教皇からの依頼と、暗流渦巻く狩猟祭
長生寺の大殿の内、先刻の解体寸前の大爆発による余波は未だ完全に収まっていなかった。
吹き抜ける陰風が火薬の臭気と冷たい灰塵を巻き込み、傾いだ仏龕とへし折れた梁の間をヒューヒューと哭くように駆け抜けてゆく。
殿内の中央、辛うじて瓦礫が払われた青瓦の上に、古びた二つの蒲団が並べられていた。
その光景は、どこか悪夢めいて滑稽極まりない。
片方の蒲団の上では、桃香が深い慈しみと病的な執着を込めて、ルシアの全身を背後から包み込むように抱き留めていた。
彼女は正座して膝の上にルシアを乗せ、幅広の羽織でその華奢な肢体を隙間なく覆い、壊れやすい硝子細工を慈しむように両腕をその腰へ回している。
掌からは途切れなく温かな火行の真気が注ぎ込まれ、深秋の底冷えから愛しい者を守り温めていた。
ルシアはその腕の中にぐったりと身を沈め、桃香の柔らかな首筋へと額を預けている。黒髪は乱れ、目元には引く気配のない病的な紅潮が滲んでいた。
白く骨張った指先を、抱きかかえた機械梟「刻刻」の真鍮の殻に無頓着に載せ、燻る高熱と安酒の酸っぱい匂いを全身から漂わせている。
そして、彼女たちの正面、わずか三尺と離れていないもう一方の蒲団に座しているのは――現代のノースランド帝国において最も尊貴で、かつ最も危険な男。
帝国教廷の至高の指導者、教皇オースその人であった。
普段であれば神座の上から万民を見下ろすはずの若き至尊は、今や身に纏うものとてなく、神聖なる暗紋の刻まれた白いボクサーパンツ一丁の無残な姿を晒している。
頭上に屹立する黒焦げの爆発頭からは未だ細い煙が立ち上り、整った美貌は煤と青痣で塗り潰され、胡坐をかいた膝を抱えて寒風にガタガタと震えていた。唇は紫色に変色している。
だが、その極限の滑稽さと惨めさの中にあっても、口元には頑ななまでに貴族的な嘲笑が張り付けられていた。
ルシアは酒気を含んだ墨緑の瞳を半眼に開き、刻刻の冷たい頭に顎を乗せたまま、重い瞼を辛うじて持ち上げた。
麦酒の甘ったるい匂いを帯びた小さなしゃっくりを漏らし、ひび割れた唇を微かに動かす。擦れたその声音は、枯れ木を紙やすりで削り取ったかのように冷たく、生きている人間の温もりを微塵も感じさせない。
「……天下の教皇様が、女二人しかいねぇ深山の破れ寺までパンツ一丁で駆け込んできて、私の前で震えるのが目的かい?」
オースは爆風で麻痺したうなじを擦り、痛ましそうに息を吸い込んだ。喉を震わせ、ため息混じりに零す。
「ルシアさん、先ほどの『ご挨拶』のおかげで、危うく今日が私の国葬の日になるところでしたよ……」
「白々しい真似はやめな、インチキ祈祷師」
ルシアは鼻を鳴らした。その冷笑には、骨の髄まで染み渡った厭世と嘲弄が滲んでいる。
頭蓋の奥はガンガンと激しく痛み、視界はぐるぐると回り、胃袋からは酸っぱい吐き気が絶え間なく競り上がっていた。
だが、高熱とアルコールに浸され爛れた肉体の奥底で、かつて学者として培った冷徹な理性はメスの如く研ぎ澄まされ、この茶番の核心を容赦なく暴き立てていた。
彼女は重い瞼を持ち上げ、煤塗れのオースの顔面を射抜くように見据えた。
「初めから……私を誘導して【忘却の石板】を受け入れさせたのは、あんただろ?」
背後の桃香の双眸に、昏い殺気が走った。ルシアの腰を抱く指先が瞬時に白く強張る。刃のような殺意が実体となってオースへと突き刺さった。
ルシアは桃香の胸に身を預けたまま、指先一つ動かそうとせず、ただ途切れ途切れに、だが致命的な真実を紡ぎ出していく。
「忘却の石板は……神殿の法理が産み落とした代物だ。それを神殿から生きて持ち出す道は、世界に二つしか存在しない」
彼女は青白く透けるような人差し指を虚空に掲げ、小さく揺らした。
