茹でられた皇子と、戦々恐々たる温泉郷
夜の色が深まるにつれ、松風閣の内庭に渦巻く喧騒と暗流は、重厚な障子戸の向こうへと完全に遮断されたかのようだった。
室内には細やかで柔らかい藺草の畳が敷き詰められ、足を踏み出せば微かに干し草の清々しい香りが漂う。
床暖房と部屋の隅に置かれた精巧な透かし彫りの炭団が部屋中を満開の春のように暖め、炭火の上では甘みを含んだ黒豆茶の鉄瓶が温められていた。
立ち昇る湯気は特製の沈香が持つ淡雅な芳香と混ざり合い、薄暗く温かな行灯の光の下でゆらゆらと輪を描いている。
窓の外からは、長生湯の湯を引く筧が「カタン」と澄んだ竹の音を響かせ、この密やかな空間の柔らかさと居心地の良さを一層際立たせていた。
畳の中央には、侍女たちの手によって極めて豪奢で分厚い羽毛と絹の布団が敷き並べられている。
その布地は帝都の最高峰の織物司から献上された生成りの雲錦であり、触れれば凝脂のごとく滑らかで、焼き立てのスフレのようにふっくらと膨らんでいた。
しかしながら、骨抜きにされそうなこの至福の寛ぎも、今まさに精神崩壊の危機に瀕しているルシアの心を微塵も慰めることはできなかった。
あろうことか、その純白で柔らかな布団の中央には、丸々と固く膨らんだ巨大な布の塊が転がっていた。
ルシアは頭を下へ、尻を上へと向け、頭の天辺から爪先までを布団の最深部へと完全に巻き込み、一切の隙間もない、凄まじい怨念を撒き散らす「人間春巻き」と化していたのだ。
「ぐぬぬぬ……っ」
布団の奥深くからは、まるで小動物が歯ぎしりをするかのような音が響き、時折シーツが激しく波打っている。
中でルシアが怒りに任せて足をバタつかせている証拠だった。
(なんなの……なんなのよ、それぇぇっ?!)
ルシアは火照った頬を冷たく滑らかな枕へ力任せに押し付け、両手で布団の端を握りしめた。漆黒の布団の中で、その深緑の瞳は怒りのあまり発火せんばかりに見開かれている。
先ほどルーカスが口にした一言一句が、今や毒を塗った錬金ナイフとなって、ズタズタに傷ついた元社畜の心臓を容赦なく切り刻んでいた。
半年に一度の強制精密健診! 不合格なら有給の強制療養休暇!
装備は全額公費で強制廃棄および新品更新! 子女の教育費は公爵直筆の推薦状付きで王立学院へ無試験推薦!
現場で不祥事が起きればトップ自らが泥を被って尻拭いをし、大失敗しても減給処分すらなく、たった一ヶ月の振り返りレポートの提出だけで済む?!
これが封建軍閥のやることか?! こんな破格の好待遇、前世の現代地球でガトリングガンをぶっ放してブラック企業の経営陣を全員ミンチにしたって、十分の一すら叶えてくれる聖人君子なんて見つかるはずがない!
それなのに、自分はどうだった?!
地球での前世、彼女はブラックコーヒーを胃に流し込みながら連日深夜二時まで残業し、上司からは「若いうちの苦労は買ってでもしろ、会社はお前を見捨てない」と絵に描いた餅を食わされ続け、挙句の果てにボーナスは全額カット。
重度の胃潰瘍で救急搬送された病室のベッドの上ですら、スマホには「このパワポ定時までに直して送れ」という通知が狂ったように届いていたのだ。
ようやくこの異世界へ転生し、北境の公爵邸へ潜り込んだ時、今度こそ錬金術で一発当てて成り上がってやると信じていた――なのに! 蓋を開けてみればどうだ!
北境軍団の連中と来たら、床を掃く下僕から前線で首を刈る死士に至るまで、誰も彼もが多国籍メガベンチャー並みの超絶ホワイトな福利厚生を享受しているではないか。
ただ一人、このルシアを除いて! カリーナからは日夜冷徹な視線で脅され、ルーカスからは危険分子として泥棒を見るような目で監視され、朝から晩まで錬金兵器の製造にこき使われ、残業手当どころか危険手当の銅貨一枚すら拝んだことがない!
