↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
重度カードゲーマー女子、過労死転生した異世界でも恋愛をプレミして詰んだ件  作者: 酣睡


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

50/113

心を奪っておいて逃げようなんて、もう遅いわ

大型の魔導馬車が石畳の行き止まりに停まり、御者が手綱を強く引いた。蒸気車軸が長く息を吐き出すような鋭い排気音を立て、周囲に立ち込める濃密な白濁した地熱の湯煙の中へとゆっくり溶けていく。


カリーナが先んじて車廂から降り立った。黒テンの毛皮で縁取られた重厚なマントで、腕の中でとうに眠りに落ちている黒髪の女性を、隙間なくしっかりと包み込んでいる。覗いているのは、わずかに眉をひそめた小ぶりで愛らしい顔立ちだけだ。


ルシアの呼吸は規則正しく、そして穏やかだった。眠りの中にあっても、その両手は無意識にカリーナの胸元の衣類を握りしめており、華奢で細い身体が女公爵の落ち着いた歩みに合わせてかすかに揺れていた。


山肌に沿って広がるこの木造の温泉旅館は、ノーランド帝国のあの冷酷で角ばった石造りの砦とはまるで趣を異にしていた。


それは長い歳月と硫黄の煙に何十年も燻され続けてきた、深褐色の檜造りの建築物だった。重なり合う檜皮葺の軒、薄く青苔を纏った下見板張りの外壁。


低い玄関ポーチの下に吊るされた丸い白地の提灯が夜風に揺れ、東洋の情緒漂う力強い黒墨の筆致で三つの文字が刻まれている――『雲海閣』。


敷居を跨ぎ、波模様が染め抜かれた少し色褪せた藍染めの暖簾をくぐった瞬間、極めて濃厚で、どこか懐かしい温もりを帯びた「昭和の気配」が真正面から押し寄せてきた。


帝国の貴族たちが好む高価な竜涎香などではない。


古い建物特有の、複雑に重なり合った香りだ。乾燥した藺草が編み込まれた畳の清々しい匂い、煮えたぎる硫黄の水蒸気に幾度となく蒸された古木の幽玄な香り、帳場の木机に置かれた素焼きの灰皿に残るほろ苦い煙草の匂い。


そして、片隅で静かに燃えながら淡い煤の匂いを漂わせている、古い石油ストーブの熱気。


玄関は極めて広々としており、磨き抜かれて艶やかな光沢を放つ深い色の欅の床板が、行灯の薄暗い灯火を照り返している。


足を踏み入れると、木板がきしみ混じりの重く鈍い音を立て、泥に汚れた履物を脱ぐよう促してくる。


ロビーの片隅には、振り子がゆっくりと揺れる黒漆塗りの古時計が佇み、「コチ、コチ」と遅々とした時間を刻んでいた。


その傍らには真鍮のダイヤルを備えた黒電話が置かれ、横には木製クリップで留められた黄ばんだ地元新聞が何部か整然と積まれている。


「いらっしゃいませ……おや、お客様、どうぞお上がりください」


烏木の帳場の奥に立っていたのは、濃い藍色の絣織りの着物に身を包み、髪を後ろで綺麗なお団子に結った中年女性だった。


算盤の珠を弾いていた手を止め、ふと顔を上げた女将は、入り口に立つ異様な威圧感を放つ貴客たちを目にした瞬間、指先を凍りつかせた。


先頭に立つ白髪の女は、妖異なまでに美しく整った美貌を持ち、その深紅の瞳が広間を無造作に見渡すだけで、呼吸すら止まりそうな威圧感を醸し出している。


その傍らに立つ紫の瞳の少女は豪奢な外套を纏い、この世のものとは思えないほどの笑みを浮かべていた。そして背後に控える赤髪の学者は、どこか面白がるような薄笑いを浮かべながら、周囲の木造の彫刻を見繕っている。


だが何よりも目を引いたのは、その白髪の女の腕の中で、壊れやすい宝物のように厳重に守られている黒髪の女性だった。


「ゴホッ……帳場の方、夜分にすまない」


ルーカスが一歩前に出てカリーナと帳場の間に割り込み、普段の尊大さを極力抑えながら、グラフィエン家の家紋が刻まれたミスリルの証票を漆塗りのカウンターへ静かに置いた。


