昭和の湯の街と、逃げ腰な愛しき人
重装魔導馬車が冷杉の林道に残る最後の一葉を踏み砕き、地熱の水蒸気に濡れそぼる岩壁の山隘を抜けた瞬間、車窓の外を支配していた帝国特有の重苦しく冷酷な、角張ったゴシックの鉄灰色が唐突に色褪せていった。
濃密な硫黄、湿り気を帯びた青苔、そしてどこか懐かしい焦げた薪の芳香が、車体の換気隙間からそっと滑り込んでくる。
女公爵の腕の中で所在なげに固まり、精霊石シャンデリアの刻み目を数えて死んだ目をしていたルシアの鼻先が、微かに動いた。
伏せられがちだった深緑の瞳が瞠目を見張り、彼女はクレアと結ばれていた指を無意識に振りほどいて、車窓へと身を投げ出した。
窓の外では、乳白色の熱い湯気が石畳の小径を朝霧のように立ち込め、渦巻いている。
視界に飛び込んできたのは、帝国で見慣れた重厚な石造りの城塞でも尖塔の家並みでもなかった。
山肌に沿って並ぶ、均整の取れた背の低い木造町屋。その軒先には、色褪せて端の丸まった深い藍染めの暖簾が整然と下がり、千本格子の窓からは障子越しに温かな紙ランプの黄色い明かりが漏れている。
辻の角には、朱塗りの塗装が剥げ落ち、土地の住人によって水を導く祠として祀られた円筒形の丸ポストすら佇んでいた。
漂う匂いはあまりにも具体的だった——湯気で蒸された温泉饅頭の仄甘い小麦の香り、安煙草と古い畳が醸し出す乾燥した藺草の匂い、そして無数の下駄に踏み荒らされ百年を経て沈殿した古木の幽香。
これは間違いなく……地球の、あのとうに遠ざかった二十世紀半ば、昭和時代の日本の温泉街そのものだった。
ルシアの呼吸がその瞬間、完全に止まった。
平素の倦怠と冷淡に覆われていた白い小顔から血の気が失せ、魂が抜け落ちたかのような茫然と戦慄が取って代わる。
白く強張った指先が冷え切った耐震水晶を軋むほどに掴み、瞳孔を激しく収縮させ、微かに開いた唇からは声の破片すら漏れてこない。
魔物と軍閥、錬金術と狂気の貴族が跋扈するこの剣と魔法の世界に、どうしてこれほど純粋で、これほど荒唐無稽な東洋の島国文化が異物のように嵌め込まれているのか。
「……どうしたの? そんなに怯えた顔をして」
背後から微かな衣擦れの音とともに低く気だるげな囁きが落ち、カリーナの温もりを帯びた長身が再び音もなく寄り添ってきた。
白髪の君主は、車窓の外の異景など一瞥だにしていなかった。
帝国の頂点たる権力の泥濘に浸かり続けてきた彼女の直感は、毒を塗った解剖刀のように鋭利だった。
馬車がこの街並みへと折れ曲がったその時から、彼女の眼差しは膝の上の小さな獲物へと完全に据えられていたのだ——
ルシアの双眸に閃いたのは、異郷の風情を初めて目にした驚きでも、蛮地を見下す貴族の侮蔑でもない。明確な「再会」への戦慄だった。
ルシアはこの奇妙な木造の家並みを知っている。ルシアはこの空気に漂う奇異な発酵の甘みすら肌身で知っている。
この温泉郷には言い伝えがあった。かつて突如として現れた、素性も知れず奇妙な衣服を纏った男たちの一団が、彼らの故郷の様式を模して築き上げたのだと。
彼らは常に奇怪な言語を操っていたが、湧き出る湯は心地よく、持ち込まれた料理は美味であり、やがて土地の者たちも彼らを受け入れ、その文化を学び取ろうとした。それゆえにこの街には、着物や浴衣の貸出を生業とする店すら並んでいるのだ。
ルシアが普段描き出す常軌を逸した設計図、帝国の皇権や神明に向けられる信仰なき冷笑、そして時折口を突いて出る異質な語彙……カリーナの深紅の瞳の奥深くに、至極密やかに納得の光が過ぎった。
なるほど。
この華奢で薄い肉体の内側に宿っているのは、この神に見放された大地が育んだ魂などではないのだ。
帝国の最古の星図にすら記されていない、遥か彼方の異界から流れ着いた異邦人。
この真実が教廷や皇室の異端審問官の耳に届けば、ルシアを火刑台で千度焼き尽くすに足る大罪となるだろう。
だが、カリーナの唇の端に浮かんだのは、ただどこまでも底知れぬ放任と、微かな倒錯した愉悦を孕んだ弧だった。
この世界の人間ではない?
