辞職にすら他人の顔色が必要なの?
朝の光が天を衝く尖頭アーチ窓を透過し、冷厳なる幾何学模様の大理石タイルが敷き詰められたルネサンス様式の回廊へと、淡い黄金の薄絹のような影を落としていた。
この公爵邸は、相も変わらず人の温もりを一切拒絶した冷酷な幾何学迷宮そのものだ。だが、石畳を踏みしめるその足音は、かつてないほど澄み渡り、確かな重心を保っていた。
ルシアは、先ほど封蝋を施したばかりの辞表を指先でしっかりと挟み込み、色褪せて白ずんだ粗末な麻のワンピースにその華奢な身を包みながら、本館の深奥にある公爵執務室を目指して大股に歩を進めていた。
前世のように怯えきって俯き、貴族たちの踏みしめる豪奢な絨毯を汚すことすら恐れるような真似は、もはや二度としない。
深く底知れぬ深緑の双眸は平然と前方を射据えており、そこには、甘美な幻想を徹底的に見限った者特有の冷徹さと清々しい諦観が宿っていた。
彼女が今見据えている生存目標は、何万回もの推論の果てに導き出された最善手の如く明快であった。
――辞職し、金を精算し、あの重苦しい門を潜り抜け、この世界の最高学府である帝国立魔法学院へと身を投じる。
前世の自分は、脳味噌の入っていない出来損ないのゼンマイ仕掛け人形のように愚鈍であった。この新たな世界でどうやって人々に媚びを売り、愛想を振りまき、あの高嶺の花である美男美女たちを攻略して幸福な生活を掴むかばかりを夢想し、世界を跨げば敗北者にも安っぽいハッピーエンドが宛がわれるのだと盲信していたのだ。
だが現実は、彼女の胸のど真ん中を貫く一発の爆炎火球をもって、焦げ付き引き裂かれた内臓と骨身に染みる石畳の冷たさという形で、容赦ない真理を叩き込んできた。
――あらゆる異世界が、現実の敗北者に用意された都合のいい温室であるはずがない。
この世界の階級制度は鋼鉄の板のように固く溶接されている。自衛の力すら持たぬ弱者は、どれほど愛くるしい笑みを浮かべようと、強者の眼には路傍で踏み潰されるのを待つだけの蟻芥に過ぎない。
家畜のように屠殺される恐怖も、他人の気まぐれな施しに己の生存を委ねる屈辱も、もうたくさんだ。彼女は、いつ暗殺の巻き添えを食らうとも知れぬこの権力の暴風域から一刻も早く立ち去り、魔法学院という比較的不可侵で中立的な組織機構の傘下で、最も堅実で体系的な研鑽を積む必要があった。
そして、彼女がこの朝、胸を張って最初の一歩を踏み出すことができたのは、狂気じみた死に戻りの黎明の中で、すでに己にとって最も強固な「切り札」を構築し終えていたからに他ならない。
彼女は二世にわたる底層物理への執着を糧に、前世で最も血肉となっていたカード構築の論理を、この肉体に刻まれた錬金術の基礎へと完全に接合させ、己一人だけが扱える独自の戦闘体系を創り出していた――。
意識をわずかに傾けた瞬間、少女の身じろぎに呼応して、傍らの虚空に極めて微細な魔力の波紋が走る。
厚さにして指三本分、装丁には深褐色の鞣し革と精緻な黄銅のヒンジが用いられた【錬金手札】が、音もなく彼女の肘のすぐ横へと浮遊現出した。
手札の内側、黄ばんだ特製羊皮紙の全頁には、ミクロン単位の微細錬金回路と封印術式が余すところなく精密に描き込まれている。これこそが、彼女のデッキであった。
生まれつきマッチ棒一本にすら点火できぬほど魔力総量の貧相なルシアにとって、正規の詠唱戦を挑むなど自殺行為以外の何物でもない。
だが、この手札はその理を根底から転覆させた。言わばこれは、外部接続された超小型の「魔力事前ストック・カートリッジ」なのだ。
手札が司る第一の基幹能力は、即座に効果をもたらす【魔法術式】。
