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重度カードゲーマー女子、過労死転生した異世界でも恋愛をプレミして詰んだ件  作者: 酣睡


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70/115

少年の荒原と、微睡む黒猫

教皇庁の中央回廊は、息が詰まるほどの純白に閉ざされていた。


天蓋を衝く純白の大理石柱は、林立する巨木の如く厳かに聳え立ち、壁面には聖なる翼を広げ、伏し目がちに佇む神々の浮彫が月光を浴びて無言で見下ろしている。


塵一つ許さぬその光景は、人の世の穢れを一切拒絶する寂静の聖域そのものであった。


回廊の中央には、視界の果てへと伸びる重厚な深紅の絨毯が敷き詰められている。


両脇の高大なステンドグラスが夜気と冷たい月光を漉し取り、砕かれたダイヤモンドのような冷淡な光の粒を、白無垢の床と凝固した血の如き長絨毯の上へと無言で散らしていた。


神聖にして清純、それでいて底知れぬ寂寥と寒冷な美しさが、そこに同居している。


その広大なる死寂の中、柔らかな絨毯の奥へと沈み込む、忍び足のような微かな足音だけが静かに響いていた。


桃香は、その腕の中にすっぽりと収まるほど小さなルシアを横抱きにし、腕を寄せる角度は極めて優しく、指先が触れればたちまち微塵に砕け散る脆弱な硝子細工でも扱うかのように、極めて慎重に歩みを進めていた。


つい先刻まで、この身ひとつで訓練場に絶対の防壁を展開し、数千ポンドの衝撃と内臓を揺るがす血紅の闘気を塵芥のように受け流していた規格外の怪物が――


今はただ、無防備に桃香の温もりある首元へと額を預け、穏やかな寝息を立てている。その呼吸は微弱で、まるで無夢の深淵へと沈み込んでいるかのようだった。


滑り落ちた漆黒の法衣の袖口から覗く手首は、あまりにも細く、青白い。指先で少し力を込めるだけで、容易く折れてしまいそうだった。


酒気に火照っていたはずの両頬はすでに病的な蒼白へと戻り、眠りの中にありながらも、その眉間には拭い去れぬ痛みの影が刻まれている。


白を極めた教皇庁の神聖な回廊にあって、少女の纏う薄汚れた喪服のような黒と病弱な寝顔は、あまりにも痛々しく、異質であった。


桃香は歩みを進めるたび、腕の中の儚い温もりを確かめるように、そっと抱き締める腕に力を込めた。


その傍ら、赤く染まった絨毯の縁(へり)を、ガルクが無言のままついて歩いていた。


汗と煤にまみれた浅黒い上半身を晒し、先の激突で引き裂かれた背中の筋肉が鈍い痛みを訴えている。背負った無骨な無鋒の巨剣が、歩調に合わせて肩甲骨の古傷を擦り、重苦しい擦過音を立てていた。


周囲の清冽無垢な空気が、己の纏う血生臭さと土埃を嘲笑うかのように浮き彫りにしていたが、少年にはそれを気にかける余裕など微塵もなかった。


視線が、取り憑かれたように桃香の腕の中の小柄な影へと吸い寄せられる。盗み見ては、焼けつく鉄に触れたかのように慌てて視線を逸らすことを、幾度となく繰り返していた。


胸の奥で渦巻く感情は、泥水を吸った麻縄のように重く絡まり合っている。


――負けた。


深淵の如き強者に叩き伏せられることなど、荒野で幾度となく味わってきた屈辱だ。地を這い、砂を噛み、死神の爪先を躱しながら泥濘を生き延びることこそが、少年の世界のすべてだった。


