不速の客の末路は、パンツ一丁
荒れ果て、死の静寂に沈む大殿の内。梁間を吹き抜ける陰風が、色褪せ無残に引き裂かれた経幡を冷ややかに揺らし、乾燥しきって無数の罅割れを刻む敷瓦と、朱漆の剥げ落ちた斑模様の巨柱を撫でては、喉を刺す凍てついた灰塵を容赦なく巻き上げていた。
オースは積もる埃と無数の枯葉を踏みしめ、悠然と歩みを進める。純白の聖職服の裾を翻し、手に携えた白銀の秘銀錫杖で地を軽く叩いた。
――カツン。
澄み渡りながらも人の魂魄を強引に揺さぶる鋭利な金属音が、がらんとした空間に木霊する。その余韻が未だ大気の中に溶け去らぬわずか半瞬の刹那、死寂に包まれていた大殿の空気が、突如として耳朶を劈く甲高い破空の爆音によって引き裂かれた。
ヒュッ! ヒュッ! ヒュッ!
何の予兆も、前触れの殺気すらもなく。大殿の薄暗き梁の頂、そして朽ちた神龕の暗がりより、烏羽色の鈍い死光を放つ無数の冷鉄の手裏剣と、重厚な破甲苦無が一斉に撃ち出された。
暗器は冷気を含んだ空間を鋭く切り刻み、オースの周囲数尺の退路を完全に封鎖。寸分の狂いもなく、喉笛、眼球、心臓といった致命の死穴へと猛禽の爪の如く殺到する。
だが、オースの唇の端に刻まれた、あの人を食ったような微笑みは微動だにしなかった。
ジャキン――!
彼が細く長い指先をわずかに掲げた瞬間、燦然たる金色の神聖紋様を宿した半透明の聖力障壁が、天地を覆す巨鐘の如く瞬時に展開された。
極限の精度で放たれた苦無と、凄まじい遠心力をもって高速旋回する手裏剣が障壁へと真正面から激突する。
火花と金属の擦過音が火花を散らして狂い咲き、直後、障壁に秘められた不可視の強大な斥力によって、冷鉄の刃はことごとく寸断され、砕け散った火屑となって乾いた青瓦の上に無惨に散らばった。
しかし、砕けた暗器の塵煙が地へ落ちるよりも早く、淡青の残影が地面を這うように滑り出した。
桃香は息をつく暇すら与えなかった。
暗器が視界を遮るわずかな死角を突き、低く身を沈めて極限の横転を打つ。和服の裾を翻し、地を這うような低さから弾かれたように跳び上がると、反手で握りしめた肉厚の苦無が冷徹な切っ先を光らせ、オースの障壁の綻びを縫ってその喉元へ狠毒に突き出された!
オースの双眸が鋭く細まる。秘銀の錫杖を握る手首を瞬時に返したその動きには、伝統的な聖職者が距離を取って詠唱するような淀みは微塵もなかった。
ガキンッ!
重厚な秘銀の錫杖が苦無の厚い峰を正確に捉え、雪白の火花を激しく散らす。
「いい太刀筋だね、代行者」
オースは薄く笑い、杖を構える姿勢を瞬時に変化させた。
それは決して文弱な祭司の構えなどではない。歩法は磐石の如く低く沈み、腰から背骨にかけて極限の爆発力を秘めた一本の直線を描いている。
薙ぎ払い、刺突、唐竹割り――繰り出されるすべての太刀筋は、最も正統にして苛烈を極める帝国騎士の剣技そのものだった。
無駄な虚飾を削ぎ落とした剛毅な太刀筋は空気を切り裂き、重厚な破甲の圧力を纏って振り下ろされる。
銀の閃光と化した杖先が、唸りを上げて脳天を砕かんと落ちてきた。
桃香の瞳孔が収縮する。古流忍者の卓越した柔軟性と変幻の体術が極限まで引き出された。正面から剛力を受け止める愚を犯さず、空中で信じがたい角度へと身体を捻り、朱塗りの円柱を足裏で強く蹴りつける。その反動を利用した空中後方宙返りによって、青瓦を粉砕した一撃を紙一重でかわし去った。
砕石が飛び散る中、宙に身を躍らせた桃香の腰が鋭く捻れ、黒髪を狂い散らしながら放たれた下段の足刀が、風を裂いてオースの頸動脈を容赦なく襲う!
