耳朶の温もりと、未来を覗く蜘蛛の糸
松風閣の薄暗い奥座敷では、半開きになった障子戸の隙間から夜風が微かに吹き込んでいたが、空気に立ち込める濃密で粘りつくような白檀の香りと、名残の甘い熱気を吹き払うことはできずにいた。
乱れ乱れた寝具は引き潮の波のように畳の上へと重なり合い、汗に濡れた数筋の黒髪が、潮紅を帯びたルシアの頬へと張り付いている。
小柄で華奢なその肢体は、もはや脱力しきったようにカリーナの豊満で温かな胸元へと突っ伏し、その耳は彼女の肉体が刻む力強く規則正しい鼓動の音へとぴったりと密着していた。
カリーナの雪のような白銀の髪は、濃色の錦布団の上へと乱雑に散らばり、その姿はさながら極寒の凍土より迷い出でた雪の精霊の如きであった。
肌の下を走る淡い青の微細な血管すら透けて見えそうなほどに白いその陶器のような素肌には、今なお引ききらぬ情事の熱情が仄かな緋色となって浮かび上がっている。
細くしなやかな、薄い胼胝の残る指先が、独占欲も露わにルシアの薄く滑らかな背中を緩やかに撫で這い、指先が少女の微かにくびれた脊柱の窪みへと落ちるたび、ルシアの喉からは細く無力な震え声が零れ落ちていた。
「これほど疲れ果てるなど……長生寺の老いぼれ坊主に、魂の底まで抜かれてきたというのか?」
カリーナは首を垂れ、氷の彫刻のように美しいその相貌を寄せた。
血のように艶やかな紅の瞳には、見下ろすような品定めと蕩けるような甘やかしの色が混ざり合い、ウッディの冷ややかな香りと強い酒の気配を孕んだ吐息が、ルシアの過敏な耳朶へと荒々しくも甘やかに吹きつけられる。
カリーナはルシアの赤らんだ耳たぶを小さく食み、戒めを込めるかのようにじりじりと歯を立てて甘噛みした。
その刺激に、上に重なる薄布のような身躯の女は、逃れる術もなく顔をより深く胸の谷間へと埋めるしかなかった。
敷布のもう一方の側には、カリーナの従妹であるクレアが、ルシアの傍らで丸くなるように身を寄せていた。
波打つ艶やかな深紫の長髪を枕の上へと散らせ、潤んだ紫の双眸の目尻には、悔しさと溺情が半ば混じり合った湿り気のある涙痕が今なお残っている。
乱れた襦袢の胸元がせわしなく上下している様は、先刻までの果てしない乱れと絡み合いがいかに激しいものであったかを雄弁に物語っていた。
カリーナに縛られていないルシアの細い右腕は、錦布団の下から抜け出し、クレアの柔らかく小さな手と固く指を絡め合わせていた。
指と指が隙間なく噛み合い、手のひらに滲む薄汗はすでにどちらのものとも見分けがつかず、擦れ合う肌の間には、偏執的なまでの粘り気と依存の情が絡みついている。
クレアは濡れた長い睫毛を伏せ、深邃な紫の瞳を微かに瞬かせると、ルシアのほんのり赤らんだ指の節々を自らの唇へと引き寄せた。
機嫌を取るように微かに震える指先へと小さく口づけを落とし、脈打つ命の熱を感じ取りながら、ルシアの剥き出しになった手首の内側へと己の頬をすり寄せる。
それは嵐の後にようやく安住の巣を見出した小獣のように、満ち足りた微かな吐息を漏らしていた。
ルシアは前後の二人から、まったく異なる熱度と気配によって、その中心へと堅固に閉じ込められていた。
身の下には、北境の大公が誇る氷雪の如き美貌と、豊満で覇道に満ちた熱い枷。指先には、嫋やかで甘美な柔順と甘え。
長生寺の大殿で積もりに積もった冷たい殺意、死線の恐怖、そして渦巻く記憶の悪夢は、この乱雑で親密な求め合いによって完全に融解し尽くされ、残されたのは疲弊の果ての陶酔と、浅い微かな喘ぎだけであった。
「長生寺は……実のところ、忘却の神殿だったわ」
ルシアはカリーナの微かに上下する冷たい胸元へと顔をさらに押し込み、掠れて頼りない声を漏らした。それは障子の外を吹き抜ける夜風に、今にも掻き消されてしまいそうであった。