だが、今この胸を押し潰している窒息感は、敗北の痛みなどでは断じてない。


あまりにも小さく、あまりにも壊れやすそうだった。


あんな小枝のような骨格で、風が吹けば消えてしまいそうな身体で、彼女は一体どれほどの代償を払ってあの絶対の力を手に入れたのか。


どれほどの痛みを神経の奥底に押し殺し、あの気だるい嘲笑の仮面を被って、世界中のすべてを拒絶し続けてきたのか。


『酒も飲み終わっちゃったわよ。私の髪の一本すら、掠りもしなかったけれど』


耳の奥に、あの悪意を孕んだ微睡むような声が、冷たい風のように蘇る。


刃を交えていた時は屈辱に脳を焼かれていた。だが、この無防備な寝顔を前にして、少年はようやく思い知ったのだ。


あれは決して見下しの嘲弄などではない。


とうの昔に逃げ場を失い、血を流し尽くした人間が、酒と悪態の鎧で己の輪郭を辛うじて繋ぎ止めるための、あまりにも不器用な自棄だったのだと。


荒野で我武者羅に振り回してきた己の「我流」など、この少女が沈み込んでいる暗闇の縁にすら届いていなかった。


垂らした拳を強く握りしめる。硬いタコに覆われた掌に、爪が白く食い込んだ。


鼻梁に冷たい風が触れる。剥がされた湿布の痕跡はあまりにも涼しく、まるで声のない重い一撃のように、胸の芯を抉った。


悔しさなのか、自責なのか、それとも言葉を失うほどの哀惜と畏怖なのか。


絨毯に吸い込まれていく沈黙の重さに耐えかね、少年の単細胞な思考が、擦り切れた喉から言葉を絞り出させた。


「……なあ。あいつ、なんであんな風に笑ったんだ?」


桃香の足は止まらなかった。ただ、伏せた睫毛を微かに震わせ、腕の中の少女を起こさぬよう、その身体を抱き直す。


「……どんな風に、ですか?」


桃香の声はひどく掠れており、回廊に漂う月光の粒を驚かせぬよう、羽毛のように落ちてきた。


「どんなって……」


ガルクは苛立ち紛れに乱雑な橙色の髪を掻き毟り、眉間を固く寄せる。


「あんな化け物みてえに強い癖に、今にもくたばりそうな顔して笑いやがって。それに、あの酒だ……あんなの味わって飲んでる顔じゃねえ。喉を焼き切って死にたがってるみてえだった。あんなもん胃袋に流し込んで、痛くねえはずねえだろ」


桃香はすぐには答えなかった。


両脇を流れていく純白の大理石柱。ステンドグラスを透過した極彩色の月光がルシアの青白い面影に落ち、ただでさえ透明な輪郭を、幻影のように淡く滲ませていた。


やがて、桃香の唇から、ひどく重く、擦り切れた溜息が零れ落ちた。


「ルシア様は……忘却の淵に、置き去りにされたのです」


ガルクの足がわずかに乱れ、見えない壁にぶつかったように速度を落とした。


「……置き去り? どういう意味だ」


「この世で最も残酷なのは、死別ではありません。愛した人たちから、その存在ごと完全に忘れ去られることです」


桃香の眼差しが、ルシアの閉ざされた目元へと注がれる。そこには底知れぬ哀傷と、拭い去れぬ自責の念が澱のように沈んでいた。


「ルシア様にはかつて、自らの命よりも大切に慈しんでいた二人の想い人がいらっしゃいました。けれど……過酷な因果によって、あの方々はルシア様の存在を完全に忘れてしまったのです。ルシア様を突き放し、この冷え切った世界に、ただ一人で取り残して」


回廊を吹き抜ける隙間風が、少女の法衣の裾を小さく揺らし、白無垢の床の上に影の波紋を描いた。


ガルクの呼吸が喉元で凍りついた。


「忘れ……られた?」


「ええ。ルシア様が捧げてきた全てを、その名前すらも忘れ、かつて愛し合い、あの永い深夜に寄り添い合ったことすら、綺麗さっぱり消し去ってしまったのです」


桃香の口元に、痛烈な苦みが浮かぶ。


「そして私は……ルシア様が忘却の力によって消え去るかもしれないと知りながら、何もできず、ただあの方が一人で深淵へと沈んでいくのを見ていることしかできませんでした。ですから、これは私の贖罪なのです。私の命はルシア様のもの。この生涯の全てを捧げ、たとえ無力な罪人であろうとも、あの方の最期まで寄り添い続けると誓ったのです」


