辞職失敗どころか、なぜか最上級の貴賓扱いになっていた件
回廊を吹き抜ける一陣の微風が、通路の尽頭に垂れるベルベットの帳を静かに揺らし、運命の泥沼から必死に這い出そうともがく者たちを無慈悲に嘲笑っているかのようであった。
暖らかな朝の光が、ルシアの蒼白く小柄な頬を静かに撫で、その額にかかる濡れ羽色の黒髪をわずかに乱している。
ルシアは冷え切った大理石の円柱に背を預けたまま、ゼンマイも生気もことごとく抜き取られたかのように、ザラついた石壁を滑り落ちて床へとへたり込んでいた。
両膝を抱え込み、洗い晒して白ずんだ粗末な麻のスカートが冷硬な床板の上に無造作に広がるその様は、まるで名もなき人形師に打ち捨てられた壊れかけの操り人形そのものであった。
――これのどこが社畜の転職活動だというのか。
この世界の特権階級が法典という名の鉄鎖で民を縛る封建制度の下において、これは紛れもない、剥き出しの奴隷制そのものではないか。
前世の己は、あまりに救い難いほど愚かであった。わずかな日銭と暖を貪るために、わけも分からぬまま雇用契約書へ拇印を捺してしまったのだ。
もしも死に戻りの刻限を、あと三日、いや、せめて一日だけでも前へと巻き戻せていたならば……この屋敷の敷居を跨ぐ前に足を止めてさえいれば、今頃は完全な自由民の身分を懐に抱き、帝都での学び舎を目指す青石の街道を堂々と闊歩できていたはずなのだ。
傍らに控える女性秘書は、壁際に小さく丸まる薄幸な少女を見下ろし、唇をわずかに引き結びながら、その瞳に忍び難い憐憫の色を浮かべていた。
公爵邸の雇用体系において、三ヶ月の試用期間さえ無事に満了すれば、家庭教師に宛がわれる給金は市井の並の職人が手にする数倍に跳ね上がる。
秘書の目に映るルシアは、貧民の出でありながら身に余る天恵を賜ったにもかかわらず、天が落ちてきたかのように絶望して逃げ出そうとしている、常軌を逸した小娘に過ぎなかった。
だが秘書は露ほども知らない。前世のルシアがこの邸宅において、丸三年にわたり最底辺の、それも中間搾取によって削り取られた雀の涙ほどの小銭を握らされ続けていたことを。
ルーカスの露骨なサボタージュと毒舌のせいで、屋敷の使用人や執事頭に至るまでがルシアを「穀潰しの寄生虫」と蔑み、向けられる冷眼、陰湿な嫌がらせ、果ては厨房から押し付けられるカビの生えた冷飯こそが、彼女の三年間を埋め尽くした日常のすべてであったのだ。
目に見えぬ高壁が、再び彼女を包囲するように塞がっていく。
またしてもこの冷酷な鳥籠に縫い止められ、尊厳を粉々に踏みにじられる屈辱の三年を繰り返し、いつの日か、どこの誰が放ったかも知れぬ流れ弾の火球によって、無念のまま死に絶える運命を辿らねばならないというのか。
極めて危険で、それでいて荒唐無稽な発想が、麻痺しかけたルシアの脳裏で黒々と鎌首をもたげた。
――もしも……もしも今、もう一度死んだなら?
この場で命の札を裏返して自害してしまえば、ゲームのリセットのように、あの雇用契約を結ぶ前の時間軸へとセーブデータを巻き戻せるのではないか?