「けれど、あそこは破壊の神殿とはまるで違っていた……。戦うべき守護者もおらず、傷を反射するような特殊な理もなかった。あの大殿の中で、私はただ強いられた……かつて泥濘の中に沈め、削ぎ落としてしまいたかったすべての記憶を、頭の中で無理やり暴かれ、もう一度鮮明になぞらされることを……」
言葉を不意に途切らせ、クレアと指を絡めていたルシアの右手が、無意識のうちに強張って白く骨を浮き上がらせた。
蒼白な下唇を強く噛み締め、胸の内に澱のように溜まり続けていた迷いと痛みが、長年張り巡らせてきた警戒と理性を押し流していく。
「カリーナ……あなたとクレアは、どうして私に対してこんな感情を抱くの? あなたたちの身分や歩んできた道からすれば、私のような者を顧みるはずなんてないのに」
乱れた布団の狭間に落ちたその言葉は、あまりにも軽く、それゆえに重い雷鳴の如く響いた。
「あなたたちの出自や地位、経歴からすれば、私を愛する理由なんて何処にもない。北境の頂に君臨する大公に、シルヴィア侯爵家で蝶よ花よと慈しまれてきた令嬢……。私はただの卑賤で、陰気で、機械油と苦い薬の匂いに塗れた異端者に過ぎないのに」
ルシアの脳裏に残る前世の残滓において、この光景は狂気と呼べるほどに歪んでいた。
前の生において、帝国の頂に君臨するこの二人の女と温かな情を交わしたことなど一度たりともなかった――それどころか、その関係は険悪で、冷酷で、厳格な身分階級の壁と刃の如き見下げ果てた侮蔑に満ちていたはずなのだ。
それなのに、このやり直しの生において、すべての前提は根底から覆されていた。
世界の寵愛を一身に浴びたかのように眩く美しい二人が、なぜ己に対して、これほどまでに深く、偏執的で、病的な独占欲を孕んだ執着を向けてくるのか。
すべてが唐突に過ぎ、あまりにも激しすぎた。二度の死を経験してきたルシアにとっては、骨の髄まで凍りつくほどの恐怖であった。
長生寺の八角走馬灯が描いていた残影が、今なお網膜の奥深くで音もなく回転し続けている――目の前にあるこの温かな肉体も、この甘美で乱らな絡み合いも、果てはこのやり直しの人生そのものが……すべて虚構ではないかと疑わずにはいられないのだ。
前の生において胸を灼熱の火球に穿たれ、心臓を焼き焦がされたあの瀕死の刹那、孤独の果てに死にゆく魂を慰めるために、脳が最後の数秒間で紡ぎ上げた極上の走馬灯の幻夢なのではないか、と。
己は何者なのか。
社畜の怨嗟を背負った村雨なのか?それとも、小柄で華奢な身を削って足掻き続ける黒髪の錬金術師、ルシアなのか?
あるいは……そのどちらでもないのか?かつてルーカスが譫言のように漏らした言葉の通り、自分は哀れな身代わりの人形に過ぎず、カリーナの心の奥底に癒えぬ血の傷を刻みつけて去った、とっくに時の彼方へ眠る亡き者――アリエルの影を追わされているだけなのだろうか?
ルシアは己の魂とどう向き合えばよいのか分からなかった。唇は冷たく人を寄せ付けぬ高い壁を築きながらも、その肉体は自らをも戦慄せしめるほどに素直であった。
彼女は己の浅ましさを誰よりも知っていた。荒野で凍え死にかけた乞食のように、カリーナの幽閉にも似た横暴な抱擁を貪り、同時にクレアから注がれる溢れんばかりの崇拝と依存に抗えず、身を委ねて溺れているのだ。
ルシアは貪欲で、臆病な女であった。二度の生があまりに長く、あまりに孤独であったがゆえに、自らを爪の先から頭の天辺まで徹底的に独占し、終生変わらぬ愛を狂おしいまでに欲していた。
そしてカリーナとクレアこそが、今生においてその温もりに最も近づかせてくれた存在だった。
けれど……この二人が真に愛しているのは、本当に「ルシア」なのだろうか?
