自意識過剰は身を滅ぼす
東翼に聳えるフレンチ・アーチの掃き出し窓から朝の陽光が降り注ぎ、連綿と垂れ込めていた凍てつく陰鬱を跡形もなく押し流して、広大な客室の隅々にまで溶かした蜂蜜を思わせる淡い黄金の輝きを広げていた。
大気の中にはかすかな塵の光斑が揺らめき、暖炉の奥で燃え尽きた銘木・パインウッドの名残である乾いた冷たい芳香と、花瓶に生けられた摘みたての白薔薇が放つ清らかな甘い香りとが溶け合っている。
部屋の中央には、大人四人が悠々と横たわれるほどの四柱式宮廷ベッドが鎮座していた。深みのある黒胡桃の無垢材から削り出されたフレームの柱頂には、純潔と高貴の象徴たる茨の蔓草文様が緻密に彫り込まれている。
天蓋からは幾重にも重なる象牙色の絹オーガンジーと、深い小豆色をした特級ベルベットのカーテンが垂れ下がり、朝陽を受けた金の縫い取りが控えめでありながらも豪奢な煌めきを放っていた。
ベッドの上には雲のようにふわりと盛り上がった初刈り羊毛のベルベット敷布が敷き詰められ、皺ひとつなく滑らかに整えられている。
ベッドの正面に位置する西側の壁面には、純白のカララ大理石を贅沢に積み上げた豪奢な浮き彫り暖炉が、絶え間なく一定の微温を放っていた。
炉床の内側では、微量の魔導石によって励起された温かな気流が音もなく流れ、早朝の肌寒さをガラス窓の向こうへと完全に遮断している。
暖炉の上部には、アカンサスの葉を象った精緻な金箔彫刻が施された巨大な水銀鏡が掲げられ、部屋全体の開放的で典雅な情景を澄み渡る面影で映し出していた。
窓辺には極北の工匠が数年の歳月を費やして手織りしたという幾何学文様の肉厚なウール絨毯が敷かれ、その上を踏みしめても足音ひとつ立たず、大理石タイルの冷たさと硬さをすべて柔らかく受け止めている。
絨毯の一角には小ぶりな弧を描くシェーズロングと胡桃材のティーテーブルが配され、卓上には透き通るような金彩のボーンチャイナの茶器一式が早くも整えられていた。
その滑らかな釉薬の表面には、グラフィエン家の証である微細な銀鷹のレリーフまでもが刻まれている。
幾何学模様を象った漆喰天井の中央からは、数百粒ものドロップカット・クリスタルを連ねたシャンデリアが吊り下げられ、屈折した朝の光が鏡のように平滑なクリーム色の壁面へと、硝子細工めいた極彩色の光影を揺らめかせていた。
静謐で、優雅で、細部に至るまで磨き抜かれたその一室は、黄金と絹、そして古き名門の矜持によって丁寧に編み上げられた優しい迷宮のようであり、息を呑むほどに美しく、それでいて高位貴族ならではの息の詰まるような豪奢の重圧を放っていた。
従者に案内されて東翼の長廊下を抜け、精緻な銀鷹が彫り込まれた観音開きのホワイトオークの重扉を開け放たれた瞬間、ルシアが真っ先に抱いた感情は「案内する部屋を間違えているのではないか」という疑念であった。
だが、カリーナ自らが二名の近侍を従えて部屋へと歩み寄り、首をわずかに傾げながら「住み心地に不都合はないか、不足があれば何なりと申し付けるといい」と、ほとんど探るような柔らかな声色で問いかけてきたその時、ルシアの背筋には芯まで凍りつくような戦慄が走った。
――王族の寝所かと見紛うほどに広大で、息が詰まるほど豪奢なこの部屋が、名目上は底辺の家庭教師に過ぎない自分のためにあてがわれたなどと、一体誰が信じられるというのか。
カリーナを見送った後、重々しい扉が再び固く閉ざされた。
