長生湯の原材料と、未知なる邪神の生贄
空気の中に、血の匂いはなかった。
朽ち果てた朱塗りの山門をくぐり抜け、温泉郷の裏山深くに佇む廃寺の古びた穀物蔵へと足を踏み入れた際、真っ先に神経を尖らせたのはその異常さだった。
本来であれば、皇族の血を引く者が惨殺された現場ともなれば、鼻腔を突くのは吐き気を催すほどの生々しい鉄錆の臭気か、あるいは内臓破裂に伴う酸鼻を極めた腐敗臭であるはずだ。
しかし、白蟻に半ば食い荒らされた分厚い木戸をカリーナが一蹴のもとに蹴破った瞬間、薄暗く湿った蔵の奥底から噴き出してきたのは、煮詰めた草薬と油脂が混ざり合った、胸焼けを覚えるほどに甘ったるい熱気だった。
それは、身の毛もよだつほどに不気味な「火の通りきった」匂いだった。
ヴァレリーが手にした古色蒼然たる長杖の石突きが、微かに石畳を突いた。先端に嵌め込まれた暗紫色の魔晶核から白く冷たい探査の光輪が広がり、蔵の内に澱んでいた闇を押し払っていく。
光の広がりとともに、梁から吊り下げられた無数の干からびた麻縄と錆びついた鉄鉤が夜風に小さく揺れ、「ギィ……ギィ……」と鈍い軋み音を立てた。
そして、蔵の中央――かつて冬の蓄えの穀物を納めていた深い落とし穴の真上に、それは吊るされていた。
その「物体」の正体を視界に捉えた瞬間、クレアの後ろに控えていたルシアの瞳孔は針の先ほどに収縮し、胃袋が猛烈に痙攣した。彼女は咄嗟に口元を両手で硬く押さえつけた。
もはや、それを「人」と呼ぶことすら躊躇われた。
その小さな肉体は、正体不明の薬液を吸い尽くして黄ばんだ粗末な特製麻布によって、幾重にもきつく縛り上げられていた。
麻布の隙間という隙間には茶褐色の麻縄が肉に深くめり込むほどに締め上げられており、まるで極めて過酷な工程を経て成分を余すことなく煮出すために作られた、巨大な薬包を思わせる。
麻布の表面は乾き切って硬直しており、松脂のように固まった黄白色の油の結晶が分厚くこびりついていた。
そして、麻布の上下から突き出た頭部と四肢は、見るに堪えないおぞましい姿を晒していた。
十歳前後の童子のものであろうその小柄な身体は、元の体躯から三割以上も縮こまっていた。
剥き出しになった皮膚は腐敗した青黒さではなく、数百度の高温で幾度となく蒸され、煮立てられた末に完全に水分を失った灰白色の干物と化している。
枯れ木に張り付いた油紙のように皮膚は極限まで薄れ、皮下脂肪も水分もことごとく搾り取られた結果、骨の輪郭と萎縮し干からびた筋肉の繊維の一筋一筋が、光の下でまざまざと浮き彫りになっていた。
頬は深く削げ落ち、両唇は極度の熱疲労と脱水によって外側へと捲れ返り、血の気の一切失せた幼い歯茎を剥き出しにしている。
眼窩の奥は空洞のごとく窪み、干し葡萄のように縮んだ眼球がその底に張り付いていた。
帝国の神聖なる皇統を象徴していたはずの金髪は、今や焦げついて脆く砕けた枯れ草の屑となり、歪んだ死相の周囲に無残に散らばっている。
何よりも背筋を凍りつかせたのは、この幼き骸が異様なまでに「清潔」である点だった。
蝿の一匹も集まっておらず、蛆の這う気配すらない。長時間の煮沸によって裂け爛れた表皮の傷口から滲み出しているのは赤黒い血などではなく、蜜のように粘り気のある、琥珀色の半透明なゼリー状の液体だった。
その膠質は、鷲の爪のように乾ききって硬直した足指を伝い、ぽたり、ぽたりと真下に置かれた空の陶器の大甕の底へ滴り落ち、空虚で澄んだ音を響かせていた。
体内を満たしていたはずの精華、生命力、そして血液のすべてが、生きながらにして骨の髄まで人知を超えた手段で抽出され、煮詰め尽くされたのだ。
残されたのは、薬効に極限まで漬け込まれ、腐敗することすら許されぬただの抜け殻に過ぎない。
「……これが、ノーランド帝国の皇子だというの?」
静まり返った蔵の内に、ヴァレリーの押し殺した掠れ声が落ちた。長杖を握りしめる指関節が白く強張り、その金色の瞳には、隠しようのない戦慄と嫌悪の色が浮かんでいる。
