悪戯好きな守護者と、舞い戻りし相棒
教皇庁本部の偏殿へと続く白曜石の回廊の前には、厳粛で冷徹な空気が漂っていた。
細緻を極めた彫刻が施された教皇庁の大型重装馬車が長い石段の麓に停まり、その扉が開いた瞬間、発酵して酸鼻を極めた安酒のエール臭と、微かな苦い薬草の匂いが混じり合って鼻を突いた。
ルシアは、いまだ鈍痛と二日酔いの酸漿を孕んで疼く胃袋を片手で押さえながら、桃香の細やかな介助のもと、覚束なく頼りない足取りでステップを降りた。
ここまでの道のりは、決して平坦なものではなかった。
教皇庁本部は大陸の中枢奥深くに位置しており、極寒の北境を目指すよりも遥かに遠く、強行軍さながらの過酷な悪路を数日間にわたって揺られ続けることとなったのだ。
そして、その耐え難い数日間の旅路は、車内に同乗していた者にとって、まさに徹頭徹尾の災厄そのものであった。
この数日間、体内の忘却の魔力が暴走して高熱に浮かされ、馬車の度重なる揺れに翻弄され続けたルシアは、ひとたび胃底からの嘔吐感を抑えきれなくなると、生存本能の赴くままに目を閉じた手探りで、身近にある唯一の「緩衝材」へと縋り付いた――
オスがいかに高価で神聖な予備の法衣に着替えようとも、それらは例外なく、ことごとくルシア専用の汚物袋と化していったのである。
初めのうちこそオスは悲鳴を上げて取り乱していたものの、次第にその精神は完全な麻痺へと至った。
当代の至高たる教皇でありながら、この数日のうちに、ルシアが眉を微かにひそめた瞬間を察知するや否や、自ら諦観の境地で胸元を押し広げて彼女を抱き寄せ、その背を優しくさすりながらハンカチで口元を拭い、
「大丈夫だ、大丈夫だ……吐き出してしまえば楽になるからな」と手慣れた調子で宥め賺す術を身につけてしまっていた。
何となれば、オス自身が痛いほど弁えていたからである。
ルシアが今こうして体内の魔力平衡を崩し、高熱と神経を苛む激痛に苛まれる半身不随同然の惨状に陥っているのは、突き詰めればすべて、かつて自身が長生寺の石板の契約を強引に破綻させたことによる報いなのだ。
骨の髄まで染み渡った罪悪感と負い目ゆえに、どれほど全身に酸醑の悪臭を浴びせられ、神聖なる威信を地に堕とされようとも、彼はまるで腫れ物に触るかのように、手向かいも口答えもせず、ただただ甘やかし宥めるしかなかったのである。
回廊に連なる巨大なトスカーナ式列柱の落とす濃密な陰影の中に、すらりと背の高い影が、すでに久しく佇んでいた。
目を奪うほど鮮やかなワインレッドの長髪は、銀のヘアクリップで無造作に後頭部へと纏められ、幾筋かの解けた毛先が白くしなやかな頸筋へと零れ落ちている。
彼女が身に纏っているのは、帝都魔法学院の上席魔導士たる導師法服であった。
その深い藍色の布地には貴族諸家の煩雑な家紋など微塵もなく、ただ純然たる学術的最高峰の境地を象徴する微細な天球儀の星軌が刻まれている。
金縁の眼鏡の奥から覗く、熔解した黄金のように燦然と輝く金眼は、深邃にして鋭利――ヴァレリー。魔法学院の悠久の歴史において、最年少にしてその座を射止めた平民出身の天才教授。
そして……この魔法と神権が支配する世界において、ルシアと同じく、その魂の奥底に「異郷の残滓」を宿す、数少ない同郷の徒であった。