ゴォッ!
オースは左腕を鉄塊の如く胸前に掲げ、筋肉を強固に強張らせて、常人の首骨をも粉砕するその重撃を真正面から受け止めた。
鈍い肉体の衝撃音と共に、幽かな聖力の余波が弾け飛ぶ。
オースの巨躯は半歩揺らいだに過ぎず、その迎撃の隙を突いて右手の秘銀の錫杖を薙ぎ払った。杖尾を拳の如き刺突へと転じ、中空の桃香の鳩尾を狙う。近接戦闘において最も冷酷な迎撃技であった。
桃香の瞳に怯みはない。オースの前腕に両手を添えてその勢いを受け流し、風を切る杖先を躱しながら、空中で驚異的な受け身を打って滑り抜けた。
バキッ!
オースの死角へと滑り込んだ刹那、両手を乾いた青瓦に突き、骨無き者のような柔軟な肢体で極低角の足払いを払う。間髪を入れず、もう一方の足先で顎を撃ち抜かんと跳ね上げた!
その連撃は、草叢に潜む猛毒の蝮の如く淀みなく凶悪であった。
しかし、オースの対応速度は息を呑むほどに速い。動揺して身を引くことなどせず、刺客の暗殺術に対する皇室騎士の防衛歩法に従い、左足を大盾の如く踏み締めて足払いを半途で力づくで阻んだ。
同時に錫杖を逆手に返し、杖首を叩き落とすように押し当て、後続の蹴りを完璧に断ち切る。
刹那の数秒のうちに、刃と肉体が十数度も激突した。
制圧された桃香は反作用を利用して身体を折り畳み、両膝でオースの右手首を万力のように締め上げ、落下速度のまま関節技――飛びつき十字固めへと強引に引きずり込もうとする。
オースは眉を僅かに動かすと、全身の筋肉を爆発させ、常軌を逸した膂力で桃香の身体を片腕一本で引っこ抜き、大地へ叩きつけんと振り回した。
背中が青瓦へと激突する間一髪、桃香は腰を捻って指先を地に着き、衝撃を逃がす。拘束を解いた両脚で下段の関節を連続で蹴り飛ばし、乾いた瓦の上を側転と地を這うような滑走で立て続けに三度身を翻した。苦無を振るうたびに弧を描く冷光が走り、足首の腱や脇腹の隙間を容赦なく狙い裂く。
オースの足取りは、前進する鋼鉄の要塞のように寸分の乱れもなかった。錫杖を自在に操り、ある時は盾として弾き、ある時は重剣として両断し、桃香の凶険なる体術をことごとく封じ込める。
刃と杖が交わるたびに生じる反震は、桃香の五臓六腑を激しく揺さぶっていた。
金属の交錯音、肉と骨が軋む鈍痛の響き、砕け散る敷石の破裂音――それらが大殿の中で一つに重なり、狂騒の嵐を巻き起こす。
ドォンッ!