それがどうしたというのか。
その魂がすでにノーランドの泥沼へと墜ち、こうして彼女の太腿の上に座している以上、ルシアの前世が天の群星にあろうと異世の凡俗にあろうと、今生において己の私有物である事実に揺らぎなどない。
カリーナは強引な手つきでルシアの強張った顎を掴み、蒼白な顔を無理やり己の正面へと引き戻した。
触れた指先は微かに冷たく、だが掌は滾るように熱い。
対面で探るような目を向けるヴァレリーの視線も、虚空を見上げて気まずさを殺すルーカスの居心地の悪さも歯牙にかけず、彼女は優雅に身を屈めると、震えるルシアの睫毛の上に愛おしげな口づけを落とした。
「この谷に入った途端、魂ごと外の古木に拐われてしまいそうな顔ね」
掠れた色香を帯びた声が落ち、抱きしめる腕がさらに引き絞られて、ルシアの身体を再び豊満な胸元へと深く沈み込ませる。
もう一方の手は少女の艶やかな黒髪へと指を沈め、赤く染まったうなじを気だるげに揉み解していく。
「でも、その抜けた顔、いつもの抜け目ない雇われ労働者の顔よりずっと可愛いわ」
カリーナの目が細められ、探るような言葉が紡ぎ出された。
「ここが気に入った? それとも……この見慣れない家並みが、あなたの故郷の面白い記憶でも呼び覚ましたのかしら?」
耳元で囁かれる低笑には他愛のない戯れの響きがあったが、紡がれる一音ごとに、親指はルシアの青白い下唇を優しく愛撫し、その深紅の双眸は相手を己の血肉の中へと溶かし尽くさんばかりに昏く燃えていた。
「あなたの頭の中にどれほど私の知らない秘密が眠っていようと……ルシア、安心なさい。私の腕の中に大人しく納まってさえいれば、あなたが何処から来た魂であろうと、私は心ゆくまで愛してあげるから」
骨の髄まで蕩かしてしまいそうな力で抱きすくめられながら、ルシアの背筋には微かな怖気が走っていた。
底辺の社畜として泥水を啜ってきた彼女は、上位者の観察と探りに対して病的なまでに鋭敏だった。
カリーナの口にした戯れ言も、睫毛に落とされた口づけも、甘い蜜で包まれた冷徹なメスに他ならない——この帝国の軍権を握る女公爵は、自分がこの世界の魂ではないと完全に確信している。
桁違いの怪物を前に白を切り通すのは、最も愚鈍な自殺行為だ。
カリーナの柔らかくも鉄壁の如き抱擁の中で数秒逡巡したルシアは、とうとう疲弊した仮面を取り払った。微かに背筋を正し、顔を上げ、その澄んだ深緑の瞳でカリーナの血の如き真紅を真っ直ぐに見据えた。
「そこまで見抜かれてるなら、私もこれ以上とぼける気はありませんよ。ええ、その通りです。私はここの人間じゃない。ついでに言えば向かいのヴァレリーもね。以前、命がけで古代の石板を追っていたのも、元を正せば故郷へ帰る道を探すためでした」
彼女は言葉を切り、自嘲するように口元を歪めた。
「まあ……今はここでだらだら暮らすのも悪くないと思ってますけど。私みたいな人間にとっては、どこに行っても生活のために働くだけですし。給料がちゃんと出て、無償残業さえ押し付けられないなら、どの世界で生きようが大差ありませんから」
ルシアの告白はこれ以上なく率直だった。帰還? もう結構だ。
