温泉郷の陰謀と、メンブレ社畜
松風閣の室内には、かすかな苦味の中に甘さを孕んだ沈香の香りが漂い、庭の向こうから微かに立ち昇る硫黄の白煙と混ざり合って、奇妙な静けさを醸し出していた。
とっくに湯浴みを済ませ、清潔な無地の和風浴衣に着替えたルシアは奥の間へと戻り、分厚いクッションが敷かれた長椅子へとその微かに軋む身体を沈めた。
彼女は脇に置かれていた冷えたガラス瓶入りの牛乳を手に取ると、親指で小気味よく紙蓋を弾き飛ばし、ごくごくと一気に半分以上を煽り立てた。
冷たく甘美な乳白色の液体が喉を滑り落ち、先ほど長生湯の中で息が詰まるほど口づけされた熱気と疲労を、ようやく少しばかり鎮めてくれる。
口元の雫を拭いながら、ルシアの視線は向かいの低い寝台に腰掛けるカリーナへと向けられた。
女公爵は気だるげにすらりと白い脚を組み、漆黒の重厚な浴衣の胸元を無造作に寛げ、息を呑むほどに艶やかな鎖骨と素肌を覗かせていた。
その長い指先は、部下が運んできた暗号化された羊皮紙の巻物を無造作につまみ、深紅の血眸を伏せ、冷淡かつ鋭い眼差しで記された情報に目を通している。
しかし、ルシアの目元を真に引き攣らせたのは、カリーナの足元に跪いている男の姿だった。
一目見ただけで百戦錬磨と知れる死士――冷徹な黒装束を纏い、剥き出しになった両腕には魔物の爪に引き裂かれ縫合されたおぞましい傷跡が幾重にも刻まれ、全身からは幾多の屍山血河をくぐり抜けてきた濃密な殺気が漂っている。
帝国のいかなる戦場においても人間凶器と持て囃されるはずの屈強な戦士が、今や恭順そのものの態度で、寝台の前の絨毯に両膝を突いていた。
男の前には、真っ白で清潔な手ぬぐいが整然と敷かれている。
まるで爆発寸前の爆弾でも解体するかのような真剣な面持ちで、その無骨ながら驚くほど器用な指先でカリーナの線条の整った、淡い桜色の足首を慎重に支え持っていた。
もう片方の手には極めて精巧な金剛砂のヤスリを握り、もはや芸術と呼ぶべき熟練の技で女公爵の足の爪の縁を研ぎ澄まし、柔らかい鹿革を使って爪の一面一面を水晶のように滑らかに磨き上げている。
ルシアが牛乳瓶を握る手は、宙で完全に凍りついていた。
彼女はずっと、泥や凍土、そして鮮血を日常茶飯事に踏み躙ってきたはずの北境の殺神が、なぜ深窓の令嬢のように粉のように白く瑞々しい素足を保てているのか不思議でならなかったのだ。
何か人知を超えた肉体鍛錬の秘術でもあるのかと思っていた。
蓋を開けてみれば、なんのことはない。北境軍団の死士は、裏でフットケアの専門家まで兼任していたというわけか。
その死士が清冽な薬草の香りを放つ保湿乳液の小瓶を取り出し、的確な手つきでカリーナの足裏のツボと足首を揉みほぐし始めたその時、沈思していた女公爵がようやく冷ややかに口を開いた。
「この件、お前で片付けられる見込みはどれほどだ?」
その声はさざ波一つ立たぬほどに平坦で、羊皮紙から視線すら外さなかったが、上位者たる絶対的な重圧が実体となって降り注ぎ、室内の空気を一瞬にして凍りつかせた。
並の貴族の配下であれば、この時点で冷や汗を流し、恐れおののいて平伏し忠誠を誓い直すところだろう。
だがカリーナの足元に跪く死士の手先は微塵も揺らぐことなく、淡々と乳液を塗り広げながら、氷のように冷静沈着な声で応じた。
「皇太子殿下の主たる命が、行方知れずの子供の捜索であるならば、草を打って蛇を驚かせることなく突破口を穿つ自信がございます。されど温泉郷の地下勢力は複雑に入り組んでおりますゆえ、百人長級の隠密精鋭二名、ならびに一か月分の物資の手配を願いたく存じます」
カリーナが羊皮紙をめくる指先が僅かに止まり、深紅の瞳が薄暗い行灯の光に怪しく揺らめいた。
