伝説の長生湯と、引退したい女公爵
夜の色は深く沈み、松風閣の奥深くにある露天の石造り風呂は、立ち昇る白い湯煙にすっかり覆われていた。
戸外で控えていたルーカスを下がらせた今、中庭のこの秘めやかな湯舟には、ただ清流が青石を打つ澄んだ水音だけが響いている。
女たちは身に纏うあらゆる束縛と衣類を脱ぎ捨て、一糸まとわぬ姿で、かの伝説に名高い「長生湯」へと足を踏み入れていった。
湯面が微かに揺れ、ヴァレリーは湯舟の縁に身を預け、煮えたぎるような白濁した湯が肩や首筋を覆うのに任せている。
続いてクレアが身を沈めれば、菫色の長い髪が水草のように湯面に広がり、立ち込める熱気が彼女の白くしなやかな肌をほんのりと桃色に染め上げていった。
カリーナはといえば、今なお眠りから覚めないルシアの肢体を抱きかかえ、滑らかな青石の段を一段ずつ踏みしめながら、湯の中心深くへと歩を進めていた。
熱い湯がその身を包み込んだ瞬間、言葉を絶する奇妙な感触が、瞬く間に神経の隅々まで行き渡った。
それは通り一遍の温泉がもたらす単純な熱さなどではない。あまりにも濃密で、まるで生き物のようにしっとりと絡みつく抱擁感だった。
乳白の湯は信じがたいほどに滑らかで、もはや水と呼ぶべきではなく、地熱によって煮詰められた濃厚なエキスのようだった。見えない温かな薄膜となって、毛穴と筋膜の奥深くへと余すところなく浸透していく。
さらに神秘的だったのは、湯底から湧き上がる特異な力だ。立ち昇る熱気の中、周囲には確かに硫黄の匂いが満ちているというのに、湯面からは仄かに、蜂蜜と焦がした草木を思わせる甘く熟れた香りが立ち戻ってくる。
肌を伝う湯の流れは、無数の微細な生命の粒が、あらゆる疲労と細かな傷口を優しく舐め尽くし、平らかに均していくかのようだった。
湯のぬくもりが骨の髄まで染み渡るにつれ、カリーナの腕に抱かれていた黒髪の女性は睫毛をかすかに震わせ、小鳥のような吐息を漏らしながら、おぼろげに目を覚ました。
立ち込める白い靄に視界を遮られ、ルシアはまだ茫然としていたが、その背中にはすぐさま、カリーナの熱くきめ細やかな肌が何の隔たりもなくぴったりと寄り添っている感触が伝わってきた。
女公爵の力強い腕がその腰腹を抱き込み、湯の上に半ば抱き上げるように支えている。
素肌同士が密着する羞恥と驚愕から逃れようとする間もなく、湯に浸かった四肢百骸から、無視し得ない温流が奔流となって体内へと雪崩れ込んできた。
それは、とうに干からびていた体内回路から届いた、微かな鳴動だった。
破壊の神殿において、彼女が狂気じみた手つきで自らの心臓を鷲掴みにし、魔力を強制的に搾り取ったことで生じた不可逆の重傷――それによって引き裂かれた経絡や神経は、ひび割れた焦土のように昼夜を問わず鈍く痛み続けていた。
しかし今、この粘りつくような長生湯に浸かるや、枯渇しきった魔力回路の深奥に、まるで恵みの雨が降り注いだかのようだった。
この温もりが、激しく損壊し壊死寸前に陥った中核の回路を真に修復できるわけではない。
せいぜい焼け石に水ほどの緩和に過ぎなかったが、それでもここ数日、呼吸すらままならぬほど彼女を苛み続けていた鈍痛は、奇跡のように幾分か和らいでいた。
それどころか、壊死していた末梢神経にすら、痺れるような生気が甦りつつあるのを感じ取れるほどだった。
「目が覚めたか?」
耳朶を打ったのは、カリーナの低く掠れた温かな囁きだった。女公爵は面を寄せ、濡れそぼった白髪をルシアの項に寄せる。
その唇を、熱く上気したルシアの耳殻に触れるか触れないかの距離で這わせながら、上位者特有の優雅さと溺愛を滲ませて告げた。
「どうだ? この長生湯はこの山脈の地脈の精華が最も濃く湧き出る泉源だ。ずいぶんと楽になったようだな」