先頭に立つカリーナは、麻布で歪な肉塊のように縛られ宙吊りにされた骸を、深紅の血眸で氷のように冷たく見据えていた。その表情は極北の凍土よりもさらに凍てついている。
彼女は一言も発しなかったが、公爵としての重厚な覇気が、今にも爆発せんとする怒涛の如く重く垂れ込めていた。
クレアの傍らに身を寄せるルシアは、遺体の皮膚にこびりついた薬物の結晶と、陶器の底に溜まる琥珀色の残滓を凝視し、脳内で無数の導火線が一斉に弾けたような戦慄を覚えていた――
この脱水し萎縮した組織の質感、高熱が浸透し熱変性した痕跡、そして鼻腔を焼く異様な草薬の甘ったるさ……
なぜこれが、先ほど松風閣で浸かったばかりの、神経を休め筋骨を養うと謳われるあの「長生湯」と、寸分違わず同じ匂いを発しているというのか。
この手の吐き気を催すような陰惨な現場を見慣れているかのように、クレアには取り乱した様子が微塵もなかった。
彼女は細くひんやりとした腕を伸ばすと、顔色を失い胃液をせり上がらせているルシアを優しく、しかし有無を言わせぬ力で己の懐へと引き寄せ、その震える顔を芳香漂う柔らかな胸元へと抱きしめた。
スミレ色の瞳を半分伏せ、宙吊りになって琥珀色の濃密な滴を落とす乾いた肉塊へ冷淡な視線を投げながら、クレアの長い指先はルシアの華奢な項と乱れた黒髪を慈しむように梳いた。まるで怯えるペットを宥めるような手つきだった。
「姉様、どう思われます? この蔵に満ちている匂い、先ほど松風閣で浸かった長生湯とまるで瓜二つですわ。……まさか、不老長寿をもたらし経絡を潤すというあの極上の秘湯、その原材料は生きた人間の子供たちから絞り出されたものだとでも?」
クレアの懐に抱きすくめられたルシアの鼻腔は、クレアが纏う優雅な花の香りで満たされていた。
だが、脳裏に焼きついたあの「煮え爛れた人肉と薬用油脂」の甘ったるい死臭は、どうしても拭い去ることができない。彼女はクレアの寛いだ襟元越しに、一見すれば儚げなこの貴族令嬢の横顔を盗み見た。
この身の毛もよだつ干からびた遺体を前にして、魔法学院の筆頭正教授として解剖や死線を見慣れているはずのヴァレリーですら胃の腑を掻き回され、激しい怒りを露わにしている。
それなのに、クレアの呼吸の調律はただの一度たりとも乱れていないのだ。
常軌を逸したその冷徹さと安定ぶりに、ルシアは肌を刺すような寒気を覚えずにはいられなかった――シルヴィア家が裏で差配する地下闇市と巨大な商流は、普段自分に甘くまとわりついてくるこの女に、一体どれほどの現世の地獄を見せてきたというのか。
「私も同じ見立てだ」
カリーナは腕を組み、深紅の瞳に魔晶核の放つ白い光を冷たく反射させながら、万年氷壁のごとく重い声音を落とした。
「だが、そこには致命的な論理の破綻がある。――もし長生湯の本質が生気を搾取して肉体を養うことにあるならば、理屈の上では抵抗の術を持たぬスラムの孤児や、闇市から密輸した頑強な奴隷を攫えば済む話だ。費用もかからず、露見する危険も極めて低い。……黒幕はなぜ、わざわざ皇族の血筋にまで手を伸ばした?」
カリーナは最も肝要であり、かつ最も不可解な急所を突いた。
血と硝煙に洗われてきたこの大陸において、生きた人間を魔術の触媒や錬金術の消耗品、あるいは滋養強壮の薬引として使い潰すことなど、決して珍しい話ではない。
温泉郷で子供たちの失踪が相次いでいると耳にした当初から、カリーナはその研ぎ澄まされた直感によって、身寄りのない流民の童子たちが何らかの暗黒実験の家畜に成り果てていることを薄々察していた。
七大陸に君臨する各大帝国の華々しい表層の裏には、決して洗い流せぬ血塗られた汚泥が沈澱しており、ノーランド帝国とて例外ではない。
上位者の盤上において、見返りが十分に釣り合うのであれば、人命など最も安価な使い捨ての駒に過ぎないのだ。
