや「政治的危機」などという生易しいものではなく、「全世界から死を望まれている」状態だった。
正統なる皇室の血を引きながら、教廷の教皇の座に君臨する男。片手で神権の審判旗を掲げ、もう片方の手で世俗の生殺与奪の権を握る――
あまつさえ彼には、あらゆる権力者が夜も眠れなくなるような恐るべき特権すら与えられていた。皇族に対する最終的な処刑執行権だ。
つまり、尊貴なる皇太子クロードであろうと、オースが教皇の裁決書に封蝋の印を押しさえすれば、堂々と断頭台へと送り込むことができる。
神権と皇権の「二股取り」というこの歪な怪物は、大陸中のあらゆる統治者の逆鱗を完膚なきまでに踏み虙じっていた。
ノーランド帝国の現皇帝は、史官たちから「千年に一人の鉄血の名君」と称えられている。
だが、そんな英邁な覇王ですら、他国の大陸勢力や各教廷が裏で「神殺しの包囲網」を企てていると知るや否や、仮病を使って後宮の奥深くに引きこもり、毎日のように側室を侍らせて酒色に耽り、見て見ぬ振りを決め込んでいた。
皇帝ですら見捨て、黙認を選んだという事実が、オースの立たされている断崖絶壁の深さを何よりも雄弁に物語っていた。
「危険なことくらい百も承知よ」
ヴァレリーは苛立たしげにボサボサの赤髪を掻きむしり、鼻を鳴らした。
「でも、この教皇がそんな簡単に首を撥ねられるタマなら、ここまで五体満足で生き延びてられるわけがないでしょうが」
その言葉は、事態の不条理な核心を的確に突いていた。
オース個人の純粋な戦闘技術など、七大陸の頂点に君臨する強者たちの目から見ればランキングの枠外であり、本物の強者を前にすれば素人同然と言っていい。
だがそれでも彼は、大陸全土から最も「物理的抹殺が困難なゴキブリ」として認知されていた。
すべては、彼に宿る規格外の二つの権能によるものだ。
一つは、未来の因果の破片を病的なまでの精度で手繰り寄せる【未来観測】。そしてもう一つが、【超活化】と呼ばれる恐るべき神の恩寵。
極限の刹那、肉体能力を太古の凶獣すら凌駕する領域まで爆発的に引き上げる肉弾戦の権能。
そして何より凶悪なのは、それに付随する超速再生能力だった――体内にほんのわずかでも聖力が残ってさえいれば、たとえ禁呪の光砲をまともに浴びて肉片と灰塵に変えられようと、たった一筋の聖力を手繰り寄せ、無から完全な肉体を復元してみせる。
要するに、彼の聖力を底の底まで枯渇させない限り、絶対に死なないのだ。
だが……理論上「死なない」ことと、「この狩猟祭を無傷で生き残る」ことの間には、天と地ほどの開きがあった。
「死なないから何だって言うのよ」
ルシアは赤くなった頬をさすりながら、まるで倒産寸前の財務諸表を淡々と読み上げるような声で吐き捨てた。その瞳には、この世のすべてを諦めきった虚無が宿っている。
「あんたたち、自分たちがどれだけ破滅的な任務を抱え込んだか、一度冷静に棚卸ししてみたらどう?」
彼女は細く青白い指を折り、冷徹に数え上げた。
「第一に、オース。三大大陸の皇族と三大教廷が手を組んで、どれだけの規模の精鋭暗殺団を組織したか分かったもんじゃない。全員が絶嶺の雪原で刃を研いで待ってる。理由は単純明快よ――『権力を二股にかけた狂人など、この世に二人と生かしておいてはならない』から。オースが死ななきゃ皇帝どもは枕を高くして眠れないし、大司教たちの面子は丸潰れなの」
「第二に、私」
ルシアは自嘲気味に口角を歪めた。
「私が昔、各国でやらかした無数の悪戯。本来なら『世界の忘却』で全部チャラになってたはずだった。でもこの破れ権能が衰退し始めたせいで、帝都の腐れ貴族や裏社会の暗殺者どもが、やられた悪行を次々と思い出し始めてる。全員が私の皮を剥いで骨を折る気満々よ」
「そして第三に、感情の負債」
ルシアの聲音がワントーン冷たくなった。まるで極めて厄介な過去の労災事故について言及するかのように。
