忘却の神殿の守護者と、背負いきれぬ代償
午後の温泉郷は、湿り気を帯びた朧げな灰白色の湯煙に包まれていた。
青石畳の曲がりくねった街道の両脇には、山肌に沿うようにして黒ずんだ町屋と木造の湯屋が立ち並んでいる。
軒下に吊るされた白無地の紙提灯は水蒸気を含んでしっとりと濡れ、山風に吹かれて頼りなげに揺れていた。街道沿いに引かれた木製の導水溝からは、熱気を孕んだ淡い青の泉水がさらさらと音を立てて流れてゆく。
立ち上る白い湯煙は薄絹のヴェールのように漂い、道端に「長生湯」と墨引された木札を掲げる茶屋や菓子屋の佇まいを朧げに霞ませていた。
大気には煮えたぎる温泉の水蒸気と硫黄の匂い、蒸し上がった温泉饅頭の甘い香り、そして深山の木々が放つ湿ったほろ苦い冷気が入り混じっている。
街道を行き交うはずの旅人や物売りたちは、先ほど長生寺で起きた騒動にすっかり気圧されていた。
遠くから響く重装近衛兵の整然たる足音が石畳を震わせ、道端の郷民らは一様に首を垂れ、怯えた面持ちで軒下の陰へと身を潜めている。
穏やかであったはずの温泉街には、一転して嵐の前触れのような血生臭さと息苦しい重圧が満ちていた。
クレアは、周囲から注がれる疑念と驚愕の視線をことごとく黙殺していた。
気品ある紫の髪が湯煙を浴びて幽かに煌めき、身に纏った魔導士のローブの裾が荒々しい足取りに合わせて激しく翻る。
有無を言わさぬ冷徹にして強引な態度のまま、小柄で華奢なルシアを横抱きに抱え込み、寸分の狂いもない足取りで松風閣へ向かって大股で歩を進めていた。
宙に足を浮かせたルシアは、クレアの纏う高雅な香気と微熱を帯びた抱擁の中に閉じ込められていた。
乱れた黒髪がクレアの肩へとこぼれ落ち、深い翠の双眸にはいまだ長生寺の大殿で刻みつけられた重圧と震えが燻っている。
その姿は、あらゆる気骨を奪い去られた精巧な市松人形の如く静まり返っていた。
高級旅籠へと続く石橋の袂に差し掛かったその時、湯煙に煙る辻の向こうから、凛として透き通りながらも不自然なまでに落ち着き払った声が響いた。
「クレア様、どうか足をお止めください」
クレアの足がぴたりと止まり、その整った眉間に鋭利な怒りの色が走った。
石橋の傍らに垂れる柳の陰から、先ほど長生寺の門前で怯え惑っていたはずの若い娘が、静かに姿を現した。簡素な花紋の織り込まれた細帯を締め、落ち着いた淡青色の着物を纏っている。
湯煙に濡れた陶器のような白い肌に、両の頬に引かれた淡い紅が鮮やかに映えていた。娘は両手を下腹の前で重ね、寸分の隙もない礼法で深々と頭を垂れた。
「私、名を桃香と申します。此度の温泉郷にて、仮初めながら郷長の役目を務めさせていただいております」
桃香と名乗った娘は静かに顔を上げ、過剰なまでに澄み切ったその双眸で、クレアの放つ凍てつくような眼差しを受け流し、腕の中に抱かれた黒髪の少女へと正確に視線を定めた。
「長生寺および源泉の善後策につきまして、公の書類には残せぬ、極めて肝要な内々の儀がございまして……甚だ不躾とは存じますが、こちらのルシア様と、人払いの上で少刻お話しをさせていただきたく願えませんでしょうか」
クレアの腕が、軋むような音を立ててルシアの身体をさらにきつく抱きすくめた。その力は、少女の薄い骨肉を圧し折らんばかりであった。
高貴なる紫の双眸に、どす黒く渦巻く狂気じみた殺気が迸る。針の如き冷徹な視線が桃香の面皮を射抜き、今にもその無垢を装った首を素手で引き裂かんばかりの獰猛さを孕んでいた。
クレアは肌で理解していた――この白霧に閉ざされた温泉郷が、決して一筋縄で片付くような場所ではないことを。
