忘れられた少女と、禍殃をもたらす教皇
人は生涯において、果たして幾度の死を迎えるのだろうか。
かつてルシアは、そのような言葉を耳にしたことがあった――人は一生のうちに、三度死ぬのだと。
一度目の死は、心臓の鼓動が止まり、呼吸が途絶え、生物学的に冷酷な終焉を宣告されたとき。
二度目の死は、土深くへ埋められ、黒衣を纏った参列者たちが厳かに葬儀へ集い、現世の社会的な繋がりから完全にその痕跡が消し去られ、静かに退場させられたとき。
そして三度目の死とは――この世界で己を記憶する最後の人間が、その名前すらも綺麗に忘れ去ってしまったとき。その刹那に人は真に消滅し、広大な宇宙のどこを探そうとも、もはやその存在にまつわる残響すら残らないのだ。
松風閣の肌寒い青石の廊下に佇み、目の前に立つカリーナとクレアの猜疑に満ちた冷ややかな眼差しを受け止めながら、ルシアの胸裏には記憶の奥底に眠っていたその言葉が、鋭利な氷の楔となって突き刺さっていた。
掌ほどの大きさの忘却の石板を受け取り、神殿の守護者としての枷を無理やりに背負わされたその瞬間、世界法則の見えざる大刃は音もなく振り下ろされたのだ。
天地を揺るがす轟音も、魂を引き裂くような軋みもなかった。ただ、薄墨を拭い去るかのように淡々と――世界そのものが「ルシア」という存在を、時の狭間へと跡形もなく忘れ去ってしまった。
胸を突き上げる激痛はあまりに重く、息を吸うことすらままならない。
目の前にいるこの二人からだけは、決して忘れられたくなかった。
人はその生涯において、二人の人間に出逢うと言われている。一人はその瞬きで時を鮮やかに彩り、もう一人はその温もりで歳月を優しく包み込む。
カリーナは自らを焼き尽くさんばかりの狂おしい執着と灼熱の愛で、ルシアの張り巡らせていた警戒を強引に引き裂き、その流転の刻を鮮やかに彩ってくれた。
そしてクレアは、一見強気でありながらも細やかな甘やかしと庇護の温もりで、脆い心を不器用に守り、歩幅を確かめながら進む歳月を優しく包み込んでくれたのだ。
だというのに今、かつてルシアを唯一無二の宝と慈しみ、他人が一瞥をくれることすら激しい独占欲で許さなかった二人が、わずか三歩の距離を隔てて立っている。
眉を顰め、魔導士のエレメンタルが放つ幽かな光と、北境の抜き身の刃が放つ冷気を纏いながら、見知らぬ不審者に向ける冷徹な品定めと警戒の色だけでルシアを射抜いていた。
……それも当然のことなのかもしれない。元を正せば、二人とも帝国の権謀術数と血生臭い粛清の頂点に君臨する者たちなのだ。
間合いに踏み込んでくる見知らぬ他者へ極限の冷酷さと警戒を向けることこそが、その甘やかな仮面を剥ぎ取った後に残る、彼女たちの真の姿なのだから。
かつてルシアへ向けられていたあの異常なまでの依存と執着は、二世にわたる記憶を抱えて転生した彼女が、不意の衝突の果てに生み出してしまった奇跡の偏りに過ぎなかった。
神殿の法則がすべてを洗い流し、奇跡という名の歪みが取り払われた今、ルシアは無慈悲な世界の理の前に引き戻されたのだ。二人からは「憎悪」すら向けてもらえない。
なぜなら彼女たちの脳裏には、もはや「ルシア」という三文字の居場所など、最初から存在しないのだから。
「私は……グラフィエン公爵家と契約を結んでおりました、錬金術の家庭教師でございます」
喉元にせり上がる血の味と乾きを必死に押し殺し、ルシアは全身の力を振り絞って、自らの声を理路整然とした平穏な響きに整えた。俯き、爪先が肉に食い込むほど指を握り締めながら、最後の手がかりを絞り出す。
