淡く断ちがたい情愛と、真に忘れ去られた女
朝霧のまだ晴れぬ明け方、教皇庁の威容を誇る冷厳な白き山門の前には、肌を刺すような寒気が立ち込めていた。
教廷の黄金の百合の紋章をあしらった、黒幌の重装二頭立て馬車が一台、石段の麓に停まっている。牽引するのは並の駄獣などではない。全身に重厚な黒鉄の装甲を纏った二頭の「地牛」だ。
柱のように太い四肢を持つこの亜種の巨獣たちは、巨体を地に伏せながら粗い砕石を咀嚼し、硫黄の微熱を帯びた白く濁った息を荒く吹き出しては、時折尾を払って地表に鈍い震動を響かせていた。
オースは純白の絹のハンカチを握りしめ、額に滲み出る細かな冷汗を神経質に拭っていた。
朝曦を浴びて淡く波打つ金髪は純度の高い輝きを帯び、澄み切った深い蒼眸は、本来ならば神のごとく気高く慈悲深げに見えるはずだった。
息が詰まりそうなほど繁雑な濃赤の刺繍が施された真新しい司祭服を纏い、首元に重厚なミスリルの十字架を提げてなお、正統なる皇族の貴種たるしなやかで均整の取れた体躯は隠しようもない。
しかし今、その貴気漂う美青年は見る影もなく青ざめ、恐怖のあまり瞳を不自然に痙攣させていた。
数秒おきに怯えた視線を周囲の薄暗い回廊へ走らせる様は、皇族と教廷高官としての威厳を完全にかなぐり捨てていた。
「オース」
凛とした、けれど静まり返った声が石段の上から落ちてきた。
ルシアがゆっくりと石段を降りてくる。今朝の彼女は意識も冴えており、昨夜のような見る者を慄かせる混濁した自暴自棄の気配はなかった。
濡れ羽色の黒髪は後ろで端正に結い上げられ、長年の病弱さゆえの蒼白さは残るものの、その墨緑色の瞳は深い淵を思わせる静謐さを湛えている。
背後からは桃香が一歩も違わず付き従い、細やかに気を配っていた。
朝風が吹き抜けた瞬間、桃香はすかさず前に進み出ると、柔らかな毛皮の縁取りが施された防寒マントをルシアの華奢な肩へとふわりと掛け、襟元のリボンを手際よく結び直しながら微声を漏らす。
「ルシア様、朝霜が冷え込みます。太古の絶嶺までの山道は長うございますゆえ、どうかマントをお召しになってくださいませ。冷気でまた胃を痛められては困ります」
「ありがとう、桃香」
ルシアはわずかに首を傾げ、桃香へとおぼろげな笑みを返した。
次いでルシアの視線は、地牛の傍らで石のように硬直しているオースへと注がれた。彼女は歩み寄り、幾分か声音を和らげて静かに言い含める。
「オース、少し力を抜きなさい。呼吸を整えて、自分で自分を追い詰めないことね。今日は私がついているんだから、死にはしないわよ。……一応はね」
いささかの不確かさを孕みつつも、己を護るという意志のこもったその言葉に、オースの張り詰めていた肩がようやくわずかに落ちた。美しい青い瞳にすがるような歓喜を宿し、彼は慌てて汗を拭う。
「あ、ありがとうございます、ルシアさん……! この命、すべて貴女にお預けいたしますゆえ……!」
しかし、ルシアがオースを宥めているその間も、深い墨緑色の瞳は門の両脇へと油断なく向けられていた。
そこには、教廷の純白の重鎧に身を包んだ数名の聖殿騎士たちが、柄に手をかけたまま微動だにせず整列している。
高貴なる血を引く若き司祭の出立を恭しく見送る体裁を取り繕ってはいるものの、オースの背中に注がれるその眼差しの奥底には、隠しきれぬ冷酷な品定めと、凝固した殺意が潜んでいた。
それはまるで毒を塗った針のように鋭く、ルシアの目を逃れはしない。
ルシアは袖の中で指先をかすかに引き締め、伏し目がちに冷ややかな嘲笑を噛み締めた。
(皇族の血を引く教皇など、純潔を気取る聖職者どもにとっちゃ耐え難い侮辱ってわけか……?)