「一つ目は、石板が認める『代償』を差し出すこと。だが……その対価は重すぎる。教廷の全権を握るあんたですら払いきれないほどにな。世界から己の存在を根こそぎ抹消され、何人からも忘れ去られる因果の呪縛だ。至高の神座も、手にした権力も手放せないあんたが、自らその石板に触れられるはずがない」
続いて、ルシアは二本目の指を立て、自虐的な冷笑を口元に刻んだ。
「そして二つ目の道……それは『石板の守護者を撃ち倒す』こと。守護者が討ち果たされれば、石板との共生契約の規定により、石板は挑戦者の勝利を承認する。その時こそ、最小限の代償でそれを我が物にできる」
大殿の空気が、完全に凍てついた。
桃香の袖裏で蛇腹の鋼索が微かに震え、空間の温度を氷点下へと引きずり落とす。
「本当によく練られた算段だよ、オース」
ルシアは桃香の着物の胸元に顔を埋め、息を吸い込んだ。籠もった声は、だが確実に急所を抉る。
「私のような、すべてを失った余所者を唆して守護者に仕立て上げ、世界法則の忘却を肩代わりさせた。この破れ寺で日夜高熱に焼かれ、酒に溺れて朽ち果てるのを待っていたんだ。機が熟せば、家畜を屠るように自らの手で私を処分し、何の後腐れもなく石板を懐に収める手はずだったんだろう」
ルシアは言葉を切り、瞳の奥に狂気を孕んだ納得の光を走らせた。
「石板に消された人間は、全世界の記憶から消滅する……だが、あんたは今日、私の名を呼び、迷いなくここへ辿り着いた。あんたの神聖耐性が優れているからじゃない。【未来予知】の仕業だな?」
彼女は冷笑を浮かべ、表情を変えたオースを真っ向から見据えた。
「あんたも一度は私を完全に忘れていたはずだ。だが、いつぞや予知の権能を使った折、己自身が未来の私と交渉し、自ら立てたこの強奪計画を遂行している姿を垣間見た。未来の残滓を覗き見ることによって、失われたはずの私に関する記憶を無理やり『再読み込み』した……違うかい?」
向かいの蒲団にパンツ一丁で座す教皇の顔から、とうとう道化じみた笑みが消え去った。
彼は桃香の胸に抱かれ、まともに座ることも叶わない病弱な少女を見つめ、やがて自嘲するように首を横に振った。火薬の苦味を帯びた息を、重々しく吐き出す。
「見事だ。実に見事な推論だね……」
オースは嘆息し、凍えた膝に両手を置きながら苦く笑った。
「かつて二人の天涯の麒麟児を虜にしただけのことはある。泥酔してなお、その頭脳は教廷枢機卿の古狸どもより百倍も澄み渡っているらしい」
彼はあっさりと認めた。だがルシアは知る由もない。守護者の座に就くことすら並大抵ではなく、彼女こそがその資格を持ち得た極めて稀有な存在であったという事実を。
「君の言う通りだ。最初の因果予測において、君は神殿の呪いを回避するためのただの『器』に過ぎなかった。石板の侵食によってその身が完全に衰弱しきった頃合いを見計らい、私がここ長生寺へ果実を刈り取りに来る手はずだったよ」
オースの瞳の奥で淡金の神聖光が揺らぎ、声音がかつてないほど低く沈んだ。
「だが、運命は私に途方もない悪戯を仕掛けてきた。ルシアさん、三大陸の帝国が連合する【狩猟祭】の前倒しが決まったんだ」
彼は己の滑稽極まる裸体を指差し、苦い笑みを浮かべた。
「三大陸の教廷が一枚岩であったことなど、歴史上一度たりともない。数百の齢を重ねた化け物じみた古参の教皇どもは、若くして頭角を現し、苛烈に権勢を伸ばす私の存在を以前から酷く疎んでいた。通信が断たれ、深淵の災厄が跋扈する連合猟場の掟を利用し、奴らは網の目を張り巡らせたよ。この猟場の奥深くで、私を『公務中の殉職』に見せかけて葬り去るつもりだ」
オースは顔を上げた。その双眸からは軽薄さが消え失せ、万丈の深淵の縁に立たされた者の、最後の賭けの光が宿っていた。
「聖殿内部はすでに敵の手の者に蝕まれ、帝国軍団も魔導同盟もそれぞれに腹に一物を抱えている。他派の刺客はすでに我が喉元にまで刃を届かせているんだ……今の私は文字通りの四面楚歌。水一杯を差し出す従僕ですら、私の命を狙う暗殺者かもしれん」