死人のように青白く、冷や汗に濡れたルシアの横顔を視界に捉え、さらにその傍らで、清潔な外衣に着替えてはいながらも、なお微かに酸敗した酒気のエール臭を漂わせている教皇オスを一瞥すると、ヴァレリーの金の瞳の奥に、看取し難いほどの微かな波紋が走った。
彼女は革の長靴で床を鳴らし、迷うことなく歩み寄ってきた。
「長途の旅、息災で何よりです」
ヴァレリーの声は落ち着き払って冷涼であり、研究者特有の自制と理性を帯びていた。彼女は法服の内側から、掌に収まるほどの大きさの、緻密な禁制術式が巡らされた特製の留影魔導器を取り出した。
魔力が静かに注ぎ込まれると、朝霧の中に幽藍の光輪が立ち昇り、半空にやや乱雑ながらも凄絶な殺気を孕んだ立体幻影が投影された――
それは崩壊し沈みゆく破壊神殿の地下廃墟。堕天使の漆黒の羽翼と、ルシアの構築した錬金術式の圧迫が狂おしく激突し、その映像の核心部には、ルシアが凡庸なる肉体をもって破壊神殿の守護者を討ち果たすも、尽き果てた魔力によって力尽き斃れた、あの凄惨を極めた死闘の記録が焼き付けられていた。
「私の脳内を探したところで、確かに貴方の名も、声も、共に過ごした日々の断片すら一片も見出すことは叶いません」
ヴァレリーは掌を収めて魔導器を懐へとしまい直し、その金の瞳で静かにルシアを見据えながら、厳かに告げた。
「ですが、私は数値と客観的事実を信奉する性分です。この留影器は、私が直々に暗号化を施した結晶であり、そこに残された魔力の残存波長に虚飾はあり得ません。たとえ世界が主観的認識から貴方の存在を抹消したとしても、客観的な因果律と、この摩耗し得ぬ物理的記録の前において、貴方はかつて私と背中を預け合った同胞であった――ゆえに、私たちが交わした盟約は、今なお有効であると解して差し支えありませんね?」
その言の葉を耳にして、ルシアの張り詰めて千切れかけていた神経は、無意識のうちに微かな弛緩を見せた。
だが、同じく転生者であり、常に幾重もの退路を張り巡らせておく本能が、あの魔導器を凝視した刹那、脳裏の深淵で「忘却の法則」にまつわるある規則に、突如として猛烈な警報を鳴り響かせた。
待て……何かがおかしい。
ルシアの瞳孔が、針の先ほどに急激に収縮した。
かつて長生寺の守護者を継承した際、世界の基底次元が執行した【全認識の消去】とは、本質的に「ただの一度きり」に過ぎなかったはずだ。
あれは神殿が権能を譲渡したその決定的一瞬において、大陸全土のあらゆる知的生命体に向けて下された、「単発の初期化」に他ならなかった。
そしてそれ以降、彼女が透明な亡霊のごとく白昼堂々と人界を闊歩しながらも、誰一人として記憶に留められることがなかったのは――偏に彼女の体内に宿る石板の受動回路が、自律的に【隠蔽(匿蹤)】の干渉場を長期にわたって維持し続けていたからに他ならない。
換言するならば――
これは決して永続的に約束された絶対的な不可視などではなく、外部から追加発動された「拡張干渉術式」に過ぎなかったのだ。
ひとたび彼女が肉体の限界を迎え、魔力を過負荷に陥らせ、あるいは現在のように権能の減退によって隠蔽の力場を維持できなくなれば……
客観的な留影結晶や、見覚えのある些細な癖、あるいは当時の学院の学徒たちによる学術的証言などを通じて誰かが彼女の輪郭を照合し直した瞬間、その蘇った記憶は、二度と世界規則によって抹消されることはない。
あらゆる人間が、正真正銘、彼女の存在を「再び思い出す」ことになるのだ。
カッ――!
