教皇庁との取引と、これから挑むクソ強ハゲ坊主
松風閣の部屋へと戻った後、客間に漂っていたはずの清涼な杉の香りは、肌を刺すような無形の殺気と重苦しい威圧感にかき消されていた。
障子の向こうの廊下では、教皇庁直属の異端審問官と聖堂騎士たちの重々しく統率の取れた軍靴の音が絶え間なく響き、カリーナやルーカスと秩序正しく引き継ぎを進めている。
そして、二重の結界によって完全に隔絶されたこの離れの茶室の中では――クレアが獲物を囲い込む幼獣のように、ルシアの華奢な身体を背後から力任せに抱きすくめていた。
細い指先は、力を込めすぎるあまり白く強張り、ルシアの衣服に深く食い込んでいる。
妖しくも美しい紫の瞳を細め、針のように鋭い敵意を宿しながら、彼女はずっと前からそこで待ち受けていた男をじっと睨みつけていた。
男は上座の長椅子に優雅に腰掛けていた。純白無垢の極上生地に、神聖な輝きを放つ秘紋がくすんだ金の糸でびっしりと刺繍された教皇法衣。その佇まいは、彼が教皇庁の頂点に立つ至高の存在であることを雄弁に物語っている。
だが――いかんせん、見た目が若すぎた。
彫刻のように端正で人当たりのいい顔立ちには春風のように穏やかな微笑が浮かび、薄金の長い髪はえんじ色のリボンで無造作に襟足で束ねられている。
そして光の加減で深みを増すその澄み切った青い瞳は、ノスランド帝国において最も純粋な皇族の血統にのみ受け継がれる「天空の色」そのものだった。
建前上、教皇庁は世俗の皇権と一線を画し、大陸全土の微妙な権力均衡を保つことになっている。しかし、聖職者の昇格序列は至極冷酷だ――聖力が強大かつ純粋であればあるほど、神座の頂へと登りつめる。
目の前の男こそ、天災にも匹敵する異常な聖力を武器に、皇族の傍系という極めて繊細な身分でありながら教皇の座に君臨した若き怪物であった。
至高の神権と正統な皇血を併せ持つ化け物。戦場で刃に血を滴らせるいかなる猛将よりも、遥かに底が知れず危険な存在だ。
「初めまして、ルシアさん。オースと呼んでくれて構わないよ」
オースはわずかに上体を傾け、静かで柔らかな口調で告げた。礼節の観点から見ても、何ひとつ非の打ち所がない優雅な所作だった。
「クロード従兄上から、君の噂はよく手紙で聞かされているよ。得難い至宝だと絶賛していた。安心してほしい、僕は今日、異端審問官として君の首を狩りに来たわけじゃない。むしろ君の味方になりたいと思ってね。ただ……君も自分の存在が神学的にどれほど危うい境界線の上にあるかは理解しているだろう? だからこそ、教皇庁のルールにも適度に付き合ってもらいたいんだ」
そう言い終えると、彼は白くしなやかな指先で軽く弾いた。教皇庁の特赦と最高位の庇護権を象徴する白銀の聖徽が宙を舞い、卓の上を軽やかに滑ってルシアの眼前へと差し出される。
だが、クレアはその熱狂的な信徒なら狂喜乱舞するであろう聖徽に、一瞥すら与えなかった。
彼女は両腕をさらにきつく締め直し、ルシアの小さな頭を激しく上下する自らの胸元へと深く押し付けると、薄氷を含んだかのような冷え切った声を絞り出した。
「教皇猊下がわざわざこんな温泉郷までお出ましとは、恐れ多いことね。シルヴィア家の人間が、教皇庁なんぞに『お世話』される筋合いはありませんことよ」
突き刺すような警戒を向けられても、オースの瞳の奥にある笑みは微塵も揺らがなかった。その穏やかすぎる青い瞳は、かえって背筋が凍るほどの冷徹さを感じさせる。
「クレアお嬢さん、そう頑なに拒まないでおくれよ。僕は心から保護を申し出ているだけさ。皇太子殿下の頼みでもあるからね――それに何より、ルシアさんの後ろ盾にカリーナ大公とシルヴィア侯爵家がついている限り、僕たち教皇庁も盟約を守り、決して軽挙妄動には出ないよ」