洗濯場にある麻縄で首を括るのが手っ取り早いか。それとも錬金術の調合室へ忍び込み、未精製の高濃度水銀を煽るほうが苦しまずに済むだろうか。
「ルシア……先生……?」
切迫し、極度の動揺を孕んだ低く嗄れた声が、ルシアの頭の中で加速していた自殺のシミュレーションを唐突に粉砕した。
重厚な軍靴が石畳を乱暴に叩く足音が響く。
駆け寄ってきたのは、朝の鍛錬で身につけていた軽装の剣士用レザーアーマーも脱がぬまま、額にびっしりと焦燥の汗を滲ませた青年――ルーカスであった。
だが、彼女の記憶の中にある、顎をしゃくり上げて見下すような傲慢を極めた若君の面影はどこにもなかった。
今のルーカスは、壁際にうずくまり死人のように色を失っているルシアを見下ろした途端、その端正で驕慢な顔面を、取り返しのつかない惨事に見舞われたかのような恐怖に歪ませていた。
ルシアが早朝から公爵執務室へ直談判に赴き、辞表を叩きつけたという凶報を耳にした瞬間、ルーカスは訓練場で心臓が止まるほどの衝撃を受け、握っていた鋼鉄のブロードソードを泥土の上に投げ捨てると、背後の教官の制止も聞かず、本館目指して狂ったように疾走してきたのだ。
だが、回廊を曲がった彼が目撃したのは、憤然と抗議の声を上げる誇り高き平民の姿などではなく、冷たい床の上に縮こまり、今にもガラス細工のように砕け散って消えてしまいそうな、完全なる死相を宿したルシアの姿であった。
ルーカスはぎこちなく片膝を突き、その高身で屈強な体躯で少女の頭上に覆いかぶさるような影を落とした。
彼の喉仏が引き攣るように激しく上下する。どうにか彼女を抱き起こそうと両腕を宙に彷徨わせるものの、指先が触れた瞬間に粉々に割れてしまう極薄の白磁を前にしたかのように、息を殺してただ狼狽えることしかできなかった。
何と声をかけるべきなのか。乱れ飛ぶ自責の念が喉を塞いで言葉にならない。そしてその極限の混乱の中で、ルーカスの視線はまるで呪縛に囚われたかのように、吸い寄せられるようにしてルシアの胸のど真ん中へと縫い止められた。
深紅の火の粉を宿した双眸が、息の詰まるような沈黙の中で、傷ひとつなく平坦な粗末な麻布の感触を、ただひたすらに凝視し続けていた。
前世という名の生き地獄が、ルーカスの網膜の裏で無慈悲に現実と重なり合う――。
あれは、グラフィエン公爵邸を標的とした致命的な奇襲暗殺であった。
激昂したカリーナが反撃のために解き放った超高圧縮の至高爆炎弾は、手練れの刺客が展開した身代わりの魔道具によって軌道を逸らされた。
そして極限まで圧縮されたあの灼熱の閃光は、寸分の狂いもなく裏庭の薬草園へと着弾し、地面にしゃがみ込んで水銀草の選別を行っていたルシアの細い胸を、容赦なく貫通したのだ。
カリーナとルーカスが返り血に塗れながら刺客を屠り、裏庭へと駆けつけた時に目にしたのは――胸元に黒焦げの巨大な風穴を開けられ、露わになった白骨の肋骨が夜風に吹かれてヒューヒューと虚しい音を立てる、変わり果てた少女の冷骸であった。
だが、本当の奈落はそこから始まったのだ。
「冷酷なる女公爵、平民の命を路傍の草と見なし、無辜の家庭教師を惨殺」
そのスキャンダルは、まるで悪性のペストの如き猛烈な速度で帝都の全新聞へと撒き散らされた。暗がりで息を潜めていた敵対貴族勢力による、綿密に仕組まれた言論の絞首刑であった。
かつて屋敷でルシアの食事を掠め取っていた下女たちも、給金をピンハネしていた執事たちも、査問委員会の法廷において己の身を保身するために、争うようにして過去の悪行をぶちまけた。
――あの火球に焼き尽くされた痩せっぽちの小娘が、最底辺の給金で乾いたパンの耳を齧る極貧の生活を強いられながらも、極寒の深夜、凍傷で赤く腫れ上がった指先で小さなオルゴールや錬金の懐炉を丹念に削り出し、カリーナの執務机の上へと健気に捧げ続けていたという真実を、帝都のすべての民衆が知ることとなったのだ。
民衆の怒りに火がついた。「平民の命もまた命なり」という怒号の波が王都を呑み込み、グラフィエン家が数百年にわたり積み上げてきた武門の栄光は泥溝へと蹴落とされ、カリーナは北境統帥の軍権を永久に剥奪された。