その論理的帰結は、百面もの雷霆が同時に脳髄を直撃したかのような衝撃となって、ルシアの精神を揺るがした。
骨の髄を凍てつかせる底知れぬ悪寒が尾てい骨から頭頂部へと駆け抜け、冷汗が滝のように薄手の黒い法衣を濡らしていく。ルシアが桃香の袖を掴む指先は狂ったように痙攣し、指の関節は白磁のように青ざめていた。
もしも隠蔽が完全に瓦解し、世人たちが次々と自分を思い出し始めたとしたら……
それは、何を意味するのか。
先だって、麓の村落で開かれた選挙集会において、数百の民衆の面前で、あの若く有能な立候補者の長ズボンを下着ごと足首まで引きずり降ろし、今日に至るまで顔を上げて歩けぬ身に追いやった、あの黒髪の悪辣な女の正体が……
隣街で最後の一樽となった蒸留酒を奪い取るため、錬金術による局所重力をもって、法執行官が後生大事にしていた金髪の鬘を大聖堂の十字架の尖塔へと吹き飛ばした真犯人が……
あるいは、ある思い上がった帝国の貴族が宿場町を通りかかった際、急激な腹痛に見舞われて厠へ駆け込んだところへ、彼女が臆面もなく冷笑を浮かべながら指向性空気砲を撃ち込み、扉ごと糞尿の底へと叩き落としたあの惨 নির্মম極まりない事件の首謀者が……
さらには退屈しのぎに屋根の上に陣取り、通りがかる貴族の子供の後頭部へ酸っぱい青林檎を投げつけたり、白昼堂々と酸敗した濁り酒を凶悪な傭兵団長の顔面にぶちまけて狼狽し狂乱する様を嘲笑った、数々の悪行の数々……
そして……何よりも致命的な、あの一件。
聖殿へと至る道程の長大さゆえ、数日前、北境の公爵邸と法師塔の傍らを通り抜けた際、誰も自分を記憶できぬのを良いことに夜陰に乗じてカリーナの寝室とクレアの私的書斎へ忍び込み、機密文書を紙飛行機にして飛ばし散らかしたばかりか、冷たい香気を纏った幾枚もの高価な絹の肌着を失敬し、涎を拭う枕カバー代わりにしていたことが……
すべて、白日の下に晒されることになる。
「…………」
ルシアは硬直したままその場に縫い止められ、心臓の鼓動すら停止しかけていた。
先刻まで馬車の揺れによって掻き回されていた激しい胃痛など、この瞬間に押し寄せた無辺無際の社会的尊厳の死への恐怖によって、塵芥のごとく吹き飛んでしまった。
それは首を刎ねられる恐怖などではない。異世界全土において「公開処刑に処され、尊厳を灰燼に帰される」という、究極の絶望であった。
「ルシア様!? いかがなさいましたか、どこかお痛みなのですか? 桃香が、桃香がここにおります……!」
桃香は狼狽してその場に片膝をつき、ルシアの氷のように冷え切った手の甲を包み込むように握り締めると、穏やかな気を注ぎ込みながら、この上なく柔らかな声音で懸命に宥めようとした。
傍らのオスもまた慌てて歩み寄り、慣れた手つきで彼女の肩を支えようと手を伸ばしながら、その声には気遣いと過保護な甘やかしを滲ませた。
「ルシア殿、どうしたのだ? また胃がせり上がってきたのか? 構わん、吐き気を催したのなら、遠慮なく余の胸元へ吐き出すがよい。無理をして身体を壊しては元も子もないからな……」
「違う……吐くとか吐かないとか、そんな次元の話じゃない……!」
ルシアは桃香の胸元に崩れ落ちるように倒れ込み、歯の根をガチガチと鳴らしながら、その目尻には極度の恐慌ゆえの涙すら滲ませていた。
「あの忘却の力……私が思っていたほど便利な代物じゃなかったのよ! あれは能動発動の干渉術式だったの! 私の魔力が衰えたり、誰かが確たる記録を手に私を認識してしまえば……私がこれまでやらかしてきた悪行の数々が、何一つ漏らさず暴かれることになるのよ! 被害者たちに袋叩きにされたら、私、今度こそ地面に組み伏せられて撲殺されるわ……!」