その理不尽な敵意は、かつて地球という星で目にした歴史を彼女に思い起こさせた。
魔法も闘気も存在しないあの世界ですら、人間は抽象的な教義や信仰のためだけに、数百年もの間、血肉を啜り合う凄惨な宗教戦争を繰り返してきたのだ。
狂信者どもの目には、世俗の皇権が神座を侵すことなど言語道断の冒涜に他ならない。
ルシアは骨身に染みて理解していた――信徒が己の信仰を汚されたと信じ込んだ時、人は何の躊躇いもなく、狂気じみた笑みを浮かべて刃を振るうものなのだと。
冷たい風が吹き抜け、喉の奥に懐かしい渇きが走る。ルシアは胸中のざわめきを押し殺し、腰元から使い古された小ぶりな瓢箪を取り出した。
指先で栓を弾き、中に満たされた赤ワインで渇いた喉を潤そうと口をつけた、まさにその時。無骨で分厚い掌が横からぬっと伸びてきて、「パシッ」と何の遠慮もなく彼女の手首を押さえつけた。
「おいおい、アネさん! 今からそいつをあおっちゃマズいって!」
いつの間にか、大股で馬車の脇へと駆け寄ってきたガルクだった。
少年は色褪せて擦り切れた粗末な麻の袖なしベストを羽織り、野生味あふれる引き締まった肉体と、無数の傷痕が刻まれた小麦色の腕を惜しげもなく晒している。
背中には、墓標と見紛うばかりの巨大で鈍重な黒鉄の無刃剣が無造作に括りつけられていた。
湿布の貼られていない鼻梁はすっきりと露わになり、朝の光がその乱れたオレンジ色の短髪を照らして、荒野の野獣めいた爛漫な生気を撒き散らしている。
ガルクは白い歯を見せて笑い、至極当然といった顔でルシアの手の瓢箪を押し下げた。
「太古の絶嶺なんざ、そこらの山道たァ比べもんにならねぇくらい険しいんだぞ! 内臓がひっくり返るほど揺れるってのに、そんな甘ったるいぶどう酒なんざ胃に流し込んでみろよ。山道に入った途端に胃袋が荒れ狂って、ゲロゲロ吐き散らかすのがオチだ!」
手首を掴まれたまま、ルシアはわずかに眉を跳ね上げ、呆れと微かな驚きが入り混じった目でこの単細胞の少年を見つめた。怒りは湧かなかった。瓢箪を押さえられたまま、彼女は悠然と問い返す。
「……アネさん? あんた、さっきからどうして私をそう呼ぶの?」
常人がルシアに向けるような恐怖や畏縮など、ガルクには爪の先ほどもなかった。
彼は傷だらけの手の甲で何もない鼻梁を擦り、どこまでも屈託のない、いっそ馬鹿正直なまでの爽やかな笑顔を浮かべて胸を張った。
「なんでって、アネさんはアネさんだからだろ! 俺を一発でぶっ飛ばすくらい滅法強ぇし、俺みたいな荒野の野良犬を拾う度胸もある! そんな奴を『アネさん』って呼ばねぇで、一体なんと呼べってんだよ!」
その笑みには濁りが一切なかった。荒野の吹き曝しに突如として燃え上がった篝火のように熱く、眩しいほどに真っ直ぐで、言い返す気力すら削がれてしまう。
ルシアは一瞬だけ虚を突かれたように目を見張り、その眩しすぎる瞳を見つめた後、奥底に微かな柔らかさを宿らせた。
彼女はそのまま瓢箪を腰へと戻し、やれやれと首を横に振ると、唇の端にどこか毒気の抜けた苦笑を浮かべる。
「行こうか。口の減らないガキね」
「へへっ、適当言ってるわけじゃねぇよ!」
ガルクは「ガキ」呼ばわりなど痛くも痒くもない様子で、むしろ身を乗り出して声を潜めた。