そして、帝国の頂点に立つ大魔導士としての第六感が、脳裏の奥底で警鐘をけたたましく鳴らし続けていた――絶対に手放してはならない、と。
直感が告げていた。いまこの腕を緩めれば、いつの日か必ず、今日の妥協を生涯悔やみ、血の涙を流すことになるのだと。
「断るわ。貴女と交わす言葉など何一つない」
クレアの拒絶は万年氷の如く冷酷で、一切の余地を挟まなかった。
彼女の胸中にあるのは、一刻も早くルシアをカリーナのもとへと連れ帰り、一族の私兵とあらゆる特権を総動員してでも、日没前にルシアを北境公爵領へと連れ戻すことだけだった――これ以上この地に留まれば、目に見えぬ深淵に呑み干されてしまう。
「クレア……下ろして。あの人と話さなきゃいけないの」
抱き抱えられたままのルシアが、クレアのローブの襟元を細い指で微かに引いた。
ルシアは桃香の血脈も、老僧が敷いた盤面もすでに悟っていた。だが、その深奥をクレアは知らない。老僧の命運がどこへ行き着くのか、この歪み切った集落の代償を誰が支払うのか。
クレアが己の無事のみを案じ、郷民の生死など歯牙にもかけていないことは痛いほど分かっていた。
それでも、土壇場で真実のすべてを託された唯一の異邦人として、ルシアの内に巣食う頑なな理性が、この不条理な悲劇の最後の欠片を自らの手で拾い上げることを求めていた。
「クレア、日が暮れる前には必ず松風閣へ戻るわ。一度だけ、私を信じてくれない? それに……ここには忘却の神殿の源流がある。私が探し求めていた鍵が、あそこにあるかもしれないの」
「駄目よ。断ると言ったはずよ」
クレアの拒絶は狂気を帯びるほどに頑なで、ルシアの腰を抱く指先は白く強張っていた。魂の深淵から湧き上がる危険の予兆が、全身の魔力を逆流させている。
彼女が唇を震わせ、いっそう厳しい言葉でルシアの無謀を制止しようとした――まさにその時だった。
「クレア・シルヴィア卿」
重々しく統制の取れた鋼鉄甲冑の軋み音が、突如として割り込んできた。白銀の獅子鷲の外套を翻した数名の近衛騎士が霧を割り、クレアの前に跪いて寸分の乱れもない軍礼を執った。
「第一皇女殿下より、最高機密に属する緊急軍務の達しにございます。卿お一人の至急の出頭を命じられております。直ちに我らと同道願いたい」
クレアの息が止まり、奥歯が砕けんばかりに噛み締められた。
あまりにも、時が合いすぎている。
最悪の、そして最も不吉な瞬間に、すべての運命が軋みを上げて衝突していた。第一皇女の親書による召集を前にしては、いかに侯爵令嬢たる大魔導士とて抗う術はない。
クレアは瞳を閉じ、暴れ狂う魔力をかろうじて心の奥底へとねじ伏せた。深く息を吐き出すと、抱きかかえていた華奢な少女を、冷え切った青石畳の上へと静かに降ろした。
足が地に着いた瞬間、クレアの冷たい指先がルシアの首筋へと滑り込み、親指でその顎を乱暴なまでに押し上げ、逃げ場のない眼差しでルシアの瞳を真正面から射抜いた。
「日が沈む前よ。松風閣で貴女の姿を確認できなければ容赦しないわ。一分一秒の遅れも許さない」
その声には微温さの欠片もなく、背筋が凍るほどの執着と冷気が宿っていた。だがルシアはその氷の下にある、息の詰まるような恐怖と庇護の念を確かに感じ取っていた――
皇子が斃れ、人体薬包の凶行が露見したこの地で、貴族も騎士も魔法学院の正規教授らも皆が泥沼に呑み込まれている中、自分だけがこうして嵐の圏外に匿われ、真相を追う我儘を許されているのだと。
「分かってる。約束するわ」
ルシアが囁くように応じると、クレアはその面影を網膜に焼き付けるかのように長く見つめ、やがて翻したローブの裾とともに、近衛兵を従えて霧の彼方へと消え去っていった。