壁面に刻まれた神々の彫像が、盲目の瞳で冷酷に人間を見下ろしていた。


「ルシア様が口にされる酒は、一滴残らず猛毒のような痛みを伴っています」


桃香は囁くように言葉を紡ぎ、ルシアを抱く腕に力を込めながら、その白い額にかかる前髪をそっと払った。


「酒で神経を麻痺させなければ、毎分毎秒、あの方々の幻影が頭を食い破ろうとするのです。クレア様の笑顔が、カリーナ様の呼ぶ声が……素面のままでは、その痛みが魂を八つ裂きにしてしまう。あの方は、二度と塞がることのない心の風穴を、酒の毒で無理やり塞いでいらっしゃるだけなのです」


頭の奥底で、巨大な鉄槌が振り下ろされたような衝撃が走った。


愛した者に忘れ去られ、一人でこの世界に置き去りにされた。


少年の荒削りな世界観において、「強者」とは何者にも縛られず、頂に君臨する者を意味していた。ルシアのように万軍を薙ぎ払い、絶対の結界を張る怪物ならば、世界の頂点から万物を見下ろしていればいいはずだったのだ。


だが、現実は違っていた。


腕の中に抱かれているこの小さな身体は、神でもなければ、無敵の守護者でもない。


世界に見捨てられ、泣きつく相手も、恨むべき相手すら見失い、ただ酒の苦みで命を繋ぎ止めているだけの、哀れな少女に過ぎなかった。


加爾克は、法衣の袖から覗く白く細い手首を呆然と見つめた。


荒野で育った彼は、生きるために牙を剥く無数の野獣を見てきた。だが、これほど強大な力を持ちながら、その魂が砂のように虚ろな人間を、少年は見たことがなかった。


胸の奥で、熱く粗野な衝動が肋骨を激しく叩いていた。


悔しさでもなく、強者への憧れでもない。錆びた鈍刀で心臓を削られるような、息もできないほどの痛惜。


少年は胸元を力任せに押さえつけ、奥歯をギリリと噛み締めた。鼻梁に残る涼やかな喪失感が、神経を伝って骨の髄まで冷え切らせていく。


世界樹の頂へ登りたいと願ったのは、自らの力を世に知らしめるためだった。だが、目の前で微睡むこの小さな少女は、誰の目にも留まらぬ永劫の夜の中を、たった一人で彷徨っていたのだ。


白大理石の柱が無言のまま背後へと退いていく。深紅の絨毯が足音を呑み込み、回廊にはただ三人の呼吸の気配だけが漂っていた。


半歩遅れてついていくガルクは、無意識のうちに荒れた手の甲で己の鼻梁を擦った。そこには何も残っておらず、ただ虚ろな冷気だけが肌を撫でていく。


彼には、親がいなかった。


そんなものは荒野では珍しくもない。あそこに転がっている餓鬼の半分は、自分が誰の腹から這い出てきたのかも知らない。七歳か、あるいは八歳だった頃、風の遮られた岩の窪みで、死んだ傭兵を見つけた。


喉を砂狼に食い破られ、血はとっくに黒い塊へと乾いていた。その男の手には、一本の長剣が握られていた。


子供の背丈ほどもある、墓石のように重い鉄の塊。冷たく固まった死人の指をへし折って、ようやくその剣を引き抜いたのだ。


引き摺るようにして集落へ持ち帰る道すがら、鉄が砂利を擦る耳障りな音だけが響いていた。


掘っ立て小屋の前に座り込み、黴びた麦角パンを噛んでいた顔見知りの大人たちは、泥犬が肉のついていない骨を拾ってきたのを見るような冷たい目で一瞥し、すぐに顔を背けた。


剣をどこで拾ったのかも、男がどこで野垂れ死んだのかも、誰も尋ねなかった。


その頃、隣の小屋にはいつも激しく咳き込んでいる老人が住んでいた。


老人の歯はほとんど抜け落ち、悪臭を放つ数枚のぼろ切れのような毛皮を纏っては、風の吹き抜ける土壁の傍で日向ぼっこをしていた。


ガルクが獲物や生鉄を引き摺って通り過ぎるたび、老人は口を大きく開けて笑いかけた。その口の中は、底知れぬ黒い洞穴のようだった。


時には咳き込みが酷く、震える枯れ枝のような手で、青カビの生えた硬い雑穀パンの半分を差し出してくることもあった。少年はそれを受け取り、顎が痛くなるほど噛み砕いたが、礼の言葉など一度も口にしたことはなかった。