「ヴァレリーがここ数日で探ってきた情報通りよ。カリーナとクレアは、記憶こそ取り戻していないけれど、魂と肉体には生理的な本能が刻み込まれたまま。縄張りを荒らされた飢えた猛獣みたいに、私の挙動を一挙手一投足見張ってるわ」
ルシアは指を下ろし、空虚な眼差しで目の前の清流を見つめた。
「で、極めつけにうちの戦力配置を見てみなさいよ。ヴァレリーと桃香は、防御力ゼロの魔法使いとアサシン。三大大陸の正規軍と正面からぶつかり合えば一瞬で圧殺される。ガルクは剣を振り回すことしか頭にない熱血筋肉バカ。オースは殴られて悲鳴を上げるしか能のない発光デコイ。そして私は、大出力の術式をちょっと使っただけで血反吐を三升吐いてぶっ倒れる病弱女」
山風が吹き抜け、木立の間を痛々しいほどの静寂が満たした。
先ほどまで身体を解していたガルクは、大剣を抱えたまま固まっていた。
目をパチクリとさせながら、ルシアの寸分の隙もない完璧なロジックを頭の中で最初からなぞり直すと、喉仏をごくりと上下させる。
少年の唇がわななき、散々ためらった末に、ようやく荒原育ちの直球すぎる疑問が歯の隙間から漏れ出た。
「……アネさん。話を聞く限りさ、あたしたちがこのまま狩猟祭に行くのって……純度百パーセントの犬死にじゃねえのか? これ、完全に詰んでるんじゃねえか?」
秋の湿った冷風が山道を吹き抜け、ルシアは無意識に乾きかけた桜色の下唇を舐めた。
微かな痛みが、散らかりかけた思考をいくらか覚醒させる。
後悔しているか? 正直、腸が煮えくり返るほど後悔していた。
ルシアは内心で自嘲する。過去二度の生で積み上げた鬱屈と、世界から放逐された自暴自棄の果てに、彼女はかつて各国の上層部や貴族たちを相手に、悪質な悪戯の数々を撒き散らしてきたのだ。
元より「世界が自分を自然忘却する」という無敵の免罪符にあぐらをかき、好き放題暴れては尻を叩いてトンズラを決め込んでいた。
だが、その権能が急速に衰退している今、彼女自身には他人の記憶を手動で消し去る技術などない。
彼女に一杯食わされた権力者や闇ギルドの暗殺者どもが、一人、また一人と「正気」を取り戻しつつあった。
この四面楚歌の絶境において、唯一の避難所こそがオースだった。
ルシアがこの地獄のような依頼を引き受けた真の理由もそこにある――極めて打算的な利害の一致だ。
オースの金髪頭に最高教皇の冠が載っている限り、たとえ彼女が転生者であろうと、神殺しであろうと、あるいは大罪を背負った異端であると露見しようと、オースの持つ帝国法を超越した特権だけは、最後の護身符として機能する。
だが、計算外のアクシデントがあまりにも多すぎて、極限のプレッシャーに慣れきった彼女の社畜精神を以てしても、舵取りに迷いが生じていた。
「まあまあ、皆さんそう悲観しないでください。状況はそこまで絶望的ではありませんよ。少なくとも、私たちにはまだ猶予時間があります」
全員の顔から血の気が失せ、今にも揃って崖から身を投げそうな空気を察して、オースは聖職者と皇族の気品を兼ね備えた柔らかな声音で、どうにか軍心を宥めようと努めた。
「厳密に言えば、太古の絶嶺の狩猟祭は一週間に及びますが、初日は各陣営の入場と天幕の設営を行う準備段階に過ぎません。各大勢力も衆人環視の中では体裁を繕う必要がありますから、本物の殺害許可が下りるのは二日目の朝、進軍の号角が鳴り響いてからです。つまり、あの肉挽き器の中で持ちこたえる必要があるのは、実質六日間だけですよ」
オースは細く長い指を宙に滑らせながら、この狩猟祭の残酷なルールを噛み砕いて説明した。
初日は、三大大陸の貴族、皇室親衛隊、そして各国が巨額の報酬で雇い入れた伝説級の傭兵団が続々と入場してくる。
彼らは運営からあらかじめ指定された駐屯区画へと陣取り、幾重にも守りを固めた天幕を張り巡らせ、私兵や猟犬の統制を整える。