「人員を極限まで絞り、機動力をもって温泉郷の裏を洗う腹積もりか?」
「御意。頭数が多ければ、かえって地の底の耳目を刺激いたします」
ルシアと、傍らにいたヴァレリーは極めて奇妙な視線を交わし合った。
濃密な殺気を放つ底知れぬ百人長が、数秒前まで人を殺めるその手で女公爵へ完璧なスキンケアを施していたかと思えば、次の瞬間には顔色一つ変えずに特殊潜入作戦を献策している。
その凄まじいギャップに、現代人としての前世を持つ二人は口元を激しく引き攣らせるしかなかった。
「許可する」
カリーナは羊皮紙を巻き取り、つま先を微かに動かして手入れの終わった長い脚を引き戻すと、淡々と下命した。
「物資と権限は一か月分を認める。だが、与える猶予は十日だ――十日以内に元凶を突き止められねば、私が直々に介入する。分かったな?」
「御意に」
百人長は恭しく手ぬぐいと道具を整然と仕舞い込み、深々と頭を下げた。
次の瞬間、室内には魔力の揺らぎすら一切生じることなく、彼の姿は夜風に掻き消された青煙のごとく、その場から跡形もなく消え去った。
その神技めいた隠密と暗殺の力量に、ルシアは思わず舌を巻く。
「何か大事でも起きたの? あんな手練れの死士を動かすなんて」
ルシアは保身と好奇心に抗えず、空になった牛乳瓶を置いて低い声で尋ねた。
少女の声が耳に届くや否や、氷の如く張り詰めていた女公爵の表情は一瞬で綻んだ。カリーナは唇の端を吊り上げ、抗いがたい優雅さと甘やかさを湛えて手招きした。
「おいで」
ルシアは身構えるように唇を結んだが、言い訳を思いつく間もなく、カリーナの長い腕に抱き寄せられ、湯上がりの芳香を纏う温かな懐へと鮮やかに拐かされた。
「う……」
抗議の声を上げる間もなく、その頬は冷たい指先に軽く抓られた。カリーナは長い睫毛を伏せ、隠しようもない溺愛を滲ませて囁く。
「温泉郷では長年、子供たちが忽然と姿を消す事件が続いていてね。そなたに異様な執着を見せるあの皇太子クロードも、早くからこの件に目を光らせていたらしい。私たちが温泉郷へ足を運んだと聞きつけ、門閥の掃除を『ついで』に片付けてほしいと早馬を寄こしてきたのだ」
カリーナは言葉を切り、細い指先でルシアの黒髪を一筋もてあそびながら、全員の理性を粉砕しかねない爆弾をあっさりと落とした。
「今回はクロードだけでなく、第一皇女までもが直々に微服でこの地へ調査に赴く手筈になっている。……半月前、皇家の幼き庶出の小皇子が、この温泉郷の境内でぷっつりと消息を絶ったからだ」
「皇子にまで手を出すなんて?!」
傍らに座っていたヴァレリーが勢いよく上体を起こし、金色の瞳を鋭く眇めた。その一言が、部屋の温度を一気に氷点下へと叩き落とす。
皇族の血を引く者の外出となれば、いかに冷遇された庶出の皇子であろうと、皇室近衛と宮廷魔導士の護衛が厳重に敷かれていたはずだ。
その包囲網を潜り抜け、誰にも気づかれぬまま連れ去り、帝都に半月も箝口令を敷かせた上で大物に自ら足を運ばせる事態――この温泉郷の底に沈む泥濘は、総毛立つほどに深い。
ルシアもまた心臓を跳ねさせたが、カリーナの腕の中に固く抱きすくめられたまま、この重苦しく危険な空気を振り払おうと、ことさらに顎を上げて挑発混じりにそっぽを向いた。
「それにしても……公爵閣下は軍中において、ずいぶんと慕われていらっしゃるのね。百人長自らに傅かれ、下命も絶対。ひょっとして……私に対するよりも、部下への扱いのほうがずっと手厚いんじゃない?」
それは明確な地雷だった。カリーナが北境の興亡を双肩に背負い、極限の事態となれば公爵の冷徹な理性であらゆるものを切り捨てることなど、ルシアには痛いほど分かっていた。
彼女がそう口にしたのは、ただ湯舟の中で散々に玩ばれた鬱憤を晴らすべく、言葉の針で刺してやろうとしただけの戯れ言に過ぎない。