あらかじめ白紙の頁へ微量の水銀と活性触媒を用いて定着させておいた、即応展開能力である。
意念を対象に固定し、正規の詠唱に要する十分の一にも満たないわずかな魔力を「起爆鍵」として流し込むだけで、紙面に封じられた攻撃あるいは治癒の術式が半秒のラグすらなく即時励起する。
魔力の枯渇に喘ぐ底辺錬金術師でありながら、正規の魔術師を相手取った際、理不尽極まりない展開速度と継戦能力を発揮し、なおかつ再装填によって反復行使することが可能であった。
そして第二の能力こそ、冷徹な布石を要する【詭計術式】。
カードゲームにおける罠カードの伏せ込みを、この異世界に物質として具現化させた搦め手である。
この種の術式は即座に発動することは叶わず、起動の際には周囲の環境座標を補正するために比較的多くの精神力を要求される。
だがルシアは、錬金手札の中で調合した罠の媒質――高圧粘滞水銀、重力撹乱磁場、果ては微細粉塵による連鎖爆縮機構を、特定のキルゾーンへと事前に埋設しておくことができる。
獲物が一度その死角へと足を踏み入れれば、連鎖して解き放たれる破壊力は致命的なものとなる。己の強大さを過信し、盲目的に追撃してくる捕食者たちの首を刈るための、周到なる絞首台であった。
さらに、小柄で華奢な肉体が戦場において晒す決定的な隙を埋めるため、彼女は手元にあったありったけの高精度部品を注ぎ込み、最も肝要となる前線維持の防壁を呼び覚ましていた。
「――クルゥ……」
精密な金属歯車の噛み合わせと、極小エアバルブの排気音が混ざり合った低く愛らしい鳴き声が、彼女の耳元を微かに掠めた。
翼開長にして約二尺ほどの機械仕掛けの梟が、ルシアの左肩のすぐ脇を静かに滞空旋回している。
その羽毛は蝉の翅のごとく薄く研磨された真鍮片が何層にも重なり合って形成され、胸腔の奥には極小の脱進機ゼンマイと微光を放つ魔石が収まっている。
ファセットカットを施された水晶の瞳は緩やかに焦点を伸縮させ、理知と冷徹さを帯びた光芒を放っていた。
ルシアの魂の残滓と高階位の錬金術式によって編み上げられた独立自我を有し、自律思考による立体索敵と弾道要撃をこなす生きた機巧。
この冷酷無比な異世界において、誰もが裏切る可能性を孕み、この脆弱な肉体ですら一度は彼女を裏切って死に至らしめた。
だが、己の手で一つひとつの歯車を噛み合わせ、命を吹き込んだこの造物だけは、公爵邸を脱出した後の未来において、唯一背中を預けられる揺るぎなき半身なのだ。
故に、彼女はこの相棒を――【刻刻】と名付けた。
狂熱の黎明のわずかな時間で、二世にわたる極限の徹夜癖と暗算能力を総動員したルシアは、手札の草稿群の中に実に百二十種にも及ぶ錬金マニュアルを導き出していた。
これらの概念を完全に定着させ、正式に手札へと清書し終えれば、この魔導書は携帯可能な極小の弾薬庫と化す。
当然ながら、このシステムも決して無敵の万能薬ではない。これには、プレイヤーであれば骨の髄まで熟知している冷酷な制約――「手札上限」が存在した。
構造的な安定限界により、無制限に効果を引き出すことは叶わない。目まぐるしく推移するいかなる戦場においても、同時に展開・維持できる頁数は最大【五頁】に制限される。
それはすなわち、あらゆる解法を同時に握り続けることは不可能であることを意味していた。
手元に顕現させた五頁の術式は一滴の無駄もなく使い切らねばならず、五枚を撃ち尽くすかクールダウンに陥った刹那、彼女は空中の「刻刻」に敵を牽制させて戦線を維持させ、手札を再検索して戦術を組み替える時間を稼がねばならない。