(要するに……要するに、世界中で私だけが都合のいいカモだったってこと?!)
ルシアの呼吸は激しく乱れ始めていた。
(前世も今世も、私は資本家どもの使い捨てカモとして二度も人生を搾取されたっていうのぉぉっ?!)
考えれば考えるほど悔しさが込み上げ、理不尽の極みに気が狂いそうになる。
底辺労働者として貪り尽くされた前代未聞の屈辱と、「もし前世の公爵邸で素直に従っていれば、毎日ゴロゴロしながら手厚い手当を貪り食えたのではないか」という精神崩壊寸前の後悔が綯交ぜになり、ルシアの全身は怒りでガタガタと震えていた。
尻尾を踏まれた子猫のように、彼女は布団の中で我が身をこれでもかと小さく縮こまらせ、膝を抱え込んで完全な球体となって引き籠もる。
「……クソアマ、破廉恥、大嘘つき……白髪のイカれ女……資本家の犬め……どいつもこいつも全員地獄へ落ちろ……」
分厚い羽毛布団を隔てて漏れ出てくるくぐもった罵詈雑言は、蚊の鳴くように細く、感情の昂ぶりゆえに鼻にかかった震えを帯びていた。
殺傷力など微塵もなく、端から見れば拗ねて駄々をこねているようにしか聞こえない。
公務の差配を終え、夜風の冷気を微かに纏って奥の間へと足を踏み入れたカリーナの目に飛び込んできたのは、まさにその光景だった。
長身で優雅な女公爵は眉をわずかに上げ、深紅の血眸を畳の上へと走らせる。
そこでは「フシュー、フシュー」と黒煙でも噴き出さんばかりに湯気を立て、時折悔しそうにその場で跳ねている白い布団の塊があった。
カリーナの唇の端に、極めて淡く、しかし危険な笑みが浮かび上がる。素足のまま音もなく歩み寄り、布団の塊の傍らへと優雅に腰を下ろした。
白くしなやかな指先を伸ばし、繭の中に籠もる幼虫をからかうように、布団越しにわずかに盛り上がった小さな尻のあたりを、トン、と悪戯っぽく突いた。
「中で何をしているのだ? 私の専属錬金術師のお嬢さん……顔も出さずに、そのまま窒息死するおつもりか?」
布団の奥の蠢きが、ピキリと凍りついた。
次の瞬間、その綿布団の塊は当てつけのように内側へ向かって勢いよく半回転し、背中をカリーナに向けた。さらには布団の隙間から、激しい鼻声の、ギリギリと歯を鳴らすような冷たい唸り声が響いた。
「……寄らないで! 私、辞職しますからねッ!!」
丸まったままの布団の塊を見下ろし、カリーナの瞳の奥の愉悦は一層深まった。
この小さな獲物が一体何に不満を抱いて拗ねているのか、彼女には手に取るように分かっていた――北境軍団の手厚い待遇を知ったことで、前世における残酷な搾取の記憶が引き裂かれ、心がへし折れたのだ。
ただ惜しむらくは、自分を抱きしめているこの女が、前世の記憶をすべて持ち越して愛を注いでいるなどとは、ルシアはいまだ夢にも思っていないということだ。
ゆえに、今のルシアの天を突く悲憤と抗議も、傍から見ればただの仔猫が一方的に癇癪を起こしているようにしか映らない。
カリーナはルシアを布団ごとまるごと腕の中へとすくい上げ、巨大な繭を抱きかかえるようにして、己の腿の上へとどっしりと据えた。
分厚い羽毛越しに、白く長い指先で優しく背を撫でる。その手つきはどこまでも辛抱強く、怯えた幼獣を宥めるかのように慈愛に満ちていた。
「世の者どもは男も女も、帝都の誰もが公爵家の権勢と富を血眼になって渇望している」
カリーナは伏し目がちに、吐息を絡ませるように囁いた。薄い浴衣の生地越しに、ルシアの浮き出た肩甲骨と細い項をなぞる。指先に伝わるのは、あまりにも痛々しい肉の薄さだった。
