地球へ帰る方法と、手放したくない女公爵
かつての多くの二次元作品において、「好敵手」というものは、決して欠かすことのできない魂の象徴であった。
それは旅の途上で互いに技を磨き合い、己の限界を乗り越えさせる存在であり、物語の最高潮においては、本来水と油であったはずの二人が過去の確執を捨て去り、肩を並べて共闘することで、読者にこの上ない戦慄と昂揚感をもたらすものであった。
しかし、娯楽市場と読者の嗜好の変遷に伴い、ルシアが無邪気な学生から会社で青春を燃やし尽くす社畜へと変わり果てていく中で、そうした純粋な「ライバル美学」は、時代の主流から次第に姿を消していった。
例えば、各地のジムに挑みチャンピオンを目指して荒野を駆け巡る十歳の少年の冒険譚には、常にその先を歩み、刺のある言葉を吐きながらも圧倒的な実力を持つ宿敵が寄り添っていた。
例えば、カードゲームを主題としたとある作品では、男主人公の祖父が最も大切にしていた希少なカードを破り捨てたことで宿命の因果を結び、その後の人生のすべてを主人公という神話的背中を乗り越えることだけに捧げた宿敵がいた。
あるいは、時代を画したとあるロボットアニメの金字塔のように、主人公と仮面の宿敵との間に横たわる絆と葛藤は、もはや世俗の男女の愛を遥かに超越しており、最後には地球へと落下する巨大小惑星を力尽くで押し返す奇跡の光の中で、共に無辺の星海へと消え去っていった。
かつて、好敵手とは王道活劇における不文律であった。だが、即物的な快楽と安易な共感が求められる現代において、読者はもはや平行する二本の視線がゆっくりと交わるのを待つほどの忍耐を持ち合わせてはいない。
互いを砥石とし、合わせ鏡のように高め合うあのロマンは、色褪せた歴史の奔流の中へと静かに沈んでいった。
だが今この瞬間、貴族の権謀術数と暗殺兵の視線が張り巡らされた白石の庭園において、ルシアはわずかな言葉の交錯から鋭敏に察知していた――目の前にいるヴァレリーという女は、生ぬるい「同郷の道連れ」などではなく、その魂の在り様において、地球上では疾うに絶滅したはずの「宿敵」そのものであると。
先ほどの短くも危うい探り合いの中で、ヴァレリーはルシアを抱き込もうとする意図を些かも隠そうとはしなかった。
彼女が会話の中で己の出自を「同じ故郷」と言い換えてみせたのは、東屋の中で冷酷な視線を注ぎ続けるカリーナとルーカスに「異世界からの転生」という真相を悟らせないための配慮に過ぎない。
傍目には、帝国の僻地にある自治領から出てきた同胞同士が、華やかな帝都の片隅で旧交を温め合っているだけにしか見えぬ偽装であった。
身を引き離したわずか数秒の間隙を縫い、ヴァレリーは幾何学ルーンと緻密な演算式で埋め尽くされた分厚い羊皮紙の束を、何食わぬ顔でルシアの手のひらへと滑り込ませていた。
「ルシア、私たちの世界にあった有名な作品を覚えているでしょう?」
ヴァレリーは細フレームの眼鏡を指先で押し上げ、声音を極限まで潜めながら、言葉の端々を噛み砕くように囁いた。
「七つの玉を集めれば、どんな願いでも叶えてくれる神龍を呼び出せるという、あのお話よ」
ルシアは伏し目がちに羊皮紙の端をめくり、感情の起伏を一切排した冷淡な声で吐き捨てた。
「……髪の色を変えながら喚き散らして、事あるごとに惑星を宇宙の塵へと撃ち砕く筋肉ダルマたちのことですか?」
世界中を熱狂させたあの伝説的怪作を、知らぬはずがなかった。
当初、ルシアは長きにわたる孤独に耐えかねた異邦人が、単なる感傷を吐き出しただけだと思っていた。
だが、指先が羊皮紙をめくるにつれ、現代の高等微積分、トポロジー空間論、そしてこの世界の古代銘文が混沌と編み込まれた狂気の論証が、容赦なくその視界を焼き尽くした。
戯れ言などではない。
羊皮紙の中央には、常軌を逸した禁忌の儀軌が克明に描かれていた――。
かつて、魔力渦巻くこの異世界の深奥には、時空の次元を完全に引き裂き、望むあらゆる座標へと対象を跳躍させる太古の魔導器が存在していた。
だがその禁忌の遺物は、遥かなる神々の黄昏において破壊され、その中核は七枚の空間石板へと打ち直され、七つの大陸の神殿最深部にそれぞれ封印されたのだという。