皮肉なことに……カリーナが聖教会の最高機密文書や異端審問所の記録から得た知識によれば、かつてこの大陸に「人間の肉体を精密な有機資源および生体資産とみなす」という概念を体系的に持ち込んだ元凶こそ、クレアの腕の中にいるルシアと同じく、異界より流れ着いた「転移者」たちであった。
カリーナにルシアの見つめる故郷の全容は知り得ないが、教廷に残された禁書の記述から、その世界の氷山の一角を垣間見たことはあった。
それは、魔力の一滴すら存在しないにもかかわらず、技術のみが異常なまでに肥大化した奇怪な位相の世界だった。
その世界では大半の平民が飢餓から解き放たれ、飛行魔術に頼ることなく銀の巨鳥に乗って天蓋を渡り、避水呪文を用いることなく万丈の深海へと潜り、さらには二つの車輪で組まれた鉄の具足で風系魔導士の限界速度を軽々と凌駕するという。
だが、誰もが豊かさを享受しているかに見えるその高度な文明の頂においてすら、骨の髄まで凍りつかせる醜悪な悪意は確かに脈打っていた。
かの「地球」と呼ばれる土壌には、権力の頂点に君臨する一握りの支配者層が、大海に孤立した美しい島に無垢な少女や子供たちを囲い込み、富豪や権貴、政治家たちの慰み者として陵辱し、弄び尽くすための巨大な檻を築き上げていたという記録がある。
当初、カリーナはその記述を読んでも眉一つ動かさなかった。いかなる世界であれ人の欲と醜さは変わらぬものであり、ノーランドの貴族たちが裏で行っている奴隷弄びと何ら変わりはない、と冷淡に捉えていたのだ。
だが後に、過酷な討伐任務の折、教廷によって処刑されたある転移者の魂の残滓から抽出された記憶の水晶を、彼女はその目で直視することとなった。
前世では家柄の威を借るだけの放蕩息子どもに過ぎなかったその男の記憶には、何の道徳的底線もない虐殺、徹底した精神破壊、そして幼子を商品として値踏みし消費し尽くす狂乱の宴が克明に刻まれていた。
文明の皮を被ったその極限の卑劣さは、この世界が繰り広げる血みどろの戦場での殺戮よりも遥かに吐き気を催すものだった。
ゆえに帝国の異端審問会は、異界の「転移者」に対し、これほどまでに執拗な敵意と抹殺の意志を向けているのだ。
ひとたびこの世界の野心家たちが、異界から持ち込まれた畸形的な商業倫理や悪逆の手段に毒されれば、超常の力を孕むこの大陸の上で、それらは癌細胞のように増殖し、さらに名状しがたい狂気の産業を生み出してしまうからだ。
そして目の前で無惨に息絶えたこの幼き皇子もまた、底知れぬ巨利の連鎖に呑み込まれた結果であることは疑いようもなかった。
しかし、カリーナにはどうしても解せなかった――神聖なる皇統を屠り、帝国近衛騎士団による焦土作戦の危険を冒してまで手に入れるべき利益とは、一体何なのだというのか。
カリーナは薄く目を細め、吊り下げられた死骸を寸分違わず検分した。
現在のノーランド帝国において、クロードの皇太子の座は盤石にして揺るぎない。
目の前で転がっている十歳そこそこの、身分の低い側室から生まれた小皇子など、政治の天秤において波風一つ立てられる器ではなく、政争の駆け引きの道具にすらなり得ないのだ。
ましてや皇位継承を巡る血で血を洗う暗闘の標的など論外である。
第一に、皇室内の骨肉の争いではない。
第二に、真っ当な裏社会の組織が弾き出すべき危険管理と損益分岐点の計算に、まるで適っていない。
この荒唐無稽で冒涜的な、常軌を逸した凶行の手口は、常に盤上を支配してきた北境の大公爵をして、陰湿な穀物蔵の闇の中でかつてない深い霧の中へと沈み込ませていた。
カリーナが眉根を寄せ、思考の袋小路へと囚われかけたその時、彼女の腰に佩かれた黒鉄の魔導通信器が、緊急事態を告げる深紅の光脈を突如として明滅させた。
術式展開の低音とともに、通信機の向こうからルーカスの声が響いた。
動揺もなく、取り乱した様子もない。過酷な強行軍の最中にあるがごとき一定の低い呼吸を保ちながらも、その声音に宿る殺気は、極北要塞に吹き荒れる吹雪よりも冷徹に研ぎ澄まされていた。
「……叔母上、私です」