ルシアは身じろぎし、本能的に間合いを取ろうとしたが、カリーナの腕は容赦なくその身体を締め上げた。彼女は下唇を噛み締め、水煙の向こうでその深緑の瞳に、錬金術師としての冷徹な自覚と疑念を走らせた。
ルシアにはよく分かっていた。雲海閣の裏山には確かに、枯渇した魔力を補い経絡を修復するための専用の「霊脈薬湯」が存在するはずなのだ。
しかし、そうした強烈な術式の誘導を伴う薬湯は、術者が一人きりで座禅を組み瞑想し、魔力の循環を導かねばならず、他人が近づくことなど許されない。
それなのにカリーナは、別々に湯に浸かることなど一言も口にせず、あろうことか快楽と男女の混浴のためのこの「長生湯」へと、彼女を直接抱き込んできたのだ。
すべては、カリーナの巡らせた狡猾な計算だった。
この執拗な支配欲を抱く白髪の女公爵にとって、ルシアを一人きりの閉ざされた薬湯で静養させることなどよりも、治療を名目にルシアのあらゆる防壁を剥ぎ取り、この狭く温かな湯の中で、片時も離さず腕の中に押し込めて情愛を深め合うことのほうが、よほど重要だったのだ。
抗議しようとしながらも、身体が解れたせいで力が入らないルシアの様子を見下ろし、カリーナの深紅の双眸は、湯煙の奥で細められた。その微笑みはあまりにも優しく、そして息が詰まるほどに危険な独占欲を孕んでいた。
湯気を上げる水面に、幾重もの細やかな波紋が広がっていく。
薄い水膜を隔てただけの露わな素肌に、背中へと密着する豊満で柔らかな肉体が、胸を締め付けるほどの熱を帯びて余すところなく押しつけられていた。
あまりにたわわで嫋やかなその胸の起伏は、薬力を湛えた長生湯の中にあってすら、人の心の最も原初的な戦慄を呼び覚ますのに十分すぎた。
ルシアの耳の付け根は、血を流さんばかりの朱に染まった。地球の現代人として、日頃からありとあらゆる小説の知識を詰め込んできた彼女の頭脳は、この瞬間に完全に停止した――
自分がどれほど手を出してはならない怪物に関わってしまったのかを、彼女は今さらになって思い知らされたのだ。
だが、すべては手遅れだった。水流がその身の自由を奪い、壊死した魔力回路には微塵の力も入らない。彼女は何の懸念もなく、反抗の余地すら与えられぬまま、カリーナの温もりある抱擁の深奥へと無残に縛りつけられていた。
指先ひとつ動かそうとするだけで、背後にあるしなやかで力強い肉体から、より横暴なまでの圧迫と密着が返ってくる。
「どうした……もがかないのか?」
ルシアのうなじに触れるように響いたカリーナの掠れた忍び笑い。吐き出される熱い吐息が湯煙と混ざり合い、抱きすくめられた少女の細い背骨を幾度となく震わせた。
白くしなやかで、節の浮いたその掌が、湯底から音もなくルシアの薄く平らな鎖骨へと這い上がり、最後には横暴に、しかしこの上なく緩やかに、その小さく整った下顎を捉えた。
女公爵がわずかに力を込めるだけで、羞恥と憤怒の熱潮に染まったルシアの顔は否応なく引き戻され、湯煙の奥深くで燃えるような深紅の血眸と、真正面から視線を交わさせられた。
「私を見ろ、ルシア」
カリーナが身を屈める。濡れそぼった銀白の長い髪が滑らかな肩から滑り落ち、湯面に散らばり、ルシアの露わな胸元へと零れ落ちた。
そして、帝国の幾多の権貴を震え上がらせ、国すら傾けかねぬ美貌を誇るその紅唇が、見下ろすような威圧感を湛えながら、静かに重なってくる。
それは荒々しい略奪などではなかった。甘く絡みつき、息が詰まるほどに優しい、執着に満ちた口づけだった。
初めは、冷たさを帯びた唇が、少女の乾き震える唇の端を優しく擦るだけだった。まるで野獣が、ようやく捕らえた雛鳥を慈しむように舐め、宥めているかのようだった。