その温和な響きの裏に隠された、剥き出しの脅迫をルシアははっきりと聞き取っていた。
「異界の転移者」として目をつけられている自分が、今こうして白昼堂々と息をしていられるのは、ひとえに教皇庁の騎士団すら踏み潰せるカリーナの北境鉄騎と、帝国の経済中枢を牛耳るシルヴィア家の財力があればこそだ。
皇族の血を引くオースは、クロード皇太子の懇願を適当にあしらうことはできても、カリーナやシルヴィア家と決裂するまではルシアに指一本触れられない。
だが、この庇護は頭上に吊るされた諸刃の剣だ――もし背後の二大巨頭がわずかでも手を緩めるか、あるいは彼女を見捨てた瞬間、待ち受けているのは魂を生きたまま引き剥がす教皇庁異端審問所の、果てなき追殺劇なのだから。
クレアはその理屈を誰よりも熟知していた。聖潔な法衣を纏ったオースの本質が、骨までしゃぶり尽くす白い狼であることを知っているからこそ、ルシアを彼と単独で接触させるなど、破滅への片道切符にしか見えないのだ。
「クレア」
ルシアはわずかに顔を上げ、自らの肋骨に食い込んでいる冷たく震える手を軽く叩いた。
「彼と二人で話をさせて」
小皇子の変死によって、今や温泉郷には暗雲が立ち込めている。シルヴィア家の名代であるクレアの手元には、至急目を通さねばならない政治文書や防衛態勢の指令書が山積しているはずだ。
ルシアはこの膠着状態で時間を浪費したくはなかったし、クレアの歪んだ独占欲のせいで本業を滞らせたくもなかった。
「……嫌。絶対に離さない」
クレアの声が微かに震えていた。その紫の瞳の奥に、偏執と屈辱の入り混じった涙が滲む。ルシアがどれほど冷徹で、どれほど平気で無茶をする人間かを知っているからこそ、この黒猫がまた一人で危ない火中の栗を拾いに行こうとしているのを許せなかった。
どうして? どうして自分はいつも、愛する人が刃の切っ先へ歩いていくのを指をくわえて見ていることしかできないのか。名門のしがらみに縛られ、目の前の狼を代わりに追い払うことすら許されないのか。
泣き出しそうな少女の顔を見つめ、ルシアは内心で小さくため息を漏らした。
この傲慢で病んだ貴族令嬢の扱い方は、とっくに心得ている。クレアに正論を説くのは唾の無駄遣いだ。機嫌を直すには、毛並みに沿って、最も直接的な甘い毒を与えてやるのが一番手っ取り早い。
ルシアはクレアのうなじに手を回して引き寄せると、迷わず背伸びをして、その微かに震える赤い唇へ自分の唇を重ねた。
触れるだけの誤魔化しではない。クレアの全身が雷に打たれたように硬直し、呼吸が完全に乱れるまで、数秒間しっかりと唇を押し当て続けた。
唇をわずかに引いたルシアは、真っ赤に染まったクレアの目元を緑の双眸に映しながら、二人だけにしか聞こえない低く掠れた吐息で囁いた。
「クレア、愛してるわ。……だから、私を嫌いにさせないで」
その言葉は、甘い蜜を塗った外科用メスのように、クレアの防壁の最も脆い急所を容赦なく抉り抜いた。
その瞬間、クレアの心臓は胸を突き破らんばかりに跳ね上がった。どれほど理性が「これはルシアが拘束を解くための口から出任せだ」と警報を鳴らそうとも、魂の奥底から湧き上がる抗いようのない甘美な多幸感が、彼女の手からすべての力を奪い去っていく。
「こんな時にそんなことを言うなんて……っ、あんた、本当に最低のバカよ……!」
クレアは唇を血が滲むほど噛み締め、堪えきれなくなった涙をぼろぼろと零した。自分の情けなさに、そして見え透いた甘言に骨抜きにされて抱きしめる腕を解いてしまった己の弱さに、激しい屈辱を覚えながら。
その屈辱と溺れるような陶酔から逃げるように、クレアは乱暴にルシアを突き放した。二度と彼女の顔を見ようともせず、目元を拭いながら障子戸を蹴破らんばかりの勢いで飛び出し、外廊下にいるカリーナのもとへと走り去っていった。