磨き抜かれた木の天板には一点の塵もなく、しっとりとした艶を放っている。


「事前に帝都から魔導信標で予約していた、離れの『松風閣』だ」


ルーカスは声を低め、宿帳の一角を指先で叩いた。その口調には、有無を言わせぬ貴族の執事らしい手腕が滲み出ている。


「源泉掛け流し、専用の庭付き、いかなる下男も理由なく近づくことは許さない。鍵はあるか?」


「あ……は、はい! グラフィエン家の貴客の方々ですね。ご予約は確かに承っております!」


女将は慌てて深々と頭を下げ、背後の壁に並ぶ手書きの札が下がった真鍮の掛け金から、分厚い木札のついた古い真鍮の鍵を、震える両手で外した。


木札には焼き鏝で「松風」の二文字が刻まれ、その縁は幾人もの手に触れられて滑らかに丸みを帯びていた。


「離れの湯は先ほど入れ替えたばかりで、極上の柏の薪で地熱を炊いております。お部屋には蒸したての温泉饅頭と玄米茶をご用意しておりますが……今からご案内いたしましょうか?」


「不要だ。自分たちで行く」


カリーナが冷淡に言葉を遮った。彼女は視線を上げることすらせず、ただルシアの腰を抱く腕に力を込め、入り口から吹き込む夜風を遮るように、胸元へとさらに深く抱き寄せた。


クレアが静かに進み出て、ルシアの肩から滑り落ちかけたマントをごく自然に直した。指先がルシアの冷え切った頬をそっと撫で、その瞳には他者を顧みない深い憐愛と独占欲が宿っていた。


「参りましょう」


カリーナはルシアを抱き上げたまま、滑らかな木造の廊下を進んでいった。


両側には整然と障子戸が並び、格子窓からは障子越しに柔らかく暖かな光が漏れている。渡り廊下の奥へと進むにつれて湯煙は濃さを増し、裏庭からは竹筒に満ちた湧き水が青石を打つ「カポーン」という澄んだ音が微かに響いてきた。


腕の中のルシアはその懐かしい木の香りと水音に安らぎを覚えたのか、小さく寝息混じりの声を漏らし、微熱を帯びた頬をカリーナの首元へといっそう深く埋めた。


藺草の香りが漂う廊下を踏みしめながら、ヴァレリーの足取りは知らず知らずのうちに半歩遅れていた。


古木と硫黄、そしてわずかに燻る薪が混ざり合ったその気配は、まるで形のない手のように、彼女の心の奥底に封印されていた抽斗を音もなく引き開けた。とうに消え去ったと思い込んでいた記憶が、何の前触れもなく蘇ってくる――。


午後の日差しに照らされてパリッと乾いた洗濯物の匂い。街角の駄菓子屋のブリキ缶に入った色とりどりのドロップ。蝉時雨の中を下駄を鳴らして駆け抜けた狭い路地。


そして黄昏時、家々の台所から漂ってきた醤油の焦げた匂いと夕餉の煙。淡く透明に思えるほど平凡で、しかし何よりも温かかったそれらは、前世の彼女の人生において最も美しくかけがえのない記憶の欠片だった。


ただ惜しむらくは、あの前世の自分は終わりのない治療費と絶望に追い詰められ、凍てつく冷気の中で自らの手で命を絶ってしまったということだ。


あの温度はとうの昔に、あの決然とした自決と共に、心臓の鼓動ごと底知れぬ静寂へと沈んだはずだった。


ヴァレリーは睫毛を伏せた。その金色の双眸の奥から、普段まとっている皮肉と警戒の切っ先が珍しく抜け落ち、極めて淡い追憶と自嘲が浮かび上がっていた。


幾重もの次元の狭間を越え、この人が人を喰らう過酷な大陸へと零れ落ちた後に、まさかこの奇怪な深山の片隅で、再び「故郷」の残り香を味わうことになろうとは思いもしなかった。


ただ、すでに時は流れ、すべては変わり果てた。彼女は今や、血に染まり、算盤を弾き続ける異郷の徒に過ぎない。


……


曲がりくねった静かな渡り廊下を抜けた突き当たりに、この旅館の最奥に位置する離れ――『松風閣』があった。


重厚な格子の引き戸を開けると、より純粋で潤いに満ちた暖気が、湿り気を帯びた水蒸気と共に押し寄せてきた。


離れの間取りは極めて開放的で、古雅な趣に満ちていた。床一面には隙間なく目が詰まり、淡い青黄色を帯びた古い畳が敷き詰められ、縁は目の詰まった黒い綿布で縁取られている。


正面の床の間には力強い筆致で書かれた掛け軸が掲げられており、その墨跡はすでに飴色に黄ばんでいた。下には黒漆塗りの文机が据えられ、素焼きの花入れには、夜露を宿した枯れ松と一輪の白い山茶花が生けられている。