ルシアが下唇を固く結んでいてもカリーナは焦ることなく、ただ指先でその敏感な顎を撫でながら、湿り気を帯びた熱い口づけを幾度も重ね、その強張りと拒絶を解きほぐしていった。
ルシアが短く息を呑んだその隙を突き、カリーナの巧みな舌先が防壁を押し開き、深奥へと滑り込んだ。
「ん……っ!」
静まり返った青石の風呂に、水音が無慈悲なまでに響き渡る。
口づけは瞬く間に深まり、少女の肺腑から最後の一息すら搾り取らんばかりだった。カリーナの攻め立ては濃密で粘り強く、上位者としての抗い難い支配力を纏い、ルシアの口内の柔らかな肉を絡め取り、吸い上げ、踏み躙っていった。
それは鉄錆のような重い情愛を孕んでおり、深く交わるたび、魂をもってルシアへと主権を宣誓しているかのようだった。
ルシアの深緑の瞳には生理的な涙が滲み、焦点がおぼろげに揺らぎ始める。
腕を上げ、カリーナの露わな胸元を押し戻そうとしたが、その微弱な抵抗など、カリーナにとっては小猫の爪の戯れにも満たなかった。
女公爵はその震える手首を難なく掴み、指を絡め合わせて固く十指を結ぶと、湯に濡れた風呂の縁の青石へと無造作に縫い留めた。
硫黄のほろ苦さ、長生湯の甘く熟れた芳香、そしてカリーナの唇から放たれる強烈な侵略の気配が、ルシアの五感を悉く呑み込んでいく。
カリーナの口づけは極めて深く、そして緩慢だった。至近距離で半眼となった深紅の瞳が、酸欠と羞恥で完全に上気した愛しい横顔を映し出している。
息継ぎの合間にすら、彼女は名残惜しそうにルシアの腫れた唇の端を啄み、熱い口角を舌先でなぞって一筋の銀糸を引き、そして再び深く重なり合っては、喉から漏れ出る柔らかな嗚咽をすべてその腹の中へと飲み下していった。
湯底の泉がぽこぽこと泡立ち、竹筒が再び青石へと重く落ちて澄んだ快音を響かせる。
だが、この湯気の立ち込める世界において、ルシアの退路は、永遠に続くかのようなこの口づけによってすでに完全に奪い去られていた――
彼女が知覚できるものといえば、背後に押し当てられた戦慄すべき柔らかな胸元と、そして女公爵の骨の髄まで刻まれた、死なば諸共の病的な愛執だけだった。
「逢瀬を楽しむのは勝手だけど、生きている人間が目の前にいることくらい少しは気にかけたらどうなの?」
湯舟の対岸に身を寄せていたヴァレリーは露骨に嫌悪を滲ませ、舌打ちを一つ落としてそっぽを向いた。
肌を重ねる二人の裸体を一瞥するのも鬱陶しいとばかりに、彼女はそのまま身を滑り落とし、口と鼻以外のすべてを、艶やかな赤髪ごと白濁した長生湯の底へと沈めてしまった。
ぷくぷくと小さな気泡が水面へと立ち上る。ヴァレリーの体内の魔力回路は無傷であったが、生命力を濃縮したこの地脈の湯が類稀な効能を持つことは認めざるを得なかった。
温かな皮膜のように筋組織と神経を包み込み、連日の疲弊を音もなく溶かし去っていく。
そしてその傍ら、湯煙の漂う中で、クレアはただ両膝を抱え、半身を湯に浸していた。
羊脂玉の白さを宿した精巧な陶器の如く静まり返り、そのスミレ色の瞳の奥には、カリーナとルシアが唇を重ね合わせる光景が焼き付けられていた。
クレアにはよく分かっていた。帝国の倫理や貴族の秩序に照らせば、二人の間に割り込む己の所業は従姉の恋人を奪うことと同義である。
だが、恋情というものは理屈で割り切れるものではない。あの黒髪の女性が無防備に己の生へと踏み込んできて以来、彼女の胸のすべてはその狡猾さと孤高な気高さで埋め尽くされ、他人の入る余地など爪の先ほども残されていなかった。
ゆえに彼女は邪魔立てすることなく、ただ耐え忍んで待ち続けていた。
カリーナの独占と侵略に満ちた深い口づけを見つめながら、水面下で己の髪の毛先を無意識に弄ぶ。あの血に飢えた雌獣のようなカリーナがひとまず満たされるのを――