「お姉様ぁっ! ルシアの薄情者が、私をいじめたのぉぉっ――!!」
廊下に響き渡る泣き濡れた悲鳴。遠くから聞こえるルーカスの諦め混じりのため息と、カリーナの低く鋭い声。
一人残されたルシアは、唇に残った甘い残り香を袖で拭い、わずかな後ろめたさと自嘲を浮かべた。効果覿面だったが、今夜寝床に戻った後、腰が立たなくなるほどの「お仕置き」が待っていることは想像に難くない。
……まあ、それは後の話だ。
ルシアはゆっくりと身を翻した。浮かべていた気怠げな柔らかさは消え失せ、冷え切った翡翠の瞳が、座したままの若き教皇を冷たく射抜く。
「さて、邪魔者は退場したわ、猊下」
袖口の皺を平然と整え、ルシアは冷徹な声音で切り出した。
「単刀直入にいきましょう。教皇庁が松風閣で私を待ち伏せしてまで、一体何を要求したいのかしら?」
オースの視線は、クレアが走り去ってなお揺れている障子戸へと向けられ、やがてルシアへと戻された。その口元には、極めて意味深な笑みが刻まれている。
彼は目の前の小柄で、淡白なほど冷静な黒髪の少女を見つめ、隠そうともしない賞賛の光を瞳に宿していた。
帝都のクロード従兄上が、なぜ手紙の中で「ルシアは大層な肝っ玉の持ち主だ」と繰り返していたのか、ようやく腑に落ちた。
自分が転移者だと見抜かれ、これまでに何人もの同胞が異端審問の火刑台で灰燼に帰したと知りながら、唯一の後ろ盾を自ら遠ざけ、教皇と差し向かいで対峙するなど常軌を逸している。
その泰然自若とした態度は、世間知らずの無邪気さから来るものでも、聖職者への安っぽい信用から来るものでもない。
ひとたび決裂すれば、目の前の少女には、自分はおろかこの松風閣ごと一瞬で消滅せしめるだけの絶対的な「奥の手」があるからだ。
オースの脳裏を、破壊神殿の戦闘記録がよぎる。ヴァレリーがルシアと堕天使との戦闘を収めた記憶水晶を円卓会議に提出して以来、帝国枢密院と教皇庁の上層部は等しく震撼した。
何もない虚空から現出させた『ブラックホール』と呼ばれる極限の天体。光も熱も空間も、果ては存在そのものを押し潰して呑み干す絶対的な暴力。
概念の領域において、あれは凡人どころか並の神仏すら軽く凌駕していた。もしルシアが身の危険を感じれば、彼女は躊躇なく共倒れを選ぶだろう。そしてその概念級の重力の前には、教皇庁の聖都など一秒と保たずに塵と化す。
「破壊神殿での戦い、水晶を通して拝見させてもらったよ」
オースは両手を軽く広げ、旧友とお茶でも飲むかのような気軽さで、あっさりと自らの手札を曝け出した。
「だから包み隠さず言おう――純粋な破壊力において、僕では君に勝てない。だから君も半分くらいは警戒を解いてくれて構わないよ。そしてその裏返しとして、僕は今、教皇庁をいつでも更地にできるほどの規格外の化け物に……どうしても頼みたい厄介事を抱えているんだ」
ルシアは茶卓の縁に寄りかかったまま、冷ややかに返した。
「力のある人間なら、他にいくらでもいるでしょう。問題を解決するだけなら、カリーナが動いた方がよっぽど効率的じゃないかしら? それとも……教皇猊下にとって、北境の大公閣下は扱いづらい相手だと?」
それは明白な探りだった。ルシアはカリーナの真の力――『事象干渉』の不条理さを誰よりも知っている。
それは全能にも等しい傲慢な法則だ。何らかの事象や概念がカリーナ自身に影響を及ぼした瞬間、彼女は自らを基点としてそれを逆向きに完全に解体できる。
「死」が彼女に訪れようとすれば、自らが死ぬという因果そのものを消滅させ、文字通り絶対に死なない存在となる。この星の「重力」が彼女に作用しているなら、彼女は自らを作用点として大陸全土を超重力地獄へと変貌させ、自分だけはその中心で涼しい顔をしていられる。