通信の背後からは、異様な雑音が微かに漏れ聞こえていた。煮えたぎる熱湯が激しく泡立つ音、そして石壁を何かしら粘りつく泥状のものが滑り落ちる湿った音だ。
カリーナは表情を一切崩さず、指先で通信機の結晶を叩いた。
「どこにいる?」
「温泉郷の深層地下、雲海閣の直下四十メートルに位置する廃棄水路の幹線内部です」
ルーカスの報告は淀みなく簡潔であり、歴戦の将校たる軍事的作法そのものだった。
しかしそれゆえに、彼の口から紡がれる言葉の一粒一粒が、尋常ならざる恐怖を際立たせていた。
「そちらの蔵にある皇子の遺体は、調合を終えて搬出を待つだけの単なる完成品に過ぎません。真の『加工工場』は、この地下水路にあります。……ここの規模は、もはや通常の犯罪組織の領域を逸脱しています」
ルーカスが通信機の探査同調を展開させた瞬間、魔力の波長が編み上げた立体映像が、古い寺院の蔵の中に立つ四人の眼前に淡く揺らめきながら浮かび上がった――
そこは、完全に生体屠殺場へと改造され果てた地下の暗渠だった。
光など一筋も差し込まず、大気には高濃度の硫黄、腐植酸、そして数百度の熱気で蒸し煮にされ発酵したタンパク質の異臭が立ち込めている。
足元の溝には、剥がれ落ちた産毛と皮下脂肪の混ざり合った、脛の高さまで達する黄白色の凝固した脂の澱みが堆積していた。
水路の両脇の湿り気味な岩壁には、錆びた鉄格子で組まれた狭隘な檻が、数千もの蜂の巣のようにびっしりと溶接されている。
その中を埋め尽くしていたのは、子供たちだった。
誰もが衣服を剥ぎ取られ、四肢を無残にへし折られて関節を逆さに曲げられた状態で狭い鉄枠の中に押し込められている。
腹部は異様に膨れ上がり、皮膚の下には青黒い寄生性の脈絡が血管のように蠢いていた。
口には猿轡が噛まされ、錆びた針金が両頬を貫いて縫い止められている。喉には黄ばんだ竹筒が深く突き刺さり、辛うじて息絶えぬよう、極めて微弱な生命代謝を強制的に維持させられていた。
そして暗渠の中央を貫く本流には、地熱によって沸騰し白煙を吹き上げる「浸漬槽」が一列に連なっていた。
白濁した泡が煮え滾る湯面には、粗末な麻布で茶包のごとくぎちぎちに縛り上げられた子供たちの肉体が、何十体と浮かび上がっている。
正体不明の黒褐色の薬液と混ざり合った熱湯が、麻布の網目を何度も激しく洗い流していた。
水流に揉まれて裂け散った布包の隙間からは、過酷な熱と劇薬の二重抽出によって皮膚が広範囲に爛れ落ち、引き裂かれた綿屑のように湯の中で白く漂う肉の繊維が剥き出しになっていた。
胸部は無惨に切り開かれ、あらゆる精血、生気、骨髄が強制的に煮出され、煮え立つ水面に分厚い琥珀色の濃縮油脂となって浮かび上がっている。
さらに奥の淀みには、すでに灰汁まで絞り尽くされ、枯れ木のように積み重ねられて京観と化した、何千という微細な残骨が山を築いていた。
それは、規格化され工業化された、生きた人間を素材とする抽出の生産ラインだった。
通信機の向こうで、ルーカスが腰の長剣を抜いた。硬質な金属音が澄み渡り、青年の声音には微塵の動揺も混じることはなかったが、その語尾には死神の如き冷酷な断罪の響きが宿っていた。
「……対象の総数は三百を超過。生存価値は皆無、全員が深層調合による不可逆の壊死状態にあります」
歴戦の若き将は平然と現場の損害を陳述し、次いで冷徹な戦術判断を下した。
「叔母上、これは単なる商業目的の長生湯などではありません。この抽出規模と純度……黒幕はこれら数百もの子供の命を使い、この地下深くに潜む何某かの『存在』へ……規格外の高純度生体燃料を一括供給しています」
ルーカスの冷徹な戦況報告が途切れ、蔵の静寂の中に、甕の底へ琥珀色の滴が落ちる音だけが再び響き渡った。
「数百の子供の生命精華を、高純度の養料として捧げる、か……」
ヴァレリーが低く呟いた。長杖を握る指先こそ強張っていたものの、当初その瞳を支配していた本能的な戦慄や拒絶は、ものの数秒のうちに急速に冷却され、沈澱し、最後には冷ややかな学術的観察の光へと変貌していった。