「太古の絶嶺の麓にはよ、俺の昔馴染みの古びた部族がいてな! そこにいる飲んだくれの古参猟師が、雪岩ベリーと麦で作る地酒がとにかく独特で香り高いんだよ! 喉を通る時はナイフみてぇにカッとするが、舌がとろけちまうほど香りが良くてさ! 着いたらアネさんに何樽か融通してやるよ。そんな甘っちょろい酒よりずっと効くぜ!」
「へえ? それなら、少しばかり期待してあげてもいいわね」
ルシアは素っ気なく返すと、表情を引き締め、地牛の重厚な踏み板へと足をかけた。
「さて、無駄話はここまでよ。乗りなさい、太古の絶嶺で手ぐすね引いてる腹黒どもに挨拶しに行くわよ」
「おうよ!」
大剣を背負い直したガルクは、身軽に御者台の助手席へと飛び乗った。
怯えきったオースが車内の隅へと身を滑り込ませ、桃香がルシアのために防風の厚手のカーテンを引く。
御者の鋭い掛け声とともに、二頭の黒甲地牛が重々しい低鳴を漏らした。
石畳に降りた白霜を踏み砕き、地を揺るがすような足取りで黒き重装馬車を牽き始める。
遥か彼方にそびえる太古の絶嶺――その険しく黒々とした山影を目指し、殺意渦巻く狂乱の狩場へと車輪は転がり出した。
車輪が凍土と砂利を踏みしだき、単調で重苦しい軋み音を立てる。
二頭の地牛の力強い歩みは、荒野の寒風をものともせずに突き進んでいた。車外の助手席では、ガルクが膝の上にあの巨大な無刃黒剣を横たえ、麻の手綱を指に絡めながら、風に揺れるオレンジ色の髪の下で好奇心を抑えきれない顔をしていた。
少年は振り返ると、車内へと通じる防風の厚手のラシャ布をめくり、半ば首を突っ込んで声を潜める。
「なぁ……アネさん」
薄暗い車内には、風防付きの真鍮オイルランプが微かな光を灯していた。
オースは一番奥のクッションに縮こまり、両手で十字架を握り締めながら声もなく祈りの言葉を紡ぎ続けている。
ルシアの傍らには桃香が静かに腰を下ろし、清潔な陶器のカップに温かな白湯と蜂蜜を溶かしていた。柔らかな湯気が、冷え切った車内にふわりと漂っている。
ガルクは鼻を擦りながら、ぶっきらぼうに尋ねた。
「桃香の姉ちゃんから、アネさんの昔の話を少し聞いたんだ。アネさんがあの北境の女魔頭に惚れ込んでたってのは知ってるが……シルヴィア家の令嬢とは、なんだか随分とあっさりくっついちまったように聞こえるんだよな。一体どういう経緯だったんだ?」
あまりに無遠慮で率直な問いだった。並の貴族であれば、身の程知らずの野蛮人として即座に魔法で車外へ叩き出していたところだろう。
だが、ルシアは眉ひとつ動かさなかった。
毛布を敷き詰めた長椅子の奥深くに身を預け、血の気の失せた横顔をランプの暖かな光に晒している。
世界からその存在を忘却された最初の頃、ルシアは桃香に対して己のすべてを隠すことなく打ち明けていた――二度死んだこと、前世の「村雨」としての無惨な最期、そして異郷の彷徨える魂であることのすべてを。
オースがルシアと契約を交わしたのも、本来は「規格外の転移者を庇護する」という条件と引き換えであった。
狩猟祭という不測の事態によってその計画は狂ってしまったものの、この密約には聖殿の審判者たるガルク自身が立ち会い、制約の証人となっていた。ゆえに、ガルクもまたルシアが転移者である事実を知っている。
そして、東大陸の温泉郷で老僧の手によって育てられた桃香にとって、幼少より叩き込まれた忍術、指先で磨る墨の匂い、果ては「桃香」という名そのものの響きに至るまで、それらはすべて「地球」と呼ばれた失われた文明の残照そのものだった。
