異郷の同胞と、嫉妬に狂う女公爵
薄暗い控の間を抜け、ルシアは刻刻を連れて密かに公爵邸の裏庭へと足を踏み入れた。
午前の陽光は心地よく降り注ぎ、手入れの行き届いた植え込みと黒土からは、微かに湿り気を帯びた青草の香りが漂っている。
ルシアとしては、ただ人気のない静かな片隅で風に吹かれ、熱を持った頭を冷やしたかっただけに過ぎない。
しかし、蔓草の絡みつく白石のアーチをくぐり抜けたまさにその瞬間、前方の白玉東屋から風に乗って届いた話し声に、彼女の足はぴたりと凍りついた。
彼女はほとんど条件反射のように、身を引いて物陰へと滑り込んだ。
生き延びるための本能が、呼吸の速度さえも無意識に極限まで落とさせる。肩の上に乗る刻刻の機械コアへそっと指を添え、ゼンマイを固定して絶対の静寂を保つよう合図を送る。
彼女はまるで気配を消したヤモリのように、高く茂る藤棚と大理石の彫刻柱の背後へ、ぴったりと身を寄せた。
目立つことだけは絶対に御免だった。暗殺兵と監視の目が張り巡らされた貴族の館において、無用の関わりを避けるに越したことはない。雲の上の権力者たちの密談に軽率に踏み込めば、待っているのは不必要な嫌疑と破滅だけだ。
絡み合う花葉の隙間越しに、ルシアは東屋の中の面々を見定めた。
上座に腰掛けているのは、言うまでもなくカリーナ公爵だ。その佇まいは静謐で優雅、指先のひとつにまで為政者ならではの揺るぎない余裕を漂わせている。
その傍らにはルーカスが神妙に侍立しており、普段の傲慢さを鳴りを潜めさせ、借りてきた猫のように大人しく控えていた。
だが、ルシアの瞳を真に細めさせたのは、カリーナの正面に向かい合って座る女の姿だった。
目を奪うほどに鮮やかなワインレッドの長髪。長身の肢体を包むのは、仕立ての鋭い、金糸の縁取りが施された深色の高等魔導学者コート。
鼻梁には極めて上等な細フレームの眼鏡を乗せ、物憂げでありながらも傲然と見下すような冷徹な眼差しを湛え、白く長い指先で羊皮紙の公文書を無造作にめくっている。
――ヴァレリー。
帝国最高学府たる『王立高等魔法学院』において、史上最年少で特聘教授の座を射止めた女。学会において百年に一人の怪物、規格外の天才と謳われる存在であり、そして自分と同じく平民の生まれで、家名すら持たない身の上のはずだった。
「……ルーカス坊ちゃんの特例推薦枠に関して言えば、公爵家からの研究助成金に不足はありませんわね、カリーナ閣下」
ヴァレリーの声は澄んでいながらも、どこか気だるげな掠れを帯びていた。彼女は手元のボーンチャイナの茶杯を無造作に傾けて一口啜ると、レンズの奥の金色の双眸を、隣に立つ公爵家の若き後継者へ向けることすら億劫そうに目を伏せた。
「ですが、前もって釘を刺しておきますけれど。たとえグラフィエンの血筋を引いていようと、私の研究室に入った以上、最低限の複合魔力回路すら解読できないようなら……大公の甥だからといって、その鈍物に手加減してやる気はありませんわ」
傍らに立つルーカスの口元が引き攣り、握りしめた拳に青筋が浮かんだ。しかし、彼は奇跡的なまでに怒りを爆発させることなく押し留めていた。
この女教授の悪名高い気性を疾うに聞き及んでいるのか、言い返す言葉すら持ち合わせていない様子だった。
カリーナはただ静かに茶杯を傾け、薄く笑みを浮かべた。
「ルーカスに必要なのは、まさにその苛烈なまでの鍛錬だ。ヴァレリー教授、何らの懸念も要らぬ」
石柱の陰に潜むルシアの指先が、手のひらに深く食い込んだ。
前世の記憶が脳裏を激しく濁流となって駆け巡る――彼女の記憶にあるヴァレリーという女は、半年後に行われる学院の春季正規選抜式典において、審査員席に初めて姿を現すはずの人物だった。
それが半年も前倒しされ、事もあろうに公爵邸の庭園に堂々と腰を落ち着け、入学枠の取引を交わしている。
バタフライ・エフェクト……やはり、完全に狂い始めている。
ルシアは息を殺し、三人の会話の切れ目を見計らって、物音ひとつ立てずに回廊へと引き返そうと爪先を引いた――。
さわ……
その時、一陣の微風が藤棚を揺らし、枯れた紫藤の花弁を数片、宙へと散らした。
気だるげに書類をめくっていたヴァレリーの指先が、空中でピタリと静止した。