寝具の間で、かすかな衣擦れの音が立った。
ルシアが必死に押し殺しながらも、骨の髄まで打ち震えているその恐れを、カリーナとクレアが見落とすはずもなかった。
北境の大公は、薄い胼胝のある掌を少女の華奢なうなじへと静かに添え、蒼白な指先を黒髪の間へと滑り込ませた。その力加減は、ほとんど逃れ得ぬ拘束に近い。
そして傍らのクレアの深邃な紫の双眸には、拭い去ることのできぬ痛切な疼きがすでに滲んでいた。
真実を口にすることはできない。前の生において彼女に向けた冷淡、侮蔑、そして孤独に震えるこの女を見殺しにし、絶望の深淵へと歩ませてしまった取り返しのつかぬ大罪……。
それらは今この瞬間に決して暴いてはならぬ封印であった。二人は己の罪滅ぼしと悔恨のすべてを、溢れ返る愛と隙間なき鳥籠へと偽装し、甘い嘘の蜘蛛の巣を紡ぐことで、全身に棘を逆立てたこの少女を自らの羽の下へと死に物狂いで匿い続けているのだ。
「何を怯えているの、ルシア?」
耳元に響いたクレアの声は、囁きのように甘やかで、胸の芯を震わせるほどに柔らかく湿り気を帯びていた。
身を寄せ、薄汗を滲ませた華奢な肢体を自ら擦り寄せながら、十指を絡めた手を己の胸元へと引き寄せる。
薄い肌と肉を隔てて、クレアの早鐘を打つような熱い鼓動が、ルシアの震える指先へと容赦なく打ちつけられた。
「私たちの想いを疑っているの? それとも……この愛が重すぎて、逃げ出したくなってしまったのかしら?」
ルシアは長い睫毛を震わせ、迷いと警戒を宿したまま首を巡らせ、クレアの溢れんばかりの情愛を湛えた紫の双眸と視線を交わした。
「信じられないかもしれないけれど……あなたと本当に出会い、触れ合うよりもずっと前から、私はあなたをずっと、ずっと知っていたのよ……」
クレアは目元を細め、潤んだ紫の瞳に星屑のような光を宿しながら、ルシアの赤らんだ目元を指の腹で優しく撫で、神聖なる衣を纏わせたひとつの嘘を紡ぎ出した。
「ずっと遠い昔、私は星々からの神託を受け取ったの。遠い未来に、黒髪に深い緑の瞳をした、胸が張り裂けそうになるほど華奢で儚げな娘が私たちの元へと現れる、と。その娘は傷だらけの身でありながら、私とお姉様の凍える長い夜において、唯一の帰るべき場所となる――そして、その人の名こそがルシアなのだと」
神託……?
ルシアの思考が一瞬、停止した。
今生の運命の軌跡には、確かに数々の奇怪な狂いが生じていた。
もしや……その神託とやらが存在したからこそ、カリーナとクレアは出会った当初から自分を特別視していたというのか?
前世と今生の間を隔てていた差異とは、単にこの神託の有無であったのか?
「あなたに出会えなかったあの年月、夕暮れになるたび、私は窓辺に座って夕陽をぼんやりと眺めていたわ。あなたは今何処にいて、どんな暮らしを送っているのだろうと。そうして想いを馳せるうちに……花々を撫でていく風さえも、あなたの名を覚えてしまうほどに」
クレアは身を屈め、桜色の唇をルシアの蒼白な眉間へとそっと押し当てた。その吐息は、触れる者を蕩けさせてしまいそうなほどに熱い。
「これでも……私の愛が本物ではないと、そう思うの?」
クレアの偏執的なまでの情愛に満ちた眼差しを受け止め、身の下からは氷雪の神の如きカリーナが己を逃さぬよう抱き留める体温を感じ、ルシアの頭脳は目眩を覚えるほどの白地へと落ちていった。
長生寺の八角走馬灯が、今なお眼前で倦むことなく回転し続けているかのようであった。笑顔の紙人形たちが手を取り合い、奥座敷のすべてを虚妄の蜜色へと染め上げていく。
あまりにも出来過ぎている。まるで冷たい刑場の露と消える間際、あるいは胸を火球に撃ち抜かれ消えゆく意識の中で、瀕死の神経が永遠の暗闇から逃避するために編み上げた、極上の甘い悪夢の如くに。
「どうして……?」
ルシアの細い睫毛が激しく震え、一筋の冷たい涙が無言のまま目尻を伝い、蒼白な頬を滑り落ちてカリーナの鎖骨の窪みへと消えていった。