桃香の目には、「村雨」という過去は狂人の戯言などではなく、郷愁と宿命を帯びた生々しい傷痕として映っていたのだ。
これからの死線を共にする戦友として、ガルクもまた、その数奇な身の上を一通り耳にしていたのである。
ルシアは桃香から差し出された温かい陶器のカップを受け取った。
腰の酒には触れず、熱を帯びたカップの縁を指先でなぞる。死海のように凪いだ墨緑色の瞳にかすかな揺らぎが走ったかと思うと、やがて自虐的で、どこか悪意すら孕んだ笑みがその唇に浮かんだ。
「最初はね……単なる色情狂いよ」
ガルクはぽかんと口を開けた。まさかそんな、身も蓋もない俗悪な答えが返ってくるとは思っていなかったらしい。
「意外かしら?」
ルシアはカップの中で揺れる淡い蜜水を見つめながら、他人の退屈な身の上話でも語るかのように淡々と言葉を紡いだ。
「だいたい、私が最初の生でカリーナに惚れたのだって、本質を言えば見惚れただけよ。あの北境の女は息を呑むほど美しくて、凛々しかった。剣を抜く姿の鮮やかさといったらなかったわ。まともな人間なら、誰だってあの美貌に目を眩ませる。ただ、あの頃の私が愚かすぎて、最期は目も当てられない無惨な死に様を晒したけれどね」
彼女は蜜水をひと口含んだ。口内に広がる慣れない甘ったるさが、喉の奥にこびりついた酸い澱みを洗い流していく。
「そして今世、初めてクレアと出逢った時――あの女の目は、最初からおかしかったのよ」
ルシアの口元に自嘲の冷笑が浮かび、声の調子が一段と低くなった。
「あの目には、見覚えがありすぎた。……最初の生で、私がカリーナを見つめていた時の目そのものだったからよ。瞳いっぱいに光を湛えて、渇きに喘ぐ者が水を見出したかのような、そんな目。自分の心臓をそのまま素手で抉り出して、相手の前に差し出すような眼差しだったわ」
ルシアの脳裏に、帝都の魔力学院で催された新入生歓迎会の情景が過る。
バルコニーで初めて目が合った瞬間、紫髪を揺らしたクレアが見せたあの視線。あなたと共に在りたいと希う、激しく熱を帯びて、けれどどこまでも優しい眼差し。
「あのお嬢様が私の何に狂わされたのかは知らないけれど……あれは泣く子も黙る『帝国の初恋』よ? 大陸中の王侯貴族がドレスの裾に触れることすら敵わない、高嶺の白山茶花……向こうから寄ってきたんだもの、摘み取ってやるのは最高に愉快だったわ」
打算もあった。虚栄心もあった。戯れに弄ぶような冷淡ささえあった。
だが、人の心とは、冷徹な錬金術の数式のように割り切れるものではない。
カリーナの愛は、吹き荒れる猛吹雪そのものだった。苛烈で、傲慢で、息が詰まるほどの威圧感。
それはルシアに絶対的な安心感を与えてくれたが、同時に、少しでも違えればその身を血肉ごと圧し潰しかねない横暴さを孕んでいた。
けれど、クレアは……あまりにも対極の存在だった。
悪夢に跳ね起きた深夜、古傷と記憶の軋みに苛まれてその身を震わせるたび、クレアは何も問いたださず、ただ静かに抱きしめてくれた。
ルシアの冷え切った背中を幾度も、幾度も優しく撫でさすり、柔らかな手のひらで、額の冷汗を拭ってくれたのだ。
ルシアは荒野で、裏切りの中で、そして底なしの孤独の中で二度も死に損なった女だ。
その魂は万年氷のように凍てついていた。だが、どれほど錆びついた屑鉄であろうとも、あのような祈るがごとき温もりに日ごと包まれ続ければ、そこに熱い血が通わぬはずがあるだろうか?