すべての神殿の底には、太古より座す強大な守護者たちが眠っている。
そして、その七枚の石板をすべて剥奪し、再構築を完了させた時、虚空の彼方に閉ざされていた帰郷の扉は、再び彼女たちの前に押し開かれるのだ。
正直に言えば、転生した当初の数日間、ルシアとて異世界での冒険という甘美な幻想を抱いていなかったわけではない。
だが現実は、彼女を泥濘の中へと容赦なく叩き落とした。エアコンも、インターネットも、水洗トイレもない。清潔な湯や純白の砂糖ですら貴族の特権階級に独占されている。
底辺平民の生活は、現代の社畜が送る残業地獄よりも何千倍も過酷であった。
彼女は疾うの昔から、平穏で便利な科学文明の暮らしを狂おしいほどに渇望していたのだ。
ただ前世までの二度もの生において、カリーナの冷酷な無視と、胸を貫いた爆炎の火球に精神を摩耗させられ、帰郷を望む余裕すら奪われていただけに過ぎなかった。
「その古代魔導器の力は、確かに次元を穿つほどに強大よ。けれど代償は極めて残酷――空間の乱流から生身の肉体を守りきれる転送の許容量は、最初から最後まで、たったの一人分だけなの」
ヴァレリーは茶杯を掲げ、優雅に喉を潤した。血肉を奪い合う殺戮へと直結するその残酷な情報を、まるで今日の天気を語るかのような平然とした声音で提示してみせる。
「ましてや神殿の底に潜む守護者たちは、この世界の理すら超越した怪物ばかりよ。私一人では、命を幾つ積み上げようとも生きて辿り着くことすら敵わないわ」
「……つまり」
ルシアの指先が強張り、手の中の羊皮紙を静かに閉じた。彼女は顔を上げ、メスのように冷徹な眼差しで、ヴァレリーの精緻な貌を隅々まで解剖するように見据えた。
「私を補助錬金術師として引き入れ、各地の神殿で守護者を排除し、封印を解いて石板を奪取する。けれど七枚の石板が揃い、帰還の切符が目の前に完成したその瞬間……私と貴女のどちらか一方が、死ななければならないと?」
「七枚の石板が揃うその時まで、貴女はこの荒野で私が唯一背中を預けられる道連れよ」
ヴァレリーはルシアの視線を受け止め、その黄金の双眸に、傲然たる確信と侵略の光を揺らめかせた。
「けれど切符が形を成したその刹那、私たちは互いの息の根を止める敵同士となる。とても公平な賭けだとは思わないこと?」
彼女はあまりに潔然と笑っていた。目の前の黒髪の少女が、この公爵邸から、この世界から逃げ出したがっているその切迫した渇望を、彼女は正確に見抜いていた。
ルシアの背後にいかなる惨烈な傷痕や秘密が隠されていようと、この次元規模の豪賭において、互いに喰らい尽くすだけの利用価値があればそれで十分なのだ。
「好敵手とは……同じ軌道の上で互いを認め合い、競い合うものでしょう。決して殺し合うための怨敵ではないはずです」
ルシアの深緑の双眸が、相手の金瞳を逃さず縫い止める。知性と優雅さを装ったその仮面の奥底から、微かな動揺や後ろめたさの欠片でも引きずり出そうとするかのように。
「終着点に至るまでは同盟を結び、境界線を踏み越えた瞬間に生死を分かつ――貴女はそれを相棒と呼ぶのかもしれませんが、私の目には、文明の皮を被っただけの宿敵の殺し合いにしか見えません」
だが、ヴァレリーの表情に破綻は一切生じなかった。二十年におよぶ長い潜伏と、学院上層部との泥沼の暗闘は、彼女の城府を公爵邸の大理石柱よりも分厚く、冷徹なものへと鍛え上げていたのだ。
「どう定義しようと貴女の自由よ、親愛なる道連れさん」
ヴァレリーは指先で骨磁器の縁をコツコツと叩き、意味深長で、サディスティックな笑みを口元に刻んだ。
「けれど少なくとも、殺し合うその瞬間までは……この世界の退屈極まりない貴族たちとおままごとを続けるより、ずっと愉しい協力関係になれると保証してあげるわ」
カリーナは、もはや座していられなかった。
先ほどの「太陽王」や「ルイ十四世」といった怪異な単語の意味こそ掴めなかったものの、ヴァレリーが後に堂々と口にした「大陸七大神殿の石板の強奪」、果ては「空間の門を裂いて故郷へ帰還する」という文言のすべてを、彼女は一言一句漏らさず聞き届けていた。
身の程を知らぬ学院の教授風情が、自分の目の前で、事もあろうにルシアを奪い去ろうとしているのだ!