剛毅なる押し出しにより、絶対的な膂力の差が桃香の身体を弾き飛ばした。
桃香は柳の葉のように数丈後方へと舞い、足元の木屐が乾いた敷瓦に焦げ跡と耳を劈く摩擦音を刻みながら、辛うじて体勢を立て直した。
片膝をつき、肩で息を刻みながらも、その手には雪白の輝きを失わぬ苦無が逆手に握り締められている。漆黒の双眸は底知れぬ死水と化し、目の前の教皇を射抜いていた。
大殿の中央、オースは秘銀の錫杖に片手を預け、純白の聖職服の裾には塵一つ付着していない。波打つ淡金の髪を陰鬱な山風に遊ばせ、散歩の階段を数段上がっただけのように息一つ乱れていなかった。
「手裏剣の死角投擲、華麗な転身、関節破壊を交えた蹴撃……実に見事なものだ」
オースは僅かに凹んだ聖衣の袖口を見やり、唇の端に浮かぶ冷酷で優雅な微笑を深めた。
「だが代行者、神座の許でこの座にまで登り詰めた者が……結界の陰で聖杯を揺らすだけの信徒に過ぎないと、本気で思っていたのかい?」
桃香は片膝をついたまま、苦無を握る指先を白く強張らせていた。
目の前の男は、屍の山と血の海を潜り抜けて鍛え上げられた怪物そのものだ。漆黒の瞳から最後の迷いが消え去り、絶対の氷冷と決意が宿る。
長引かせるわけにはいかない。奥の偏殿には、触れれば砕け散りそうなあの黒髪の女子が、今なお高熱の底で眠っているのだから。
桃香は深く息を吸い込んだ。胸の奥で低く鈍い轟鳴が奔り、和服の袖口から猛火油と特製硃砂火薬を染み込ませた蛇腹の鋼索が撃ち出された。掌の高熱が金属を伝って瞬時に走り抜け、刹那、猛烈な劫火が薄暗い大殿を焼き裂いた。
「火遁・炎蟒!」
耳を劈く衝撃波と共に、大蛇の如くのたうつ暗赤の炎流が空中で狂暴に渦を巻いた。万物を呑み干す焦熱の暴風を纏い、顎を開いてオースの頭上へと喰らいつく!
乾いた青瓦は熱量に耐え切れず罅割れ、黒く焼け爛れ、大殿の空気は瞬時に沸騰し尽くされた。
「実に美しく、狂暴な炎だ」
荒れ狂う火炎の巨蟒を前にしても、オースの微笑みは崩れなかった。両手で秘銀の錫杖を握り直すと、先端の聖晶が白昼の如き光を放つ。
「――神聖天壁」
ゴォッ!
純金と白大理石を思わせる強固な聖光障壁が降り立った。炎蟒は光壁に激突し、火浪を四方へ撒き散らしながら神聖なる符文を舐め尽くそうとするが、その堅牢な防壁を揺るがすことすら叶わない。
オースは目を細め、腕の力で障壁を前へと押し出した。弾かれた聖力の衝撃波が炎蟒を無数の火星へと粉砕する。同時に錫杖を天へと掲げると、頭上の虚空に無数の殺気を帯びた金色の細針が凝結した。
「では、少し静かにしてもらおうか――聖光針雨」
シュシュシュシュシュッ!
降り注ぐ光針の豪雨が桃香の周囲数丈を覆い尽くし、転身も隠遁も許さぬ密度で空間を制圧する。針雨が届くより早く、鋭利な風圧が足元の青瓦を細かく切り刻んでいた。桃香の瞳孔が細まり、苦無を構え直すも、回避の道は完全に閉ざされていた。
金色の光針がその身を貫かんとした、まさにその千鈞一髪の刹那――
ヴンッ!
虚空に冷徹な銀の光沢が凝固し、重質なる金属の流光を帯びた水銀屏障が展開された。弧を描く分厚い大盾となって、桃香の頭上を寸分の狂いもなく庇い止める。
キンキンキンキンッ!
鼓膜を突き刺す硬質な衝突音が響き渡り、肉体を蜂の巣にするはずだった聖光針雨は水銀屏障に阻まれ、すべて弾かれ逸らされた。一枚の針すら、その流体の防壁を貫くことはできない。
桃香が息を呑んだ背後から、極めて微弱で、深い倦怠に満ちた溜息が零れ落ちた。
直後、オースの足元の地面で、藍色の錬金術式が歯車の噛み合う硬質な音と共に狂乱の如く展開した。
「――拘束の牢獄」
ジャラララッ!