そんな歩く天災を差し置いて、オースが自分を選んだ理由。チェス盤の上で、自分がどのような駒として値踏みされているのかを、ルシアは見極めようとしていた。
「僕が大公を恐れているか試しているのかい?」
オースはその視線を受け止め、不快感を示すどころか、陽光のように屈託のない笑みを浮かべた。
「ルシアさん、現実を見てごらん。カリーナ大公とあの若き継承者は、今まさに温泉郷を封鎖し、暴徒と化した住民を鎮圧するために中枢に縛り付けられている。一歩も動けないのさ。それに帝国魔法学園の二人の正教授――ヴァレリーは帝都枢密院への報告に追われ、クレアはシルヴィア家として無数の防衛文書に署名しなければならない。彼女たちには投げ出せない責務がある」
オースはわずかに上体を乗り出し、青い瞳に狐のような鋭い光を宿した。
「だが、君は違う。底知れない実力がありながら、後ろ盾には北境公爵と帝国最大の財閥という二大巨頭を従えている。皇室に頭を下げる義務もなく、教皇庁も表立って手出しはできない。クロード皇太子からの覚えもめでたく、肩書きは責任の一切ない気楽な『実習教授』だ。……ねえ、これほど身軽で、これほど超然とした歩く戦略兵器が、この大陸でどれほど自由に動き回れるか分かるかい?」
ルシアは袖口の中で、機械梟【刻刻】の冷たい装甲を爪で弾いた。
言わんとすることは完全に理解できた。
確かに、これは類を見ない特権階級の立場だ。
通常の暗部や刺客を使った調査なら、どれほど腕が立とうとも身を隠し、結界を潜り抜けねばならない。
しかしルシアなら、カリーナの庇護と学園の通行証を盾に、他人の機密倉庫だろうと堂々と蹴破って家宅捜索に入ることができる。相手が誰であれ、彼女の背後にいる二大勢力を敵に回すリスクを天秤にかけねばならないからだ。
ましてや、本当に力尽くの事態になれば、彼女単身で現場を更地に変えられる。
教皇庁が喉から手が出るほど欲しながらも、自前では決して調達できない「万能の鍵」。
「割に合わない商売はしない主義よ」
ルシアは冷ややかに言い放った。
「教皇の汚れ仕事なんて、報酬は弾むでしょうけど、命がいくつあっても足りないのが相場だもの」
「教皇庁の宝物庫、君の好きに使っていい」
オースは迷うことなく、常識外れの対価を提示した。
「禁忌級の錬金素材の閲覧・使用権はもちろん、教皇庁の秘奥に眠る一万年前の『聖竜の遺骸』すら、君のために持ち出しを許可しよう。そして何より――教皇の名において誓うよ。この件の後、教皇庁は君の恒久的な後ろ盾となる。いつかカリーナやクレアが家の都合で君を手放す日が来ようとも、教皇庁は君を絶対に火刑台には送らない。『異界の旅人』たる君を、僕たちは無条件で受け入れる」
ルシアの眉が、微かに跳ね上がった。
聖竜の遺骸。それは大陸の闇市と商権を牛耳るシルヴィア家ですら手に入らない神話の遺物だ。そして後半の免罪符は、元社畜である彼女の最も根深い生存本能を正確に撃ち抜いていた。
他人の好意を百パーセント信用することなど絶対にしない彼女にとって、逃げ道を一つ多く確保しておくことは何物にも代えがたい。
だが――甘い餌であればあるほど、首に巻き付く絞首縄は太くなる。
「魅力的な条件ね」
ルシアは緑の瞳を上げ、一切の妥協を許さぬ響きで告げた。
「けれど、受けるのは今回の一度きりよ。依頼内容をきっちり説明しなさい。その人参をぶら下げて、一生教皇庁の馬車馬にする気ならお断りよ」
オースは呆気に取られ、やがて可笑しそうに首を振った。
「本当に、少しも損をしない性格だね。……いいだろう、交渉成立だ」
彼は笑みを収め、表情を引き締めた。