「北境の大公邸には、正式な捺印の施された契約書の原本がございます。書斎の帳簿にも、関連する書類と往復記録が残されているはずです……。もしお疑いとおっしゃるのであれば、公爵邸の保管文書をお調べいただければと。私は……決して、虚言を弄してなどおりません」
紡いだ言葉の一つ一つは、何一つとして揺らぎのない事実であった。
だが、どれほど冷徹な理性で防壁を築こうとも、カリーナの双眸に宿る冷厳な霜が微塵も融解しないのを見つめ、クレアが無意識のうちにカリーナの前に半歩身を滑り込ませて防衛の構えをとるのを目にした瞬間、熱い涙がとうとう決壊した。
青白くやつれたルシアの頬を伝い、冷え切った板敷きへと、音もなく一滴、また一滴と零れ落ちてゆく。
悔しかった。
あまりに、悔しすぎた。
ほんの気まぐれな詮索の果てに、ただ自らの掌へと転がり落ちてきた壊れた灯籠を受け取っただけで、訳も分からぬまま守護者の枷を嵌められ、すべての人間に見捨てられる結末を迎えることになろうとは。
この世界が孕む悪意は、彼女が打ち立ててきたすべての予測モデルを遥かに凌駕し、何の警告も猶予もなく、辛うじて縋り付いていた居場所を無慈悲に奪い去っていった。
好奇心は猫をも殺す、とはよく言ったものだ。
もしあの時、石橋の袂でクレアの腕から降りようと駄々をこねず、桃香の後に続いて長生寺へ足を踏み入れさえしなければ、運命の歯車がこれほど取り返しのつかない奈落へと滑り落ちることはなかったのかもしれない。
だが直後、涙に滲む視界の奥で、ルシアは冷え切った自嘲の笑みを零した。
守護者の代行者を務めていた桃香ですら、石板が主を選び取った瞬間には言葉を失うほどの動揺を露わにしていたのだ。長生寺の何びとも、数百年もの間眠りについていたあの灯籠が、自ら新たな主を選ぶなどとは夢にも思っていなかった。
ただ一人――あの男を除いては。
――オース。
早くからこの温泉郷に視線を注いでいた、底知れぬ教皇。運命の奔流を覗き込み、未来を予知する権能を持つあの男だけは違っていた。これは決して唐突に降って湧いた不条理などではない。
ルシアがこの山嶺に足を踏み入れるより遥か以前から、オースは無数に交錯する未来の時間軸の果てに、長生寺の大殿で縮小した石板を掌に受ける彼女の姿を正確に見透かしていたのだ。
最初から、彼女はオースの手によって盤上へと押し出された生贄に過ぎなかった。
彼は彼女の足掻きを冷笑混じりに見下ろし、その魂に刻まれた真実への執着を正確に計算し、世界から忘れ去られる絞首刑の縄へと自らの首を差し出すその瞬間を、悠然と待ち受けていたのだ。
ルシアはツンと痛む鼻の奥をすすり、冷え切った涙の跡を手の甲で力任せに拭った。
己が操り糸に引かれた木偶に過ぎなかったことは理解していた。だが、誰かを激しく憎悪することすらできない――無慈悲な世界の理と宿命の大河を前にしては、いかなる者の抗いも木の葉の如く無力でしかなかった。
「失礼をいたしました、公爵閣下、クレア様」
ルシアは半歩後退し、暮れなずむ薄明の中でその華奢な身体を微かに震わせた。泣き顔よりもなお無残に歪んだ笑みを唇に張り巡らせ、墨緑の瞳の奥で、最後まで燻っていた幼き光が完全に消え失せてゆく。
「先ほどの戯れ言は……どうか、行きずりの名もなき者の世迷い言として、お聞き流しくださいますよう」
松風閣の室内に漂う調度は、かつてと変わらぬ温もりと優美さを保っていたが、その大気は掘り起こされたばかりの氷室のように凍てついていた。
カリーナは窓際に据えられた紫檀の机の前に、寸分の乱れもない姿勢で腰を下ろしていた。北限の氷原から切り出された氷像の如き威厳を漂わせている。