ルシアはベルベットの天蓋が揺れる四柱ベッドに触れようともせず、卓上の豪奢なボーンチャイナの茶器に視線すら向けなかった。素性の知れぬ異様な環境において、過度の安寧を貪ることは神経を麻痺させる毒でしかない。今の彼女にとっての焦眉の急は、ただひとつ――この『錬金手札』を完璧なまでに仕上げることだけであった。
朝の光が絨毯の端を穏やかな金色に染め上げる中、ルシアは幾何学文様のウール絨毯の隅に両膝を抱えてへたり込み、その膝の上に分厚い手札を平らに広げた。
早朝の死線から逃れ出たあの恐慌の中では、前世において天梯の上位常連プレイヤーであり配信者であった頃の直感に頼り、もっとも手になじんだ勝率の高いデッキ構築の思考を、大雑把な錬金ルーンへと変換して紙面に刻みつけるのが精一杯だった。
だが、それは骨組みに過ぎない。この「超小型の兵器庫」をこの異世界で真の殺傷兵器として機能させるには、天文学的な数式展開を重ね、極めて希少な魔導溶剤を惜しみなく消費しながら、すべての術式の配合比率と魔力循環回路をこの黄ばんだ羊皮紙へと精緻に封印しなければならなかった。
「……クゥ」
ごくかすかなゼンマイの噛み合いと排気弁の音が響いた。宙を旋回していた機械梟が、薄羽のように繊細な真鍮の翼を畳み、ルシアの縮こまった膝頭の上へと軽やかに、狂いなく舞い降りる。
ルシアは指先を曲げ、己ですら無意識の温もりを宿しながら、こくこくの丸みを帯びた頭部をそっと撫でた。指腹越しに伝わる機械ならではの冷たく滑らかな感触と、規則正しく響く微弱な歯車の秒針音こそが、この冷酷で豪奢な迷宮において、彼女の魂を唯一繋ぎ止めてくれる錨であった。
階級の悪意と未知の理に満ちたこの世界において、己の手で組み上げたこの機械生命と、手札に構築された理だけが、決して彼女を裏切ることのない絶対の力なのだ。
ルシアは極細に削り出した真鍮のペンを取り、指先を滑らせると、特製の羊皮紙の上へ極小の複雑極まるルーンがインクとなって瞬く間に滲み広がっていった。
まず書き連ねたのは、絶体絶命の危機を覆すための『詭計術式』である。
紙面上における水銀溶剤の揮発半減期を精密に逆算し、三つの防御反撃型トラップ回路を極限の精度へと仕上げていく。敵が特定座標の魔力閾値を踏み越えた瞬間、重力崩壊または粘着ネットを強制発動させ、対象を泥沼へと引きずり込む手筈だ。
続いて、彼女は『魔法術式』の系統を整理し始めた。
限られた魔力リソースを節約するという至上命題の下、己の体内魔力を引き出すことなく、紙面に封入された術式回路の解放のみで発動する「速攻術式」を構築する。
そして手札の最奥には、極めて難解な再構成式を用いて、多大な代償を伴う「昇階術式」を書き記した――瞬時に膨大な精神力を燃料として注ぎ込むことを条件に、こくこくのコア上限を強制的にオーバーライドし、短時間だけ重装金属装甲と高周波切断羽を展開させ、正面突破をも可能とする完全戦闘形態へと羽化させる切り札である。
しかし、羊皮紙を走るペン先がサラサラと乾いた摩擦音を立てる間も、ルシアの深緑の瞳には、強大な力を手に入れつつある安堵の色など微塵も浮かんでいなかった。
――あまりにも異常だ。
この公爵邸の歯車は、すでに致命的なバタフライ・エフェクトを引き起こしている。
今朝自分が提出した辞表一枚がすべての引き金だなどと片付けるには、あまりに無理がありすぎる。ルーカスとは何者か?