このすべてが嘘であることを恐れていた。夜が明ければ幻影は泡沫のように弾け飛び、再びあの身を切るような冷酷な世界へと放り出されるのではないかと怯えていた。
それなのに、彼女の両腕は己の制御を離れ、カリーナの腰を狂おしい力で抱き締め、右手はクレアの柔らかな手のひらを、溺れる者が縋る最後の藁の如く強く握りしめていた。
これほどまでに迷いながら、これほどまでに浅ましく。
たとえこれが最初から最後まで仕組まれた欺瞞劇であろうと、たとえこの愛が蜜を塗った劇毒の鴆酒であろうと……彼女は瞳を閉じ、その一滴残らずを飲み干すことを望んでいた。
果てなき荒野を二つの生にわたって彷徨い続けてきたその魂は、あまりにも冷え切り、あまりにも愛を渇望していたのだから。
涙を流すルシアの姿を前に、クレアの胸にも締め付けられるような痛惜が込み上げていた。
「お姉様、ルシアは長生寺でひどく怯えてしまったようです……。明日は、あなたが自ら落とし前をつけに行きますか?」
クレアは声を忍ばせた。紫の瞳に宿っていた侯爵令嬢としての矜持はとうに剥がれ落ち、そこには沈痛な哀れみだけが残されていた。
カリーナはすぐには応えなかった。僅かに身じろぎし、白くしなやかな腕の力を緩めると、脱力した黒髪の女を自らの胸元から、柔らかな敷布団の中央へとそっと横たえた。
そうしてクレアとともに左右から寄り添い、何者も踏み込めぬ障壁の如く、華奢で小柄なルシアを真ん中へと包み込む。
この世の誰よりも、彼女たちがルシアの辿ってきた地獄を弁えていた。
だからこそ、誰よりも痛感していたのだ――ルシアの骨髄に刻まれた傷痕は、束の間の温もりや、幾度の情事程度で塞がるような浅いものではないことを。
孤独とは、人を緩やかに、確実に殺める猛毒である。
長きにわたり冷笑と無視、そして無言の冷たい暴力に晒され続けてきた者は、魂の根元から凍りつき壊死してしまう。
愛される感覚そのものを摩耗させ、神経の末端を霜で覆い尽くしてしまうのだ。今どれほど激しい愛の濁流に洗われ、浸されようとも、その心の底には怯えの虚無が穿たれたままであり、いつ覚めるとも知れぬ幻影だと頑なに信じ込んでしまう。
カリーナとクレアは、彼女を失うことを何よりも恐れていた。
その恐怖は、前世においてあまりにも遅すぎた、二人の魂を粉々に引き裂いた悔恨の記憶からくるものであった。
前の生において血まみれの身体が完全に息絶え、瓦礫の底で冷たくなってようやく、二人は絶望的な静寂の中で目を覚ましたのだ――陰気で、頑なで、鼻持ちならないと見下していたあの黒髪の娘が、どれほど純粋で、どれほどかけがえのない光であったのかを。
その後に続いた途方もなき年月の中、北境の大公と侯爵令嬢は、終わりのない断罪の日々を生きていた。
ルシアが生前に見せたほんの些細な優しさや無垢な仕草が記憶を掠めるたび、自らの手で宝を粉々に踏みにじった劇痛が倍加して跳ね返り、骨を削る毒刃となって二人を苛んだ。
カリーナとクレアもまた、果てのない虚無の荒野を、魂の限り彷徨い続けてきたのではなかったか。
この世で最も尊い存在を自らの手でじりじりと追い詰め、深淵へと突き落とし、その無惨な死を前にして初めて、天地の広大さの中に二度と代わりのルシアを見出せぬ現実に気づかされたのだ。
それは、流す涙すら枯れ果てた、永久の虚無であった。
長生寺の八角走馬灯は、片時も止まることなく回り続けているようであった。厳かな本堂の高みに吊るされているのみならず、いまや死寂に包まれたこの奥座敷で、三人の魂の深淵において音もなく回転している。
朱砂で描かれた笑顔の紙人形たちが、疲れを知らずに次から次へと追い縋る。
されど、後ろの人形がいかに身を投げ出して腕を伸ばそうとも、その指先が前を走る影に届くことは永遠にない。
因果の歯車は狂おしく逆転していた。今のカリーナとクレアは憑かれたようにルシアを追い求め、機嫌を伺い、その心の欠落を埋め合わせようと足掻いている。