街道には再び静寂が戻り、水路を流れる湯の微かな泡立ちの音だけが残された。
柳の陰に佇んでいた桃香が、ようやく顔を上げた。その唇の端には、淡く、どこか解脱にも似た笑みが浮かんでいた。
「長生寺でお話しいたしましょう、ルシア様。あそこなら静かです……それに、どうしても貴女にお渡しせねばならぬ物が、あるのです」
曲がりくねった湿った石段を登るにつれ、周囲のざわめきは濃い白霧の中に吸い込まれて消えていった。
近衛兵の甲冑の音も、郷民の押し殺した嗚咽も、折り重なる枯木林の奥へと霧散してゆく。両脇に聳える古木は黒々と濡れそぼり、土から這い出た死者の骨の如く歪に枝を伸ばしていた。
暗緑の苔に覆われた黒石の階は踏みしめても足音一つ立たず、ただルシアの肩に留まる刻刻の歯車が微かに軋む音だけが鳴っていた。
桃香は半歩先を歩いていた。下駄が石段を刻む「カラン、コロン」という澄んだ乾いた音が響き、淡青の着物の裾が霧を払うように揺れている。その足取りは自らの家の庭を散策するかのように軽やかであった。
二人は山門に跨がる古びた鳥居を無言でくぐり抜けた。叩き壊された朱塗りの大扉は泥の中に打ち捨てられ、木片が無残に散らばっている。
かつて堂内を埋め尽くしていた近衛兵の姿はとうになく、ただ冷徹な静寂と破壊の余温だけが漂う廃寺が佇んでいた。
損壊した敷居の前で桃香は足を止め、振り返ることもなく、霧の中に霞む八角の反り屋根を静かに見上げた。
「皮肉なものですね」
山道の静寂を破るその声には、父が処刑場へと引き立てられた直後とは思えぬほどの凪いだ響きがあった。
「母が世を去った時、私はまだあまりに幼く、母が好んでいた紅の匂いすら覚えておりません。村人たちは村中の防腐薬草を尽くして母の亡骸を甘やかに浸し、神仏の如く裏山へ葬ることに狂奔しておりました……けれど、母が遺していったこの厄介者に目を留める者は、誰一人としていなかった」
桃香が振り返ると、そのあどけなさを残した端整な面輪に、冷ややかな薄笑いが浮かんでいた。
「あの方がすべての人目を欺き、寺の狭間や隠し部屋で、匙一杯の重湯と薬草で私を密かに育て上げてくださったのです。文字を教え、調香の手ほどきをし……そして、この人を喰らう温泉郷で生き抜く術を授けてくださった」
ルシアは三歩手前の石段に立ち、外套のポケットに両手を差し入れたまま、深い翠の瞳で眼前の娘を見つめていた。
「なら……あなたこそが、この長生寺の真の管理者というわけね」
ルシアが淡々と告げたその結論に、桃香は微かに目を細めた。
「ええ、左様であり、同時に違います」
桃香は壊れた敷居を跨ぎ、木片と落葉の散る庭を横切って、再びあの薄暗く肌寒い大殿へとルシアを誘った。
「寺の抜け道を掌握し、仕掛けを操って地底への水流を配分し、郷民らが持ち込む薬包の受領から隠滅に至るまで、差配したのはすべて私です。けれど、私はただの『代行者』に過ぎません――この長生寺、いえ、この太古の『忘却の神殿』には、千百年の長きにわたり、正統なる守護者など存在しないのですから」
大殿の中央では、巨大な八角の走馬灯がいまだ宙に吊るされ、静かに巡り続けていた。黄ばんだ灯火が障子紙を透かし、朱砂で描かれた笑い面の紙人形が手を携え、青黒い敷瓦の上に歪な影の輪を描き出している。
ルシアは歩みを止め、空虚な堂内と神龕を見渡し、敷瓦の隙間に走る乾ききった暗渠へと視線を落とした。
「さっき老僧の前では、あえて突き崩さなかったけれど」
ルシアはポケットに手を入れたまま、冷徹な声で口を開いた。