ところがカリーナは気を悪くするどころか、低く掠れた喉鳴らしのような忍び笑いを漏らした。
彼女は身を屈め、ルシアのつむじへ親愛を込めて顎を寄せると、甘く危険な声音を耳元に落とした。
「そう言われれば、その通りかもしれんな……。なにせ私は、部下の両足をへし折って窓のない奥座敷に閉じ込め、日夜貪り尽くそうなどと考えたことはない。その一点においてのみ言えば、奴らの境遇のほうが、そなたより遥かに恵まれているだろうよ」
「な……この口の上手い女狐が!」
ルシアの顔は一瞬で耳の付け根まで真っ赤に染まり、羞恥と憤怒のあまりカリーナの胸元へと頭を突っ込み、木綿の浴衣の中に顔を埋めて身を隠そうとした。
この女の面の皮の厚さには反吐が出る! かつての冷酷無比で、高嶺の花のごとく近寄りがたかった女公爵は一体いずこへ消え失せたというのか。
障子窓の外では、庭の清水がことんと石臼を打ち、渡り廊下を吹き抜ける夜風が屋内の沈香の香りを一層濃く立ち込めていた。
カリーナの滑らかな指先が無造作にルシアの柔らかな黒髪へと滑り込み、その細いうなじを愛玩動物を慈しむように甘やかに撫で上げる。
彼女は寝台に凭れかかり、綺麗に整えられた瑞々しい素足を無造作に重ね合わせ、漆黒の浴衣の裾をわずかに割って、気だるげで危険な香りを漂わせていた。
廊下の端に控えていたルーカスは、顔を真っ赤にして翻弄されるルシアの姿を見かね、気まずそうに咳払いを挟むと、慌てて叔母の取り成しに入った。
「ゴホン……ルシア先生。叔母上が北境の将兵たちから命を賭して敬愛されているのは、決して武力によるものばかりではございません。それ以上に、公爵領の敷く統治の仕組みゆえなのです」
ルーカスは居住まいを正し、真摯な面持ちで語り始めた。
「北境軍団では半年に一度、全軍に最高水準の強制健康診断が義務付けられております」
ルーカスはそう言いながら、手元の魔導具を軽く掲げた。そこには彼自身のあらゆる身体の数値が浮かび上がっている。
「一度でも不可逆の内傷と診断され、高強度の前線任務に適さぬと判断されれば、軍団は直ちに名誉ある二線級部隊へと再配置を行い、兵站や城防を任せます。意地を張って無駄死にすることなど、断じて許されぬのです」
ルシアはカリーナの腕の中に囚われ、女公爵の冷たい鎖骨に頬を押し当てたまま、先ほどまでの恥ずかしさに息を詰まらせていた。
だが、その言葉が耳に届くにつれ、埋もれていた頭がわずかに動き、無意識に聞き耳を立てていた。
腕の中の小さな獲物の変化を察知したカリーナは口元を微かに吊り上げ、熱を帯びたルシアの耳朶を指先で摘んだ。こうして静かに耳を澄ませる彼女の姿が、どうにも愛おしくてならないようだった。
「そして前線に身を置くすべての戦士の直系尊属および卑属には、公爵家から特等の庇護が与えられます」
ルーカスは低い机の傍らへと歩み寄り、腰からグラフィオンの鷲の紋章が刻まれた白銀の認識票を取り出すと、それが福利を享受できる証であるとルシアに示してから、机の上へと静かに置いた。
金属と黒木が触れ合い、澄んだ高い音を立てる。
「兵の子供らは学費を全額免除され、地方の魔法学院へと通うことができます。ずば抜けた才を見せる者には、叔母上自らが推薦状をしたため、帝都の王立学院へと無試験で送り出します。年老いた両親に至るまで、領内での終身雇用と免税の特権が約束されているのです」
傍らに座るヴァレリーは、退屈そうに空の陶器の茶碗の縁を指先でなぞっていたが、その言葉を聞くや眉を跳ね上げ、金色の瞳に観察の色を宿した。
そして皮肉めいた薄笑いを浮かべ、カリーナをちらりと横目に眺めた。
帝都の魔法学院に、なぜこれほど多くの北境出身の平民が籍を置いているのか――彼女は今、その理由をようやく合点したのだ。