彼は乾いた笑いを漏らし、冷淡に見つめ返すルシアを見遣った。
「この広大な三大陸の天地において、万民が私の屍肉を貪らんと待ち構えている。ただ一人、君を除いてね、ルシアさん――世界から忘れ去られ、因果の帳簿に記されぬ『規格外の例外』。私を骨の髄まで憎みながらも、我が神座にも権力にも微塵の執着すら抱かぬ、異形の守護者よ」
すきま風が焦げた彼の髪先を揺らす。パンツ一枚の教皇は、酔いどれを抱く少女へと向かい、誇り高き首を静かに垂れた。
「今の私が唯一信を置き、そしてこの死地において私の命を繋ぎ止める力を持ち得る者は……皮肉にも、君しかいないのだよ」
オースが頭を垂れた瞬間、大殿に淀む重苦しい空気はさらに密度を増した。
オースは自嘲気味に息を吐き、身にまとった唯一の布地――神聖なる暗紋の刻まれたボクサーパンツの端へと手を差し入れた。
肌に密着した隠しポケットを探り、指先で取り出したのは、手のひらに収まるほどの古い玉珮であった。羊脂玉の温潤な白光を放っている。
その表面には古風で緻密な透かし彫りの雲紋が施され、穏やかでありながら底知れぬ遮断結界の気配を微かに漂わせていた。
苦無を逆手に構えていた桃香の瞳が僅かに収縮し、身を半寸ほど乗り出す。忘却の神殿の代行者である彼女は、その波動の意味を誰よりも正確に理解していた。
オースは玉珮を両手で掲げ、その表情を引き締めた。
「神殿石板の守護者となった以上、君の魂と肉体は長生寺の地脈の底へと固く錨を下ろされている。代行者なら身に染みて理解しているはずだ――君はこの寺から長く離れることはできない。神殿の感応領域を超越した瞬間、肉体は石板の暴虐な力によって内側から引き裂かれ、凄惨な反噬の果てに爆死を遂げることになる」
彼は玉珮をルシアの足元へと滑らせた。乾いた青瓦の上で、乾いた澄んだ音が鳴る。
「だが、この【匿因の古玉】は、初代教皇が遺した秘法に浸され鍛え上げられた神遺の遺物だ。これを身につけている限り、君と長生寺の間に仮想の因果回路が構築され、石板による肉体の距離探知は完全に遮断される。つまり――この玉が砕けぬ限り、君を縛る時間制限は消え失せる。天は広く地は果てしない、君が行きたいと望む場所へ、何処へでも赴くことができる」
オースは深く息を吸い込み、桃香の胸に軟体動物のように沈む黒髪の女を見つめ、己が持ち得る最後の、そして最も重い籌码を提示した。
「私の要求は至って単純だ。先陣を切って戦う必要すらない。三大陸連合狩猟祭の期間中、ただ私の傍らに付き従い、他国の教皇の謀略や深淵の災厄によって私の命が絶たれぬよう、その安全を確保してほしい」
オースは周囲の廃墟と化した大殿を見渡し、苦笑を深めながら言葉を重ねた。
「見返りとして、無限の自由をもたらすこの玉珮に加え、狩猟祭の終結後、教廷の最高の工匠と資材を注ぎ込み、この長生寺を跡形もなく建て直すことを約束しよう。風が吹き込むことも、雨漏りや冷たい灰に悩まされることもない。君のための、最も安楽で絢爛な離宮を築いてみせる。そして事態が完全に終息するまでの間、いやそれ以降も、教廷の全資産、秘蔵の魔導素材、君の眼鏡に叶う年代物の銘酒に至るまで、何一つ制限なく自由に費消して構わない」
教廷の権益の半分を差し出し、絶対の自由を買い取るに等しい破格の条件であった。
オースの予知と思考の巡りにおいて、深く傷つき、絶望を抱えた偏屈な錬金術師であれば、激しい警戒心を露わにし、罠を疑い、さらに過酷な屈辱的条件を突きつけてくるものと踏んでいた。
だが、オースが用意していた駆け引きの言葉を繰り出すよりも早く――
ルシアは眉一つ動かさず、刻刻の冷たい頭に顎を乗せたまま、二日酔いの病的な紅潮を浮かべた唇から、どうでもよさそうに、投げやりな掠れ声を落とした。