カリーナは弾かれたように立ち上がった。長年、極北の血煙と戦火に研ぎ澄まされてきた魔力が、もはや抑えきれずに大気を震わせる。
紫藤の棚が落とす影を一段で踏み越え、ルシアに身構える暇すら与えず、その長い腕を伸ばして、華奢で小さなその身体を乱暴に、されど壊れ物を慈しむかのように己の胸元へと掻き抱いた。
「……んっ!」
ルシアの青白くやつれた顔が、唐突にカリーナのあまりに豊満で柔らかな胸元へと深々と押し込められた。濃密な杉の香りと極北の冷気が容赦なく感覚を塞ぎ、肺腑の酸素が一瞬にして強奪され、視界が白く明滅する。
肩の上の刻刻がパニックを起こしたように激しい歯車の軋み音を立て、ルシアは両手を咄嗟にカリーナの脇腹へと当てて押し戻そうとしたが、女公爵の腕は鋼鉄の鎖のごとく微動だにせず、締め付けられた肋骨に軋むような痛みが走った。
カリーナは腕の中の少女の無力な抵抗を一顧だにせず、血のように紅い瞳を出鞘の刃の如く細め、悠然と構えるヴァレリーを冷たく見下ろした。その声は完全に凍てついている。
「ヴァレリー教授、ルシアは我が公爵邸の大切な貴賓です。主人の御前において人のものを奪おうとは……あまりに品性を欠く振る舞いではありませんこと?」
女大公の放つ、皮膚を切り裂くような威圧を正面から受け止めながらも、ヴァレリーは半歩たりとも退かなかった。それどころか、極上の喜劇を鑑賞するかのように口元を愉悦に歪めてみせる。
「人のものを奪う? 大公閣下、随分と聞き捨てならない言いがかりをつけてくださいますのね」
女教授は金縁の眼鏡を指先でそっと押し上げ、瞳の奥に冷たい嘲笑を浮かべた。
「個人の自由意志を尊重することこそ、真に高潔な者の嗜みであると私は心得ておりますけれど。閣下におかれましても、私を脅迫することに知恵を絞る暇がおありなら、その窒息しかけている腕を解いて、ルシア本人の意思を問われてはいかがかしら?」
その言葉は、真っ赤に熱した鋼の針となって、傍らに立つルーカスの神経を容赦なく貫いた。
若き公爵家の継承者は東屋の階段の上で、先刻までの萎縮を脱ぎ捨て、その眼差しを一瞬にして氷のように鋭利なものへと研ぎ澄ませた。
ヴァレリーのその絶対の確信に満ちた態度を見据えるうち、胸中に名状しがたい凶暴な憤怒が燃え盛るのを感じていた――たとえこの女が、近き将来に学院で自分を指導する教授であろうと、深奥なる術式を操る怪物であろうと、ルシアをこの屋敷から奪い去ることだけは、断じて許しはしない。
前世におけるあらゆる悲劇の、公爵家が血に沈んだすべての破滅の起点こそが、あの業火の中でルシアの胸が撃ち抜かれたあの一瞬だったのだ。
ルーカスには痛いほど解っていた。ルシアを公爵邸から逃がしてやれば、あるいは彼女を政治の暗闘から遠ざけることができるのかもしれない。
だが、もしもルシアが本当に自分たちの目の前から永遠に消え去ってしまえば……ただでさえ崩壊の瀬戸際で辛うじて理性を保っているカリーナの精神は、瞬く間に瓦解してしまうだろう。
前世の空虚な三年間、ルシアはあんなにも無心に、ひたむきにカリーナの後ろ姿を追い求めていた。
だというのに、当時のカリーナはあまりに高潔で傲慢であり、その双眸には領地の防衛と軍務の冷徹な数字しか映っていなかった。
あの不器用で身分の卑しい黒髪の娘を、公爵の寝所に這い上がって富貴を貪ろうとする浅薄な女の一人だと決めつけ、与え続けたのはただ氷のような侮蔑と無関心だけであった。
生前の軽蔑が深ければ深いほど、ルシアが息絶えた後、血塗られた真実が一枚ずつ剥ぎ取られていった時の痛みは、魂を抉るものとなった。