部屋の隅にある鋳鉄の火鉢からは無煙白炭の微かな温もりが漂い、その傍らの朱塗りの盆の上には、淹れたてで白煙をくゆらせる黒陶の急須と二つの湯呑み、そして皿に盛られた、表面にわずかな皺を寄せた甘い小麦の香りを放つ温泉饅頭が静かに置かれていた。


さらに奥の障子は半分開け放たれ、外縁の濡れ縁へと続いている。


その先には手入れの行き届いた静謐な日本庭園が広がり、黒青色の枯山水の砂紋が川の流れのように美しく描かれ、霧の向こうに古びた松の木が幽玄に佇んでいた。


庭の岩壁の下では、深山の青石を組み上げた露天風呂から白濁した熱湯が湧き立ち、水面から濃厚な硫黄の湯気が立ち上っている。


竹筒に蓄えられた清水が時折、青石の上に重く落ち、静まり返った夜の帳に「カポーン」と乾いた反響を響かせていた。


カリーナはルシアを抱いたまま、奥の座敷へと足を踏み入れた。


畳の中央に整然と敷かれていたのは、帝国で見られるような金糸の天蓋付きベッドではなく、極めて分厚く敷かれた、白く柔らかな和式の羽毛布団だった。


この部屋に入った瞬間、カリーナが全身から放っていた、人の骨すら砕かんばかりの冷酷な覇気は、嘘のように跡形もなく消え去っていた。


彼女は畳の上に片膝をつき、まるで夜風に吹かれれば今にも消えてしまいそうな薄硝子の灯火を扱うかのように、極めて緩やかな手つきで動いた。


しなやかで力強い両腕をゆっくりと傾け、腕の中で深く眠る女性を、その柔らかく純白の布団の懐へと静かに横たえた。ふかふかの羽毛がわずかに沈み込み、古傷にまみれたその細く華奢な肉体を優しく受け止める。


ルシアは先ほどまでの温もりを惜しむかのように、背中が布団に触れた刹那、かすかに眉を寄せた。青白い唇から小鳥のさえずりのような微かな吐息を漏らし、本能的にその身体を丸め、怯えた仔猫のように布団の奥へと小さく身を縮こまらせた。


カリーナは布団の傍らに正座し、その深紅の瞳を行灯の淡い光に濡らしながら、溺れるような情愛の光を揺らめかせた。


彼女は身を屈め、ひんやりとした指先を伸ばすと、ルシアの額に冷や汗で張り付いた黒髪を一筋ずつ、痛ましいほど慈しむように耳の後ろへと払った。


そして、暗金の雲模様が縫い取られた厚手の掛け布団を引き上げ、少女の小さな顎のすぐ下まで、一切の隙間なく包み込んだ。


「おやすみ……」


女公爵の声はかすれ、甘く絡みつくように低かった。その響きは傍らを抜ける夜風にしか届かないほど微かだった。


深紅の紅を引いた親指が、青白く柔らかな少女の頬をなぞり、その瞳の奥には病的な独占欲と、極限まで押し殺された底知れぬ愛執が渦巻いていた。


「もう誰にも邪魔はさせない。私の愛しい人」


薄暗い紙行灯の光が障子戸に淡い影を落とし、窓の外の青石風呂から立ち上る湯煙が、部屋の空気をしっとりと温めていた。


カリーナは布団の傍らに静かに座り続け、ルシアの安らかな寝顔をその深紅の瞳に映していたが、その胸中に渦巻く波紋は、息が詰まるほどに粘ついていた。


鎖でこの小さな命を完全に縛り付けるべきではないことくらい、彼女も分かっていた。檻をあまりに狭く編めば、孤高なこの小鳥は自ら頭を打ちつけて血を流すだけだと、理性が幾度となく警鐘を鳴らしている。


しかし、理性は理性だ。ルシアのその青白く薄い唇を見つめていると、心の奥底で狂気のように湧き上がる支配欲を、どうしてもねじ伏せることができなかった。


自由? この人が人を喰らう過酷な大陸において、彼女に自由を与えるなど、自らの手で深淵に突き落とすのと何ら変わりはない。


カリーナは決して、運命の女神に愛された女ではなかった。


北境の最も凄惨な権力闘争の中で生を受け、親族や敵の累々たる白骨を踏み越えて公爵の座へと登りつめた彼女は、何よりも一つの真理を骨の髄まで理解していた――


すべてのリスクと不確定要素をこの掌の中に握り潰してこそ、あらゆる事態は己の予測の内側に留まるのだと。制御を外れたものは、いずれ自分を刺し貫く毒刃となる。


そしてルシアという女は――ほんの半寸でも手綱を緩めれば、背を向けた瞬間に自分自身を粉々に砕きかねない女だった。


そのことを、隣に跪くクレアは誰よりも痛切に知っていた。


破壊の神殿で繰り広げられたあの死闘を、クレアはその目でしかと見ていたのだ。


普段は保身ばかり考え、仕事をサボることばかり口にしているあの黒髪の女が、二重回路が完全に過負荷を起こし、魔力が枯渇した絶望的な状況下で、いかに狂気に取り憑かれたように自らの指骨で心臓を鷲掴みにし、無理やり魔力を搾り取ったかを。