傍らに立つヴァレリーは、金縁の眼鏡を指先で押し上げ、ルシアの錯乱した言動の端々に滲む濃厚な「犯行の後遺症」を冷静に拾い上げた。
彼女は、この数日間で完全に毒気を抜かれ、かえって唯々諾々と従属するようになった教皇オスを忌々しげに冷淡な目で見やると、静かに息を吐いた。
「宜しいでしょう。どうやら貴方方が道中で紡いできた物語は、私の推論以上に波乱万丈であったようですね。教皇猊下、まさかその酸鼻を極めた臭気を放つ装束のまま、この荘厳なる偏殿の前で信徒の拝謁を受けるおつもりではないでしょう?」
オスは苦笑を漏らし、慌てて威儀を取り繕った。
「……コホン! 教授の申す通りだ。ここは人目につく。まずは中へ入ろう」
……
数分後、教皇専用の私的休息室の中。
重厚かつ豪奢な紫金の遮音結界と、高位の対探知魔導陣が静謐のうちに展開され、外界の喧騒は完全に断絶されていた。
暖炉の奥では温かな魔導の焔が爆ぜ、ルシアは夢を失った魚のように、広大で柔らかな天鵝絨の長椅子へと力なく身を沈めていた。
桃香はその傍らに跪き、淹れたての温かな生姜湯の器を捧げ持ちながら、慈しむようにルシアの背中を優しく撫でさすっている。
オスは物静かに傍らへと退き、汚れた外衣を着替えると、ルシアのために湯気を立てる濡れタオルを運び、さらには彼女の足元に掛けられた毛布の端を丁寧に整えてやる始末であった。
ヴァレリーは背もたれの高い椅子を引き寄せて優雅に腰を下ろすと、黄銅の細工が施された羽ペンと羊皮紙を手に、事の顛末を迅速かつ整然と整理し終えた。
狩猟祭の勝者に与えられる大陸経済の命脈「三大陸免税特権」、至高たる教皇の皇血を狙う各勢力の暗殺包囲網、そしてルシアの崩壊寸前にある隠蔽の切り札に至るまで。
室内にはしばしの静寂が降り、ただ暖炉の薪が爆ぜる音だけが小さく響いていた。
やがて、魔法学院にその名を轟かせる平民出身の天才教授は、静かに手帳を閉じた。金縁眼鏡の奥の瞳には、強敵に包囲されていることへの悲壮感など微塵もなく、むしろ侵略的なまでの鮮烈な笑みが浮かんでいた。
「――つまり貴女は今、己の悪戯が祟り、北境軍団の鋼鉄の女公爵と魔導同盟の筆頭魔導士、さらには教皇猊下の存在ゆえに二大帝国の無数の精鋭暗殺者たちから同時に標的とされ、身を隠すための最後の不可視の覆い布すら剥ぎ取られようとしている……そういうことですね?」
「何がそんなにおかしいのよ……」
ルシアは力なく目を剥き、毛布を頭の天辺まで引き上げて、くぐもった声を漏らした。
ヴァレリーがかくも容易く自分を見出し、なおかつ今に至るまで忘却の兆候すら見せていないという事実は、ルシア自身の隠蔽の権能が、決して絶対的なものではないことを如実に物語っていた。
おまけに高熱による魔力の減退が続いている今、自分が完全に詰みかけていることをルシアは痛感していた。
カリーナの私兵とクレアの門弟たちに追跡され、教皇の護衛を引き受けたという情報も早晩知れ渡るに違いない。もはや敵の数は、数えることすら馬鹿らしい領域に達していた。
「私、今夜にでも地牛を二頭雇って、長生寺に逃げ帰って山門を閉ざそうかって、本気で計算しているところなんだから」
地牛とは、この異世界において屈指の脚力を誇る移動手段であり、強靭な肉体と戦闘力を兼ね備え、契約にのみ忠誠を尽くすため、ルシアの逃亡劇においては最も信頼に足る選択肢であった。
「笑わずにはいられませんよ。忘却の神殿の守護者が討ち滅ぼされる理由が、くだらない悪戯の積み重ねによって敵を増やしすぎたことだなどと、学会に論文を提出しても査読すら通らないでしょう」