その束縛が解かれた後、残された時間で自らの気配と口づけを、あの子の肌へ余すところなく刻みつけるその瞬間を待っていた。
所詮、北境を総べるカリーナも、万金を操る商脈を握るクレアも、その骨の髄に流れているのは利己の血筋なのだ。
ルシアが欲しい。肌を重ね合う温もりが欲しい。より多く、より深く、貪り尽くすほどの交わりを求めて止まない。そして二人を最も焦がし、同時に疑心暗鬼にさせるものこそが、ルシアのその曖昧な態度だった。
息も絶え絶えに口づけを受け止めながらも、瞳に涙を滲ませ耳を赤く染めるその娘は、決して破滅を覚悟した激しい拒絶を見せようとはしなかった。
その半ば流されるような従順さは、傷ついた肉体に抗う術がないゆえなのか、それとも心の底に、彼女たちへの未練をほんのわずかでも残しているからなのか。
頂点に立つ者としてあらゆる物事を意のままに操ることに慣れた身でありながら、ルシアのあの透き通って見えて底の知れない心の内を前にしては、二人はその本心を何一つ測りかねていた。
大人の思惑など複雑怪奇なものだが、まして彼女たちが対峙しているのは、すでに二度の死を経験した魂を持つ女なのだ。
信仰に狂ったこの大陸において、教会の異端審問会は数年ごとに陰鬱な路地裏から「異界の罪人」と呼ばれる転生者を炙り出し、火刑台へと送り込んできた。
業火の中で叫びを上げる異郷の魂たちは、例外なく前世に途方もない無念と苦痛、そしてやり場のない執念を残したからこそ、死してなお境界を越え、記憶を抱いたままこの地へと生まれ落ちたのだ。
ルシアもまた、その一人であることは疑いようもなかった。
遥かなる異邦の地で、彼女はかつて孤独のうちに一度目の死を迎え、果たせぬ遺憾と帰れぬ故郷の記憶を胸に抱いた。
この残酷な帝国に生を受け、ようやく育ち上がった矢先、今度は前世の公爵邸の奥庭で、胸を刺し貫かれるという絶望の中で二度目の惨烈な死を迎えたのだ。
いかに鋼で鋳造された魂であろうと、運命の手によって無残に引き裂かれ、二度も踏み躙られれば、満身創痍にならぬはずがない。
カリーナとクレアは、腕の中にある、いかにも抜け目なく金を愛し、退路の計算ばかりを巡らせながら、その実この世界の何一つ信じていないその女を見つめ、歪んだ独占欲の底に、息も詰まるほどに重い痛みを抱いていた。
彼女たちはようやく理解したのだ。なぜ今世のルシアが、記憶の中にあるただ背中を追うばかりだった無垢な少女とまるで別人のようであるのかを――
この女は、とっくの昔に死に絶えているのだ。今その手の中に残されているのは、欠損した内臓と壊死した回路を引きずり、冷笑と作り笑いの殻に我が身を閉ざしきった空蝉に過ぎない。
だが、たとえそうだとしても。この心が万丈の氷に閉ざされていると知っていようとも、彼女たちには手放すことなど天地が引っくり返っても選べなかった。
たとえ血塗られた檻で縛りつけようとも、たとえ煮えたぎる長生湯でその外殻を無理やりに爛れさせようとも、あの冷え切った心を再び温め直してみせる。たとえその果てに残るものが、共に燃え尽きた灰燼だけであろうとも。
白濁した湯気が水面を静かに漂う中、各自がそれぞれの思惑を胸に、粘り気のある長生湯が肉体へ染み渡るのに身を委ねていたその時、重厚な木の引き戸の外から、控えめながらも芯のあるノックの音が唐突に響いた。
続いて、焦燥を押し殺したルーカスの声が、立ち込める霧を貫いて届いた。
「叔母上、北境より急使が参りました。辺境の要務に関わる件です。私の権限では断じかねます故、恐れながら叔母上ご自身のご判断を仰ぎたく」
戸板を隔てた青年の声音は異常なまでに恭しく、湯気煙る庭の気配に視線を向けることすら恐れているようだった。幼くして両親を喪ったルーカスは、吹雪と鉄血の中で、ほぼカリーナの手ひとつによって育て上げられた。