女教授の眉がわずかに跳ね上がる。首を大きく巡らせることすらせず、眼鏡の奥に潜むその黄金の瞳は、精密に照準を定めた魔導儀軌のごとく、重なり合う花葉の隙間を寸分の狂いもなく貫き、ルシアが潜む石柱の死角を真っ直ぐに射抜いたのだ。
視線が交錯した瞬間、ルシアの全身の総毛が逆立った。
「……このバタフライ・エフェクト、影響の範囲がデタラメにも程があるでしょうが」
石柱の影に隠した指先が、微かに冷たく強張っていく。地球のカオス理論において、ブラジルの熱帯雨林で一羽の蝶が羽ばたいた微小な乱れが、一ヶ月後のテキサスに巨大な竜巻を巻き起こすことがあるという。
だが自分はただ、早朝に拙速な辞表を叩きつけただけに過ぎないのだ。それがなぜ、半年後にしか現れないはずのアカデミアの怪物を、この中庭へと力尽くで引きずり出す結果になるというのか。
もはや一抹の僥倖すら許されない。ルシアは下唇を噛み締め、右手の指腹を腰の手札の縁へと滑らせた。
魔力消費を瞬時に弾き出す――今ここで低位の光学的屈折ルーンを展開して擬態を張り、刻刻の消音結界と連動させれば、背後の潜行暗殺兵に感づかれることなく脱出できるか?
だが、彼女が回路を励起させようとしたまさにその刹那、涼やかで、静謐でありながら、魂の深奥を金槌で打ち据えるような声が、紫藤の棚を突き抜けて響き渡った。
「――地球。ナポレオン」
それはこの大陸で通ずる単語ではない。複雑怪奇な詠唱の呪文でもない。
奇妙な音節、平坦な発音。カリーナやルーカスが己の持てる全生涯の知識を動員したところで、絶対に理解の及ばぬ……異界の固有名詞。
東屋の空気が、瞬時にして真空に引き絞られた。
魔力を引き出しかけていた姿勢のまま、ルシアの全身は石化の呪縛を受けたかのように硬直した。脳内を、真っ白な轟音が吹き荒れる。
そのわずか数文字は、精密無比なメスとなって、彼女が張り巡らせていた偽装の神経を容易く断ち切った。呼吸が止まり、肩の上に乗る刻刻の内部で微かに響いていた歯車の噛み合い音すら、主人の心悸の乱れを拾って一瞬だけ軋んだ。
その致命的な逡巡が、彼女の存在を完全に暴き出した。
藤棚の向こうで、茶杯を掲げていたカリーナの右手が微動だにせず空中に留まる。血のように紅い瞳の奥に、鋭利な暗流が奔流となって渦巻いた。ルーカスは困惑と警戒に眉を顰め、視線を女教授と石柱の暗がりとの間で行き来させている。
彼らには、その二つの単語の意味など解るはずもなかった。
だが、頂点に君臨する強者としての直感が、冷徹にその事実を捉えていた――普段は卑小で感情の乏しい平民の家庭教師が、その奇妙な発音を耳にした瞬間、隠しきれぬほどの激震を魂に走らせたということを。
彼女は、理解しているのだ。
逃げ場はない。後退も許されない。
カリーナとヴァレリーという二重の威圧に射竦められた今、術式を発動しようとするあらゆる足掻きは、後ろめたさを自白する愚行に他ならない。
ルシアは喉元までせり上がった窒息感を力尽くで呑み下し、冷涼な草木の空気を深く吸い込むと、手札に添えていた手を下ろし、冷え切った大理石の柱の陰からゆっくりと歩み出た。
降り注ぐ陽光が黒髪を照らし、酷く青白く、病的な疲労感を滲ませたその横顔を白日の下に晒し出す。
彼女は顔を上げた。深緑の瞳には動揺の欠片もなく、ただ極北の万年氷を思わせる重厚な防壁だけが張り巡らされていた。
ヴァレリーは優雅に足を組み替え、細フレームの眼鏡に朝陽の眩い金光を反射させた。この世の森羅万象に対して倦怠と傲慢を崩さぬその美貌に、今や、温和とさえ呼べるほどの笑みが浮かんでいる。
「柱の陰で、『バタフライ・エフェクト』って呟いたでしょう? ……怯えなくていいわ。もし貴女がその言葉の意味を正しく理解しているなら、この凍てつく世界で、私たちは……背中を預け合える『仲間』になれるかもしれないのだから」
その笑みはあまりに真摯で、親しみと値踏みを孕んだ声色には、見知らぬ異郷を彷徨い続けた旅人が、人の気配のない深淵でようやく同胞に出逢えたかのような驚喜と飢餓感が滲み出ていた。
もしも前世の、奇跡と救済の幻想に頭を侵されていた頃のルシアであったなら。今頃は涙を流して駆け寄り、最後の藁にすがるようにして、その天から降って湧いた「同郷の温もり」に縋り付いていただろう。