かつてルシアが微かに眉を顰めるだけで狂気に濁った真紅を宿していたその双眸は、今は低く伏せられ、近習が差し出したばかりの至急の書状を何一つ感情を交えずに検分していた。
「……確かに、契約の記録は存在しているようだな」
カリーナの声は残酷なまでに平坦で、喜怒哀楽はおろか、かつてルシアの骨肉を我が身に擦り潰して同化させんとした、あの狂おしく粘りつくような執着の残滓すら見当たらなかった。
羽ペンを握るその指先は細く長く、そして揺るぎない。羊皮紙の上を走る羽先が、規則正しい擦過音を刻んでゆく。
「公爵邸の内務記録によれば、グラフィエン家が貴殿を錬金術の指南役として招聘した旨の条項が確認できる。貴殿みずから辞意を申し出たのであれば、帝国法と北境の慣例に照らし合わせても、当公爵家に自由な身分を拘束する謂れはない」
ルシアは机の前、三歩の距離に立ち尽くしていた。
かつてのカリーナであれば、決して許すはずのなかった「隔たり」だった。
かつてはルシアが一歩でも身を引こうものなら、薄い胼胝の残る逞しい掌で即座にうなじを鷲掴みにされ、己の膝の上へと強引に引き据えられて、鎖骨の窪みに鼻先を押し付けられるのが常だったのだ。
だというのに今、カリーナは視線すら上げようとしない。この三歩の距離は、まるで生者と死者の間を分かつ万丈の深淵のように横たわっていた。
胸の奥で渦巻く痛みはもはや鋭利な棘ではなく、鈍刀で肉を削ぎ落とされるような、際限のない鈍重な苦痛へと変わっていた。
忘却の石板によって、自らの五臓六腑が寸刻みに粉砕されてゆくのを感じていた。ルシアは震える息を理性で強引に抑え込み、掌の皮膚が破れるほど爪を食い込ませ、その肉体の痛みによって辛うじて体面を保ち続けていた。
愛する者の刃で心臓を貫かれることなどよりも、目の前の相手が凪いだ瞳のまま、打ち捨てられる公文書を処理するような事務的な口調で、己が命を削って紡いできたすべての絆を白紙へと還してゆくことこそが、この世で最も残酷なのだ。
カリーナは家紋の刻まれた硬質の羊皮紙をもう一枚めくり、淀みのない筆致で華美な署名を走らせると、重厚な公爵家の印章を手に取り、朱肉を浸して重々しく捺印した。
――パタリ。
鮮紅の封蝋が固まるその刹那は、まるでルシアを彼女たちの生涯から永久に追放することを宣告する判決書のようであった。
「これが契約解除の証明書、ならびにグラフィエン公爵家が発行する身元推薦状だ」
カリーナは二枚の羊皮紙を机の端へと押しやり、ようやく微かに視線を上げ、冷ややかにルシアを一瞥した。
「この書状があれば、帝都のいかなる魔導工房や学院であろうと貴殿を礼遇するであろう。かつて公爵家に寄与した功績に免じ、これが当家から示し得る最後の配慮だ。これを受け取り、立ち去るがよい」
ルシアは一歩前に進み出て、震える冷たい指先でその薄い二枚の紙片を受け取った。
紙の上には北境特有の冷杉の墨香が確かに残されていたが、それを手渡した主の心は、すでに空虚な虚無へと成り果てている。ルシアの喉仏が激しく上下した。
唇の内側を噛み破り、鉄錆のような血の味が口中に広がるのを感じて、ようやく眦に溢れかけた崩壊の熱を無理やりに押し戻した。
彼女は背筋を真っ直ぐに伸ばし、学者として寸分の非の打ちどころもない完璧な礼法で、座上の女公爵へと深々と頭を垂れた。
「……閣下の寛大なるお取り計らいに、深く感謝申し上げます。北境の厳冬の加護が、永久にグラフィアンと共にありますよう」