耳を劈く金属の擦過音と共に、大殿の敷瓦が弾け飛んだ。虚空より撃ち出されたのは、太古の禁断の刻印が刻まれた数十本の暗黒の破魔鎖鏈。幽藍の虚無の火を纏い、あらゆる魔導と神聖術式を排斥し、粉砕する力場を宿した鎖である。
鎖鏈は飢えた巨蛇の群れの如く空を交錯し、オースの身を包む残存の聖力障壁を瞬時に噛み砕いた。
冷徹な金属が首、四肢、胴体を容赦なく締め上げ、関節の急所を逆方向に貫く。体内を巡る神聖魔力を強引に貪り喰らい、尊大なる教皇の身体を中空へと吊り上げ、逃れ得ぬ大の字の姿で完全に縫い留めた。
「何だと……魔力と聖力を砕く封印鎖鏈……!?」
オースの顔から、余裕に満ちていた優雅な笑みが完全に剥ぎ取られた。鎖が肉に食い込むと同時に体内のエネルギー回路は断ち切られ、どれほどの剛力を誇ろうとも、神性と魔力を排斥する錬金術の概念封殺の前には、身じろぎ一つ許されなかった。
驚愕に目を見張る暇すらなく、大殿の高き梁の頂と神龕の闇の奥から、歯車が噛み合う不吉な駆動音が響き渡った。
発条によって駆動する数十もの鋼鉄の機械爪が、血の匂いを嗅ぎつけた狂犬の群れの如く、暗がりから一斉に滑空し飛び出した。
機械爪の背部と腹腔には、極限まで濃縮され、刺すような赫光を放つ重型錬金震盪爆弾が固定されている。
ガチッ! ガチッ! ガチッ!
硬質な鋼鉄の爪はオースの肉体の抵抗を無視し、無垢なる純白の聖衣を裂き、宝石を散りばめた帯に食い込み、肩当てと革の長靴に食らいついた。僅か一秒のうちに、彼を隙間なく覆い尽くす異形の金属の塊へと変え果てさせる。
大殿の陰の奥底から、感情の抜け落ちた冷ややかな声が低く響いた。
「――悪意の贈り物」
「待て、私はただ――」
ドゴォォォォォンッ――!!!!!!
天地が崩壊したかの如き閃光。
それは魔導の火炎などではない。数十発の極縮不純錬金爆薬が、零距離で引き起こした連鎖殉爆であった。
純白の閃光が一切の視界を呑み込み、圧縮された衝撃波が目に見える大気の刃となって、大殿の敷石をすり鉢状に深く抉り抜いた。
長生寺の全体が耳を聾する轟音に悲鳴を上げ、朽ちた梁が軋みを響かせ、瓦、砕けた木片、高熱で熔けた金属片が四方八方へと吹き飛ぶ。噴き上がった黒煙と紅蓮の火球は、大殿の破れた格子戸を完全に吹き飛ばした。
吹き荒れる暴風、立ち込める濃密な硝煙。
熱波が徐々に散り去った後、大殿の中央には焦土と化した巨大な穴だけが残されていた。
そして、先ほどまで万物を睥睨していたはずの教皇は、焦げた瓦礫の山の中へ、頭から滑稽な姿で突き刺さっていた。
豪奢を極めた純白の聖衣は衝撃波によって跡形もなく消し飛び、手入れの行き届いていた淡金の巻き毛は逆立って焦げた爆発頭と化し、その顔面は煤と青痣で覆い尽くされている。豪奢な法衣も、肩掛けも、聖なる法具もすべて塵となった。
残されたのは、滑稽な暗紋の浮き出た白いボクサーパンツ一丁のみ。深山の冷え切った隙間風に晒され、無防備に震えている。
パキリ。
焦げついた鎖の残骸が砕け散り、帝国至高の教皇は「ぺちゃっ」と音を立てて乾いた地面に無様に落ちた。腰を痛そうに押さえ、歯を食いしばりながら呻き声を漏らす。
静まり返った大殿、硝煙漂うその空気を、硬い敷石を素足で踏みしめる微かな足音が揺らした。
ペタ……ペタ……。
桃香が振り返ると、その身に纏っていた殺気が凍りついたように止まった。
側門の薄暗がりから、ふらつく足取りで現れたのはルシアであった。
泥と酒の染みついた粗末な麻の着物をだらしなく羽織り、白く華奢な足を剥き出しにして、冷たい瓦礫の土を踏みしめている。冷汗に濡れた黒髪が数筋、青白い頬に張り付いていた。