ルーカスはヴァレリーの内心の不満を察しつつも、意に介さず言葉を継いだ。
「装備においても、叔母上は糸目をつけません」
ルーカスは向き直ると、自らの胸元を覆う重厚な鎧を拳で叩いた。北境特産の寒鉄と術式が織りなす極上の鍛造品だ。
「前線部隊に支給された防具は定期的に強制回収され、工廠の手で魔導の再付与と更新が施されます。たとえ中度程度の貫通創を負っただけであっても、軍医によって有給の休養を厳命され、健診の数値が完治を示すまで前線復帰は許されません」
そこまで語った時、北境の風雪に鍛え抜かれた青年の硬質な面差しに、狂信すら混じった敬仰の色が浮かび上がった。
彼は背筋を伸ばし、卓の向こう、寝台の上で気だるげに佇む女公爵へと視線を注いだ。
「先ほどの百人長とて同じことです。将兵が自ら進み出た任務に対し、叔母上は貴族特有の煩雑な儀礼を一切強いません。作戦方針と必要な物資の要求のみを吟味し、ひとたび許可を出せば、絶対の権限と信任を預け、遂行の最中に横から口を挟むことなど微塵もなさらない。すべては部下の器量に委ねられるのです」
カリーナは睫毛を微動だにさせず、手元にあった冷めきった茶を一口啜るだけで、その堂々たる佇まいは、まるで己以外の誰かの話を聞いているかのようだった。
だが内心、彼女はルーカスがこれらを口にしたことを密かに喜んでいた。
自分が決して恐怖の化身などではなく、これ以上ないほど優れた指導者なのだと、ルシアに知らしめてやりたかったのだ。
ルーカスもまた叔母の機嫌の良さを敏く察し、意を得たりと語り続けた。
「そして万が一、不測の事態によって任務が失敗に終わろうとも……叔母上は責任を他に押し付けることも、敗軍の将を斬首して鬱憤を晴らすようなこともしません」
ルーカスは言葉を切り、己の叔母をいかに優れ、かつ情に厚い存在として伝えるべきか思考を巡らせ、その呼吸をわずかに重くした。
「自ら甲冑を纏って戦場へと降り立ち、力ずくで戦局を引っくり返して全責任を背負い込まれます。その後に下される唯一の処罰とて、主官に対し一か月の謹慎を命じ、敗因を徹底して分析させることだけです」
炭櫃の炭が爆ぜ、パチリと火花を散らして、ルーカスの陰影に富んだ横顔を照らし出す。血と硝煙に呑まれた極寒の夜を呼び覚ましたかのように、その声はかすれていった。
「五年前、第三要塞が陥落した折、一人の百人長が功を焦って判断を誤り、精鋭一個小隊が全滅の憂き目に遭いました。叔母上は単騎で魔物の群れへと突貫し、高位魔獣をことごとく屠り尽くすと、屍の山から重傷を負い人事不省となっていたその百人長を引きずり出されたのです」
それは現実に起きた血塗られた記憶であり、同時に、真のカリーナがなぜこれほどまでに人を惹きつけるのかを、ルシアに理解させるための好機でもあった。
夜風が障子を揺らし、紙窓に映る竹の影が牙を剥く魔物の如く蠢く。ルーカスはルシアを深く見据え、その視線に射竦められたルシアは思わず生唾を飲み込んだ。
「返り血に塗れた叔母上が抜いた剣を鞘に収め、最初に問われた言葉は『味方の損害はどれほどか』でした。そして二言目には『戦死した将兵の弔慰金と遺族の名簿を、夜が明けるまでに私の机に揃えておけ』と」
ルーカスは深く息を吸い込んだ。鼻腔の奥に、今なおあのむせ返るような血の臭いが蘇るかのようだった。
「すべての後始末を終えた後、叔母上は泥に塗れて泣き叫び、死を乞うていたその百人長の前に歩み寄られました。剣を抜いて処刑することもなく、ただ血溜まりに散乱していた戦死した仲間たちの白銀の認識票を拾い集め、その掌へと自らの手で握らせたのです」
ルーカスは当時の叔母をなぞるように、鋭い鷹の眼差しで虚空を見据えた。