踵を返して立ち去る間際、ルシアは二度と振り返らなかった。傍らに侍るクレアが放つ視線――得体の知れぬ部外者の詮索を忌み嫌う、苛立ちと冷たい警戒の気配が、その背中に焼き付くように突き刺さっていた。
松風閣の重い門を潜り抜けると、外の白霧はいつしか骨身に染みる暮れの雨へと姿を変えていた。深山の凍てつく冷気を孕んだ雨糸が容赦なく吹きつけ、ルシアの薄い外套を瞬く間に濡らし尽くしてゆく。
二枚の推薦状を胸に強く抱きしめ、覚束ない足取りはやがて逃走にも似た疾走へと変わっていった。
長生寺の朽ち果てた山門の前まで辿り着いたその瞬間、糸の切れた人形のように泥濘の中へと崩れ落ち、胸腔の奥に押し殺していた悲哭を、吹き荒れる山風と共に張り裂けんばかりに吐き出していた。
その日を境に、長生寺の奥殿には、酸鼻を極める酒臭さを漂わせる一筋の生きる屍が棲みつくようになった。
ルシアは偏殿の、長年陽の光すら差さぬ暗がりにある禅房へと移り住んだ。かつて精緻な試薬瓶や蒸留器が並べられていたはずの木棚には、今や麓の密造所から運び込ませた濁酒の甕が幾重にも積み上げられている。
歯車や回路に触れることは二度となく、肩に留まっていた刻刻すら主ゼンマイを抜かれ、打ち捨てられた死骸のように埃を被った机の隅に転がされていた。
泥と酒の染みに塗れた粗末な麻の上着を身に纏い、乱れ髪のまま湿った莚の上に縮こまって、その手には欠けた粗野な陶器の酒椀が常に握り締められている。
喉を滑り落ちる濁酒は荒々しく辛酸で、脆くなった食道と胃袋を灼き尽くすが、その焼け付くような痛みだけが、魂を蝕み続ける胸中の忘却の石板の脈動を、僅かな間だけ麻痺させてくれた。
夜が明ければ、障子紙を透かして射し込む灰色の薄明かりを眺めながら煽り、日が暮れれば、がらんとした大殿を、いつの間にか元の梁下へと戻り再び巡り始めた八角の走馬灯を見上げながら呑み続けた。
意識を失うほどに泥酔しては、部屋の隅で苦悶に身を折り曲げ、掠れた声でカリーナとクレアの名を幾度となく譫言のように呟いた。
だが眠りから覚めれば、その深い墨緑の瞳には、よりいっそう濃密な死相と厭世の色が沈殿しているだけだった。
彼女は名実ともに、忘却の神殿の正統なる守護者となったのだ。打ち捨てられた廃寺で死を待つだけの、一匹の野良犬に成り果てていた。
現世の喧騒も、命の重みも、もはや彼女の関知するところではない。ただ日ごと夜ごとに己を安酒と虚無の深淵へと沈め、運命の青苔が自らを完全に覆い尽くすのを待つばかりであった。
偏殿の古びた引き戸が静かに押し開かれ、「ぎぎ……」と乾いた軋み音を立てた。
深山の湿った隙間風が細雨を伴って吹き込んできたが、室内に淀む息の詰まるような濁気を吹き払うには至らなかった――安酒の酸鼻な匂い、淀んだ湿気、そして長い年月陽の目を浴びぬまま朽ちてゆく古木の匂いが混ざり合った、陰鬱な気配である。
桃香は、僅かに温もりを残す清水を湛えた桶と、清潔な晒し布を手に敷居を跨いだ。
下駄の音を忍ばせ、その視線を青黒い敷瓦の荒れ果てた惨状へと落とす。かつては静謐であったはずの禅房は見る影もなく荒れ狂い、転がった酒甕の口から零れ出た濁った酒が敷石の溝に沿って乾きかけ、鼻を突く饐えた匂いを放っていた。
その瓦礫の陰、冷え切った湿った泥地の上に、かつて長生湯のまやかしを冷徹に暴き立てたあの異邦の黒髪の女子が、無防備なまでに小さく丸まって倒れ伏していた。
ルシアの纏う粗末な麻の上着は泥と酒に塗れて皺だらけになり、冷汗と飛沫に濡れた黒髪が、青白くこけた頬に幾筋も張り付いている。