前世の過酷な対戦環境よろしく、脳内で常に各ページの残存硬直時間とインクの魔力残量を正確に把握し続ける必要があった。
だが――それで十分だ。
傍らに漂う手札との微弱な共鳴を感じ取り、刻刻の真鍮翼から刻まれる規則正しい心音のようなゼンマイの律動に耳を澄ませると、ルシアは深く息を吐き出し、張り詰めていた胸の奥をようやく解き放った。
手札さえあれば、心は揺るがない。
この小柄で栄養失調の肉体の内側には、今や半世紀以上の歳月を冷徹に生き抜き、闘志を静かに滾らせた魂が宿っているのだ。
自分を三年間縛り付けたあの悪夢の筋書きをこの手で破り捨て、あの傲慢な特権階級の顔面に辞表を叩きつけ、未知と可能性に満ちた外の世界へと歩み出す――そう想像しただけで、ルシアの口元は微かに持ち上がり、抑えきれぬ歓喜の戦慄が全身を駆け巡った。
第一の人生では、安アパートの冷え切ったキーボードの前で犬死にした。
第二の人生では、公爵邸の冷遇の中で無為に三年を浪費し、血反吐を撒き散らして無惨に果てた。
ならば、この三度目の盤面――
ルシアは手を伸ばし、洗い晒しの粗末な襟元を最後に整え直すと、前方に聳え立つ精緻な家紋の刻まれた重厚なウォールナット材の観音開き扉を見据えた。
私は、徹底的に、痛快なまでに、私自身のために生き抜いてみせる。
ルシアは何の躊躇いもなく手を掲げ、その節くれだった細い指先で、公爵執務室の重い扉を硬質に三度ノックした。
「……お入りなさい」
室内の奥から響いたその声は、ルシアの記憶にある冷え切った絶対威圧よりもわずかに硬さを欠き、奇妙なほど神経質な震えを帯びていた。
ルシアは深く勘繰ることもなく、金鍍金の真鍮ノブを押し回し、静かに扉を開いて足を踏み入れた。
高く穿たれた尖頭アーチのステンドグラスから朝日が斜めに射し込み、厳粛なる広大な執務室を照らし出している。
黒曜石の重厚なデスクの後ろには、カリーナ・グラフィエンがハイバックチェアに腰掛けていた。ルシアが敷居を跨ぎ、二人の視線が虚空で激突したその瞬間――平素であれば天が崩落しようとも眉ひとつ動かさぬはずの帝国女公爵の全身が、目に見えて硬直した。
血の涙を凝縮したかのような深紅の瞳が激しく見開かれ、その美貌には一切の防備を奪われたかのような極度の驚愕、狼狽、そして言い知れぬ恐怖が露わになった。
だが、一地方の生殺与奪を握る頂点の支配者としての矜持ゆえか、カリーナは瞬きひとつの間に、眼窩の奥に渦巻いた激越な感情の津波を力づくでねじ伏せてみせた。
彼女は素早く伏し目になり、目頭に掠めた熱い酸鼻と動揺を覆い隠すと、白磁のような指先を持ち上げ、傍らに控えていた女性秘書へと低く言い渡した。
「先週、東方交易船団から買い付けさせた紅茶を淹れ直してきなさい。キャラメルとミルクを多めに。温度はぬるめに整えること」
女性秘書はその場に立ち尽くし、我が耳を疑うように目を白黒させた。だが、主の絶対的な威令に抗う術などなく、慌てて頭を垂れると、混乱を隠せぬまま紅茶の準備へと退出していった。
カリーナは立ち上がった。深紫の豪奢なベルベットドレスが、朝光を浴びて艶めかしい陰影を紡ぎ出す。彼女はデスクの脇を優雅に、だがどこか脆さを孕んだ足取りで回り込み、側面の豪奢なソファへと細い手を差し伸べた。その声色は、耳を疑うほど甘やかに柔らかかった。
「そこに立っていないで。いらっしゃい、座ってゆっくり話しましょう」
ルシアは促されるままソファの端へと腰を下ろしたが、その胸中には名状しがたい違和感が渦巻いていた。
カリーナとは……これほどまでに温和な人間であっただろうか?