クレアを愛してしまったことは、ルシアにとってあまりに想定外の事故だった。
己の薄汚れた命など、ただ身を護るためのあらゆる武器さえ握りしめていれば事足りると信じ切っていたのに。
何気なく手折ったはずの白き花は、いつの間にか、彼女が生きていくために不可欠な水と空気へと変わってしまっていた。
クレアの愛には、カリーナのような天変地異の激しさはなかった。あまりに平穏で、日常に溶け込み、気付くことすら難しいほど微かな温もり。
けれどそれは、知らず知らずのうちに、ルシアの千々に裂けた心臓を余すところなく満たしていたのだ。
だが――この傷だらけの肉体が、世界の『守護者』となったその瞬間。
因果の歯車は無慈悲に回転し、愛の記憶は灰燼へと帰した。
頬を染めて始まった恋は、血の滲む目で幕を閉じる。
すべてを失って初めて、肺腑から空気を無理やり引き抜かれたような窒息感が、神経を狂わんばかりに苛む激痛となって襲いかかってきた。
かつての温もりは塩水を吸った鈍刀へと変わり、ルシアは日夜、質の悪い烈酒を胃袋に流し込まずにはいられなくなった。
暴力的なまでのアルコールという毒をもってしてしか、胸に穿たれた底なしの血の穴を塞ぎ止める術がなかったのだ。
カリーナを二世にわたって愛し、二度とも無惨に捨て去られた。
そしてクレアは、二度の生の中で味わったこともない暖かさを与えてくれた果てに――「その温もりを失う」という絶望を、彼女の魂へと深く焼き付けたのだ。
車内は、長い沈黙に包まれた。
ガルクがラシャ布を握りしめた手は空中で固まり、指の関節が白くなるほどに力が入っていた。
普段の粗忽さが嘘のように、少年は半開きにした口から言葉を絞り出そうとしては、まるで喉に砂でも詰まったかのように声を失っていた。
隅で震えていたオースですら、そっと瞼を持ち上げ、複雑極まりない眼差しをその黒髪の少女へと注いでいる。
ルシアは、ふっと低く笑った。
その笑い声は酷くかすかで、冷たい風と車軸の軋む音の中に溶け、拭い去ることのできぬ濃厚な哀愁を漂わせていた。
彼女は微かに温かさの残る蜜水を一息に飲み干し、虚ろになった己の手のひらを所在なさげに見つめた。
所詮、これが自分の宿命なのだろう。
コンクリートと鉄に囲まれた故郷で「村雨」と呼ばれていた頃も、血生臭いこの異界で「ルシア」と名乗る今も。
彼女は最初から独りであり、最後もまた、泥濘と骨灰を踏みしだきながら、誰も知らぬ孤独な死へと歩んでいくしかないのだ。
ガルクは無意識にラシャ布を握る手に力を込め、爪が食い込むほど拳を固く握りしめた。
ルシアの口から淡々と零れ落ちた言葉の数々を聞きながら、少年の脳裏には、教廷で審判者としての訓練を受けていたあの狭隘な小部屋と、冷え切ったある朝の光の中で、ベッドの足元に丸くなって冷たくなっていたトラ猫の亡骸が嫌でも甦っていた。
あの頃の自分は、ただ明日を生き延びるためだけに爪を研ぎ、全身全霊を擦り減らしていた。愛だの情だのといったものに思いを馳せる余裕など、どこを探してもありはしなかった。
野獣の咆哮と、老いぼれが物言わぬ骸へと変わった静寂の中で、筋肉の千切れる痛みに縋るようにして、重い鉄剣を一千回、一万回と振り抜くことしか知らなかった。
心の中で際限なく膨れ上がる恐怖を圧し潰すために。
だが、今の彼には、ほんの少しだけ解るようになっていた。
「……アネさんの苦しみ、分かる気がするよ」
ガルクは低く口を開いた。いつもの張り裂けんばかりの大声は影を潜め、荒い紙やすりで擦ったかのように掠れている。少年は奥歯を噛み締め、己の最も恥ずべき古傷を切り開くようにして言葉を絞り出した。
「実はさ……俺が誰も登ったことのねぇ世界樹のてっぺんを目指してるのも、結局は怖ぇからなんだ。荒野の風がひと吹きすりゃ、ガルクなんて野良犬が生きてたことすら、誰も覚えちゃいねぇんじゃないかって……それが堪らなく怖いんだよ。大陸で一番高い場所に立って、世界中の奴らに俺を見せつけて、名前を刻み込んでやりてぇんだ……だから……」
少年の声が途絶えた。残りの言葉が喉仏のあたりで閊え、どうしても先が続かない。
唐突に襲いかかってきた重苦しい罪悪感が、巨大な鉛の塊となって胸を押し潰し、彼は狼狽しながら首を垂れた。ルシアの顔を直視することすらできない。
――あまりに、残酷すぎる。