骨と皮ばかりに痩せ衰え、泥酔の果てに前後不覚に陥ったその胸は弱々しく上下し、時折、死に瀕した幼獣のような掠れた嗚咽がその唇から零れ落ちていた。
桃香はその場に立ち尽くし、無言のまま彼女を見つめ続けた。澄み切った瞳の深奥に、複雑極まりない感情が走る――
拭いきれぬ罪悪感、同病相憐れむような憐憫、そして何よりも、神の呪縛が寸分の狂いもなくその身を蝕んでいる様を目の当たりにした者の、底知れぬ戦慄。
桶を床へ置き、泥土の傍らに正座すると、壊れやすい骨董の磁器を扱うかのように、その手つきは極めて静かに動いた。
着物の袂を掲げ、布を温水に浸して固く絞ると、ルシアの額や頬に滲む冷汗を、唇にこびりついた乾いた酒の染みを丁寧に拭い去り、乱れた黒髪を優しく耳の後ろへと梳き揃えてゆく。
身の回りを清め終えると、桃香は静かに立ち上がり、散乱していた酒甕を部屋の隅へ一つずつ片付け、竹箒を手に取って床の破片と泥を掃き清めた。
深く息を吸い込み、両手を差し伸べると、枯葉のように軽くなってしまったルシアの身体を横抱きに抱え上げ、内側の莚の上に敷かれた清潔な麻布の上へと静かに横たえた。
汚れた水を片付けようと身を翻したその時、桃香の視線が埃を被った木棚の隅へと吸い寄せられた。
黄銅と歯車で組み上げられた、精巧な小型の機械梟――刻刻が、主ゼンマイを解かれたまま、生気を完全に失ってそこに転がっていた。
桃香は歩み寄り、柔らかい木綿の布で刻刻の関節にこびりついた酒気と埃を優しく拭い取ると、両手でその冷たく重い機械の躯を抱き上げた。莚の傍らへと戻り、ルシアの微かに曲げられた腕の中へと、そっとその躯を滑り込ませた。
馴染み深い金属の冷徹な感触に触れた瞬間、深い昏睡に沈んでいたルシアの身体がびくりと震えた。
瞳を開くことはなかった。だが、力なく開かれていた細い指先が、荒れ狂う嵐の中で唯一の浮木を掴み取ったかのように、刻刻の金属の隙間へと必死に食い込み、その冷たい鋼鉄の躯を、自らの冷え切った胸元へと狂おしいまでの力で抱きすくめたのだ。
閉ざされた瞼の端から、熱い涙が何の予兆もなく溢れ出し、蒼白な頬の輪郭を濡らしながら、刻刻の錆びついた歯車の表面へと大粒の雫となって滴り落ちてゆく。
夢の中でさえ、彼女は泣いていた。決して応えの返ることのない名前を、かすかに震える唇で幾度となく反芻しながら。
桃香はその痛々しい姿を静かに見つめ、瞳の奥に名状しがたい哀傷の色を湛えた。手を伸ばし、薄い掛け布の端を引き寄せてルシアの肩を覆い、立ち上がろうとした――まさにその時。
山門の方角から、背筋を凍りつかせるような微かな足音が響いてきた。
近衛兵たちの重々しい鉄靴の響きとはまるで異なる、優雅にして淀みなく、湿った黒石の階段を一段ずつ正確に測りながら登ってくる足音。
山中の下草の一葉すら揺らすことなく、それでいて万物を足下に踏み躙るような、傲岸無比なる重圧を纏っていた。
桃香の瞳孔が瞬時に収縮した。袖の内の暗器の仕掛けを咄嗟に押さえ、偏殿を飛び出すと、大殿の損壊した格子戸の陰へと身を滑り込ませた。
煙る夕雨と白霧の帳を切り裂くようにして、長生寺の朽ち果てた朱の山門から、長身にして優美な人影が音もなく歩み入ってきた。
纏っているのは、裾に豪奢な金糸の縫い取りが施された純白の聖職者の法衣。降り注ぐ雨糸は、その身の周囲数寸の不可視の魔力障壁に触れた途端、ことごとく弾き飛ばされて一滴たりとも布地を濡らしていない。
片手には権威を象徴する白銀の錫杖を携え、もう一方の手で肩に掛かる見えざる塵を優雅に払い落とす。陰鬱な山影にあって、波打つ淡金の長髪が異様なまでに眩い輝きを放っていた。