ある朝、荒野に珍しい白霜が降りた。板戸を押し開けたが、隣からの咳払いは聞こえてこなかった。


見に行くと、老人は毛皮の山に丸まったまま、濁った羊の死んだ目のような両目を半分開け、すっかり石のように冷たくなっていた。


昼過ぎには猟隊の男が二人無言で現れ、残された毛皮を手際よく剥ぎ取って分け合った。夕暮れには新入りの浮浪者が荷物を背負い込んで転がり込み、老人が息を引き取ったその場所で、黒煙を上げる枯れ木に火を灯した。


誰も泣かず、墓標も立たず、老人の名前を口にする者すらいなかった。入り口に立ち尽くしていたガルクは、自分もその老人の名を知らないことに、その時初めて気づいたのだ。


荒野で人が消えるというのは、そういうことだった。一握りの砂を風に放り投げるように、何の痕跡も残らない。


少年は小屋の前に腰を下ろし、泥水を啜りながら硬い乾酪を胃袋へ流し込んだ。あの夜は風が酷く荒れていて、冷たい生鉄を抱いて眠りにつきながら、胸の中にぽっかりと空いた穴を、風がただ通り抜けていくような虚しさを感じていた。


やがて、闘気を覚えた。


三匹の荒野巨蜥に岩壁へ追い詰められた時だった。額を割られ、煮え滾る血が目を染める中、魂を刃へと叩きつけるように咆哮した時、赤い気浪が初めて夜を切り裂いた。


トカゲは真っ二つに裂けたが、長い年月を共にしてきた相棒の剣も、そこで折れた。


澄んだ破断音とともに、刃は半ばから無残に砕け散った。血溜まりの中に膝をつき、手元に残った半截の鈍鉄を見つめながら、少年はそれが五年付き添ったものか、六年だったのかを思い出そうとして――


結局、思い出せなかった。その刃でいくつの獣を屠り、いくつの致命的な爪を弾いてきたのかすらも。


墓を作る気にはなれなかった。荒野の果てには、灰青色の死海が広がっている。黒い礁石に波が打ち寄せ、寄せては返す空洞な轟音を立てていた。


その崖っぷちに立ち、腕を振り抜いて、折れた鉄屑を海へと投げ捨てた。


白い飛沫をひとつ上げただけで、剣は瞬く間に波間に呑まれて消えた。


冷たい岩の上に腰を下ろし、少年は海をずっと眺めていた。押し寄せては退いていく波の綾を。やがて日が暮れ、海が墨汁のような黒に染まるまで。


塩の吹いたズボンを払って立ち上がり、背を向けて歩き出した。剣は失われたが、明日も腹は減るのだ。


それから、教皇庁の騎士団に拾われた。


綺麗な衣服と、腹に溜まる肉、そしてこの数百キロもある黒玄鉄の無鋒巨剣が与えられた。白袍を纏った高貴な連中が、自分に何を求めているのかは痛いほど分かっていた。


彼らが見ているのは「ガルク」という人間ではなく、暴虐な闘気を受け止めるための頑丈な肉の器だ。異端の喉笛を噛み千切るための、都合のいい猟犬。


文句はなかった。少なくとも、ここには飢えがなかった。


宿舎に移り住んで三ヶ月が過ぎた頃、オースが子猫を一匹、彼のもとへ連れてきた。


どこにでもいる雑種の三毛猫で、骨と皮ばかりに痩せ細り、右耳の先が千切れていた。


側殿の側溝で震えていたのを、神官に見つかって処分されるのを恐れたオースが、冷や汗を拭いながら少年の部屋へ押し込んできたのだ。


手のひらに収まるほど軽く、毛並みは薄汚れていた。


そんな繊細な生き物の育て方など知るはずもなく、ただ配給された肉のスープを欠けた素焼きの皿に注ぎ、鼻先に置いてやるだけだった。猫は最初、酷く怯え、ベッドの奥の暗がりに蹲って震えていた。