ルシアがカリーナへと贈っていた、あの一見して取るに足らない細工物の数々――。
それらはすべて、この大陸の誰も目にしたことのない異端の奇跡であった。
極めて精緻な構造を誇り、極小のゼンマイと音梳によって駆動し、奏でられる旋律がカリーナの慢性的魔力反噬による偏頭痛を奇跡的に鎮めた『オルゴール』。
粗末なガラス瓶に無造作に詰められながらも、分子レベルの極致にまで純度が高められ、宮廷筆頭錬金術師の秘薬すら遥かに凌駕し、精神への反動が皆無であった微観魔力回復薬。
そして極北の過酷な寒冷を凌ぐため、ルシアが特別に仕立て上げた小型の懐炉と、驚くほど軽薄でありながら異常な保温性を誇る防寒着。
それらの品々は、帝都の競売場へたった一つ投げ込むだけで、大陸中の貴族たちが血道を上げて奪い合い、ルシアが末代まで何不自由なく豪奢に暮らせるだけの富をもたらすものばかりであった。
だというのに、前世のあの愚かな少女は、それらを一銭の金にも換えようとはしなかったのだ。
公爵邸から支給される雀の涙ほどの家庭教師の手当てに甘んじ、使用人たちの冷遇と主人の苛烈な仕打ちに耐え忍びながら、ただ一度でいいから、彼女の視線が己に留まることを願い、天文学的価値を秘めた至宝の数々を、道端の小石のように無垢な両手でカリーナへと差し出し続けていた。
ルーカスは知っている。前世の凍てつく闇夜の中、主寝室の重い扉の向こうから漏れ聞こえていた、カリーナの引き裂かれるような、瀕死の獣のような慟哭の声を。
万軍の軍頭に立ち、血を流せど涙など決して見せなかった鉄血の大公が、生涯を共に添い遂げるはずであった、そして己の傲慢と偏見によって死へと追いやったその女のために、己の魂を粉々に噛み砕いて泣き叫んでいたのだ。
ルーカスの意識が、前世の窒息せんばかりの悔恨から引き戻される。
彼は見つめていた。未だ背筋を伸ばしながらも、とうに内側から崩壊しかけている叔母の後ろ姿を。
幼き頃、両親は周到に仕組まれた暗殺によって相次いで命を落とした。祖父は辛うじて一命を取り留めたものの重い後遺症に倒れて寝たきりとなり、祖母は心労の果てに政務の一切を放棄して夫の看病に没頭した。
広大にして寒々しい公爵邸は、一夜にして嵐の海に浮かぶ孤島と化したのだ。
あの年、カリーナはまだ十四歳であった。
原野を馬で駆け巡り、広大な世界を見聞して回るはずであった年頃に、カリーナは冷たく重い甲冑を纏うことを強いられ、奥歯を噛み締めながら北境の重責を一身に背負い、権謀術数渦巻く社交界の中で冷血な怪物へと身を窶し、無理やりにルーカスの母親代わりを務めてきたのだ。
カリーナは己の心を、十四年もの長きにわたり氷漬けにしてきた。
いまだ三十にすら届かぬ身でありながら、生涯独身を貫くことを早々に誓い、己の青春と血潮のすべてを領地に注ぎ込み、ただルーカスを無事に次代の大公へと押し上げることだけを生きる糧としてきた。
そして今、ルーカスは十八歳となった。
前世の、我が儘で傲慢で、自らの過ちによって恩師を死に至らしめたあの愚鈍な放蕩息子は死んだのだ。死に戻りを果たした彼は、間もなく帝都の魔法学院へと旅立つ。彼はもう、責任を背負い、刀を抜いて最愛の者たちを守り抜くことのできる一人の男なのだ。
迷いは消え去り、覚悟は冷徹な決意へと結実した。
――チャキン!
澄んだ冷ややかな刃鳴りが、庭園の静寂を切り裂いた。
ルーカスの腰にあった佩刀が一閃のもとに鞘を払い、抜き身の切っ先が朝陽を浴びて凍てつく光弧を描き、ヴァレリーの喉元を真っ直ぐに指し示した!