彼女は前世の三年間にわたる記憶を必死に手繰り寄せた。彼女の脳裏に焼き付いているこの女主人は、常に氷山のように近寄りがたく、平民などに視線を半秒と留めぬ絶対者であったはずだ。
しかも今は、着任してまだ二日目の早朝。形式上、あのルーカスへの本格的な講義すら開始していない段階だ。
まさか、前世のように身の程知らずな手作りのカイロやオルゴールを献上していないからか? 権貴に取り入ろうとする卑しい浅ましさを見せていないからこそ、カリーナは彼女を「分を弁えた無害な使用人」と見なし、上位貴族としての形式的な寛大さを施しているに過ぎないのだろうか?
ルシアはうつむき、己の常識的な論理に従って必死に思考を巡らせていた。
だが、彼女は露ほども気づいていなかった。対面に佇むカリーナの視線が、まるで魂を縫い止める杭のように、己の青白い小さな顔面へと狂おしいほど凝固していることに。
カリーナの眼差しは、ルシアの黒髪を、細く頼りない顎の輪郭をミリ単位で這い回り、そして――耐え難い戦慄と抑えきれぬ衝動に駆られながら、少女の平坦で薄っぺらな胸のど真ん中へと注がれていた。
その粗末な麻布は、傷ひとつなく無傷であった。
細やかな呼吸に合わせて、頼りなく、だが確かに上下している。
茶利口ほどの黒焦げの空洞など、そこにはない。
超高熱によって生体組織が蒸発した、あの鼻を突く悪臭もない。
夜風を吸い込んでヒューヒューと虚しい音を立てていた、無惨に突き出た白骨の肋骨すら、どこにもないのだ。
だが、幅広の袖の中に隠されたカリーナの両手は、誰の目にも触れぬ影の中で爪が掌の肉に食い込むほど異常な力で握り締められていた。
長年の栄養失調によって成長を阻まれ、まるで未成年の幼子のように痛々しく細いその肢体を前にして、カリーナの心臓は不可視の万力で締め上げられるような引き裂く激痛に苛まれていた。
この子は、これほどまでに小さかったのか?
この粗末なワンピースの襟元は、とっくの昔から擦り切れて毛羽立っていたのか?
前世のあの三年間……自分はどれほど傲慢で盲目であったからこそ、乏しい小銭を削って歯車を買い、褒められたい一心で駆け寄ってきていたこの小鳥のような少女を、虫けらのように冷遇し続けることができたというのか。
――コトリ。
秘書が銀盆に載せたボーンチャイナのティーカップを運び込み、濃厚なミルクと甘い湯気を立ち上らせる紅茶を、ルシアの前のローテーブルへと恐る恐る置いた。
しかし次の瞬間、秘書の眼球が飛び出さんばかりの異常事態が起きた。
グラフィエン公爵その人であり、帝国の冷徹なる辺境軍団長たる彼女が、自らの権威を象徴するデスクの執務椅子へ戻るどころか、その豪奢なドレスの裾を翻し、平民の少女が座る長ソファのすぐ真隣へと腰を下ろしたのだ。二人の距離は、互いの体温と吐息を直に感じ取れるほどに近かった。
カリーナは骨の髄に染み付いた冷徹な覇気を努めて押し殺し、わずかに身を寄せるようにして、慈愛に満ちた優しい年上の姉そのものの声音を絞り出した。
「朝早くから私を訪ねてくるなんて、何か辛いことでもあったのかしら? ……まさか、ルーカスのあの子が、あなたを困らせるような無礼を働いたのではないでしょうね?」
『ルーカス』の名を口にした刹那、カリーナの深紅の瞳の最奥を、骨まで凍りつかせるような昏い殺気が一瞬だけ猛烈に過った。
秘書の手元が激しく痙攣し、銀盆が微かに鳴った。青ざめた顔で呼吸すら止めている。