生き地獄のような日々の果て、カリーナは漆黒の闇の中で夜な夜な慟哭し、ルシアが遺したあの不格好なオルゴールを幾度も巻き直し、調子の狂った歯車の音色に縋り付いて辛うじて意識を保つ抜け殻と化した。
そして、すべての罪業と世論の呪詛を一身に背負わされたルーカスは、やがて赴いた辺境の泥沼の消耗戦において、長期にわたる精神錯乱から致命的な隙を晒し、飛び交う矢雨と硝煙の只中で、敵将の刃にその首級を跳ね飛ばされたのだ。
後悔の深淵で無念の死を遂げた叔母と甥の二人は、目覚めたその瞬間、運命が奇跡的にもルシアが公爵邸へと足を踏み入れた第一日目へと巻き戻されていることを知った。
カリーナとルーカスは昨夜、血を吐くような思いで鉄の掟を交わしていた。
前世において暗殺を唆し、公爵家を破滅の底へと突き落とした黒幕の首を完全に刈り取るその日まで、この気が狂いそうな死に戻りの真実を、ルシアにだけは絶対に気取られてはならない、と。
そして、あの三年間を虐げられ抜いたこの小さな少女を――公爵家は、最上級の貴賓としてその掌の上で慈しみ育てるのだ。前世で彼女に背負わせた血の負債と温もりは、この屋敷の財すべてを傾けてでも、幾千倍にして償わねばならない。
それなのに……彼女は、辞職を願いくらいに追い詰められていたというのか?
あまつさえ、今まさにこの場所で、自ら命を絶つことを望むような光のない瞳をして座り込んでいるというのか?
ルーカスの心臓は早鐘を打ち、視界が恐怖に染まる。少女の胸元を凝視する彼の網膜には、肉が焦げ爛れたあの凄惨な残像が焼き付いて離れなかった。
だが――。
床に腰を下ろしていたルシアは眉根を険しく寄せると、細く平坦な己の胸の前で両腕を力任せに交差させた。
彼女は顔を上げ、その深緑の瞳には先ほどまでの絶望の死相など欠片もなく、路傍で辻斬り紛いの痴漢行為を働く変態の放蕩貴族を見据えるような、底知れぬ嫌悪と蔑みの光が宿っていた。
ルーカスはハッと我に返り、その顔面を一瞬にして耳の付け根まで真っ赤に染め上げると、情けなく後方へとよろめいて飛び退いた。
「せ、先生……! 違う、決してそのような破廉恥な意図で貴女の……いや、断じて違う! 今のはただ……!」
天下に名だたる公爵家の若き剣術の麒麟児であり、グラフィエン家の正統なる後継者たる青年が、金属の手甲を擦り合わせながら狼狽え、まともな一文の言葉すら紡げずに冷や汗を流している。
ルシアはその支離滅裂で滑稽な釈明を凍てつくような眼差しで見下ろしていたが、胸の内の警戒は緩むどころか、ますます分厚い氷壁となって凝固していった。
所詮、この男が何の脈絡もなく自分へ愛想を振りまいてくるなど、裏にろくでもない悪巧みを孕んでいる証拠に他ならない。
前世において丸三年にわたり搾取と虐待を受け続けた生々しい教訓は、今なお昨日のことのように鮮明なのだ。現在のルシアにとって、この公爵邸の人間が口にする言葉など、句読点のひとつたりとも信じるに値しなかった。
まるで毛を逆立てた野良猫のように、全身から狂おしいまでの警戒と拒絶のオーラを放つ少女を前にして、ルーカスは背筋を氷水が伝い落ちるような悪寒を覚えていた。
焦慮の極限に追い詰められた彼は、引き攣る笑みを貼り付け、混乱しきった脳髄の引き出しを乱暴に引っ掻き回しながら、どうにか彼女をここに引き留めるための口実を絞り出した。
「き、聞いたことがあるんだ……錬金術を極めし者は、あらゆる物質の理を転換せしめる『賢者の石』すら創り出せると」
ルーカスは深く息を吸い込み、強引にその端正で精悍な顔立ちを引き締めると、至極真面目で学究肌な教え子の仮面を被ってみせた。
「ルシア先生……貴女は、あれを精製できるのか? どうしても賢者の石の触媒を必要とする、我が家の秘宝があるんだ」
彼はこの最後の蜘蛛の糸に縋り付くしかなかった。ルシアが一日でも「家庭教師」の肩書を背負い、公爵家の俸禄を受け取っている限り、弟子である自分が学術的な質問を投げかければ、契約上、彼女は無下に背を向けて立ち去るわけにはいかないのだから。
しかし、ルシアはわずかに眼を細め、彼に向けた視線をこの上なく奇妙なものへと変貌させた。
――賢者の石?
