防衛ターンは終わった、ここからは私のターンだ!
大広間の重厚なウォールナット材の観音開き扉が、音もなく左右へと滑り開いた。差し込む光は、目が眩むほどに眩い。
天井の中央に吊るされたオーストリア製クリスタルシャンデリアが、温かみのある金色の光の輪を投げかけ、長大なダイニングテーブルに並ぶ器のひとつひとつを克明に照らし出している。
真っ白な厚手のリネンクロスには微かな皺ひとつなく、銀のナイフとフォークは冷たい輝きを放ち、その脇にはボーンチャイナの平皿と薄氷のようなクリスタルグラスが整然と並べられていた。
父は彼女を床に降ろそうとはせず、その腕でしっかりと抱きかかえたまま、上座の右隣にある最上席のハイバックチェアへと運んだ。
座面には急遽用意されたのであろう極厚で柔らかなベルベットクッションが敷かれており、父はまるで触れれば粉々に砕けてしまう陶器を扱うかのように、細心の注意を払って彼女をそこへ腰掛けさせた。
そればかりか、彼女の剥き出しで痩せ細った足を覆い隠すように、羽織らせた高級スーツの上着を自らの手で幾重にもきつく巻き直した。
「座っていなさい。風邪を引いては困る」
男の声は相変わらず低く威厳に満ちていたが、彼女の襟元を整えるその大きな手は、隠しきれぬほど微かに震えていた。
ルシア――あるいは今この瞬間の名簿に刻まれた「村雨」は、あまりに柔らかすぎる背もたれの中に、脱力したように深く沈み込んでいた。その腕の中では、ぼろ布と歯車で組み上げられた刻刻のぬいぐるみを、今なお無意識のうちに死に物狂いで抱きしめている。
彼女の虚ろな瞳が、目の前の長テーブルをぼんやりと見渡した。
テーブルの上には、滑稽なまでに豪奢な料理が所狭しと並べられていた。
低温でじっくりと焼き上げられた極上黒毛和牛のローストは桜色の艶やかな断面を覗かせ、縁には濃厚で艶やかなトリュフソースがかけられている。
ボストンロブスターは白く透き通る身が見事に殻から外され、芳醇な香りを漂わせる白ワインクリームスープに浸されていた。
その傍らには美術品のように美しく盛り付けられたキャビアのブリニ、焼き立ての熱気をかすかに放つフレンチトースト、そして特級金糸燕の巣で煮込まれたデザートスープの小鉢までもが並んでいる。
どの料理も洗練され、温かく、一般の労働者が一生かかっても口にできないほどの贅沢な香りを放っていた。
だが、優に二十人は着席できるその長テーブルを囲んでいるのは、ほんの数人だけだった。
椅子の引く音を立てて彼女のすぐ隣に座ったのは、糊のきいた真っ白なシャツを身に纏い、端正で清潔感のある顔立ちをした少年だった。
朝雨。彼女の実の弟だ。
記憶の中ではいつも冷淡に傍観し、この冴えない姉の存在など歯牙にもかけなかったはずの弟が、今は身を乗り出し、その体重のすべてを彼女に預けんばかりの距離まで寄り添っている。
普段なら冷徹で涼しげだった少年の瞳の周囲は、いまや病的な赤みを帯び、その奥には神経症めいた異様な光が渦巻いていた。
「村雨姉さん……」
朝雨の声は極めて低く、ひどく柔らかかった。まるで怯えた幼子をあやすかのようだった。彼は指を伸ばし、ほとんど祈りを捧げるかのような手つきで、ルシアの頬にかかる乱れた髪を優しく耳の後ろへと払った。
その指先はひどく冷たかった。ルシアの青白い肌に触れた瞬間、少年の指の骨が微かにびくりと震え、次いでその瞳に貪るような安堵の色が過った。
「お腹、空いたでしょう? これ、全部姉さんが一番消化しやすい温度で作るように厨房に言いつけておいたんだ」
朝雨は手元の小ぶりな銀のスプーンを取り上げ、濃厚で温かなロブスターのスープをそっと半分ほど掬い上げた。