「地震で墓所が洗い流され、地下の霊泉が薬の香りを伴って湧き出たと、彼は言っていたわ。でも、私が泉の傍で採取して調べた水質には、地熱由来の成分など含まれていなかった。あれは極めて高密度に固形化された、概念そのものに近い古代魔術の沈殿よ」
ルシアは向き直り、桃香の無垢すぎる双眸を真っ向から射抜いた。
「もし源泉が地底の深淵にあるのなら、長生寺の直下を流れる水脈が、これほど高濃度の活性を保ち続けられるはずがない。あなたが代行者を自称するなら答えなさい。真の神殿の中核――この温泉郷の忘却の理を繋ぎ止めている古代の石板は、一体どこにあるの? なぜ老僧は破戒の咎を受け入れ、自ら処刑台に上ってまで、その源流を破壊することも封じることもしなかったの?」
急所を抉るルシアの問いに、桃香の足が止まった。その唇に、微かな嘲弄の色が浮かぶ。
「さすがはクレア様が片時も離さず抱き留めるだけのお方……貴女の瞳は、刃を振り回すだけの騎士たちよりも遥かに研ぎ澄まされていらっしゃる」
桃香は神龕へ向かうことも、隠し通路の仕掛けに触れることもしなかった。下駄の音を静かに響かせながら、大殿の真下――走馬灯が床に落とす、旋回する影の真ん中へと歩みを進めた。
彼女は顔を上げ、斑模様の光と影をその無垢な頬に浴びせながら、冷え切った皮肉の笑みを零した。
「なぜ壊さぬのかとお尋ねですか? 壊せる者など、この世に一人として存在しないからです。そして源流の在り処をお求めなら……」
桃香は細い指を掲げ、頭上を指し示した。絶え間なく回り続ける八角の紙灯籠を。
「それは暗き地底の底などにはございませんよ、ルシア様。最初から皆の頭上に吊るされ、何百年もの長きにわたり、この集落の哀歓を冷ややかに見下ろし続けていたのです」
ルシアの瞳孔が微かに収縮し、微風もないのに回り続ける頭上の灯籠へと視線を跳ね上げた。
「この走馬灯が……神殿の石板の本体だというの?」
「ええ、これこそが『忘却』の真の理にございます」
桃香の声が、大殿の梁の間を幽霊の如く木霊した。
「世の者どもは、長生湯が苦痛と記憶を洗い流す奇跡の泉だと信じ切っております。けれどそれは、中核から零れ落ち、薄まり果てた劣悪なる滓に過ぎませぬ。忘却の神殿が司る真の権能とは、乱暴に忘れさせることなどではない――『思い出させること』なのです。この走馬灯を目にした者は、魂の深淵に封じたあらゆる追憶、愛憎、悔恨、執着を白日の下に引き摺り出され、生々しく追体験させられる」
桃香はルシアを深く見据え、千年の沈黙を破るかのように、その氷の理を一言ずつ紡いだ。
「完全に思い出すことによってのみ、人は真に忘れ去ることができる」
「石板を手にし、新たな守護者となるための代価……それは、灯の下に立ち、自らの生涯の因果のすべてを眼前に燃やし尽くすことにございます。貴女の記憶が石板に吸い尽くされたその時、現世に刻まれた貴女の存在の痕跡もまた、この世界から悉く消し去られるのです」
桃香は指を下ろし、一歩後退して走馬灯の直下の場所を空けると、ルシアに向かって静かに一礼を捧げた。
「千百年の間、並み居る魔導士も強欲な術者も、ことごとく恐れをなして逃げ出しました。石板一枚のために、万人から忘れ去られ、無縁の孤影となる代価を背負える者などいなかったのです。老僧にもできず、私にも叶わぬ……さて、ルシア様。貴女はこの灯を受け取る覚悟がおありですか?」
大殿の空気が、その瞬間完全に凍てついた。
黄ばんだ光と影が、二人の足元で引き伸ばされ、歪な闇を描き出している。ルシアは上着のポケットに手を差し入れたまま微動だにせず、その翠の瞳は凪いだ水面の如く波紋一つ立たない。
走馬灯の影の縁に立つ桃香は、淡青の着物の前で手を重ね、従順を装った奇怪な笑みを浮かべながらも、その眼差しの奥底には冷徹な打算を張り巡らせていた。