ヴァレリーは立ち上がり、革の長靴で絨毯を踏みしめて規則正しい足音を響かせた。彼女は長椅子の前へと歩み寄り、毛布の中で丸まっているルシアを見下ろすと、迷うことなくその白くしなやかな右手を差し出した。
「これほど知的好奇心を刺激される盤面、見過ごす手はありません。――ここに宣言しましょう。私は正式に貴女の陣営へと加わります、ルシア」
傍らで手を拭き終えたばかりのオスが目を見張り、声を上擦らせた。
「お、お待ちくだされ、ヴァレリー教授! 貴女は魔法学院において最も懐柔し難い中立派の領袖であったはず! かような電撃的な鞍替えはあまりに軽率ではありませんか? 学院における貴女の名声に傷がつくのでは……」
オスにとっても信頼に足る味方が増えることは歓迎すべき事態であったが、ヴァレリーの立場はルシアとは根本的に異なる。
いまやルシアは皇太子すら執心したかつての寵児から、忘れ去られた路地裏の野良猫へと転落したが、ヴァレリーは紛れもなく飛ぶ鳥を落とす勢いの現役の天才教授なのだ。
ヴァレリーが教皇陣営に加担したとなれば、あらゆる勢力が教皇の周辺を徹底的に洗うだろう。そして最終的には、帝都魔法学院の実習教授名簿に「ルシア」の名が遺されているという奇怪な事実に辿り着いてしまう。
そうなれば、数多の人間がルシアの存在を思い出し、彼女がやらかした数々の忌まわしい悪戯の記憶までが、雪崩を打って蘇ることになるのだ。
「中立? 貴方方の提示する報酬が私の知性に見合っていなかった、ただそれだけのことです。私が誰に与するかは、私の自由意志と美意識による選択に他なりませんよ、教皇猊下」
ヴァレリーはオスに視線の一片すら向けず、その金の瞳の奥に、天才学者のみが共有し得る狂気にも似た熱情を滾らせていた。
「神話の時代が幕を開けてより数万年、七大陸のあらゆる自称・神の使徒たる教派も、傲岸不遜な帝国の皇権も、魔導同盟の腐朽した貴族の長老どもすら、幾百世代もの血を費やしながら『七大禁忌の石板』の法則の端緒にすら触れること叶わなかった。あれは、この世界の基底を構築する根源のコードそのものなのですから」
ヴァレリーは深く息を吸い込み、その双眸に巡礼者さながらの灼熱の光を宿して、毛布の隙間から覗くルシアを真っ直ぐに見据えた。
「学術的な広義において論ずるならば……ルシア、貴女は有史以来、純然たる凡人の肉身をもって歴史の軛を断ち切り、禁忌の石板を強奪してそれを支配下に置いた、世界最初の奇跡なのです。貴女は既に神と人の境界を踏み越え、この地上を歩む物理法則の守護者そのものへと昇華したのですよ!」
休息室の中は、水を打ったように静まり返った。
それは魔法の通史に燦然と刻まれ、真理を追い求めるあらゆる魔導士が落涙して平伏するに足る、至高の戴冠の辞であった。
――だが、次の瞬間。
ヴァレリーは差し伸べた手を引っ込め、何食わぬ顔で眼鏡のブリッジを押し上げると、その唇の端をこれ以上なく意地悪く歪め、冷ややかな声音で言葉を継いだ。
「……もっとも、世界の頂点へと登り詰め、至高の禁忌を掌中に収めた守護者閣下が、その神代の権能を得て真っ先に実行したことが――白昼堂々と選挙幹部のズボンを剥ぎ取り、指向性空気砲で貴族を肥溜めに叩き落とし、酸っぱい林檎を子供の後頭部に投げつけ、果ては夜陰に乗じて元妻たちの閨房に忍び込み、高価な絹の肌着を盗み出して涎を拭く雑巾代わりにすることだったわけですが」
「ぶふっ――!!!」
オスが動揺を鎮めようと口に含んだばかりの最高級の紅茶が、高圧の噴水さながらに、正面の卓上へと盛大にぶち撒けられた。