だが数日もすると、飢えに耐えかねたのか、恐る恐る近寄ってきて少年の指先を舐めた。無数の小さなトゲのある舌が、硬いタコの上をくすぐったく撫でていく。


やがてそれは、瞑想する少年の膝の上で丸くなることを覚えた。


骨は柔らかく、呼吸は頼りなく、心臓の拍動に合わせて小さな腹が微かに波打っていた。ガルクはいつも息を殺してそれを見下ろし、決して強く触れようとはしなかった。


血肉を断つことしか知らぬ己の手が、ほんの少し力を込めただけで、この儚い温もりを握り潰してしまうのではないかと怖かったのだ。


二ヶ月後の朝、猫は死んでいた。


前の晩、教皇庁の空を珍しい暴風雨が叩きつけ、明け方の空気は底冷えのする湿気を孕んでいた。少年が目を覚ました時、それはベッドの隅の古毛布の上で、横たわっていた。


傷ひとつなく、苦しんだ痕跡もなかった。ただ静かに冷え切り、乾いた泥の塊のように硬直していた。


夜の寒さに耐えられなかったのか、あるいは何か毒のある虫でも呑み込んだのか。理由などなかった。命あるものなど、何の脈絡もなく、ある朝不意に動かなくなる。そういうものだった。


ガルクは膝をつき、しばらくそれを見つめてから、冷たくなった背中を指先で一度だけ撫でた。


古毛布で包み、訓練場の裏手の荒れ地に浅い穴を掘って埋めた。木切れの墓標すら立てず、土を均して部屋へ戻ると、床下に残っていた干し肉の残りをゴミ箱へ捨てた。


あの朝、素振りをいつもより五百回多くこなした。腕は鉛のように軋んだが、涙など出なかった。ただ、元から広くもない部屋が、ほんの少しだけ余計に広くなったような気がした。


回廊を吹き抜ける風が、今も音もなく流れている。


ガルクの足が、ふと止まった。


凝固した血のような深紅の絨毯の端に立ち、少年の視線は、桃香の胸元へと落ちていた。


漆黒の法衣の陰に埋もれ、ルシアという名の少女は、無防備に桃香の首筋に頬を寄せている。剥き出しの手首はあまりにも細く、月光に透ける肌は、青白く頼りない。


小さかった。あの朝、己の膝の上で声も立てずに丸まっていた、あの子猫と同じくらいに。


訓練場で剣を構えていた時は、天地を揺るがす怪物だと思っていた。だが今、この瞳に映っているのは――神にも愛した者にも見放され、夜風の冷たさにすら耐えかねて、そのまま息絶えてしまいそうなほどに脆い、ひとりの子供だった。


あの猫が死んだ時、己は何ひとつしてやれなかった。なぜ死んだのかすら、分からなかったのだから。


荒野は傭兵の骸を呑み、名もなき老人の命を呑み、折れた長剣を呑み、あの子猫の命すらも砂の下へと呑み込んでいった。


この世界は、何千何万の命が泥の中で砕け散ろうと、溜息ひとつ零さぬ冷酷な石塊(いしくれ)に過ぎない。


だが、目の前の黒髪の少女は、まだ生きている。


微かに、確かに、胸を上下させて呼吸を繋ぎ止めている。その長い睫毛が、微かに震えている。


ガルクは血の気の引いた両手を、傷だらけの掌に爪を突き立てるほど固く握りしめた。剥がされた鼻梁の皮膚が、冷たいすきま風を浴びて、鋭い痛みを返してくる。


少年は無骨な足取りで一歩を踏み出し、その広い肩と厚い背中で、冷風が吹き抜けてくる側の虚空を塞ぐように、少女の隣へと歩み寄った。


言葉など、何も口にしなかった。


ただ、前方に広がる底知れぬ暗がりの回廊を見据えながら。


今度こそ、守り抜くと決めたのだ。

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