ここ数ヶ月、山海の珍味を惜しみなく与え、最高級の薬膳や滋養強壮の品を欠かさず注ぎ込んできたというのに、この小柄な肢体はいまだ胸が痛むほどに華奢なままだ。
成長期をとっくに過ぎてしまえば、かつてズタズタに損なわれた肉体を再びふくよかに養い直すなど、気の遠くなるような時間を要する。
カリーナは低く笑みを漏らした。
「ゆえに、かつての私は真実の愛などという戯れ言を露ほども信じていなかった……だが今は違う。我がルシアよ。そなたが頷きさえすれば、今この瞬間にでも、グラフィオン公爵夫人とシルヴィア侯爵夫人の至高の座を同時にその手に収めることができるのだぞ。帝国の第一皇女にすら許されぬ至上の特権だというのに……そなたが頑なに拒み続けているだけではないか」
「それって、私自身を丸ごと売り飛ばせって言ってるのと同じじゃないですかぁっ?!」
もぞもぞと蠢く布団の隙間から、ぼさぼさの黒髪の頭が勢いよく飛び出した。
ルシアの小さな顔面は真っ赤に沸騰し、その深緑の瞳には社畜の不屈の怒号が燃え盛っていた。国を傾けかねぬ絶世の美貌を誇る女公爵を、真正面からキッと睨みつける。
しかしカリーナは涼やかに微笑んだまま、眉一つ動かさなかった。膨れっ面を浮かべるルシアの頬をパン生地のように優しく捏ね回しながら、流し目をくれ、傍らに静かに佇んでいたクレアへと目配せを送った。
意図を察したクレアは、優雅にその菫色の長い髪を払うと、音もなく畳を滑るように近づいて腰を下ろした。
冷たく柔らかな指先を伸ばし、ルシアの額に乱れた前髪を優しく払い除けると、そのまま身を屈め、少女の熱く火照った頬へとこの上なく軽やかな口づけを落とした。
「ルシア、貴女は……私たちの身分と器量をもってして、帝国中にどれほどの求婚者がいると思っているの?」
クレアの聲音は相も変わらず鈴を転がすように甘美で、春の雪解け水を思わせた。
しかし、薄暗い行灯に照らされたそのスミレ色の瞳の奥底には、骨の髄まで凍りつかせるような粘つく執着の光が揺らめいている。
「世間の目に映る貴女はね、私たち二人を独占しているだけで、身に余る神の恩寵を賜っているのよ。……それなのに、まだご不満がおありなのかしら?」
ルシアの全身の産毛が一斉に逆立った。
水のように優しい声色。だが、危機察知能力に長けたルシアの防空警報はけたたましく鳴り響いていた。これは警告だ。紛れもない上位者からの最後通牒に他ならない。
彼女は誰よりも弁えていた。目の前のこの女たちは、世間一般の生ぬるい恋人などではない。
嫉妬に狂えば文字通り相手の顔の形が変わるまで叩きのめし、純金の鎖で地下室の奥深くに飼い殺すことすら躊躇わない、本物のヤンデレなのだ。
ライトノベルに描かれるような「機嫌を取って頭を撫でておけば従順になる」などという甘っちょろい妄想は、この過酷な現実の前には塵となって吹き飛ぶ。
ヤンデレと付き合うというのは、感応式地雷が埋め尽くされた地雷原の上でタップダンスを踊るようなものだ。
常に機嫌を伺い機転を利かせるだけでなく、相手の底なしの不安という名の怪物と命懸けで競い合わねばならない。
仮に現実のルシアが何一つやましい真似をしていなくとも、カリーナが夜中に「ルシアが逃げ出した悪夢」を見ただけで、翌朝目覚めた彼女の手によって、予防線を張るために何食わぬ顔で両足をへし折られる可能性すらあるのだ。
理不尽か? 死ぬほど理不尽だ!