神の御手によって彫り出されたかの如き美貌に、常に浮かぶ温和にして冷酷な薄笑い。この世に君臨する教廷の最高権力者――
オース。
その男は朽ち果てた鳥居を仰ぐことすらなく、重なる堂宇をその冷徹な双眸で真っ直ぐに見透かし、酒気と涙の淀むあの薄暗い禅房へと、愉悦を孕んだ冷笑を投げかけていた。
「どうやら、万事滞りなく進んでいるようだね……もっとも、私の計画には、あと一筋の筆入れが足りていないけれど」
損壊した大殿の敷居の前に立ち止まり、オースは事も無げに口を開いた。その声音は春風の如く柔らかく、底知れぬ嘲弄と歓びを孕んで響く。
白銀の錫杖が水たまりの敷石を軽く叩くと、澄み渡りながらも魂を揺さぶる鋭い金属音が堂内に木霊した。
闇に潜む桃香の心臓が、跳ね上がるように早鐘を打った。
蜘蛛の巣のように張り巡らされた底知れぬ困惑が、一瞬にしてその神経を締め上げる。
彼女は忘却の神殿の代行者であり、石板と共鳴する力を受け継いでいるがゆえに、世界の法則の洗い流しを免れ、ルシアの存在を寸分の狂いもなく記憶していられるのだ。
だが、純白の聖衣を纏うこの男は、まるで初めからルシアの存在が世界から消し去られてなどいないかのように、その黒髪の女子の運命のすべてを手中に収め、悠然と結末を見届けている。
これは神殿の敷いた絶対の鉄律を、根本から蹂躙するものだった。
そして、困惑が弾けた次の瞬間――氷のように鋭利で、狂気を孕んだ殺意が、桃香の瞳の奥から烈火の如く湧き上がった。
袖の中に潜ませた指先が、猛毒を塗布した暗器の機栝を無言のまま極限まで引き絞る。
もう、たくさんだ。取り返しのつかない罪を背負わせたのだ。
あの八角の走馬灯を外郷の少女の手へと押し付けたのは自分であり、守護者の絞首刑の縄を首に掛けられ、最愛の者たちから忘れ去られて孤立無援の淵へと転落してゆく様を冷笑とともに見届けたのも、自分なのだ。
この数日の間、泥酔の底で涙を流し、震え、冷たい機械梟刻刻を死に物狂いで抱きしめながら命を繋ぐルシアの姿を見つめ続けるうちに、「罪悪感」という名の毒は桃香の胸の内で発酵し、歪で偏執的な庇護の欲求へと変貌を遂げていた。
今の桃香が望むのは、世界から皮を剥がれ、骨を抜かれて打ち捨てられたこの小さな身体の女子を、自らの手で守り抜くことだけだった。
心の奥底で、すでにすべての算段を立てていたのだ――この騒動が去った後、己の手でこの荒れ果てた長生寺を修復し、抜け道と結界を幾重にも張り巡らせ、代行者の権能のすべてを注ぎ込んで裏山一帯を踏み入れならぬ絶対の禁忌の領域へと作り変えるのだと。
外界のあらゆる悪意と吹き荒れる風雨をすべて山門の外で食い止め、傷だらけになったルシアを、神仏を崇めるように、あるいは秘蔵の宝を囲い込むようにして、あの薄暗い禅房の奥へと永久に隠し通す。
匙一杯の重湯と、滋養の薬草、そして心を凪がせる安神香を炊き、幾年月をかけて慈しみ育ててゆくのだ。
たとえルシアが生涯、酒を煽り泥のように眠り続ける空っぽの器に成り果てようとも、ここだけは彼女が安らかに息を吐ける唯一の寝床なのだから。
そして、うぬぼれた傲慢さを纏い、ルシアを再びあの底知れぬ泥沼へと引きずり込もうとする眼前の教皇こそが――決してこの敷居を跨がせてはならない、忌むべき侵入者であった。
和服の広い袂の下で桃香の腕が張り詰め、漆黒の瞳は底なしの淵の如く凍てついた。実体化せんばかりの濃密な殺気を放ちながら、門外に佇む優美なる純白の影を、逃れ得ぬ死の標的として冷徹に見据えていた。