この冷徹な統帥である叔母に対し、彼が抱く敬畏の念は肉親の情を遥かに凌駕していた。前世において、しつこく付きまとうルシアを彼が蛇蝎の如く嫌悪していたのも、あの卑屈で軟弱な女が叔母の名誉を汚すことに耐えられなかったからに他ならない。
ただ、輪廻の血と炎による洗礼を経て、ルーカスもかつての浅薄さと刺々しさを幾分か削ぎ落としてはいた。
しかしながら、彼が前世の後半で得た記憶の大半は、果てなき行軍と殺戮に塗り潰されていた。
成長したと言えば、抜刀の速さと敵を屠る技術こそ頂を極めていたが、権謀術数渦巻く政治の駆け引きや人の機微を察することにかけては、依然として不器用な一介の武辺者に過ぎなかった。
「待たせろ」
カリーナは詰問の一つすら挟まず、極めて簡潔に命を下した。
その言葉の余韻も引かぬうちに、ルシアの腰を抱いていた両腕がすっと引かれ、直後、あまりにも自然に、躊躇う素振りすら見せることなく、口づけに息を乱し全身を熱潮に染めた黒髪の少女を、隣にいたクレアの胸元へと無造作に押し込んだ。
不意に支えを失ったルシアは、同様に柔らかく温かな別の肢体へと倒れ込んだ。
クレアは反射的にその両腕を窄め、スミレ色の瞳を一瞬見開いたが、すぐさまその奥に歓喜と名状しがたい動悸を滲ませ、しっかりとルシアをその抱擁の中へと受け止めた。
カリーナは水飛沫を散らしながら、池の縁の青石の段へと歩みを進めた。引き締まり無駄のないその白く滑らかな裸身を、水流が伝い落ちていく。冷え切った彫像の如き美貌を横に向け、深紅の血眸でクレアを淡く見据えた。
「この猫は骨の髄まで悪知恵が回る。少しでも目を離せば、縄を噛み千切って逃げ出す算段ばかり立てるぞ。……どう扱えばいいか、分かっているな?」
女公爵の声音は、取るに足らない公務を言い渡すかのように平坦だったが、その行間には、クレアに対する揺るぎない絶対の信頼が宿っていた。
これこそが、北境の覇者たるカリーナだけが持ち得る度量だった――長年己の獲物を欲しがっていた別の女へ、惜しげもなくそれを預けてみせるだけの絶対的な自負があるのだ。
ルシアを失うことなど、彼女は露ほども恐れていなかった。
その盲目的で傲慢な支配の認識において、目の前の小獣がいかに暴れもがこうとも、ルシアの魂の最も深い場所に刻みつけられるべき帰宿は、初めから終わりまで自分ただ一人であるはずだったからだ。
しかし、いかに傲慢であろうと、北境の吹雪と軍報を前にしては、半刻の猶予すら許されなかった。
ざぶりと音を立ててカリーナは湯から上がり、脱衣棚に置かれていた重厚な漆黒の浴衣を引き寄せて肩に羽織ると、帯を手早く結び合わせた。
その無駄のない所作は、情欲に溺れる雌獣の姿から、瞬く間に帝国の諸侯を震え上がらせる鉄血の統帥へと切り替わっていた。
だが、廊下へと踏み出す刹那、カリーナは眉間を指先で圧し、その胸中に滅多にない苛立ちを募らせていた。
(ルーカスの奴め……一人前に差配できるようになるまで、あとどれほどかかるというのだ?)
一族が衰微し、北境の辺境に正当な後継者を立てねばならぬ義理がなければ、誰が好んで自らをこの冷たく孤独な公爵の玉座に縛りつけるものか。
だが、戦術の陣形ばかりに頭を奪われ、人の腹の探り合いなど毛頭解さぬルーカスの剛直な気性を思えば、カリーナには痛いほど分かっていた――自らが血に塗れたあの椅子に、なお何年も居座り続けねばならぬ現実を。
早く肩の荷を下ろし、その時間と気力のすべてを注ぎ込んで、後ろに残したあの黒髪の小娘を骨の髄まで飼い慣らしてやろうという青写真は、またしてもこの忌々しい体制の手によって、無慈悲に先送りされてしまったのだった。