あれは戦いなどではない。自傷による搾取だ。肉体を炉とし、命を薪にくべ、激痛と心臓の痙攣によって最後の一滴まで毒のような狂暴な魔力を絞り出す。


その光景を目にした瞬間、クレアの脳髄には焼きごてを突き立てられたかのような激痛が走った。たとえ神殿の戦いが終息したとしても、心臓を素手で圧迫したあの狂気の所業は、ルシアの脆弱な内臓と神経の深淵に、一生消えない不可逆の傷痕を刻み込んでしまったのだ。


わざわざこの極東の趣を残す温泉郷へと足を運んだのも、地脈の奥深くから湧き出る温潤な硫黄の生気によって、彼女の身体に刻まれた無数の亀裂を少しでも癒やすためだった。


「お姉さま……」


クレアは身を屈め、紫羅欄花の瞳を涙で滲ませながら、無防備なルシアの寝顔を息が詰まるほど恋慕を込めて見つめた。


震える指先を伸ばし、青あざの残る目の縁に触れようとしたが、この得難い眠りを妨げることを恐れるかのように空中で止め、最後には無力な嘆息を漏らすに留めた。


「やっぱり……あの子を鳥籠の中に閉じ込めてしまわなければ、私たちの目の届かないところで、いくらでも自分を半死半生に追い込んでしまう気がします。でも……本当に閉じ込めてしまうのは、あまりにも残酷で……」


泣き濡れたその呟きは、カリーナの心の最も柔らかな部分を一言一句突き刺した。


今のルシアは、強欲で残忍な教会異端審問会に完全に目をつけられている。あの狂信者たちは異界からの脅威を抹殺するためならば手段を選ばない。


カリーナもクレアも帝国の重責を担う中枢の要人であり、もし北境の防衛線が揺らぎ、あるいは侯爵領に異変が生じ、ほんの半刻でも軍務に足止めを食らえば――


そして皇太子の救援が万が一間に合わなければ――ルシアを待っているのは、麻袋を被せられて教会の地下牢に沈められ、火刑台の上で灰にされる結末だけだ。


外の世界が彼女を引き裂く業火であるのなら、なぜ自らの手で難攻不落の鳥籠を築き、その両足を折り、自らの翼の下に安らかに匿ってしまわないのか?


少なくとも檻の中であれば、あの子は生きていられる。たとえどれほど苦痛に満ちていようと、どれほどその瞳が光を失おうと、冷たい死骸に変わり果てるよりはずっといい。


クレアはさらに深く頭を垂れた。帝都中の貴族を狂わせるその妖艶な紅唇を、祈りと贖罪の震えを帯びながら、ルシアの額の中央へと優しく落とした。


その口づけは、長きにわたり抑圧されてきた怨嗟と恐怖、そして歪んだ溺愛の感情を、眠れる少女の骨の髄まで深く焼き付けるかのようだった。


「ごめんなさい……ルシア……」


クレアは少女の冷たい肌に顔を寄せ、嗚咽混じりに責め立てた。その声はまるで悲鳴のようにか細かった。


「どうして……どうして私たちに頼ってくれないの? 自分だけを信じるなんて、そんなの間違っているのに……」


彼女はルシアの冷徹さを恨み、その決断を何よりも憎んでいた。神殿の最終局面において、この女はあろうことか結界を張り、全員を戦場の外へと締め出したのだ。


たった一人で神威に抗い、身体が限界を迎えて崩壊し、持ち堪えられなくなるその瞬間まで、決して自分たちを立ち入らせようとしなかった。


もしあの神殿の守護者が一片の慈悲を残していなければ、もし運が味方していなければ、駆けつけた彼女とヴァレリーが目にしたものは、ルシアの無残な肉塊だけだったはずなのだ。