だがルシアは、この過剰な優しさの裏に潜む狂気じみた異変にまるで気づいていなかった。彼女の頭の中にあるのは、一刻も早くこの不毛な雇用関係を清算し、王都の魔法学院へと向かう最速の乗合馬車に飛び乗ることだけだ。
彼女は夢にも思っていなかった。真横に座るこの冷徹なる女公爵までもが、前世の血の海で絶望の慟哭を上げた、もう一人の死に戻りであることを。
カリーナはカップを唇に運び、優雅に紅茶を一口啜った。荒れ狂う内省の動悸を、必死に鎮めようとするかのように。
その隙を逃さず、ルシアは深く息を吸い込み、擦り切れたワンピースのポケットから丁寧に折り畳まれた書状を取り出すと、両手で恭しくカリーナの前へと差し出した。
「公爵閣下」
ルシアの声は澄み渡り、極めて平穏で、一片の瑕疵もない礼節と徹底した距離感を保っていた。
「昨日、ルーカス様に拝謁いたしましたが、若君が古典高位魔法において抱かれる天賦の才は、凡百の及ぶところではないと痛感いたしました。それに比して私ごときの修めた錬金術の末学など、あまりに浅学非才に過ぎ、グラフィエン家の後継であられる若君をご指導申し上げる任には到底堪え得ぬものと自覚いたしました。このまま留まることは、若君の輝かしき前途を損なうことになりかねません」
彼女は深々と頭を下げ、確固たる決意を込めて告げた。
「つきましては、私の力不足をお汲み取りいただき、正式に辞職をお認めくださいますようお願い申し上げます」
言葉を吐き出し終えた瞬間、ルシアは胸の内で長大な安堵の溜息を漏らし、言い知れぬ快哉に微かに震えていた。
正直なところ、あの傲慢極まるルーカス坊ちゃんには心の底から感謝したいくらいであった。
時系列として、昨日の午後ルシアが別棟のサロンに入った際、あの男は彼女の小柄な体躯を一瞥して嘲笑い、「貴様のような弱小の雑種から教わることなど何もない」と吐き捨てると、居合わせた三名の使用人と執事長の前で扉を叩き壊さんばかりに蹴り開けて立ち去ったのだ。
あの瞬間、彼女はただ侮辱されただけの哀れな平民であった。だが今となっては! あの傲慢な非礼こそが、天から降ってきた免罪符であったのだ!
ルーカスが公然と指導を拒絶し、暴言を吐いた動かぬ証拠がある以上、ルシアが「自らの非才を恥じての引責辞職」という大義名分を掲げて身を引くことは、筋道としても、手続きとしても完璧に整合する。
たとえ皇族が査問に訪れようと、責は百パーセントあの思い上がった若君の側にある。公爵邸側には、彼女を契約違反で糾弾する余地も、逃亡奴隷として指名手配する口実も存在しない。
この完璧な責任転嫁の一手さえ通れば、今日この場をもって、彼女は綺麗サッパリとこの泥沼から安全に降りることができるのだ!
ルシアは深々と頭を垂れ、差し出した辞表を微動だにさせず、歓喜に緩みそうになる口元を必死に引き締めていた。
しかし、彼女には見えていなかった。
真横に座るカリーナが、『辞職』という二文字を耳にした瞬間――その瞳の奥で辛うじて保たれていた理性の仮面が、雷霆に打たれたように粉々に砕け散ったことを。
女公爵の陶器のような指先が、ボーンチャイナのカップを握り潰さんばかりの力で白く強張った。水面に激しい波紋が乱れ打ち、そして、かつて後悔と痛哭に濡れていたはずのその紅蓮の双眸は――底知れぬ静寂の中で、ドロリと濁った漆黒の執着へと塗り潰されていった。
――辞職?
――逃げる、と?
――……私から、離れるというの?