自分は「忘れ去られること」をただ怖れているだけだ。だが、目の前で強い酒を呷り、魂の引き裂かれる痛みを誤魔化しているこの女は、とっくに世界から「完全に忘れ去られてしまった」のだ。
最も愛した者たちから見知らぬ赤の他人として扱われるその極限の苦痛は、ルシアにとって今なお醒めることのない生き地獄そのものだった。
両の手足も五体も満足で、いまだ世間の耳目を集めることを夢見ている分際で、その本人の前で「忘れられるのが怖い」などと喚き散らすなど――
両足を失った者の前で、靴の履き心地が悪いと愚痴るようなものではないか。無神経で、傲慢で、自罰的な嫌悪感が胸を満たす。
ガルクは拳を固く握りしめ、耳の裏まで真っ赤にして己の軽薄な口を殴り倒したい衝動に駆られていた。
「あんたなら、登れるわよ」
何の気負いもない、波風ひとつ立たない声音が、薄暗く狭い車内にぽつりと落ちた。
ガルクの身体が跳ねるように震え、弾かれたように顔を上げた。
窓の隙間から差し込む朝の光が、ルシアの蒼白く削げた横顔を輪郭づけている。
黒髪の女は手元の空になったカップを気だるげに揺すり、まるで「今日は風が冷たいわね」とでも言うかのような平然とした面持ちでそこにいた。
少年は完全に言葉を失った。身の程知らずの妄想だと鼻で笑われるか、あるいは酒の瓢箪で頭を張り倒されるものとばかり思っていたのだ。
地獄も裏切りも見飽きてきたはずのこの人が、まるで既定の事実を口にするかのような確信に満ちた口調で、己の荒唐無稽な夢を肯定してくれるなどとは、夢にも思っていなかった。
ルシアは、愕然と目を見開くガルクの顔を見ようとはしなかった。
二度死んだ彼女にとって、神と因果の糸で織り成されたこの世界など、とうの昔に腐り果てている。
現実は重く冷たい絞首台だ。滾るような理想を抱いた者たちが、泥濘の中で無惨に縊り殺されていく様を、彼女は嫌というほど見てきた。
だからこそ、未だ荒野の野生を全身に漲らせているこのオレンジ色の髪の少年が、あんな冷え切った虚無に呑まれる姿など見たくはなかったのだ。
それに――ルシアの視線が、わずかにガルクの強靭な腕と、背中の無刃剣へと流れる。
この単細胞の内に秘められた、理不尽なまでに濃密な血色の闘気。そして、剣を振るうためなら命すら惜しまない純粋な狂気。それはまるで、前世で読んだ王道の冒険活劇に登場する主人公の型そのものだった。
その成長の余地は、恐ろしいほどに底が知れない。この野良犬なら、いつか本当にその分からず屋の蛮勇だけで雲海を切り裂き、世界樹の頂へと土足で踏み入る日が来るのかもしれない。
「ふっ……」
ルシアの唇の端に、かすかな自嘲と戯れを帯びた微かな笑みが浮かんだ。全身の強張りを解き、重力に身を委ねるようにして、ふかふかの上質なビロードの背もたれへと深く身を沈める。
しかし、背中がクッションに触れたその瞬間――半眼に閉ざされていた少女の瞳が、ふと微かに見開かれた。
混乱した記憶の片隅で、完全に抜け落ちていた盲点が閃光のように弾け、膝の上に置かれていた指先がぴたりと静止する。
ルシアは緩慢な動作で上体を起こすと、車内にいる者たちの顔を順繰りに見回した。その表情は、なんとも言えない奇妙な色を帯びている。
「……ちょっと待ちなさい」
黒髪の少女は眉をひそめ、三分ほどの戸惑いと七分ほどの呆れを滲ませた声を漏らした。
「私たち……ヴァレリーのこと、完全に忘れてきてないかしら?」
その一言が落ちた瞬間、車内の空気が完全に凍りついた。
隅で無言の祈りを捧げていたオースの動きがぴたりと止まり、祈りの形に組まれた両手が宙で固まる。
茶器を抱えていた桃香は目をしばたたかせ、普段の涼やかな表情に珍しくぽっかりとした空白を浮かべた。
そしてカーテンにしがみついていたガルクに至っては、口をあんぐりと開けたまま、完璧な石像へと成り果てていた。
一秒、二秒。
記憶の扉が、音を立てて開け放たれる――教皇庁の豪奢を極めた、最高級のビロードの天蓋付きベッドが鎮座する客室の奥深く。
このパーティの極めて重要な戦力の一角であるはずのあの女は、今頃間違いなく分厚い羽毛布団に簀巻きにされ、枕を抱きしめて天地がひっくり返ったかのような爆睡をかまし、口元から涎を垂らして盛大にいびきをかいているはずだった。
そして、パーティ全員の希望と無数の暗殺計画を載せた地牛の重装馬車は、太古の絶嶺へと続く険しい山道の上を、すでにガタゴトと優に三里ばかりひた走っていた。