「次代の公爵ともあろうお方が、これより師事する教授に刃を向けるとは……随分と無作法なご挨拶ですこと」
ヴァレリーは優雅に茶を口に運び、腰掛けた姿勢を微動だにさせなかった。
目の前の若き公爵後継者を、彼女はこれっぽっちも視界に入れていない――それは傲慢ではなく、実力という名の絶対的な隔絶がもたらす無関心であった。彼女はただ面白がるように眉を上げ、少年の張り詰めた切っ先を値踏みするように眺めている。
「公爵邸の人間を力尽くで強奪せんとする教授の横暴に、我が家が何一つ示しをつけぬとあれば、それこそグラフィエンの家名を侮られ、天下に侮りを示すことになりましょう!」
ルーカスは両手で柄を握りしめ、重厚な鍔が軋むような音を立てた。その双眸は、いかなる暴風にも揺るがぬ城壁の如く強固であった。
「骨のある若者は嫌いではありませんわ」
ヴァレリーは心底から微笑んだ。魔導の深奥においても実戦の経験においても絶望的な天見が横たわっていると知りながら、家の尊厳を守るため、背後の者を守るため、この少年は躊躇うことなく初撃の刃を抜き放ったのだ。
権謀術数が渦巻き、虚飾と偽善が罷り通る帝都の貴族連中の中にあって、この純粋なまでの血気は確かに得難い輝きを放っていた。
だが、骨気だけで情報と次元の格差を埋めることなど不可能なのだ。
「ふぅ……」
ルーカスが全身の筋肉を硬直させ、降り注ぐであろう破滅的な術式の砲撃に備えたまさにその刹那、ヴァレリーは左手をそっと持ち上げ、細く長い人差し指と中指を揃えると、眼前に迫る切っ先に向かって、まるで埃でも払うかのように虚空を弾いた。
天地を揺るがす詠唱はない。目を焼く魔法の閃光もなく、四元属性の魔力が練り上げられる気配すらない。
周囲の大気と魔力の奔流にすら、目立った乱れは生じていなかった。
ただその一瞬、ヴァレリーの左手中指に嵌められていた目立たぬ鈍色の銀環に、極小の幾何学暗紋が幽かに明滅しただけ。
それはこの世界の常軌を逸した極小の術式であり、ルーカスの刀勢が頂点に達する前の、初動の運動エネルギーが立ち上がるまさにその特異点において、切っ先の前方にある重力角と空気の流体抵抗を、寸分違わず書き換えてみせたのだ。
――キィン!
強靭な蜘蛛の巣に激突したかのような、鈍く重い衝撃音が爆ぜた。
ルーカスは腕全体が不可視の高周波振動に叩き潰されたかのような錯覚を覚え、虎口に走る激痛に握力を一瞬にして奪い去られた。
北境の剣技を宿した鋼の佩刀は、物理法則を完全に嘲笑うような角度で下方へと叩き落とされ、大理石の敷石の隙間へと深々と突き刺さり、刀身を激しく震わせて甲高い悲鳴を上げ続けた!
少年の瞳孔が限界まで収縮し、金縛りに遭ったようにその場に凍りつき、額から冷汗が一筋滑り落ちた。
受け流された。
相手の裾に触れることすら叶わず、いかなる属性の魔術が使われたのかすら見極められぬまま、自らの渾身の抜刀は、これ以上ないほどあっけなく、屈辱的なまでに初手で圧殺されたのだ。
「太刀筋自体は悪くありませんけれど、魔力の流れがあまりに単調で、白紙の上に直線を引くのと同じくらい予測が容易いわね、ルーカス君」
ヴァレリーはゆったりと指を引き、金縁の眼鏡を押し上げると、唇にいつもの倦怠を帯びた微笑を浮かべた。
「私の講義で及第点を取りたいのなら、向こう見ずな威勢だけでは、まるで足りませんことよ?」
少年の骨気は評価する。だが生憎と、彼女という女は地球にいた頃から、青臭いオスの生き物には世俗的な興味など爪の先ほども持ち合わせていないのだ。
女教授の視線は再び少年を飛び越え、カリーナの腕の中に未だきつく封じ込められ、酸欠で意識を飛ばしかけている黒髪の少女の上へと注がれた。その眼差しはどこまでも深く、底知れぬ企みに満ちていた。