しかしそれが現実であり、ルシアの骨の髄には、この二人の女に対する絶対的な恐怖が深く刻み込まれていた。
二つの強烈な威圧の狭間でルシアが息を殺していたその時、カリーナは不意に笑みを収め、抱きしめていた腕の力を緩めた。
「クレア、今宵はルシアの側に付いていてやれ。私には直々に片付けねばならぬ公務ができた」
カリーナが立ち上がる。漆黒の浴衣の裾が、空気を切り裂くように鋭い弧を描いた。
ルシアの頭の中のくだらない愚痴などに構っている暇はなかった。現在、戯れ事の百倍は厄介な非常事態が発生していたからだ。
クレアの表情から一切の艶めかしさが消え去り、紫の瞳が微かに陰った。
「……先ほどの百人長からの急報ですか? 行方知れずの小皇子が見つかったと?」
カリーナを最も深く理解するクレアだからこそ、その統御の流儀を知り尽くしていた。配下には最大限の権限と信頼を預け、決して現場に口出しをしない。
だが裏を返せば、カリーナが「自ら介入する」と決断した時点で、事態は通常の処理能力の限界を超えたことを意味していた。
「ああ」
カリーナは背を向け、薄暗い行灯を背にして、白壁に長大で禍々しい影を落とした。その声には体温の一欠片すら宿っていない。
「見つかったよ。……もっとも、茹で爛れた骸の姿でだがな」
「ひぃっ?!」
先ほどまで死んだふりを決め込もうとしていたルシアから素っ頓狂な悲鳴が上がり、まるで熱湯を浴びせられたかのように跳ね起きて布団を跳ね飛ばした!
履物すら履く間もなく、畳の上をごろりと転がり、その勢いのまま隣にいたクレアの胸元へと尻餅をつくように飛び込んだ。
クレアの冷ややかな腕に縋り付き、その顔には驚愕と信じがたい動揺がありありと浮かんでいた。先ほどまでの怨念渦巻く社畜の姿など消え失せ、その深緑の双眸は限界まで見開かれている。
カリーナが振り返り、怯えたウズラのようにクレアの腕に縮こまりながらも、全身を張り詰まらせているルシアを見つめると、その瞳の奥にすべてを察した怪しい光が走った。
彼女はルシアという女を知り尽くしていた。命を惜しみ、事なかれ主義で平穏を貪りたがっているように見えて、その実、高位の錬金術師特有の狂気じみた知的好奇心と冒険の狂気が骨の髄に脈打っている。
皇族の変死、そして地下に巣食う奇怪な黒幕――その巨大な危険の匂いこそが、最も甘美な劇薬となって、長く幽閉されていたルシアの好奇心を激しく刺激したのだ。
「どうした……現場について来たいのか?」
カリーナは眉を吊り上げ、逃れがたい餌をこれ見よがしに投げ落とした。
ルシアの心臓が跳ね上がった。脳内では「好奇心は猫をも殺す、社畜は余計な首を突っ込むな」と猛烈な警鐘が鳴り響いていたが、一方で「皇子の暗殺」の裏に潜む陰謀と錬金術の痕跡をこの目で確かめたいという衝動を抑えきれなかった。
彼女の首が、誰の目にも止まらぬほど微かに縦に揺れた。
小猫がまんまと罠に掛かったのを見て取り、カリーナは小さくため息を漏らすと、歩み寄ってその白く滑らかな掌でルシアの乱れた黒髪を乱暴に掻き撫でた。
どうやらここ最近は閉じ込めすぎたらしい。このような血生臭く奇怪な殺害現場にすら、外の空気を吸いたさに目を輝かせる始末なのだから。
しかし次の瞬間、女公爵の纏う気配は急転直下に凍りつき、北境の統帥としての冷徹な覇気が濁流となって解き放たれた。
「十分やる。身軽な戦闘装束に着替えろ。クレア、お前も得物を持て」
カリーナの眼光が室内の全員を刃のように撫で回し、一切の反論を許さぬ重みで下命した。
「温泉郷の膝元で皇子に手を下すなど、相手の力量も懐の深さも計り知れん。一歩外に出れば、クレア、何が起きようと貴様の唯一の任務はルシアの身を守ることだ――万が一にも戦況が瓦解した時は、私に構わず、即座にこいつを連れて戦線を離脱しろ」