だが、今の彼女は――。
身体の脇に垂らしたルシアの指先は、無意識のうちに粗末なスカートの裾を固く握りしめていた。爪が手のひらの肉へと深く食い込み、鋭い痛みを刻みつける。
信じない。
信じることなど、できようはずがない。
二度の惨たらしい死によって築き上げられた胸中の冷徹な要塞が、頭割れんばかりの警報を鳴り響かせている。
――何のために? 雲の上に座し、万人に崇められる天才教授が、なぜ縁もゆかりもない底辺の平民風情に「仲間」などという甘い善意を向けるのか。
これはさらに高度で、より冷酷な罠ではないのか? もしここで首肯すれば、待っているのは助け合いなどではなく、希少な生体解剖の検体として、学院の最深部にある実験室で最後の一滴まで搾取される未来ではないのか?
結局のところ、ルシアという女は骨の髄まで救いようのない臆病者なのだ。
真心を差し出すことが怖い。震えが止まらぬほどに恐ろしい。
またしても哀れな道化のように、なけなしの信頼も、熱情も、魂のすべてを相手に差し出して、その果てに返ってくるのがカリーナのあの三年にわたる氷の如き無関心か、あるいは闇夜の中で胸を刺し貫き、五臓六腑を黒焦げに吹き飛ばしたあの爆炎の火球であることなど、もう二度と御免なのだ。
世界に見捨てられ、泥濘の中で激痛にのたうち回りながら死んでいくあの絶望を、三度も味わう気など毛頭ない。
ルシアはゆっくりと項垂れた。垂れ下がった黒髪が、揺らぐその視線を覆い隠す。
自分は病んでいるのだ。
これは『猜疑』という名の不治の病。二つの命を支払い、二つの肉体を切り刻まれた代償として買い取った、骨身に染みる清醒。この病こそが彼女をここまで生かしてきたのだ。
だがその代償として……彼女はひとりの正常な人間として、同類を無条件に信じる力を完全に喪失してしまった。
眼前で微笑む知性的な相貌を見つめながら、ルシアの胸に裂けるような切なさとやるせなさが込み上げる。
すぐそこに、故郷の名があるというのに。
この世界で唯一、己の魂の拠り所を分かち合えるかもしれない存在が、目の前にいるというのに。
それなのに自分は、怯えた野良犬のように首をすくめ、全身の棘を逆立てて、差し伸べられたパンのすべてに猛毒が仕込まれていると怯えることしかできないのだ。
「仲間……?」
ルシアはゆっくりと顔を上げ、その二文字を乾いた舌の上で転がすと、極めて薄く、だが防壁に満ちた自嘲を口元に刻んだ。
東屋のヴァレリーは、優雅で期待に満ちた姿勢を保ったままだ。組み替えた長い脚、レンズの奥で熱を帯びる黄金の瞳。それは荒野を何年も彷徨い、ようやく故郷の風の匂いを嗅ぎ当てた異邦人特有の狂おしい眼差しであった。
だがルシアは動かない。肩の刻刻が冷たく細やかな歯車の噛み合い音を立て、主人のための不可侵の防壁を紡いでいる。
信じたくないし、信じられもしない。だが、目の前の女が投げ込んできたチップはあまりに重く、最低限の探り針を打ち込まねば、この公爵邸そのものが「転生者」を炙り出すための罠であるかどうかも見極められない。
――合言葉を交わすというのなら、チップを最後まで張り倒すまでだ。
ルシアは身体の脇で強張らせていた指を静かに解いた。深緑の瞳には再会の熱など微塵もなく、淀んだ死水のように平坦だった。
彼女はヴァレリーの知性に満ちた高慢な顔を真っ向から見据え、感情の起伏を一切排した冷淡な声で、カリーナとルーカスには決して解読できぬ一節を紡ぎ出した。
「……網タイツとハイヒールを召された、太陽王」
言葉を吐き出すや否や、ルシアは瞬きひとつせず、無表情のまま最後にして最大の重みを持つ真実を突きつけた。
「――ルイ十四世」
カチャリ。
乾いた鋭い音が、東屋の静寂を唐突に打ち破った。
ヴァレリーの手にあった金象嵌の万年筆が、何の前触れもなく指から滑り落ち、大理石の卓上を二度転がって止まった。
常に冷徹で、毒舌で、傲岸不遜をもって知られる王立魔法学院の最年少教授が、あたかも極大の雷撃術を頭上から叩き込まれたかのようにその場に硬直していた。
端麗な相貌から一切の余裕が吹き飛び、金縁の眼鏡が鼻梁を半寸ほど滑り落ちて、見開かれた黄金の双眸が露わになる。
太陽王。
網タイツ。ハイヒール。
ルイ十四世!