「叔母上はその男の目を覗き込み、こう仰いました。『この認識票を持ち帰り、毎朝目覚めるたびに目に触れる場所へ掲げておけ。この痛みをもって今日の過ちを刻みつけ、今より遥かに強くなれ――己の愚行ゆえに、二度と仲間を無駄死にさせぬようにな』と」
沈鬱な言葉が沈香の漂う広間に静かに散り、後には窓外の松葉を撫でる風の音だけが残された。
「その日を境に、あの百人長は北境において最も恐れを知らぬ切っ先となりました。叔母上の剣が指し示す場所であれば、軍団の何人も半歩たりとも退くことはありません」
室内は、針一本が落ちても響くほどの静寂に包まれた。
カリーナの襟元に顔を埋め、いっそ融けて消えてしまいたいと願っていたはずのルシアは、いつの間にかそろりと頭をもたげていた。
カリーナの衣を掴んでいた手は無意識に解かれ、糸の切れた操り人形のようにぎこちなく上体を起こす。
深緑の双眸を丸く見開き、ただ前方の虚空を凝視したまま、微かに口を開けていた。
その小さな顔立ちには、世界観が根底から崩壊したことによる荒唐無稽さと呆然の色が張り付いている。
半年に一度の強制健康診断?
有給の傷病休暇?!
名門校の学費全額負担に直筆の推薦状?!
老親に至るまでの終身雇用と免税特権?!
装備は定期的に強制廃棄して新品を支給、自前調達の必要なし?!
トップが自ら泥を被って現場の尻拭いをし、数十万ゴールドの損失を責めるどころか免責の振り返り教材として扱うだけで、労働者をトカゲの尻尾切りにしない?!
こ……これのどこが封建領主だというのだ。どこの超優良メガベンチャーの神がかった福利厚生だというのか。
ルシアは油の切れた機械のように首を巡らせた。視線の先には、揶揄と底知れぬ笑みを湛えたカリーナの深紅の双眸があった。
女公爵はさらりと白髪を胸元へ流し、見下ろすような温もりある仕草で、ルシアの顔に走る亀裂を心ゆくまで鑑賞している。
地球で「アットホームな職場」「若者にはハングリー精神を」などという耳触りのいい言葉で誤魔化され、重度の脂肪肝を抱えながら胃に穴が空くまでサービス残業を強いられ、最後には不祥事の身代わりに真っ先に首を切られた生粋の社畜として――
ルシアの抱いていた矜持と常識は、今この瞬間に完全に木っ端微塵へと砕け散った。
凄まじい衝撃と荒唐無稽さ、そしてやり場のない悔しさが、火山の噴火のごとく彼女の魂の深奥で狂ったように咆哮していた。
(散々こき使っておいて……! 私が前世のあの公爵邸で夜を徹して錬金火薬をこしらえていた時、北境中を探しても、純粋な消耗品として死ぬまで搾取されていたのは私一人だけだったっていうの?!)
かつて被った理不尽な仕打ちを思い出し、ルシアの胸に不意に涙が込み上げてきた。そしてルーカスもまた、ルシアのその表情の理由を痛いほど察していた。
なぜなら前世において、彼女の福利を真っ先に削り落としていた張本人こそ、他ならぬ彼自身だったからだ。
だが、今は違う。ルーカスはただ、ルシアに知ってほしかったのだ。
カリーナの側にさえいれば決して悪いようにはされないのだと――無論、それは彼女が逃げ出そうとしなければ、という前提付きではあるが。
ルシアは虚ろな瞳のまま、カリーナの懐へと力なく倒れ込んだ。目眩を覚えるような眩暈の中、彼女は地球での記憶を呼び起こしていた。
皆勤手当を平気で毟り取り、週末の深夜十二時に「見たら返信しろ」とボイスメッセージを連投してきたあのハゲ頭の元上司――両足をへし折ると脅してくるこの白髪の狂気じみた女に比べれば、奴など畜生という言葉を使うことすら生ぬるい人間の屑ではないか。
ルシアは全身を怒りで震わせ、握りしめていた空の牛乳瓶をミシミシと軋ませた。
北境最高統帥の目前で、もう少しでガラスの破片へと握り潰してしまうところだった。