「本題に入ろう。この温泉郷の奥地には、教皇庁が認めていない土着の古い信仰が根付いている。普段なら辺境の迷信など僕たちも干渉しない。だが最近、こちらの信徒や村人たちが、裏山の奥深くにある『長生寺』という古い寺院へ定期的に参拝しているという情報を掴んだ」
オースは声を潜め、スカイブルーの瞳の奥に冷徹な光を灯した。
「命懸けで持ち帰られた暗部の情報によれば、あの寺の住職は間違いなく黒だ。地下水路の惨劇も、失踪事件の手がかりも、すべて水面下であの老僧へと繋がっている。そして何より厄介なのは……その住職の力量が、異常なまでに底知れないということだ」
ルシアの頭の中で、すべての符合が噛み合った。
温泉郷で掘り起こされた生きたままの惨劇と小皇子の遺骸は、想像を絶する規模だった。だからこそカリーナもルーカスも、二人の教授も政治と軍事に釘付けにされている。
そして教皇庁の審問官や騎士団が下手に山へ踏み込めば、その正体不明の老僧に返り討ちに遭い、肉片に変えられるのが関の山だ。
教皇自らが危険を冒して未知の強者と命のやり取りをするはずもない。ならば、堕天使すら恐怖に陥れ、大手を振って徘徊できる大義名分を持った「危険な女」にその寺の門を叩かせる――それこそが、オースにとって唯一にして最善の解答だったわけだ。
「あの和尚と顔を合わせて、寺の地下に眠る秘密を暴き出してほしい」
オースはルシアを見つめ、優雅で危険な笑みをその唇に蘇らせた。
「どうかな、ルシアさん。この依頼、受けてくれるかい?」
口頭での交渉は見事に妥結したように見えた。だが、契約書にサインを交わした後のような確かな手応えは、ルシアの胸に広がる微かな波紋を少しも鎮めてはくれなかった。
むしろ、喉に刺さった魚の小骨のような違和感が、背骨を伝って静かに這い上がってくる。
一体、どこを見落としている?
常に周囲のすべてを警戒し、あらゆる不確定要素を計算に組み込むことに慣れきったルシアも、内心では認めざるを得なかった――人心を弄び、盤面を操るその腹黒さにおいて、自分は到底オースの敵ではないと。
彼は神権の最高峰に君臨する正統なる皇族だ。幼少の頃から権謀術数や信仰、そして帝王学にどっぷりと浸かることで磨き抜かれたその視野と大局観は、前世で一生を社畜として終え、今世でも一介の平民錬金術師にすぎない彼女など足元にも及ばぬほど、深く遠い先を見据えている。
だが、ルシアにも唯一の切り札があった。二度の死を潜り抜けてきた、その魂の経験だ。
盤上のすべてに目を配り、世界を欺き通すことなどできなくとも、骨の髄と神経の先端にまで刻み込まれた「死のレーダー」だけは、どんな高位探知術式よりも鋭敏だったはずなのだ。
しかし、目の前で優雅な笑みを湛えるこの男は、彼女が生きていくための頼みの綱である第六感を、完全に狂わせていた。
それは単純な危険の気配ではない。奇妙な「波形の干渉」とでも言うべきものだった――ほんの一秒前までは、深淵を覗き込むような総毛立つ致命的な脅威が明確に嗅ぎ取れるというのに、次の瞬間には、その殺気が春の雪のように跡形もなく消え失せ、ただ温和で平穏な空白だけが残される。
この捉えどころのない虚無感を前にして、ルシアは骨身に染みて悟っていた。この男が語る親愛も、弱みの吐露も、破格の施しも、すべては前半の半分しか口にしていないのだと。
陽の当たる場所に誰もが飛びつく甘美な対価を並べ立てながら、その影の領域には、命を奪うに足るもう半分の罠を巧妙に隠し通している。
だが、逃げ道はなかった。
事態が暴走の一途をたどり、各勢力が一触即発の火花を散らすこの極限状態において、教皇庁直々の免罪符という手札を一枚多く握り込むことは、生き残るための決定的な生命線となる。
たとえ猛毒の仕込まれた蜂蜜酒だと知っていても、今はその企みに乗っかって飲み干すほかない。
今回ばかりは、本当に逃げ切れない――ルシアはそう確信していた。