この世界において、市井の吟遊詩人たちが神話のように囃し立てるその触媒は確かに実在する。だがその実態は、高純度に安定化させただけのありふれた魔力変換結晶に過ぎない。
初級のライセンスを通過し、フラスコの扱いに長けた正規の錬金術師であれば、十分な素材と三、五日の工程さえあれば誰でも窯から焼き上げられるような代物だ。
帝国最高峰の筆頭公爵家の嫡男であり、宮廷魔術師も天文学的なリソースも湯水のように侍らせている男が、まるで国家存亡の秘儀に挑むかのような悲壮感を顔に張り付け、底辺の家庭教師に向かってそんな「初等一般教養」レベルの基礎知識を教えを乞いに来たというのか?
ルシアは、やましさゆえに微かに紅潮しているルーカスの顔面をじっと見つめながら、この公爵邸に渦巻く複雑怪奇な血脈の暗闘へと自然と思いを馳せていた。
グラフィエン家の系図において、本来の爵位の第一継承権を保持していたのはカリーナではなく、彼女の武勲高き実兄であった。
かつて前公爵が所帯を持ち、ルーカスを儲けた一方で、血気盛んであったカリーナは極北の辺境へと身を投じ、猛吹雪の中で深淵の魔獣や隣国の騎兵と血で血を洗う死闘を繰り広げ、その鉄血の剛腕をもって「帝国軍団長」の絶対武名を轟かせていたのだ。
だが数年前、何者かの手によって綿密に仕組まれた暗殺の凶刃が、ルーカスの両親の命を同時に奪い去った。
屋敷の大黒柱は突如としてへし折れ、当時はまだ幼子に過ぎなかった甥を守るため、カリーナは傷だらけの身を引き摺って国境から呼び戻され、公爵家の印環を無理やり引き継ぐことを余儀なくされた。
しかもさらに過酷なことに、カリーナは往年の辺境での死闘において内臓を激しく魔力逆流に侵されており、子を宿す生殖能力を永遠に喪失していたのだ。
言わば、ルーカスこそがグラフィエン家の血脈を継ぐ唯一無二の直系であり、将来的に北境の広大な版図と百万の精鋭軍団は、いずれこの青年の双肩へと委ねられる運命にある。
筋論から言えば、公爵邸が彼に注ぎ込む英才教育は、帝国でも最高峰の帝王学たるべきであり、名うての碩学や魔導の大家が門前に列をなしているはずなのだ。
それなのに……この男は、よりにもよって「賢者の石」ごときを、世界の夜明けを告げる幻のオーパーツか何かのように拝み倒しにやって来たというのか?