わざわざ顔を寄せ、適温であることを確かめるように自然なしぐさで二度ふうふうと息を吹きかけてから、そのスプーンをルシアの唇の端へと差し出した。
その手慣れた仕草は背筋が凍るほど滑らかで、顔には非の打ち所がない温和な笑みを浮かべていた。まるで、拗ねて絶食している小さなペットを宥めているかのようだ。
「ほら、口を開けて、村雨姉さん……ほんの少しでいいから飲んで。ね? スプーン一口だけでも飲んでくれたら、僕、すごく嬉しいよ」
朝雨の瞳は一瞬たりとも彼女の唇から離れなかった。スプーンを握る指の関節は、過度な力配分のせいで死人のように白く強張っている。その声色は甘ったるい哀願の響きを帯びながらも、息が詰まるほどの威圧感に満ちていた。
「姉さんがちゃんと食べてくれさえすれば……これからは何が欲しいと言われても、僕が全部手に入れてあげるから。もうどこにも行かないで。ずっと家にいてよ、いいよね?」
長テーブルの向かい側に座る母は、目元に強く押し当てたハンカチを放そうとせず、肩を激しく震わせながらも必死に嗚咽を噛み殺していた。
扉の脇に立つ時雨は腕を組んで扉の枠に背を預け、長い睫毛を伏せながら、ルシアの華奢な横顔に膠のように重苦しい視線を縫い付けている。
そして上座の傍らに立つ父は、両手を後ろに組み、眉間に深い皺を刻み込んだまま、ルシアの身体を押し潰さんばかりの重圧を放つ視線を注ぎ続けていた。
これほど広大で豪勢な宴会場でありながら、山海の珍味を前にしてナイフやフォークが肉を切り裂き、咀嚼する音はどこからも響いてこない。
ただ、朝雨の優しくも執拗な囁きだけが、凍りついた静寂の空気を波立たせていた。
かつて経験したことのない粘ついた重圧が、深海の水圧のように頭頂から押し寄せ、ルシアの胸を締めつけて呼吸さえも痛みを伴うほど滞らせていた。
(……この神殿の守護者には、第二段階の試練が存在していたということ?)
激痛の狭間で思考が高速に回転する。全身を晒し、巨大な大鎌を振るうあの堕天使について、戦闘前に知らされていた情報は「受難の同調」による絶対反射の能力ただひとつだった。
だが、もし奴が侵入者の精神に刻まれたトラウマを抉り出し、強引に執念の幻境を構築する権能までも隠し持っていたとしたら――最初から与えられていた情報は不完全だったことになる。
(謀られたのか? 心の傷を具現化する精神干渉魔法とでもいうの?)
その筋道に思い至ると、ルシアの思考は逆に冷徹なまでの冷静さを取り戻した。
目の前の光景がすべて虚妄の幻影に過ぎないと割り切れるなら、この者たちがどれほど熱烈に、どれほど不自然に振る舞おうと、本質的には彼女の戦意を挫くための神殿の罠に過ぎない。
理にかなっていない以上、端から幻覚として処理すればいいだけの話だ。
しかしルシアは気付いていなかった。深く思考に沈み込むあまり、自らの虚ろな視線が朝雨の胸元を真正面から凝視してしまっていたことに。
目の前の少年が微かに反応を示した。どうやら、その視線の意味を完全に履き違えたらしい。
朝雨はスープの入った銀スプーンを皿の縁に静かに置くと、片手でワイシャツの襟元を無造作に引き裂くように緩め、三つのボタンを手早く外した。覗いたのは、少年のものとは思えぬほど引き締まった胸元の筋肉の輪郭だった。
次の瞬間、彼はルシアの青白く痩せこけた右手を強引に掴み取り、自らの熱を帯びた拍動する胸の上へと押し当てた。
「姉さん、こういうのが好きなの? ……好きなら、ご飯を全部食べたあとにいくらでも触らせてあげるから。ね?」
朝雨は低く甘い声で宥めるように囁いた。その声は病的なまでに粘り気を含んでいた。
ドカッ!