前世において傲岸不遜を極め、自分に視線を向けることすら穢らわしいと吐き捨てていたあの天才剣士が、辞職したいと言われた程度で脂汗を流して駆けつけ、不恰好な気遣いを寄越すなどあり得るはずがない。
そしてカリーナは……。極北の国境において幾万の屍の山を踏み越えて帥座へと上り詰めた、あの鉄血の女公爵が、底辺の平民の契約違反を前にして、あそこまで媚び諂うような病的な温情を示す理由がどこにあるというのか。
この古城の主たちは、決して慈善家などではない。
常軌を逸した事象の裏には、必ず死に至る陥穽が潜んでいる。
ルシアのペンの先が微かに止まり、氷のように冷徹な政治的推論が、盤面を読み切る彼女の頭脳の中で冷酷に組み上がっていった――。
有り得るとすれば……公爵邸が昨夜、前世のあの時間軸には存在しなかった重大な異変に見舞われたということだ。
例えば、凄腕の刺客が公爵邸へと潜入した、とか。
暗殺そのものは未遂に終わったとしても、撤退の間際にグラフィエン家の命脈に関わる極秘の秘宝を掠め取られたか、あるいは致命的な呪詛の刻印でも残されたのではないか。
そうした非常警戒態勢下において、もっとも合理的な対処法はひとつしかない。即座に屋敷を完全封鎖し、身内の不審者を徹底的に洗い出して査問にかけることだ。
そして自分は、こともあろうに雇い入れられた翌朝という、邸内がもっとも神経を尖らせている敏感な瞬間に、何の前触れもなく辞表を叩きつけ、屋敷の外へと逃げ出そうとした。
「……ふっ」
ルシアの口元に、自嘲の冷笑が浮かんだ。
前世の自分はどこまでも卑小で従順であり、使用人の群れに紛れる透明人間であったがゆえに、容疑者のリストにすら乗らなかった。
だが今世における己の軽率な行動は、軍権を握るあの叔母と甥の瞳には、「私は重大な秘密を知る内通者です」「今すぐ逃走を図ろうとしています」と顔に大書して歩いているように映ったに違いない。
辞表が受理されなかったのは引き留めるためではなく、重要容疑者を視界から逃さないため。
ルーカスのあの動揺した眼差しは良心の呵責などではなく、彼女の身内に盗品が隠されていないか、あるいは昨夜の負傷の痕跡がないかを鋭く検分していたのだ。
そして、この日当たりが良く、遮蔽物もなく四方に開かれた東翼の貴賓客室――これこそは、栄誉ある歓待の客間などではなく、死角なく四六時中潜行暗殺兵の監視下に置かれた『金塗りの査問牢』に他ならない。
そこまで思考が行き着いた瞬間、ルシアの胸を締め付けていた緊張は、奇妙なほど冷徹な静寂へと落ち着きを取り戻していた。
「……なるほど、私を潜在的な間諜だと睨んでいるわけね」
彼女は小さく呟き、こくこくの冷たい真鍮の羽を指先でトン、トンと二度軽く叩いた。
向こうが自分を疑っている以上、真実を暴き切るまでは下手な拷問にもかけられず、表向きはこうして破格の厚遇を維持し続けざるを得ないはずだ。それは彼女にとって、何よりも完璧な隠れ蓑となる。
公爵邸が疑惑を晴らすか、あるいは真の刺客が再び尻尾を出すまでの間、この査問室に用意されたありとあらゆる最高級の物資を貪り尽くし、たとえカリーナ本人が牙を剥いてこようとも無理やりに血路を切り開けるだけの絶対の切り札へと、この手札を仕立て上げればいい。
ルシアは伏し目がちに再びペンを走らせ、最後の一枚となる水銀トラップのルーンを、冷酷に羊皮紙の深奥へと焼き付けた。
ふと振り返る前世の二度の人生は、あまりに拙劣な三流の風刺喜劇そのものであった。
第一世の自分は、平凡を絵に描いたような存在だった。大学を出て零細企業に滑り込み、底辺の残業時間を毎日ひたすらに消費しては、露命を繋ぐだけの雀の涙の給金を握らされていた。
深夜、ボロボロの肉体を引き摺って狭隘なアパートへ戻り、重い瞼をこじ開けてマイナーな後攻デッキのランク戦配信を垂れ流していたのも、哀れなほどの再生数を稼ぎ、毎月の催促状をしのぐ小銭を手に入れるためだけに過ぎなかった。
凡庸、屈辱、唯々諾々――どこをどう切り取っても、徹底的な負け犬の路傍の草。
そして第二世。突如として降って湧いた異世界転生が、あろうことか彼女に身の程知らずの妄想を抱かせてしまった。