ルシアの深緑の瞳の奥に、隠しようもない色がじわりと浮かんできた。
それは――「甘やかされて育った、どうしようもなく頭の足りない金持ちの放蕩息子」を憐れみ、蔑む時にだけ向けられる、純度百パーセントの同情の眼差しであった。
知能の足りない哀れな子犬を慈しむかのようなその視線に射抜かれ、ルーカスは恥辱のあまり床の亀裂に飛び込んで消え失せたい衝動に駆られていた。
己がいかに場当たり的で間の抜けた話題を口にしてしまったかを痛感していたのだ。
だが怪我の功名か、ルシアはこれを「下手くそな口実で近寄ろうとしている」とは毛筋ほども疑わず、ただ単にこの我が儘な若君が日頃から勉強をサボり倒した結果、最低限の錬金術の一般常識すら破滅的に欠落しているのだと勝手に解釈してくれたようだった。
「……賢者の石が要るのね?」
ルシアはスカートの裾についた埃を払い、壁に手を添えてゆっくりと立ち上がった。
今の彼女は全身の骨節が軋むように痛み、心身ともに限界を超えて疲弊していた。こんな出来損ないの若君と、おままごとのような師弟ごっこに付き合っている暇など微塵もない。
「調合してあげるわ。後で部屋に戻って溶媒を寝かせておくから、用が済んだら勝手に取りにいらっしゃい」
彼女は事務的な平坦さで言い捨て、追従の愛想笑いひとつ浮かべることなく、踵を返して使用人用の薄暗い側廊下へと足早に去っていった。
カリーナの権力によって退職願を不当に握りつぶされ、盤面としては最悪極まりない初手を踏まされたことは事実だ。だが、冷たい回廊を歩むルシアの双眸は、一瞬の失意を通り越し、再び底知れぬ静寂を取り戻していた。
無理に脱走を図れば、帝国の法の下で手配書を回される逃亡犯に身を落とす。ならば、戦術のプランを切り替えるまでだ。
公爵邸というこの豪奢な鳥籠は、見方を変えれば、全帝国において最も魔導素材が潤沢に集積し、情報網が張り巡らされた最高の補給基地ではないか。
まずはこの屋敷で面従腹背を決め込み、公爵家から無制限に引き出せる最高級の物資を贪り尽くして己の錬金手札を極限まで増強するのだ。
そして機を見て、「古典高位魔導の体系的修学」を名目に掲げ、カリーナから帝国立魔法学院への正式な推薦状を毟り取ればいい。
公爵家の公印が捺された推薦状さえ手中に収めれば、彼女は逃亡者の汚名を着ることなく堂々とこの鉄門を潜り抜け、籠の鳥の運命を永遠に引き裂くことができる。
一歩退くのは、手札を満載し、次なる決定的な盤面転覆を叩きつけるためだ。
ルシアは伏し目がちに、小柄な背中を回廊の曲がり角の闇の中へと滑り込ませて消えていった。
そして彼女の背後、ルーカスはいまだ冷え切った廊下に縫い止められたまま、少女が去った空間を見つめて長大な安堵の息を吐き出していた。そのレザージャケットの裏地は、冷や汗によってぐっしょりと重く湿りきっていた。
「ルシア先生のお部屋の改装は、滞りなく相整ったのだろうな?」
豪奢な彫刻が施された円柱の陰で、ルーカスは声を低く潜ませ、視線の端で遠くの大階段を窺いながら、まるで国家機密の軍事作戦を確認するかのような硬い面持ちで問いただした。
「若君の仰せの通りに。東翼の最も日当たりの良い、貴賓用の主客間を隅々まで清掃し、設え直してございます」
傅く近侍の男僕が恭しく頭を垂れ、微塵の隙もない礼節で応じた。
今やこのグラフィエン公爵邸の全土において、水面下の激震が走り抜けていた。表向きは誰もが平静を装っているものの、裏に回れば全員が百戦錬磨の鋭い観察眼を持つ古狸である。
あの小柄で痩せこけ、色の褪せた粗末な麻布を纏った平民の娘が、単なる雇われ家庭教師などであるはずがないことくらい、誰もが肌身で察していた。
これこそは、公爵家が強硬な政治的手段を行使してでも、力づくで手元に留め置かねばならぬ「最上級の貴賓」に他ならない。
使用人たちの目に映る現在の構図は、滑稽なまでに明快であった。