この狩猟の基本構造は、山麓を取り囲む数百もの強大な精鋭部隊が、太古の絶嶺に対して蟻の這い出る隙もない鉄桶の包囲網を敷くことにある。
そして開戦の号角が鳴り渡った瞬間、狂暴な凶獣どもの牙を潜り抜けながら、誰よりも野蛮に絶嶺の頂を目指して突き進まなければならない。
「それに忘れてはなりません、これは大陸全土に公開される一大神事です」
オースは雲霧煙る絶壁の高台を指差した。
「絶嶺の上空には、数百名の一等大魔導士が結託して【全景観測鏡】を展開し、猟場の至る所で繰り広げられる死闘が、各陣営や帝都の広場にある巨大な光幕へとリアルタイムで投影されます」
理論上、これほど徹底した公開中継の監視下において、参加者同士の悪質な殺傷は重罪であり、名門貴族であろうと爵位を剥奪され断頭台へ送られることになっている。
――もっとも、それも「理論上」の話だが。
ルシアは同情の欠片もない冷ややかな目でオースを見つめた。
彼女もオースも痛いほど理解している。今や全大陸の上層部が、この男がその場で即死することを願ってやまないのだ。
全員が黙認している暗殺劇において、魔法の光幕にちょっとした細工を施し、混戦の吹雪と魔力の乱れを偽装することなど造作もない。
「暴走した流れ弾」という名目の高位禁呪をぶち込めば、教皇の首を胴体から綺麗さっぱり消し飛ばす大義名分などいくらでも立つ。
事後、各ギルドや審判所は形式的な責任の擦り付け合いをし、「不慮の事故であった」と適当にお茶を濁すに決まっているのだ。
それどころか最悪の場合、オースが刺客に首を刎ねられる瞬間が全天下の光幕に鮮明に中継されたとしても、仮病を使って雲隠れしている皇帝や腹黒い枢機卿たちは、せいぜいカメラの前で痛惜の念を滲ませた白々しい面を作り、暗殺者の所属陣営に「莫大な見舞金の支払い」を命じて幕を引き、裏ではシャンパンを開けて祝杯を挙げるのがオチだろう。
権力者どもの目において、教皇の命など太古の地牛一頭分ほどの価値もありはしない。
だが、そんなこと以上にルシアの胃神経を激しく痙攣させ、背筋に冷汗を滲ませたのは、オースの首がいつ光砲で蒸発するかという問題ですらなかった。
彼女は手元の陣営配置図へと視線を落とし、心臓の鼓動を鋭く跳ねさせた。
「……オース」
ルシアの声は、氷漬けの地下室から引っ張り出してきたかのように冷え切っていた。
「正直に言いなさい。この天幕の位置を決めたのは誰?」
ルシアは羊皮紙に描かれた区画割りを睨みつけ、冷汗をダラダラと流した。
「え、ええと……教皇庁の最高規格に則って割り振られた、中央の貴賓席ですが……」
「貴賓席なわけあるか、クソが」
ルシアは容赦なく遮り、口元を極限まで引きつらせて冷笑を浮かべた。
羊皮紙の地図の上で、牽引用の地牛を含めても雀の涙ほどの人数しかいない自分たちの貧相な部隊は、あろうことか二つの巨大で威圧的な軍事要塞の「真ん中」に、すっぽりと挟み込まれていたのだ。
左手には、北境の雄獅、カリーナのグラフィエン公爵家鉄騎軍団。
右手には、名門の筆頭にして魔法塔の首席、「帝国の初恋」クレアが統率するシルヴィア家の精鋭魔導士連隊。
こんなものは中央の貴賓席などではない。飢え狂う二頭の猛獣の鼻先に、痩せ細った野ウサギを一匹、無理やり放り込んだだけの処刑台だ。
たとえ権能によって記憶が消し去られていようと、ルシアに対する執着と独占欲は、魂の深淵に本能として焼き付いている。
あの二人の怪物が、真っ先にこの狭苦しい空白地帯へと殺気配りの視線をロックオンすることは火を見るより明らかだった。
ルシアはずきずきと痛むこめかみを押さえ、視界が真っ暗になるのを覚えた。
今、彼女の前に残された生還ルートは二つに一つだ。今日の日が暮れるまでに、自らの存在感を空気並みに希薄化させる手段を見つけ出すか。
あるいは、初日に残された最後の二十四時間の猶予を使い倒し、社畜の徹夜残業めいた超絶効率で、あの忌々しい「手動記憶消去術式」を泥縄式に開発し切るか。