「……確かに、残酷かもしれないな」


カリーナがようやく口を開いた。白髪の女公爵の声は凪いだ水面のように静かだったが、膝の上に置かれた細い指先は、無意識のうちに衣服の布地を強く握り潰していた。


「だが、まずは一度だけ機会をやろう。ほんの少しの、偽りの自由をな……もしあいつ自身がそれを大切にしないというのなら、その時は容赦しないまでだ」


その言葉は一見すると譲歩や情けのように聞こえるが、カリーナの心の底には「ルシアが我が身を大切にする」という淡い期待など微塵も存在しなかった。


彼女はルシアという人間を、あまりにも理解しすぎていたからだ。


魂の深淵に深い傷を負い、泥沼の中で二つの前世をもがき抜いてきた人間にとって、「自らの命」など不可侵の宝物などではない。


損切りや生き残りの機会を掴むためなら、いつでも賭け台の上に放り出せる安っぽいチップに過ぎないのだ。


ルシアの骨の髄には自滅の悪癖が染み付いており、彼女は一人で深淵に対峙することに慣れきって、命を対価にして道を切り開くことしか知らない。


そんな致命的な欠陥を抱えた女など、カリーナ自らの手で地下牢に繋がれ、行動の自由を奪われるのは時間の問題でしかなかった。


カリーナは血の海と屍の山から這い上がってきた修羅だ。殺伐たる軍を率いる統帥にとって、生存の前には獲物の「個人の意志」など一文の価値もない。


もしルシアがこの肉体を愛おしむ術を知らないのなら、カリーナの目には、彼女は独立した個として生きる権利すら放棄したように映る――これこそが上位者の思考論理であり、覇道的で、血生臭く、そして何者にも疑うことを許さない。


彼女の愛は、最初から錆びた鉄と硝煙の猛毒を孕んでいたのだ。


眠るルシアの穏やかな横顔を見つめながら、カリーナの意識はおぼろげに前世の記憶へと漂っていった。


鮮血によって洗い流されたあの輪廻の中で、この華奢な娘は、いつも不器用な小動物のように自分の後ろを追いかけ回し、瞳を赤誠と敬愛で満たしながら、恥じらいもなく何度も好きだと囁いていた。


だが、今はどうだ? 一度死を経験した今、この肉体に宿る魂は、果たして本当に少しでも自分を好いてくれているのだろうか?


それとも、恐怖と警戒、そしていかにして体面を保って退職し逃げ出すかという冷めた計算しか残っていないのだろうか?


上位者の愛とは、常に危険で致命的なものだ。カリーナは物語に出てくるような世間知らずの深窓の令嬢ではない。


彼女は冷酷なまでに現実的だった――もし仮に、北境全土の存亡とルシアの命が天秤の両端に置かれたならば、彼女、カリーナ・グラフィエンは躊躇うことなく北境を選び、ルシアを代償として切り捨てるだろう。


それはルシアを愛していないという意味ではない。現実の玉座とは、いつだって冷徹な理性を礎にして築かれるものだからだ。


過去の無邪気なルシアは、きっとそんなことまで深く考えていなかった。だからこそ、この苛烈で致命的な蜘蛛の巣へと盲目的に飛び込んできたのだ。


血に飢えた雌獣の心を真に動かしてしまった代償は、破滅的だ。カリーナは嫉妬に狂い、疑心に囚われ、天地を飲み込むほどの独占欲を露わにする。


一度その均衡が崩れ、ひとたび彼女の嫉妬が限界を越えれば、彼女が取る最初の行動は決して涙を流しての引き留めなどではない。


躊躇うことなく愛する者の四肢を叩き折り、戦利品のように窓のない深奥の寝室へと閉じ込め、昼夜を問わず自分だけを見つめさせることだ。


かつて、転生して間もない頃のカリーナは、現実にそれを実行した。


ルシアはその瞬間になってようやく、この女の甘美な皮膜の下に、いかに名状しがたい化け物が潜んでいるかを思い知らされたのだ。


だが、気づいた時にはもう遅すぎた。


北境に巣食う巨獣に、自ら手を出したのは誰だったのか。その澄んだ瞳と、馬鹿げていながら胸を打つひたむきな情熱で、永久に凍りついているはずだった心臓を無理やりこじ開けたのは誰だったのか。


自らの手で狂人を情欲と独占の泥沼へと引きずり込んでおきながら、今さら背を向けて棄権し、舞台を降りたいだと?


カリーナは身を屈め、ひんやりとした指先をルシアの無防備な喉元へと滑らせた。かすかに、だが確かに脈打つその鼓動を感じ取りながら、唇の端にこの上なく残忍で、そして骨の髄まで狂おしい情愛の笑みを浮かべた。


もう、遅いのだ……。


これこそが……この狡猾で臆病な小鳥が、数奇な三度の輪廻の中で犯した、最も致命的で、そして二度と取り返しのつかない過ちなのだから。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。