「……乗った」
一秒の逡巡すらなかった。
床に転がる価千金の玉珮を拾い上げることすら億劫そうに、虚空から錬金手札を淡々と喚び出し、路傍の小石でも放り込むかのように無造作にその中へと玉珮を仕舞い込んだ。
「……は?」
蒲団の上にパンツ一丁で佇む教皇は、完全に虚を突かれた。
煤塗れの整った顔に張り付いていた弁舌の数々が喉元で凍りつき、目を丸くして呆然と立ち尽くす。
「ま、待ちなさい……ルシアさん、条約の細部を確認すらしないのですか? 私がどれほどの聖域級の刺客を抱え込んでいるかも問わず、せめて……せめてこの玉珮に呪いが仕込まれていないか疑うくらいの慎重さは持てないのですか!?」
彼は理解できなかった。先ほど規格外の一撃で自分を身ぐるみ剥ぎ取った怪物が、大陸の覇権を揺るがす大商談を前にして、道端の安煙草を無造作に受け取るがごとき杜撰さで承諾した理由が。
ルシアは水気を帯びた墨緑の瞳を細め、背後で桃香が優しく乱れた髪を梳く指先の感触に身を委ねながら、疲弊しきった口元を歪めて、自嘲と虚無に満ちた冷笑を零した。
「疑う? 何のためにさ」
小さく酒臭い息を吐き出す。その声は、捕らえどころのないすきま風のように頼りない。
「私にはもう、失うものなんて何一つ残っちゃいないんだよ」
名誉も、研究の成果も、かつての愛憎も、そしてこの石板に蝕まれ続ける高熱の残躯すらも――世界がカリーナとクレアの記憶から自分を根こそぎ引き剥がしたあの日、自分はこの世に取り残された亡霊に成り果てたのだから。
世界から「存在しない」と断じられた魂に、今さら奪われるものなど何が残っているというのか。
ルシアは火照った頬を桃香の柔らかな首筋へと深く沈め、重い瞼を閉じた。微かで緩慢な呟きが零れ落ちる。
「毎日寺に引きこもって安酒煽るのにも……飽き飽きしてたところだ」
目を閉じたまま、体内に燻る酔いが再び意識を侵食するに任せ、他人の身の上を語るように淡々と告げる。
「外の空気でも吸いに行くさ……気晴らしにな」
ルシアは重い肉体を起こし、白く繊細な素足で冷たく乾いた青瓦を踏みしめ、覚束ない足取りで長生寺の奥の洗い場へと向かった。
足取りは頼りなく揺らいでいたが、その一歩一歩が刻まれるたび、床面には微かな魔力の波紋が無音で広がっていた。
彼女は確かに、すべてを失っていた。
北境大公カリーナの腕の中で宝のように抱きしめられることもなく、魔導同盟主席クレアが書斎の灯りの下で慈しむように口づけを落としてくれることもない。
帝都魔法学院において、精緻な数式を手に教壇に立っていた若き実習教授の栄光すら、とうの昔に消え去った。
「ルシア」という人間に属していた一切の名誉、絆、歩んできた過去のすべてが、世界の法則によって根こそぎ刈り取られ、綺麗さっぱり消去されていた。
だが皮肉なことに、この朽ちかけた長生寺の守護者となって以来、彼女は常理の枠に収まらぬ異形の怪物へと変貌を遂げていた。
神殿の地脈の底に数百数千年にわたり堆積した太古の遺産と膨大な富は、今や彼女一人の掌中にある。
何よりも恐るべきは、この損なわれた肉体に吹き荒れる魔力の濁流であった。
かつて学者型の錬金術師であった頃、彼女の天性の資質は凡庸極まりなく、魔力回路は細く痩せこけ、高階の魔導陣を構築する際には魔力の一滴に至るまで綿密に計算し節約せねばならなかった。
それが今や、守護者の位格を強引に捩じ込まれた結果、かつての細流に過ぎなかった器へ、凶暴極まりない無限の汪洋が無理やり注ぎ込まれているのだ。
無尽蔵の魔力は、恩寵などではない。ただの果てなき責め苦に過ぎなかった。
過負荷に軋む魔力の奔流は一分一秒と休まることなく神経と肉の壁を削り削ぎ、彼女を低体温の高熱と骨髄の軋む激痛の深淵へと縛り付けていた。