「昨日、ほんの一度あの子と言葉を交わしただけではないの」
カリーナは緩やかに身を翻し、その細い指先でルシアの手から辞表を極めて自然に受け取った。
彼女はその封を切ることもせず、デスクの端に置かれたグラフィエン家の権威たる黒金の封蝋印章に手を伸ばすことすらせず、ただ伏し目がちに視線を持ち上げると、まるで怯えた小鳥を宥めるかのように甘く囁いた。
「ルーカスは一族の者に甘やかされて育ったせいで、少々尊大で、言葉の端々が尖ってしまう悪癖があるのよ。……ねえ、もう数日だけでもここに留まって、様子を見てはくれないかしら? あの子に過ちを正す機会を、そしてこの屋敷に、あなたへの無礼を償う機会を与えてほしいの。それでもどうしても馴染めないというのなら、その時に改めて決断を下しても、決して遅くはないでしょう?」
言い終えるが早いか、カリーナは優雅に立ち上がり、深紫のベルベットドレスを揺らしながら黒曜石の執務デスクの後ろへと戻っていった。
彼女はデスクの脇、黄銅の隠し錠が嵌め込まれた重厚な引き出しを引き開けると、何らの迷いもなく――ルシアの用意したあの辞職願を、その暗がりの中へと滑り込ませた。
――カチャリ。
木組みが噛み合う澄んだ小音が、静まり返った執務室に虚しく響く。
引き出しは、閉ざされた。
ルシアの深緑の双眸が、その瞬間に激しく見開かれ、脇へと垂らされた指先が氷のように硬直した。
――辞職が、失敗した。
厳格なる身分秩序の敷かれたこの帝国において、平民が高等貴族の下を辞する手続きは、紙切れ一枚を叩きつけて立ち去れば済むような生易しいものでは断じてない。
法的に完全な自由の身を回復するためには、領主自らの手によって辞表に正式な印章が捺印され、
管理部から「雇用契約終了合意書」および身元を保証する「品行推薦状」が発行されねばならないのだ。
この薄汚れた羊皮紙の通行証こそが、平民が貴族の直轄領を往来するための絶対の身分証明であった。
あの呪わしい印章がなければ、彼女が勝手に敷地を出たところで、帝国の法典においては契約を反故にした逃亡労働者とみなされる。
蓄えを握りしめて王都の魔法学院へ入学申請することなど夢のまた夢であり、街道の検問所を抜けることすら叶わず、警備兵によって捕縛され、強制送還されるのが関の山だ。
カリーナは声を荒らげる必要すらなかった。衛兵の長槍を呼び寄せる必要すらなかった。
彼女はただ、手紙を引き出しに放り込み、判を捺さなかった――それだけで、貴族階級が数百年にわたって築き上げてきた鉄壁の檻を使い、ルシアの存在をこの豪奢なる牢獄の底へと完全に溶接してしまったのだ。
「…………」
デスクの向こうで、カリーナはなおも柔らかに言葉を紡いでいた。厨房に命じて滋養のある温かいスープを用意させよう、仕立て屋を呼んでその擦り切れた麻布の代わりに豪奢なドレスを誂えさせよう、彼女の研究のために最高級の錬金素材をいくらでも手配しよう、と……。
だが、その甘やかな囁きは、ルシアの耳朶に届いた瞬間に、すべて甲高い耳鳴りのような無機質なホワイトノイズへと霧散していった。
二世にわたる冷徹な計算も、絶対的な権力格差という現実の前には、あまりに無力で滑稽であった。
彼女は自分がどうやって立ち上がったのかすら定かではなかった。
死線を潜り抜けたばかりの華奢な肉体からはすべての気力が引き抜かれ、足元はおぼつかず、まるで魂を抜き取られた精巧な操り人形のように、狼狽しきった女性秘書の手で恭しく腕を支えられながら、その息の詰まる執務室から連れ出された。
背後で、重厚なウォールナットの扉が重々しい音を立てて完全に閉じられ、部屋の内と外を無情に分断したその時――
回廊を吹き抜ける冷酷な隙間風に晒されて、ルシアの小さな身体は、唐突に激しい悪寒に震えたのであった。