一方は虚飾を解き明かす異邦の旅人、一方は呪われた血を背負う操り人形の代行者。
青黒い敷瓦の上を言葉なき対峙が侵食し、吹き抜ける山風すら息を殺していた。ルシアは灯の影へと進み出ることはしなかったが、半歩たりとも退きはしなかった。
「私に、その代価を肩代わりさせたいというわけね」
ルシアの冷ややかな一言が、桃香の胸算用を容赦なく抉り抜いた。
桃香は否定せず、首を傾げて自嘲の冷笑を浮かべた。
「公平な取引にございますよ、ルシア様。貴女は石板の知識と力を欲し、私たちは……この連鎖から解き放たれたいのですから」
その言葉が落ちた刹那、大殿の天蓋に吊るされていた八角の走馬灯から、澄み渡る金属音が響き渡った。
――カチリ。
狂いなく回り続けていた朱砂の紙人形が、唐突に停止した。術式の気配もなく、いかなる外力も加わらぬまま、その巨大で重厚な古灯は不可視の引力を振り解き、幽かな鳴動を響かせながら、梁の下からゆっくりと宙を舞い降りてきた。
それは直下に立つ桃香へ落ちることはなく、虚空に冷たく優美な弧を描き、真っ直ぐにルシアへと向かって漂い寄ってきた。
ルシアの眼差しが微かに引き締まり、肩の上の刻刻が警戒の歯車音を鳴らした。だが彼女は身を引かなかった。未知を前にした工学徒の冷徹さがその場に足を縫い止めさせ、近づき来る古の光源を見据えさせた。
ルシアの胸元へと至った瞬間、走馬灯を形作っていた障子紙と木組みが、無数の光の粉となって四散した。
朱砂で描かれた紙人形の列は深紅の呪符の連なりへと姿を変え、虚空で凝縮と再編を繰り返すと、やがて灯籠の輪郭を脱ぎ捨て、掌ほどの大きさをした、古風な刻みの走る漆黒の石板へと結実した。
――パタリ。
縮小した石板は、ルシアが無意識に差し出した掌の上へと、吸い寄せられるように収まった。
石板の表面は万丈の氷の如く肌を刺す冷たさを放っていたが、その深奥には微かな熱が脈動していた。あたかも千年を眠り続けた心臓が、ルシアの肌に触れた瞬間に一度だけ小さく拍動したかのように。
その光景を前に、勝ち誇っていた桃香の顔から一切の笑みが抜け落ちた。
張り付けていた偽りの微笑が完全に凍りつき、澄んでいた双眸に激震が走る。桃香は抑えきれぬ戦慄に足をもつれさせ、信じがたい面持ちでルシアの手の中にある黒石を凝視した。
「……選ばれた、というのですか……?」
桃香の声から余裕が消え去り、抗えぬ運命に打ちのめされた震えが漏れ出していた。
「数百年の間……幾多の術者たちが三尺と近づくことすら叶わなかったというのに、石板みずから主と認めた……?」
桃香は胸を激しく波打たせ、息を呑みながら視線を上げると、ルシアを見つめるその眼差しには恐怖と憐憫、そして神託を目の当たりにした者の戦慄が入り混じっていた。
「おめでとうございます、ルシア様。貴女はもはや、この悲劇の傍観者ではございません――貴女こそが、忘却の神殿における真の新たな守護者にございます」
桃香は再び両手を重ね、石板を握る黒髪の少女に向かって深々と平伏した。その声は黄泉の底から響く呪詛の如く、幽玄に大殿を揺るがした。
「されど……決して安堵なされませぬよう。守護者に課せられる代償は、俗世の凡夫が背負うものとは次元が異なります。直ちに命を奪われることはなくとも、この瞬間より、運命の歯車は動き始めました……貴女を待ち受けるのは、『死』を以てすら逃れ得ぬ、生涯のすべてを覆す過酷な代償にございます」
ルシアは掌の中で幽かに明滅する石板を見下ろし、指先を静かに引き締めた。魂の髄まで染み渡る、底知れぬ冷気を受け止めながら。