目元は激しい二日酔いと未だ引ききらぬ高熱によって病的な紅を帯び、その墨緑の瞳には、眠りを妨げられた者の苛立ち、厭世、そして深い虚無が澱んでいる。
腕の中には、黄銅と歯車で組み上げられ、同じように煤に汚れた機械梟の刻刻を強く抱きしめていた。
ルシアはパンツ一丁で煙を吹く帝国の至高教皇に一瞥すらくれず、激しく痛む蟀谷を指先で押さえ、砂を噛むような掠れ声で吐き捨てた。
「……うるさい」
刻刻の冷たい金属の頭に顎を乗せ、半眼のまま、生気のない冷徹な声を落とす。
「朝っぱらから寺の扉を叩き壊して……人が生きてねぇとでも思ってんのか」
桃香は半跪の姿勢を保ったまま、息を呑んでルシアの腕の中を見つめていた。
主ゼンマイを抜かれ、埃を被っていたはずの機械梟刻刻。その胸腔のコアは完璧な噛み合わせで静かに駆動していた。極小の歯車が低い唸りを上げ、暗金色の瑠璃玉には、敵を射抜く冷酷な警戒の光が宿っている。
だが、桃香の胸裏を何よりも激しく揺さぶったのは、ルシアが放ったその手段であった。
忘却の神殿の代行者として、桃香はこの異邦の女子が長生寺の守護者となって以来、あらゆる手を尽くしてその過去を調べ上げていた。
学者型の錬金術師であるルシアは、いかに強敵を討ち倒そうとも、常に肌身離さぬ【錬金手札】を開き、複雑怪奇な回路と刻刻の同調をもってして初めて、高階魔導に抗う武装を構築していたはずなのだ。
だというのに、今の光景は何だ。
錬金手札を広げることもなく、詠唱の一節すら口にしていない。泥酔と高熱に侵された躯を引きずり、ただ目覚めを乱された苛立ちのままに、神聖術式を解体する拘束の牢獄を虚空より喚び出し、規格外の破壊力をもって計略術式・悪意の贈り物を叩き落とした。
相手は帝国の神権の頂点に君臨し、皇室騎士の体術と神聖権能を兼ね備えた教皇オースなのだ。
二撃目を繰り出す間すら与えられず、衣服を消し飛ばされ、ボクサーパンツ一枚の無残な姿で瓦礫に転がされている。
これまでの錬金術の常識など、何一つとして通用していなかった。
忘却の石板を受け入れ、守護者の軛を背負わされて以来、暴虐なる神性の力は彼女の肉体を絶え間なく蝕み続けている。
急激に注ぎ込まれた膨大なる権能は、数日おきに激しい高熱と痙攣を強いた。さらにカリーナとクレアという、かつて己を世界の中心に据えて愛してくれた者たちを失い、存在そのものを世界から消し去られた痛恨が、彼女を日夜、安酒の深淵へと追い立てていた。
食事も喉を通らず、眠ることもできず、過度の飲酒と熱病に侵された肉体は枯れ葉のように脆いはずだった。
桃香が日々その冷汗を拭い、酒と吐瀉物を片付けながら触れてきたのは、痛々しいまでに薄い骨の感触だけだったのだ。桃香の目に映っていたのは、絶望の底で腐り落ちてゆくのを待つだけの、哀れな抜け殻でしかなかった。
だが、現実は桃香の認識を冷酷に打ち砕いた。
この女子は、酒に溺れ、苦痛に喘ぎながらも、その実力を損なってなどいなかった。それどころか、命を削り続ける忘却の石板は、肉体を苛みながらも、その魂を理の外にある「異形」へと強引に鍛え上げていたのだ。
媒体も、術式の手順も必要とせず、世界の魔導の理を足蹴にする絶対の暴力。
大殿に淀む冷たい空気の中、焦げた硝煙が漂う。
桃香はゆっくりと立ち上がった。毒を塗った苦無を握る掌が、冷たく強張っているのを感じていた。
大殿の前へとふらつきながら歩み寄り、冷たい金属に顎を乗せて蟀谷を押さえるその華奢な背影を見つめ、胸の奥底に戦慄と狂気の混じり合った奇妙な感情が湧き上がっていた。
麻の上着すら持て余すほどに痩せ細り、立ち姿すら微かに震えているというのに、あの墨緑の瞳の奥には、深山の夜叉すら及ばぬ底知れぬ虚無が渦巻いている。
……この女子は、果たして本当に、血の通った人間なのだろうか。