地球に残してきたあの偏執的な血縁者たちが、滑稽な執念から呪術紛いの手段で自分の魂を呼び戻し、疾うに冷え腐りかけた前世の遺骸へと封じ込めようとした悪夢……それを思い出すだけで、ルシアの胃の腑は今なお冷たく引き攣り、吐き気すら込み上げてくる。
息の詰まるあの故郷に比べれば、この世界は混沌と残虐に満ちてはいるが、少なくとも己の手には敵を屠る錬金術式がある。
彼女の関心は、眼前に広がるこの昭和風の温泉街へと向いていた。
町屋も、丸ポストも、日本の古代家紋すらもが深山に堂々と息づいているのなら、この広大な大陸のどこかに……自分と同じように運命に放り出された同郷者がいるのではないか。
「それで、公爵様……」
ルシアは探るような熱を帯びた声で、思わず身を乗り出した。
「この大陸には、昔から私やあいつみたいに、向こうの世界から零れ落ちてきた人間が結構いたんですか?」
もし志を同じくする転生者の先達がいるなら、魔導と技術を擦り合わせる苦労も大幅に省けるはずだ。
「ええ、いるわよ」
カリーナの声は凪いでおり、腰を抱く腕にも微塵の揺らぎはなかった。
「それも、あなたが想像しているよりずっと大勢ね」
「本当ですか!?」
ルシアの目が輝き、詳細を聞き出そうとカリーナの膝から身を起こしかけた。
「なら、その人たちは今どこに——」
だが言葉を紡ぎ終えるより早く、白くしなやかで冷ややかな香りを纏った人差し指が、ルシアの唇を静かに塞いだ。
見下ろしてくるカリーナの真紅の瞳に、憐憫にも似た冷ややかな嘲笑が揺らめいている。
「何を焦っているの? その者たちのほとんどは、とっくに火刑台に送られて、骨の欠片も残さず灰にされたわよ」
車内の空気が一瞬にして凍りついた。対面のヴァレリーは紅茶を啜ったまま伏し目がちに視線を落とし、眉一つ動かさない。この血塗られた歴史など先刻承知だと言わんばかりに。
「あなた、先ほどヴァレリーも異界の者だと明かしたわね?」
カリーナの指先がルシアの冷たい下唇をなぞり、低く緩やかな声が、逃れようのない現実を突き刺していく。
「なら、どうして少しも考えなかったの? なぜヴァレリーが普段の立ち居振る舞いから言葉遣い、果ては学院の討論会で他者を食い破る姿に至るまで、この世界の住民と何一つ変わらないのかを」
ルシアの呼吸が詰まった。冷たい悪寒が背骨を伝って這い上がってくる。
排他性。この世界には、異質な文明に対する骨の髄からの拒絶と、魔女狩りじみた本能が根深く横たわっているのだ。
ルシアが帝都で傲慢に振る舞え、馬車の中で女公爵と世界の差異について対等に語り合えるのは、彼女が価値ある転生者だからではない。「カリーナの女」という、帝室すら容易には砕けぬ後ろ盾を背負っているからだ。
何より彼女が双回路の技術を改良し、帝国が千年間抱えてきた戦力の桎梏を打ち砕き、大陸の頂点へと押し上げるだけの圧倒的な利益を提示したからこそ、生きる特権を買い与えられているに過ぎない。でなければ、ルシアとて疾うの昔に火刑台の薪と化していただろう。
だが、持たざる普通の転生者たちはどうだ?