カリーナは踵を返し、黒い浴衣の裾が冷涼な夜風を孕んで軍旗のように翻った。
敷居を跨いだ瞬間、先ほどまでの気だるく危険な閨の空気は、統率者としての冷徹な殺気へと完全に塗り潰されていた。
渡り廊下へと出ると、その深紅の双眸は迎え出た二人の姿を射竦め、間髪を入れずに指示を飛ばした。
「ヴァレリー、帝都魔法学院の筆頭正教授たるお前だ。帝国の直系皇族が管轄区域で惨殺された以上、帝都からの査問調査を突っぱねる道理はあるまい。私と同行しろ。大義名分が立つ上に、私の視界の内にいれば、暗がりで何者かに口封じされる心配もなかろう」
「ふん、大公爵閣下の至れり尽くせりなご配慮には、涙が出そうね」
ヴァレリーは鼻を鳴らしたが、その整った顔立ちから不真面目な色は完全に削ぎ落とされていた。
皇室の出資によって設立された帝都魔法学院は、本質的に皇権の延長線上にある。
皇子の変死という国家を揺るがす不祥事に対し、学院の最高戦力かつ魔導技術の最高権威である教授として、彼女は第一現場の記録を誰よりも先に入手せねばならないのだ。
彼女は傍らの衣桁から、夜の色をそのまま縫い留めたような漆黒の魔女のローブを乱暴にひったくると、手際よく身に纏った。
微かな魔力の揺らぎと共に大気の光が歪み、大人の背丈ほどもある、先端に暗紫色の魔晶核を嵌め込んだ古色蒼然たる長杖が無言のうちにその掌へと収まった。
もう一方では、ルーカスが足早にカリーナの傍らへと歩み寄っていた。カリーナはわずかに首を傾げ、二人は極めて短く、低く押し殺した声で二言三言と言葉を交わした。
ある単語を耳にした瞬間、青年の眼光が戦慄を帯びて激変した。柄に掛けられた指先が白くなるほどに力任せに握り込まれる。
彼は異論を差し挟むことなく、カリーナに対し厳粛に片膝を突いて軍礼を捧げると、弾かれたように身を起こし、剥き出しの殺気を引き連れて松風閣を飛び出し、夜の帳の中へと疾風のごとく消え去った。
クレアの手を借りて籠手を締め終えたルシアが顔を上げると、ちょうどルーカスの飛び去る背中が闇に呑まれるところだった。
彼女が無意識に視線を巡らせると、目を細めてこちらを見つめるヴァレリーの金色の瞳とぶつかり合った。
二人の視線が虚空で交錯する。数々の修羅場をくぐり抜けてきたルシアと、魔法の権威たるヴァレリーは、互いの瞳の奥にある重苦しい予感を、寸分の狂いもなく同時に読み取っていた。
これは単なる捜査の人員配置ではない。
カリーナが帝都学院のヴァレリーをあえて側元に縛り付けたのは、一見すると共同捜査に見せかけて、皇室勢力の技術代表を第一発見者の証人として抱き込むためだ。
だが、この極限の状況において、カリーナは北境の唯一の正統後継者であり、軍団屈指の強大な戦力であるルーカスを単独で別行動へと走らせた。
公爵本人と、未来の公爵継承者が二手に分かれて動かざるを得ない――それは、直面している危機が、到底一つの現場で同時に処理できる規模ではないことを雄弁に物語っていた。
ルシアの胸に重い冷気が落ちていく。研ぎ澄まされた直感が、頭の中で散乱する情報の破片を恐るべき速度で繋ぎ合わせていた。
カリーナにここまで警戒を強めさせ、ルーカスに危険を冒して単独行動を取らせる要因が、ただ一柱の「皇子の遺骸」だけで片付くはずがない。
あの熱気に包まれた温泉郷の地の底深くで、奴らは他にも「何か」を見つけ出したのだ。
皇族の変死に勝るとも劣らない、地獄の如き惨状――例えば、同じく温泉郷で行方をくらませていた、帝国の筆頭名門貴族の跡取りの遺骸か。
あるいは、長年にわたって神隠しに遭い、ついに日の目を見ることになった、数百人に及ぶ平民の子供たちの成れの果てか。