「ヴァレリーッ――!!!」
ルシアの青白かった顔面は、瞬く間に沸騰したトマトのように深紅へと染まり上がった。
羞恥のあまり全身の毛を逆立てた彼女は、毛布を乱暴に跳ね除け、長椅子の上にあった分厚い天鵝絨のクッションを引っ掴むと、ありったけの力で紅髪の同郷人めがけて投げつけた。
「黙れ! 黙りなさいよッ! 貴女の手帳に書き殴ったその下らない記録を消しなさい! 基底コードごとバックアップも含めて今すぐ物理フォーマットしなさいよ! 直ちに! 今すぐ――!!」
逆上したルシアは、半ば自棄になったように右手を頭上へと掲げた。
その瞬間――室内に灯っていた温もりある魔導の焔が、何の前触れもなく凝固した。
否……消えたのではない。風に吹き散らされたのでもない。
部屋を満たしていた音も、時間も、生ける者の呼吸のすべてが、不可視の氷の天蓋の中へと呑み込まれてしまったのだ。室内の色彩は瞬く間に色褪せ、古びた黄ばんだ草紙のような死灰色へと沈み込んでいく。
コト、コト……。
ルシアの胸元にいた機械梟刻刻の体内歯車が緩やかに噛み合い、暗金色の硝子眼が静かに虚空を映し出す。
呪文の詠唱も、複雑に鳴り響く魔導陣の展開すら存在しない。
ルシアの指の隙間から、深く濁った暗赤の微光が音もなく滲み出し、彼女の掌の上へと、手のひら大の八角走馬灯を静かに押し上げた。
その灯籠は全身が白骨を思わせる色調を帯び、八方に張り出した軒先の下には、爪先ほどの小さな紙人形がそれぞれ吊るされている。
それらの紙人形には瞳がなく、ただ平坦な紙面に、朱砂の塗料をもって耳元まで引き裂かれた、一様に歪で微かに歪んだ嘲笑が刻み込まれていた。
灯芯には、幾千幾万年もの時を燃え続けてきたのであろう残蝋が、暗赤色の芯火を細く灯している。
熱気が立ち昇ると、灯籠は回り始めた。
――ギギ、ギギギ……。
灯壁に映る紙人形たちが、回り始める。
一つが一つを追い、一つが一つへと追いつかんと駆ける。
背後から不可視の宿命と熱気に押し立てられるように、始まりもなく、終わりも見えぬ円環の旅路。
たとえ熱気が紙面を焦がそうとも、蝋の油がひとしずく、またひとしずくと尽き果てようとも、紙人形たちは果てることなく走り続ける。
顔に刻まれた笑いは描かれたものに過ぎないがゆえに、どれほど眩暈に苛まれ、魂をすり減らそうとも、ただそうして嗤い続けることしか許されないのだ。
天地を揺るがすような轟音の威圧など存在しなかった。
だが、その八角走馬灯が音もなく回転を始めた瞬間、教皇庁本部の全因果は、この冷え切った灯籠の檻の中へと強引に引き摺り込まれた。
灯の外は観客、灯の内は囚人。
「…………っ!」
驚愕に目を見張っていた教皇オスは、その灯影が網膜に焼き付いた刹那、全身を硬直させて凍りついた。
己の呼吸と意識が、回転する影によって削ぎ落とされていく恐怖に抗えず、ソファーの肘掛けを爪が割れるほど握り締めながら、瞬き一つすることすら叶わなくなった。
そして石段の前、回廊の陰、教皇庁の隅々に至るまで、その微かな暗赤の光に撫でられたあらゆる生ける者の胸裏に、骨の髄を穿つような空虚な戒律が刻み込まれた――
【この灯に入りし者は、すべて回転する影である。】
【灯火の燃え尽きぬ限り、足を止めることは許されない。】
これこそが、忘却の石板の真の姿。
世人が焦がれる奇跡などではない。栄光に満ちた玉座でもない。それは守護者の存在そのものを薪としてくべ続け、魂が摩耗し尽くすまで円環を駆け巡らせる、呪われた古の牢獄に他ならなかった。