魔法の古典に記された失われし呪文などではない。あの青い星の歴史の教科書に、ヴェルサイユ宮殿の肖像画の前に立てば誰もが知る、あまりに世俗的で滑稽な『常識』。
ヴァレリーの胸が激しく波打った。彼女は石卓に両手をつき、弾かれたように立ち上がった。擦れ合わされた椅子が床石に耳障りな悲鳴を響かせる。
もし貴族社会の礼節という最後の理性が残っていなければ、彼女は今すぐにでも東屋を飛び出し、黒髪の少女の襟首を掴んで歓喜の怒号を上げていたはずだ。
だが、ヴァレリーの取り乱した熱狂とは対照的に、東屋の上座の温度は――。
――絶対零度へと急降下していた。
「……」
カリーナが握りしめるボーンチャイナの茶杯の指に、青筋が微かに浮き上がっていた。
紅茶の水面に、微細な波紋が幾重にも広がる。大公の血のように紅い瞳は、この瞬間、極北の永久凍土の底に眠る氷刃のように冷え切っていた。
意味が解らない。
先ほどヴァレリーの口から出た「地球、ナポレオン」も、ルシアが今しがた吐き捨てた「網タイツの太陽王」も……帝国の軍権を握り、あらゆる古文書を読破してきたこの北境の大公をもってして、単語の欠片ひとつとして解析することが叶わない。
普段使い慣れた帝国語でもなければ、エルフの言語でも、古竜の言葉でもない。
それは、目の前の二人の女のためだけに存在する言語。
カリーナ・グラフィエンという存在を完全に爪弾きにし、蚊帳の外へと締め出す、分厚く冷酷な精神の障壁。
ルシアを貪り食わんばかりに輝くヴァレリーの狂熱の金瞳を見つめ、そしてヴァレリーを前にして、警戒を張り巡らせながらも明らかに「ある種の深い共鳴」を宿しているルシアの横顔を見つめ……。
前世と今世を通じて味わったことのない獰猛な殺意が、窒息せんばかりの嫉妬と焦燥を孕んだ毒蔓となって、カリーナの心臓を締め上げた。
前世の余生を、彼女はルシアの心に踏み込めなかった後悔だけに費やした。
死に戻りを果たし、東翼の広壮な部屋を宛がい、天文学的な価値を持つ星輝水銀を自ら運び、その衣の端に触れることすら怯えながら、壊れ物を扱うように接してきたのだ。
だというのに、屋敷に来て半刻も経たないこの赤髪の女が、なぜ意味の解らぬ数言を交わしただけで、あの閉ざされた氷山の如きルシアの心防に、カリーナには覗き込むことすら許されぬ亀裂を抉じ開けてみせるのか。
「……なるほど」
カリーナは静かに茶杯を置いた。ソーサーと磁器がぶつかり、背筋の凍るような硬質な金属音を立てる。
女大公は顔を上げ、紫藤の棚越しに、凝固した血糊のような視線を二人の間に楔のように打ち込んだ。その唇の端には、極めて優雅でありながら、致死の毒を孕んだ冷笑が貼り付いていた。
「お二人とも、私の知らぬ密語を用いて……ずいぶんと懇ろにお話し合いのようですわね?」
傍らのルーカスは息をすることすら忘れ、背中は冷汗でぐっしょりと濡れそぼっていた――これほどまでに、今にも抜刀して皆殺しにしかねない眼差しを向ける叔母の姿を見るのは、彼の記憶の中でも初めてのことだった。
だが、その極北の猛吹雪を孕んだ警告を前にしても、ヴァレリーのレンズの奥の金瞳に浮かんだのは、ただ純粋な困惑だけであった。
彼女には、この権勢を誇る大公がなぜ唐突に激昂したのか、さっぱり理解が追いついていなかったのだ。二十年以上もの長きにわたり、異郷の荒野を孤独に彷徨ってきた孤魂にとって、同胞と行き当たった歓喜はあまりに圧倒的だった。