彼女が夜昼の別なく苦く焼けるような強烈な酒に浸り続けたのは、当初こそカリーナとクレアへの魂を裂かれるような思慕を麻痺させるためであった。
だが次第に、彼女はもう一つの秘められた法則に気づき始めていた。アルコールによって中枢神経が完全に麻痺し、泥酔と昏睡の境界線へと沈み込んでいる間だけは、体内で暴虐に狂い咲く神性の魔力が束の間の休眠に入るのだ。
深く酔い潰れれば潰れるほど、肉体を苛む引き裂かれるような激痛は薄らいでいった。
「底無しの魔力貯蔵庫、か……」
ルシアは刺すように冷たい井戸水を両手ですくい、火照った顔面へと乱暴に叩きつけた。雫が蒼白く削げた顎を伝い落ち、立ち上る熱気を一筋奪い去る。
彼女は粗末な石造りの手洗い場に両手を突き、水盆の鏡に映る己の顔を見つめた。酒気と血走った糸を浮かべた、墨緑の瞳。
彼女の頭脳はすでに、錬金重力圧縮に基づいた「外装式エネルギー貯蔵槽」の構想を巡らせていた。
体内に渦巻く忌々しい過剰魔力を継続的に抽出し封印し続ける仕組み。刻刻のフレームを排熱の触媒として転用してでも、己の魔力回路を、あの貧しくも安らかであった枯渇状態へと引き戻さねばならない。
だが生憎と、今すぐそんな大手術に取り掛かる余裕などありはしなかった。
目下の最優先事項は、オースと共に教廷へと赴き、あの爆発頭でパンツ一丁の生臭坊主が一体どれほど壊滅的な厄種を抱え込んでいるのか、その全貌を白日の下に晒すことだ。
そこまで思考を巡らせた時、ルシアは顔の雫を乱暴に拭い、その口元を抑えきれぬ歪んだ弧へと釣り上げた。狂気と自虐の入り混じった、底知れぬ冷笑が浮かぶ。
オースを守護する?
誰が忠犬になると約束したというのか。
百歩譲って、三大陸連合狩猟祭の暗流が余りに深く、オースが跡形もなく引き裂かれ果てたとしても――それは彼女にとって、何一つ痛くも痒くもない話なのだ。
オースが完全に死に絶えれば、この無制限の自由をもたらす「匿因の古玉」は誰の所有でもない遺品となり、返却する義理すら霧散する。
その混乱に乗じ、主を失った教廷が千百年にわたり蓄積してきた秘宝の数々や最高峰の魔導素材を根こそぎ略奪し、そのまま夜逃げ同然に姿を晦ませば済むことだ。
帝国の上層部は、至高の教廷が滅び、教皇が変死を遂げ、宝物庫が塵一つ残さず空になった光景を前にしてただ戦慄するだろう。
だが、大陸最強の預言者や高位神官、どれほど優秀な猟犬を動員して徹底捜査を行おうとも、犯人の痕跡など一片たりとも掴めはしない。
なぜならこの世には、犯人の顔を「記憶」できる脳味噌を持つ人間など、一人として存在しないのだから。
アルコールに侵食された脳は、奇妙なほどに冴え渡り、絶対の氷冷を湛えていた。
己のすべてを強奪したこの「忘却の法理」。ひとたびそれを逆手に取り、武器として手中に収めてしまえば、これほど理不尽で完璧なチートコードは他に存在しなかった。
白昼堂々、どれほど高貴な仇敵の首を跳ね飛ばそうが、恐慌に陥る近衛軍の視線の中を、ゆっくりと血糊を拭いながら歩み去ることすらできる。
目撃者どもは数秒の後、足元に転がる首なし死体を前にして互いに顔を見合わせ、魂の底から間の抜けた疑問を漏らすだけだ。――今、誰が刃を振るった? ここに誰か立っていたか、と。
これこそが、深淵が彼女へと授けた絶対の特権であった。
水鏡の中、黒髪の女の目元に浮かぶ病的な紅潮と、口元に刻まれた陰険な嘲笑が不気味に重なり合う。泥濘と絶望の底から這い出し、この世界を根底から掻き乱さんとする、病弱にして禍々しき亡霊の如く。
ルシアは手近な麻布で無造作に両手を拭うと、大殿へ向けて踵を返した。湿り気を帯びたがらんどうの回廊に、掠れた呟きが静かに溶けてゆく。
「……行くよ、桃香。あのパンツ一丁の祈祷師が、どこまで無様に状況を腐らせてくれるのか、見届けてやろうじゃないか」