邪神への生贄。
この広大にして古き大陸において、その言葉は決して孤立した特異点ではない。七大陸の辺境の集落、深山幽谷の町々には、表沙汰にできぬ土着の神格がいくらでも潜んでいる。
それらは古の地脈の霊脈に巣食うこともあれば、底知れぬ溶岩の深淵に蟠ることもある。
そして帝国と教廷の峻烈なる教義において、正神と偽神を分かつ境界線など極めて短絡的なものだった――生きた人間の命を啜り、血肉の代償をもって祈りに応える存在は、漏れなく「邪神」の檻へと叩き落とされる。
クレアの傍らに立つルシアの張り詰めていた神経もまた、奇妙な緩やかさをもって鎮まりつつあった。
胃の腑を掻き乱していた吐き気は引き潮のように引いていき、代わりに胸を占めたのは、地球からの転移者として歴史の痛烈な皮肉を直視した瞬間の、冷え切った虚無感と諦観だった。
彼女が無意識に顔を上げると、ヴァレリーの金の瞳がちょうどこちらを向いた。
薄暗い魔晶核の光の中で二人の視線が音もなく交錯し、現代的な歴史教育を授かった文明人ならではの、複雑極まりない感情が互いの眼窩の奥で火花を散らした。
突き詰めれば……生贄による人身供犠など、人類の歴史という濁流において何を今さら驚くべきことがあるというのか。
魔法など一切存在せず、凡夫の肉手のみで築き上げられた地球の故郷においてすら、歴史の頁を捲れば行間から滴り落ちる血の匂いは、目の前の温泉郷の地獄に劣っていた試しなど一度としてない。
ルシアの脳裏に、前世で読んだ文献の断片が過った――中米アステカ帝国の太陽神の祭壇の上で、神官たちは黒曜石の短剣を振るい、捕虜や処女の胸を生きながら抉り開けた。
神殿の落成式においてはわずか数日の間に数万の拍動する心臓が抜き取られ、熱い血潮がピラミッドの階段を洗い流せぬ赤黒さで染め上げたという。
ヴァレリーもまた、同じ記憶を反芻しているのは明白だった。東洋の古き築城や架橋の歴史において、無垢な童子を騙して基礎の奥底へ生き埋めにした「人柱」の風習。
風雨の順調を乞うために竹籠に詰められ、河伯の嫁として濁流の底へ沈められた童男童女。あるいは中世ヨーロッパにおいて悪魔祓いの美名のもと、業火に焼かれ炭と化した無数の魂……。
天候の安寧を求め、支配者の恒久なる権威を保つためならば、人が同胞に対して振るう残虐性に、本物の神や悪魔の介在など端から必要とされていないのだ。
「……反吐が出るほど、皮肉な話ね」
ヴァレリーが掠れた声で自嘲し、長杖の晶核の表面を指先でなぞった。先ほどまで胸を焦がしていた道徳的な憤慨や嫌悪感は、悠久の歴史の厚みの前にはあまりにも薄っぺらく色褪せて見えた。
文明と法治の社会から来たと自負する現代の魂を持ち、数千年におよぶ共食いの歴史を学び、工場という名の生産ラインで生きた人間から余剰価値を搾り取る極限の冷酷さを知る自分たちが……
今さらこの弱肉強食の異世界を野蛮だと見下し、指弾する資格がどこにあるというのか。
子供の生肉を茶包に仕立てて薬油を搾り取るこの地下の暗渠も、この世界の欲望と狂気が、魔導錬金術の装束を纏って立ち現れただけに過ぎないのだ。
ルシアはゆっくりと視線を伏せ、その表情をいつもの冷静で、どこか陰険な計算高さを孕んだ錬金術師のそれへと完全に引き戻した。
彼女はクレアの胸元からすっと身を起こし、幅広の袖の中で両手を重ねると、袖底に潜ませた【刻刻】の冷たい外殻へ指先を無意識に這わせた。
これが単なる快楽殺人ではなく、明確な企図を以て組織された高位の生体儀式であるならば――
この温泉郷の空間構造、地脈の流れ、そしてこの穀物蔵と地下水路の位置関係は、錬金術の魔方陣演算において、決して無作為に配置されたものではない。
残酷であるか否かなど、もはや思考を割くに値しない。
これが「儀式」として成立している以上、術式が完成を見る前に、温泉郷全土の地下に張り巡らされたこの悪意の蜘蛛の巣には、必ずただ一つの心臓部が存在するはずなのだ。