後ろ盾のない哀れな平民の娘が、高額な報酬という甘言に釣られて公爵邸の門を潜らされた。だが、この館に渦巻く底知れぬ危険に勘づいた彼女は慌てて辞職を願い出たものの、女主人によって即座に握りつぶされてしまったのだ。
今や敷地の一歩外へ出ることすら叶わず、帝国が平民労働者を縛るための冷酷な法体系を盾に取られ、この豪奢な金糸の鳥籠の中へと強引に軟禁されてしまったのである。
誰もがその「軟禁」の表層を正確に読み解いていた。だが、その背後に横たわる真の動機こそが、使用人たちの間で囁かれる最も背筋の凍る密談の種となっていた。
権力闘争と政略結婚の泥沼を見慣れてきたこの古城の使用人たちには、貴族社会における最も整合性の取れた「唯一の正解」が見えていたのだ。
――あの吹けば飛ぶような平民の少女の体内には、恐らく、どこかの滅亡した大貴族の秘められた高貴なる血筋が流れているに違いない。
あるいは……ルシア本人すら、己の出生の秘密を知らされていない可能性すらある。
帝国の血腥い上流階級の社交界において、そうした秘聞は決して珍しいものではない。当代の権力者たちがかつて放蕩の果てに市井へと零れ落とさせた、数え切れぬほどの私生児たち。
純血を継ぎながらも平民の泥水に塗れて一生を終えるはずであった落胤が、本家が政敵の謀略によって一族郎党皆殺しにされたその瞬間、莫大な隠し資産と広大な版図を法的に継承し得る「最後の正統なる鍵」へと化けるのだ。
血統と真名は偽ることができない。第一神殿の光輝の聖池へと赴き、聖水に血を一滴垂らしさえすれば、神託は白黒を冷酷に分かち示す。
それゆえに、権力の匂いに敏感な野心家たちは、市井において尋常ならざる気品や異能の才覚を覗かせる平民を見出すや否や、水面下で密偵を放ち、その出自の底を徹底的に洗わせるのだ。
もしもその者が、再起を図るに足る「莫大な価値を秘めた隠し駒」であると確証を得たならば――手段を選ばず己の庇護下に囲い込み、あるいは懐柔し、あるいは婚姻によってその利権を丸呑みにする。
今や公爵邸の上下において、ひとつの見解が暗黙の了解として定着していた。
ルシアという少女は、カリーナ公爵が見初めた「天文学的な価値を持つ政治的切符」なのだ。
だからこそ公爵閣下自らが辞表を握りつぶして法を歪めてまで留め置き、あの傲慢不遜を絵に描いたような後継者であるルーカス若君までもが、日課の剣術修練すら放り出して、下僕の如く部屋の手配に血道を上げているのではないか。
あれが身分の卑しい下働きに向ける態度であるはずがない。あれは、いずれ帝国の勢力図を塗り替えかねない、数奇な運命を背負った高貴なる令嬢を迎えるための、恐怖と恭順の入り混じった無上の歓待なのだ。
「カーテンはすべて、風を遮り光を拒む最上級のベルベットへと掛け替えろ。暖炉の薪を絶やすことは断じて許さん。厨房には朝晩の二度、滋養に富む魔導温熱スープを徹底的に煮出させ、貴様が毒見を済ませてから運ばせるのだ」
ルーカスは革手甲の留め具を苛立たしげに締め直し、凄みのある低い声で厳命を下した。
「もしもどこぞの目の節穴な下女が陰口を叩いたり、ルシア先生の食事の量をひと匙でも減らすような真似をしでかしてみろ。……グラフィエン家の地下牢には、いくらでも空き部屋があることを忘れぬことだ」
「は、ははっ! 畏まりましてございます! 決して粗相のないよう、万全を期しますゆえ!」
男僕の額から滝のような冷汗が吹き出し、その背中は折れんばかりに深く平伏した。
誤解という名の分厚く滑稽な防壁が、目に見えぬところで公爵邸のあらゆる敵意を跡形もなく霧散させていた。
ルシアがかつて経験し、再び訪れると覚悟していたはずの冷たい蔑みも、嫌がらせも、食事の搾取も――それらすべてが萌芽の段階すら迎えることなく、全使用人による「高貴なる私生児」という完璧な妄想によって、恐れ戦くような至高の歓待へと鮮やかに塗り替えられていたのであった。