かつて惨めで無力だったルシアが、傷だらけの身で冷酷なカリーナの背中を追い縋っていたように。
それは終わりなき、すれ違いの追走劇。
誰も相手の歩みに追いつくことは叶わず、冷え切った轍が、すでに千々に引き裂かれた互いの心の上を、血に塗れた傷となって幾重にも刻みつけていくしかなかった。
「ルシア、もう無理をするな。分かっている……オースがお前に裏で接触し、何らかの取引を持ちかけたのであろう」
カリーナは首を巡らせ、透けるように白い指先でルシアの汗ばんだ黒髪を優しく梳いた。
その所作はこの上なく情愛に満ちていながら、声音の奥には決して解けぬ氷の冷気が宿っていた。
「だが、胸に刻んでおくがよい。あの男の言葉に耳を貸すなど、断頭台へ自ら首を差し込むよりなお危険なことぞ」
閨にあっては傲慢にして偏執的であろうとも、政局と生死が絡むとなれば、北境の大公が血の中で研ぎ澄ましてきた鋭利さと冷徹さが剥き出しになる。
彼女の目から見れば、教皇オースという俗世を超越したかの如き聖職者の危険性は、あの野心に狂った皇太子クロードなどよりも遥かに上であった。
純粋な武力や魔力の破壊規模で比べるならば、オースがカリーナに敵うはずもない。だがその男が真に恐るべきは、蜘蛛が巣を張るように獲物を絡め取る、あの底知れぬ人心掌握と謀略の手腕にあった。
彼と深く関わり、重用されていると思い上がった者は、例外なく最後の一滴まで利用価値を絞り尽くされる。
価値を食い潰された後に待つのは、オースの精密な計算によって屍すら敷石とされる逃れ得ぬ死局だけであった。
「あの男はな、『未来を観測し予知する』異能を宿しておる」
カリーナの真紅の双眸が、薄暗い灯火の中で僅かに細められた。その言葉は、重々しく振り下ろされる大剣のように重い。
「運命の奔流が合流するよりも前に、世の何人よりも早く、訪れる未来を見通すのだ。手元に些細な駒がひとつでもあれば、息の詰まるような正確さをもって結末に干渉し、改竄してみせる――そして、その干渉のために支払われる代価の中で、最も安価であり、彼が躊躇うことなく天秤へ放り投げるものこそが、人の命なのだ」
その言葉は、骨を刺す冷水のように、ルシアの茫漠としていた神経を一瞬にして貫いた。
黒髪の女の瞳が不意に収縮し、深い翠の奥底に激しい波濤が巻き起こる。
彼女が息を呑んだのは、オースの薄情さや冷血さゆえではない――弱肉強食の生存競争において、支配者が利己的であることなど日常茶飯事だ。
真に彼女の背筋を凍りつかせたのは、「未来予知」という規格外の力そのものであった。
もしもオースが運命の軌跡を真に覗き見ることができるのだとすれば……彼が自ら接触を図り、あの破格の取引条件を持ちかけ、あまつさえこの奇怪な忘却の神殿へと導いたのは――無数の未来の分岐の中から、すでにルシアの辿る結末を見届けていたからではないのか?
己は理性と度胸を頼りに、間隙を縫って生き延びているつもりでいた。
だが……自らの一挙手一投足、今宵この長生寺へ足を踏み入れた細部に至るまで、すべてオースの冷酷な計画書の盤上に書き込まれていた筋書きに過ぎないのではないか?
そこまで思考が至るや、ルシアは寝具の中から勢いよく華奢な身を起こしていた。
長生寺の記憶の領域によって引き裂かれていた迷妄も、愛と孤独への浅ましい執着も、冷徹な理性の防壁の内側へと一瞬にして力づくで押し込められる。
精神を呑み込もうとする孤独や空虚よりも、神権と運命の悪意によっていつ圧し潰されるかも知れぬこの命こそが、今まさに迎え撃たねばならぬ現実であった。
ルシアは深く息を吸い込み、その深い翠の双眸は、再び凍てつく氷の淵の如く研ぎ澄まされていった。
オースの謀略、長生寺の老僧が語った綻びだらけの怪奇譚、そしてこの温泉郷の底から立ち上る血の気配……。
すべての糸口が無数の鋼線となって脳裏へと急速に手繰り寄せられ、運命の網が完全に絞め落とされる前に、眼前の迷局を切り裂くことを彼女に命じていた。