走馬灯は幽玄に回り続け、その場に居合わせた者たちの脳髄へと、膨大な記憶の奔流が叩き込まれた。
軒先に吊るされた一体の小さな紙人形が、立ち昇る熱気に押され、ちょうどヴァレリーと正対する位置へと巡り来る。
紙人形の朱砂で描かれた歪な笑みが、暗赤の揺らぎの中で微かに傾いだ。
――キィン。
引き裂かれるような激痛はなかった。ただ、頭頂部から冷水を浴びせられたかのような、どこまでも深く静謐な窒息感が、ヴァレリーの意識を貫いた。
走馬灯の影法師の中に、かつて世界によって切り落とされたある一つの顔が過る。
世界の因果によって乱暴に削ぎ落とされていた幾万もの欠片が、その一巡ごとの回転とともに、抗う術もなく組み上がっていく――
――帝都学院の薄暗く狭隘な地下研究室で、異郷の魂を宿した二人の転生者が、この世界の神権と理不尽を嘲笑いながら、一枚の力学草図を前に東の空が白むまで計算に没頭した日々。
――屋台の粗末な安酒の辛酸さ、互いを罵倒し合う阿吽の呼吸、そしてこの世界の荒唐無稽な掟を前にしたとき、互いの双眸の奥に宿っていた、あの言わずと知れた疲弊と冷徹な覚醒。
――そして最後、破壊神殿が崩壊へと向かう深淵の底で、枯葉のように痩せ細ったあの黒髪の少女が、立ち込める土煙の中で静かに崩れ落ち、その後の温泉街への湯治の旅路の中で、いかにして自らの意志でこの灯籠へと歩み寄っていったのか。
彼女は、自ら灯の中へと足を踏み入れたのだ。
己の真名も、過去も、この人の世に刻んできたあらゆる軌跡をも、その生身の肉体ごと、この灯籠を満たす新たな蝋燭として捧げるために。
あの日から、地上の観客たちは何食わぬ顔で歓声を上げ、拍手を鳴らし、この大陸の歴史という名の頁を捲り続けてきた。
ただ一人、誰も視ること叶わぬ灯籠の奥底で、ルシアだけが、作り物の無表情な笑みを貼り付けたまま、終わりのない運命の円環を、今日この時まで回り続けてきたのだ。
「……はぁ」
ヴァレリーは、深く、長い吐息を零した。
その息吹には何年もの間澱んでいた冷気が宿り、まるで胸の奥に積もりすぎていた塵芥のすべてを吐き出したかのようであった。
暗赤色の灯火の前に佇む彼女の、ワインレッドの長髪が静まり返った空気の中で微かに揺れる。
金縁眼鏡の奥にある金の瞳からは、かつて学徒として纏っていた猜疑も打算も消え去り、ただ秋の水面のように澄み渡った静謐と、荒涼とした憂愁のみが残されていた。
しばしの沈黙の後、ヴァレリーは胃を押さえ、自嘲と警戒を滲ませる華奢な少女を見つめた。
その唇の端が、極めて微かに、淡く弧を描いた。
それは嘲笑でも、狂喜でもない。同じ泥濘の中に立ち尽くす者が、灯の中で千百回もの転倒を繰り返しながら走り続けてきた同胞に向けて零した、酸鼻と疲労、そして言葉を越えた理解に満ちた微笑みであった。
「……そうでしたか」
ヴァレリーは指先を挙げ、眼鏡のブリッジをそっと押し上げた。その声音は低く、まるでその儚い残蝋の灯を吹き消してしまわぬよう気遣うかのようであった。
「あの忘却の神殿で……貴女はそうやって自分自身を一本の蝋燭として、この壊れかけの灯籠に火を灯し、これまで静かに息を潜めて生きてきたのですね」
熱気に揺られ、未だ回転を止めぬ八角走馬灯を見つめながら、ヴァレリーは静かに呟いた。
「回り続けるのも、随分と疲れたでしょう。ルシア」
ヴァレリーはすべてを思い出した。
そして同時に、彼女もルシアも気付いてしまったのだ。
ルシアの力は、他者に失われた記憶のすべてを想起させることはできても――他者の記憶を消し去る術など、持ち合わせてはいないという事実に……。