自分もまたライトノベルの主人公のように選ばれた存在であり、新たな肉体を得て規格外の力に覚醒し、雲の上の麗しき貴人たちと甘く蕩けるような救済のロマンスを紡げるのだと、本気で信じ込んでいたのだ。
だが、現実はどうであったか。
すがるように尾を振る哀れな野良犬の如く、カリーナの背中を丸三年にわたって追い縋り、己の血肉のすべてを捧げ尽くしながら、相手からはただの一瞥の温もりすら恵まれなかった。
初歩の錬金術の端切れ以外には何の取り柄もなく、最後には何の警戒もしていなかった夜の庭で、天から降り注いだ爆炎の火球に雑巾のように焼き殺されたのだ。
あの火球は彼女の肉を容易く引き裂き、高熱が内臓を沸騰させ炭化させていく地獄の激痛はあまりに長く、長く続き、魂までが引き攣るほどのたうち回りながら、無様に、醜悪に、尊厳の欠片もなく息絶えた。
その惨憺たる記憶の果てに、ひとつの言葉がルシアの脳裏で冷徹に弾け飛んだ。
――『自意識過剰』。
それこそが、過去二度の生におけるすべての悲劇の元凶であったのだ。
彼女はいつだって己を特別な存在だと勘違いし、誰かの物語の主人公であるかのように思い上がり、他人の心の中に自分の居場所があると自作自演の夢を見ていた。
だが現実の権力者たちにとって、底辺の泥濘に這いつくばる小娘の自己満足など鬱陶しいじゃれつきに過ぎず、身の程を弁えぬ羽虫の無礼でしかなかったのだ。
二つの命を支払い、皮膚を裂かれ肉を焼かれたあの深淵の苦痛の中で、彼女はようやくこの冷酷な真理を買い取ったのだ。
他人の目に映るルシアという人間の価値など、腹を膨らませる道端の焼き芋ひとつにすら劣るのだ、と。
二度も死ななければその程度の理すら理解できなかった己の無能と鈍さに、ルシアの唇は苦く、それでいて完全に吹っ切れた冷笑を刻んだ。
だが、それでいい。授業料はすでに完納した。この三度目の盤面において、彼女は二度と誰かのために生きるつもりなど毛頭ない。
他人の目から見て自分が一文の価値もない存在であるならば、結構なことだ――無価値であるからこそ、自分自身だけは全身全霊で自分を慈しみ、守り抜かなければならない。
これより先、他人の機嫌や腹の内を探るような真似は金輪際やめにする。誰かに認められたいと願う乞食のような承認欲求も、すべてゴミ箱に捨てる。
信じるべきは、冷徹に事象を計算し尽くす己の明晰な頭脳と、今まさに膝の上で規則正しい歯車の秒針音を刻んでいる、こくこくだけだ。
もう二度と、誰の言葉も信じない。他人が投げてよこす「善意」を、好意などという甘美な毒へと美化して受け取るような愚行も二度と犯さない。
大人の世界において、すべての優しさには明朗な値札が貼られ、等価交換が義務付けられている。一見して甘やかな施しに見えるものなど、法外な利息が書き込まれた借用書に過ぎないのだ。
いつの日か、相手が上位者の傲慢を剥き出しにして対価を求めてきた時、この痩せ細った肉体と雀の涙ほどの魔力では、元金はおろか利息すら返済できずに破滅する。
その冷厳な事実こそが、カリーナから差し出されたこの異常に重い「恩寵」を前にして、ルシアの全神経を警戒で張り詰めさせていた。
カリーナの見せている譲歩と手厚い配慮が、無償の優しさに端を発しているはずなど絶対にない。それは権力者が損得を冷徹に天秤にかけた結果導き出した、何らかの政治的布石に過ぎないのだ。
ゆえに、ルシアが今なすべきことは、寸分の隙もない『免責事項』を自らの手で整え上げることだ。
この豪奢なスイートルームを賃貸契約の部屋として冷徹に清算し、公爵邸のリソースを利用して手札を武装すると同時に、与えられた施しと同等、あるいはそれ以上の高階位錬金生成物を夜を徹して調合し尽くす。
将来カリーナが冷笑を浮かべ、「公爵邸でこれほどの歓待を受けながら、貴様は何を差し出すつもりだ」と詰問してきたその時、木箱に詰めた成果物の山を机上に叩きつけ、「貸し借りは疾うに精算済みです」と無表情に言い放つために。
あの吐き気を催すような腹の探り合いも、屠殺を待つ子羊のように怯える日々も、もううんざりなのだ。
科学が栄えた地球であろうと、魔力が血筋を規定するこの異世界であろうと、文明と礼儀という名の糖衣を剥ぎ取ってしまえば、剥き出しの人間の本質は等しく氷のように冷酷なのだから。