さもなくば、明日の黎明を迎えた瞬間、他陣営からの光砲が降り注ぐよりも先に、両隣の天幕から放たれる骨の髄まで凍てつく二対の視線によって、生きたまま肉も皮もズタズタに引き裂かれることになる。
ヴァレリーは、ルシアのただでさえ血の気のない顔色が瞬時に蒼白へと変わるのを見て、訝しげに首を伸ばし、その羊皮紙の陣営配置図を覗き込んだ。
一瞥しただけで、ヴァレリーの鋭利な金色の瞳が危険なまでに細められる。
「ハッ、カリーナの女が手を回したわね」
ヴァレリーは口角を歪め、隠しようもない嘲弄と頭痛を吐き出した。
「大会の公印が押された書類に、ここまで堂々と私怨をねじ込んでくる横暴さなんて、全帝国を探してもあの女くらいのものよ」
ここまで来てしまえば、もはや賽は投げられたのだ。今さら抗議したところで怯懦を晒すだけ、あとは来るもの拒まずで場当たり的に凌ぐほかない。
公平に見れば、クレアは確かに厄介だが、いざ腹を括って魔術の衝突に発展したところで、ヴァレリー自身、受け止める自信はあった。
魔力の総量、術式の精度、戦場でのアドリブ力において、帝都魔法学院の最年少教授である彼女と、シルヴィア家の至宝たる令嬢は本来ほぼ互角だ。
本気でやり合えば、どちらがどちらを地面に叩き伏せるかなどやってみなければ分からない。
本当に致命的なのは、左側だ。
ヴァレリーの視線が、グラフィエン公爵家を象徴する黒地に霜狼の紋章へと移り、そのまぶたが抑えきれずにピクピクと痙攣した。
あれはカリーナだ。
北境の雪原において、単身で氷淵の巨竜の脊椎をへし折り、辺境を荒らし回った魔神王軍の半数を長剣一本で叩き潰し、その魔神王本人すらも脱兎の如く敗走せしめた正真正銘の凶獣。
クレアが極限まで研ぎ澄まされた名刀だとすれば、カリーナは人の皮を被った天災そのものだ。
二歩歩けば二回血を吐くようなルシアのペラペラな身体が、もしカリーナと正面から鉢合わせにでもなれば……「這々の体で逃げ出す」などという表現は、その一方的な虐殺に対する最も生温く慈悲深い美化に過ぎない。
あの女の平手打ち一発で、太古の絶嶺の永久凍土に骨壺ごと散骨されるのが関の山だ。
ヴァレリーは顔を上げ、秋の高く冷え切った陽光の下に、疲弊しきった横顔を晒した。
太古の絶嶺の上空に広がる天空は、偽物めいて青く、塵ひとつないほどに澄み渡っている。だが、その直下に広がる大地は、窒息しそうなほどの血生臭い打算に満ち満ちていた。
彼女の胸の内に、深い深い幻滅が湧き上がってくる。
同じ転生者だというのに、他人が引くカードは無双系成り上がりか、あるいは呑気なスローライフハーレムのはずだ。
どうして自分たち貧乏くじの元社畜組だけ、難易度が初手からナイトメアモードに設定されているのか。
たとえ自分がこの世界で血反吐を吐きながら成り上がり、誰もが畏怖する帝国の大魔導士の座を勝ち取ったところで、兵権を握り神座を支配する土着の怪物どもや権力の濁流の前では、尻尾を巻いて薄氷を踏むように生きるしかない。
いわゆる「大魔導士の尊厳」などと嘯いたところで、道端で貴族の馬車にいつ轢き殺されてもおかしくない平民より、ほんの爪の垢ほど息がしやすいだけの話だ。
秋風が木立を寂しげに吹き抜け、数片の枯れ葉を巻き上げた。
ヴァレリーは視線を戻し、すでに目の焦点を失って口から魂を垂れ流しかけているルシアを見下ろし、次いで隣でおろおろと、死なないくせに極度の緊張から法衣の裾を絶え間なく握りしめているオースを一瞥し、最後に腕組みをして熱血な死闘のことしか頭にない猪武者のガルクへと目をやった。
不条理極まりない疲労と哀愁が心の底から湧き上がり、ヴァレリーは深々と長いため息をつくと、人気のない山道に、元社畜としての哀鳴をポツリと零した。
「このクソッタレ……異世界なんて、ちっとも面白くないじゃないの」