前世で空想小説に溺れていた凡夫は、転生を天から降ってきた救済だと錯覚しがちだ。
地球で最も底辺の瑣末な仕事に追われ、家賃の工面に頭を抱え、人間関係は破綻し、職場の政治力学すら渡り合えなかった人間が、なぜ境界線を一つ越えて言葉を覚えただけで、突如として英知を授かり、一言の下に群雄を跪かせ、巨万の富を築く支配者になれるなどと傲れるのか。
その発想自体が、現実に対する最も滑稽な冒涜に過ぎない。
能力が無から湧き出るはずもなく、臆病と無能が世界を渡っただけで蒸発するはずもないのだ。
近代社会の資本に容易くすり潰される程度の消耗品が、人権法すら存在せず、裁判なしに首を刎ねられるこの蛮荒の世界に放り込まれれば、その末路は地球のそれより一万倍悲惨なものとなる。
自衛の術を持たぬ者は貧民窟でカビの生えた黒パンのために喉笛を掻き切られるか、浅知恵の「技術開発」や「近代経営」を気取った翌日に裏社会の徒や貴族に麻袋を被せられ、すべてを奪われて川底へ沈められる。
運が悪ければ、「万人平等」だの奇妙な発明だのと分を弁えぬ妄言を吐いた廉で教会から悪魔憑きの烙印を押され、広場の焦げた杭の上で生きたまま炙り殺されるのが関の山だ。
大半の転生者は、輝かしい第二の人生を歩むために来たのではない。ただ、衛生的で便利な現代の檻から、抗生物質も水洗便所すらない残酷な闘技場へと転落しただけの哀れな生贄なのだ。
その事実を、ルシア自身が誰よりも骨身にしみて知っていた。
彼女の異世界における第一の生もまた、そうして泥沼の中で無様に朽ち果てたのではなかったか。
かつて転生したばかりの時、彼女には主人公補正など何一つなく、底辺の平民として泥に塗れながら二十歳まで這いずり回った。
類稀な錬金術の腕を買われて公爵家に拾われたものの、待っていたのは逆転劇などではなく——カリーナからの丸三年に及ぶ冷淡な放置であり、ルーカスという生意気な小僧による三年間の反抗だった。
屋敷の片隅で影のように重労働に耐え、突如として降り注いだ暗殺の凶弾——轟音とともに胸を貫いた爆炎球によって、遺言すら遺せず息絶えた。
あの死の激痛こそが、彼女の脳裏に巣食っていた異世界への甘い幻想を完全に焼き尽くしたのだ。
だからこそやり直しの機会を得た時、彼女は狂ったように錬金回路の研究へと没頭し、命を削って帝国の権威を揺るがす『錬金手札』を編纂し、己の全身に猛毒の針を仕込んだ針鼠へと成り果てたのだ。
「分かったかしら、私の愛しい人?」
青と白に目まぐるしく表情を変えるルシアを見つめながら、カリーナの瞳の奥にあった冷酷な観察眼は静かに溶け崩れ、病的なまでの慈愛へと塗り替えられていった。
白く長い指がルシアの後頭部を強引に引き寄せ、その黒髪を己の肌に擦り寄せるようにして、再び胸元へと深く抱きかかえる。
「強大な権力の庇護を持たない異邦人など、この大陸では野良犬以下よ。あなたは喜ぶべきね……行き着いた先が、私の胸の中だったことを」
カリーナは、ルシアが抱くあの異質な恋愛観が別の世界に根差していることを理解していた。だからこそ彼女のその本質を塗り潰したいとは思わない。だが現在のルシアは、明確に教廷の標的となっていた。
もし皇太子との関係に綻びが生じれば、ルシアの身には致命的な危機が及ぶ。だからこそ彼女はクレアをもこの共犯関係に引きずり込んだのだ。
張り巡らせる防壁は一枚でも多いに越したことはない。公爵家と侯爵家、そして帝室の機能が同時に麻痺することなど、流石にあり得ないのだから。