ゲームのルールがそこまで無慈悲であるならば――今度こそ、あらゆる生路を冷徹に計算し尽くす冷酷無比なカードプレイヤーとして盤上に君臨してやるまでだ。
ルシアは両手を伸ばし、膝の上のこくこくを壊れ物を扱うようにそっと抱き上げると、薄く華奢な己の左肩の上へと乗せた。
「行きましょう、こくこく。少し外の空気を吸いに行くわ」
重く湿った空気の満ちる部屋の扉を押し開き、人気のない冷え切った回廊へと足を踏み出す。冷酷な怪物になりきれと幾千度も己の脳髄に言い聞かせているというのに、胸の奥底に巣食う鬱屈とした苛立ちは、湿り気を帯びた蜘蛛の巣のように彼女の神経を執拗に締め上げ続けていた。
所詮、人間の本質など、二度死んだ程度で綺麗さっぱり消し去れるものではないのだ。
ルシアは己の内にある救いようのないお人好しさを嫌というほど自覚していた。彼女の根底にある魂は、生まれつき純粋な悪に染まることなどできはしない。
たとえ断崖絶壁に追い詰められようとも、放火や殺しの外道に手を染めることなどできず、金貨欲しさに他人の赤子を拐かして売り飛ばすような卑劣な所業など天地が引っくり返っても真似できない。
幼少期に形作られた道徳という名の足枷は、二度の生を経てもなお、骨の髄にまで分厚く刻み込まれた呪縛として彼女を縛り続けていた。
その直しようのない己の甘さを熟知しているからこそ、ルシアはこれほどまでに惨めで、苛立たしいのだ。
恐ろしいのだ。未来のいつか、どこかの曲がり角で、純白の善意を装った誰かが自分へと手を差し伸べてきたその時、傷だらけになって固めたはずの心の殻が脆くも崩れ去り、またしても愚かな道化のように信じてしまうのではないかと。
そして何よりも致命的なことに、彼女の引き裂かれた前世の記憶の奥底には、その防壁をやすやすと瓦解させかねない、ひとつの確固たる面影が存在していた。
公爵邸の母方に連なる遠縁の血筋。
いまや俗世の政争を嫌って離れに隠棲し、放任主義を貫いている大公夫人の実家――名門侯爵家に、彼女と年の頃の近いひとりの令嬢がいた。
ルシアの断片的な記憶の中に残るその少女は、あまりに清らかで美しく、その気質は春の雪解け水を思わせるほどに温厚で、誰に対しても非の打ちどころがないほどに細やかな慈しみを湛えていた。
誰であれ、その傍らに立てば警戒の鎧を解き、その無垢な尊さに心を奪われずにはいられないような、純粋なる光。
ただ悔やまれるのは、前世のルシアは泥水に塗れた負け犬のようにカリーナの幻影を追い回すことだけに己の全霊をすり減らしており、泥沼の中で喘ぎ続ける彼女には、そんな遥かなる光へと手を伸ばす余力など欠片も残されていなかったことだ。
だが、もしも――あの令嬢が、今世において再び己の前に姿を現したとしたら?
その光景を脳裏に描くだけで、ルシアの背筋には冷たい汗が伝い落ちた。
あのような澄み渡った優しい紫の双眸に見つめられたなら、自分のこのひび割れた心臓は、またしても取り返しのつかない『自意識過剰』の病理を発症してしまうのではないか。「もしかしたら、あの方にとって私は特別な存在なのかもしれない」などという、虫の良すぎる妄想を抱いてしまうのではないか。
「……ああっ、もう! うんざりだわ!」
ルシアは足を止め、自棄になったように両手で額の黒髪を乱暴に掻きむしった。爪の先が頭皮に微かな鈍痛を刻みつける。
考えるな。そんな反吐の出るような自惚れは、今すぐ脳髄の根元から捻り潰してしまえ。
他人の冷たい眼差しや失望の溜息を背負うのは、もう二度と御免なのだ。残された命の残高など、もう一粒たりとも残されてはいないというのに。
所詮……自分ごときが何様だというのだ?
二度の運命の激流に無力に翻弄され、二つの肉体を浪費しながらも、人並みの生き方すら掴み取れなかった、ただの救いようのない負け犬に過ぎないではないか。
肩の上にとまったこくこくは、主の激しく波立つ感情の起伏を敏感に察知したのか、冷たい真鍮の嘴で彼女の耳たぶを優しく、小さく突いた。
人気のない静まり返った回廊に、規則正しく響く無機質な歯車の秒針音。
それは彼女が失いかけた理性を手繰り寄せるための唯一の微かなリズムとなり、静かに、寄り添うようにして、庭園へと向かう少女の足取りを導いていた。