二十年だ。二十年もの間、魔力と階級と迷信が支配するこの世界で、昼は冷徹な学者を演じ、夜は実験室の灯火の下で郷愁の傷口を舐め続けてきた。
ようやく出会えた、「太陽王」と「ナポレオン」を知る同胞なのだ。東屋の屋根を吹き飛ばして踊り狂いたいほどの喜びに比べれば、貴族の礼儀など知ったことではない。
しかし、カリーナの射竦めるような紅い瞳に宿る剥き出しの暴虐と警戒は、あまりに重く、異質だった。
それは権力者が無礼を咎める威圧などではない。己の縄張りに踏み込まれ、獲物を奪われまいと牙を剥く、飢えた兇獣の放つ殺気そのもの。
奇妙な、そして悪趣味とすら言える閃きが、ヴァレリーの胸中に唐突に湧き上がった。
逡巡はなかった。ヴァレリーのしなやかな肢体が電光石火で動いた。彼女は東屋を大股で踏み出すと、ルシアが身構える暇すら与えず、その両腕を伸ばし――華奢で、小柄で、まるで子供のように頼りないその身体を、力任せに己の胸元へと抱き寄せたのだ。
「ぐっ……!」
ルシアの肩で刻刻の歯車が短く軋みを上げ、少女の身体は凍てついた丸太のように硬直した。古い羊皮紙の苦味と高級なラベンダーインクの混ざり合う、学者特有の香気が彼女の全感覚を包み込む。
他者と距離を置くことでしか生きられないルシアの全身の皮膚が粟立ち、指先が反射的に手札の瞬身ルーンへと伸びかけた。
だが、ヴァレリーは腕の中の硬直など気にも留めず、自らの顎先をルシアの乱れた黒髪の頭頂へと無造作に預け、藤棚を越えて、爛々とした視線をカリーナへと真っ向から突き返した。
果たして。
腕の中に抱きすくめられたルシアの姿を視界に捉えた瞬間、カリーナの顔に張り付いていた冷酷と威嚴、そして作り物の微笑の仮面は、不可視の槌で打ち据えられたかのように、粉々に砕け散った。
帝国の万軍を前にしても微動だにしなかった血色の瞳が、激しく揺らぎ、瞳孔が針の先ほどに収縮する。
唇は微かに震え、血の気を失って蒼白となり、掌に食い込む爪からは血が滲み出そうだった。己の心臓の肉を素手で抉り取られたかのような、崩壊寸前の、惨憺たる苦悶と絶望。
ヴァレリーの眼鏡の奥の瞳が、驚愕に見開かれた。
……まさか、これほどの反応を示すというの?
北境の生殺与奪を握る冷徹な女公爵と、一介の怯弱な平民の家庭教師。この二人の間に、これほどまでに重く、名状しがたい歪んだ執着が横たわっているとでもいうのか。
だが、驚愕はすれど、ルシアを抱きしめるヴァレリーの腕は微塵も緩まなかった。それどころか、誇示するように一層強く引き寄せる。
お気の毒ですわね、公爵閣下。
貴女たちの間にどれほどドロドロとした因縁があろうと、この黒髪の小娘だけは、絶対に手放して差し上げられませんの。
なぜならヴァレリーは、何人たりとも知るはずのない究極の秘密を握っているのだから。
この世界の次元の境界を物理的に引き裂き、あの青い惑星へと帰還するための術理を。
だが、その道筋はあまりに狂気じみ、払うべき代償は苛烈を極める。彼女一人の魔導リソースと演算能力では、生涯を費やそうとも終着点には届かない。
けれど、もう一人の同胞がいれば? あの瞬く間に「ハイヒールと網タイツ」を返してみせた、この黒髪の相棒が力を貸してくれるのなら……二十年間閉ざされ続けていた帰郷の扉は、現実のものとして押し開くことができるのだから!