「死んだ同郷人たちのことなど、気にする価値もないわ。今の己の立場を弁えなさい——あなたは私が雇い入れた錬金術の家庭教師であり、未来の公爵夫人よ。私の傍に留まり続ける限り、この大陸に敷かれた掟など、あなたが踏みにじりたいと望むなら、そのすべてを私が叩き壊してあげる」
カリーナの香気に満ちた胸元に顔を埋め、その強靭な肉体が刻む一定の鼓動を感じながら、ルシアはゆっくりと瞳を閉じた。
自嘲の息が漏れる。
それもそうだ。もし背後にいるこの狂女の庇護がなければ、今頃は辺境の寂れた工房で、数枚の銀貨のためにチンピラと偽薬の利権を巡って小競り合いを演じていたに違いない。
世界の救済など、同胞の探索など、どうでもいい。
この人を喰らう世の中で、最強の太腿にしがみついて心置きなくサボタージュを決め込むことこそが……どうやらこの社畜の魂に運命が与えてくれた、最初で最後の慈悲らしい。
張り詰めていた神経が解けた途端、疲労が津波のように押し寄せてきた。
カリーナの温もりと清冽なシダーウッドの香りに包まれ、規則正しい心音に耳を傾けていると、瞼が鉛のように重たく落ちていく。
この華奢で薄い肉体の状態は、あまりにも劣悪だった。
破壊神殿でのあの自傷紛いの神殺しの余波を受け、双回路は幾度となく過負荷を起こして崩壊寸前にまで軋み、内臓の震盪と深層の傷は高階錬金薬を数本呷ったところで即座に癒えるものではない。
この傷だらけの肉体を修復するために、彼女は何よりも深い眠りを必要としていた。
隣を満たす女の強引でありながら絶対の安寧をもたらす束縛の中で、ルシアの強張っていた横顔は少しずつ解れていった。
ようやく自らの巣穴の安全を確信した小獣のように、彼女は愛おしそうにカリーナの鎖骨の窪みへと鼻先を寄せ、やがて呼吸を長く穏やかなものへと変えながら、深い夢の底へと沈んでいった。
二度の生涯にわたって糾える愛憎を注ぎ、そして骨の髄まで愛してしまった女。どれほど理性が危険を告げていようと、肉体と魂の記憶はとっくの昔に白旗を掲げていたのだ。
腕の中で完全に脱力した少女の重みと、規則正しい寝息を感じ取った瞬間、カリーナが伏せていた瞳に宿っていた蕩けるような春の柔情は、顔を上げた刹那、万丈の氷壁を思わせる冷酷な深淵へと一変した。
真紅の双眸が小机を越え、軍団を率いる統帥特有の圧倒的な威圧感を放ちながら、正面のヴァレリーを射抜く。
ルシアの手を握りしめていた微温に浸っていたクレアもまた、尾を踏まれた豹のように身を起こしていた。
帝都にその名を轟かせる絶世の美貌には冷ややかな敵意が張り付き、精神系魔法の励起を告げる菫色の燐光を瞳に宿して、ヴァレリーの姿を逃さぬよう凝視している。
車内の気圧が瞬時に奪い去られたかのような重圧が満ちていた。
「故郷へ帰る道を探すのは、あなたの自由よ」
眠る少女を起こさぬよう、カリーナの声は極めて低く抑えられていた。だが、紡がれる一音一音には、骨を凍てつかせる殺意と警告が滲んでいる。
「けれど……ルシアがあなたの野心のために前線に立つ義務も、責任もないはずよ。先の神殿の一件、私はまだあなたと清算を済ませていないのだけれど?」
彼女は今や全貌を把握していた。ルシアがなぜ命を賭してまで禁忌の神殿を強襲しなければならなかったのか——己の錬金術の極限を測るためのみならず、ヴァレリーのため、そして己自身のために、あらゆる願いを叶えると謳われる七枚の古代石板を探し出すためであったことを。
だが、どれほど尤もらしい理屈を並べ立てようと、それはただの言い訳に過ぎない。カリーナの価値観において、ルシアを死線へ追いやる者は、誰であろうと挽肉器に放り込まれるべき屑鉄に他ならなかった。
骨すら圧し折らんばかりの威圧を前にしても、ヴァレリーの指先は紅茶のカップを揺らしすらしていなかった。
彼女は優雅にボーンチャイナをソーサーへと戻し、小気味よい陶器の音を響かせると、その金色の瞳で二対の殺意を受け止め、唇の端に酷薄な嘲笑を刻み込んだ。
「もう身内びいきの始まりかしら、公爵閣下?」
ヴァレリーは鼻で笑い、腕を組んでわずかに上体を前へと傾けた。その声は冷淡でありながら、寸分の狂いもなく急所を穿つ。
「私は彼女の首に刃を突きつけて強要などしていないわ。ここで私に向かって威張り散らす暇があるなら、胸に手を当てて自問したらどうなの? ——もしあなたが彼女に与えた安心感が本物で、あの難攻不落に見える公爵邸が彼女を真に安寧たらしめていたのなら、彼女がなぜあなたに隠れて、満身創痍になりながら神殿の石板を奪いに行く必要があったのかしら?」
ヴァレリーの唇から零れ落ちたのは、目の前の二人を微塵も憚らぬ、剥き出しの嘲弄だった。
「彼女はね、自分のための退路を用意しているのよ、カリーナ」
その金色の瞳に宿る冷ややかな棘が、一層の鋭さを増す。
「この世界で、彼女はいつだって『あなたに捨てられる』か『あなたの権力に引き裂かれる』覚悟を背負って生きている。彼女はあなたを信じていないし、この冷酷な帝国など露ほども信用していない。いつでも異界へ逃げ帰れる逃げ道を確保しておくことだけが、あの臆病で聡明な小娘が自分自身に用意できる唯一の保険なのよ」
その言葉は赤錆びた鈍刀のように、カリーナの胸の奥にある最も柔らかな急所へと突き刺さり、容赦なく抉り回した。
ルシアの細い腰を抱くカリーナの指先が、目に見えて強く強張る。その艶やかな美貌に、隠しきれぬ動揺と激痛が走った。
傍らのクレアもまた雷に打たれたように凍りつき、満ちていた敵意は瞬く間に底知れぬ狼狽と無力感へと反転していく。
ヴァレリーの指摘は、残酷なまでに的を射ていた。
こうして自らの胸の中に抱きしめられていながらも、ルシアの魂はなお、風の音に怯える野鳥の如く震えているのだ。彼女は常に利害を計算し、いつだって退職届の準備を怠らず、逃走のための跳躍台を築き続けている。
カリーナには分からなかった。ルシアが一体何を恐れているのか、この口先ばかり強がる脆い娘が前世においてどれほどの冷遇と絶望を味わわされたのかを——
なぜならルシアの「最初の一生」において、高みから彼女を離れの屋敷に三年間も放置し、冷たい視線の中で胸を貫く爆炎球の終局へと追いやった元凶こそが、他ならぬ自分自身だったのだから。
自らはあまりにも多くを忘れ、あまりにも多くのことを見落としてきたのだ。
カリーナの双眸を満たしていた凍てつく殺意は静かに霧散し、沈殿した濃密な自責と重圧へと変貌していった。
彼女はルシアの柔らかな黒髪へと深く顎を埋め、かつてない力加減で、息が詰まるほどきつく、その華奢な肉体を己の胸板へと抱き寄せた。
掌を通して伝わってくる微弱な鼓動。それは彼女の唯一の救いであり、同時に最大の急所だった。
決して手放しはしない。
ルシアが何を恐れていようと、どれほど多くの逃げ道を用意していようと、今度こそ……己の血肉と権力を以て隙間なき牢獄を築き上げてでも、この傷だらけの魂を己の余生の中に縛り付けてみせる。