重く鋭い拳の音が風を裂き、容赦なく朝雨の横顔を打ち据えた。少年の首が乱暴に真横へと撥ね飛ばされ、身体ごと絨毯の上へと無様に転がった。急速に赤く腫れ上がっていく頬を手で押さえ、怒りも言えずにその場に蹲って縮こまる。
「村雨、弟の戯言など気にするな。碌でもない知恵をつけおって」
父は拳を引き、眉根を険しく寄せながらも、ルシアに向き直った瞬間、その声色には卑屈なまでの追従と焦燥が滲み出ていた。
「とにかく、何か口に入れなさい。いいな? ほんのひと口でいい。ひと口だけでいいんだ」
充血した父の血走った両目を見つめ、対面で両手を硬く握りしめて凝視してくる母と、扉の傍らで息を詰める時雨の姿を視界に捉えた瞬間、ルシアの脳内で警報が激しく鳴り響いた。
おかしい。誰も彼もが、彼女に「食べること」を強要している。
幼い頃に見聞きした怪談や古い言い伝えが、脳裏に不気味な輪郭を結んだ――神の領域や黄泉比良坂へと足を踏み入れた生者は、ひとたび現地の食物を口にし、冥府の因果に染まれば、その魂は永遠にその場に縫い止められ、二度と現世へと戻ることは叶わなくなる。
その疑念が生じた瞬間、目の前の世界が鏡面を叩き割ったかのような耳障りな甲高い音を立てた。
眩かったシャンデリア、湯気を立てるローストビーフ、洗練されたロブスターのクリームスープが、視界の激しい歪みとともに色を失い、蒸発していく。
長テーブルを埋め尽くしていた豪奢な山海の珍味は跡形もなく消え失せ、代わりに現れたのは、骨の髄まで凍りつくような冷気に満ちた細長い供物台だった。
朝雨が先ほどまで満面の笑みで差し出していた「ロブスタースープ」は、幻覚が剥ぎ取られた後には、黄ばんだ濁った呪符の水が浮き、半煮えになった冷たい白粥の小椀に過ぎなかった。
そしてその粥の真正面には、生の白米が山盛りに盛られた粗末な陶器の茶碗が鎮座し、その中央には半分ほど燃え尽きて青灰色の煙を立ち上らせる二本の線香が、真っ直ぐに突き立てられていたのだ。
供物台、生米、立てられた線香、そして呪符の水。
令嬢の帰還を祝う豪門の晩餐会などでは断じてない。これは――祭壇の中央で死者の魂を縛り上げ、この世に繋ぎ止めるための、死者のための降霊の宴そのものだった。
背筋を突き抜ける凄まじい恐怖と悪寒が頭頂へと駆け上がり、先ほど無理に飲み下した粘つく感覚が、胃の腑で激しく逆流した。
「うぇっ……!」
ルシアはもはや耐えきれず、激しく身を折り曲げて胃液を吐き出した。
吐き出されたものは食べ物の残滓などではなく、腐敗した生肉の生臭さを放つ黒褐色の濁った水であり、純白の絨毯の上に重々しく飛び散った。
同時に、異変が爆発した。
ルシアは自らの両手の輪郭から、目に見えるほどの白い煙が立ち上り始めているのを戦慄とともに見つめた。
指先、手の甲、前腕……皮膚がまるで猛火に炙られた蝋のように、白い光の塵となって空気中へと散じていく。その様はまるで、アニメの中で仏法の力によって強引に成仏させられ、霧散していく無念の浮遊霊のようだった。
(解ける……! この精神幻境を、ようやく打ち破れる!)
ルシアの瞳に狂気じみた冷徹な獰猛さが宿り、奥歯を噛み締めてその崩壊を耐え忍んだ。
しかし、彼女の身体から白煙が立ち上った瞬間、痛ましげな自制を装っていた父の仮面が完全に剥ぎ取られた。
男は逆上し、猛然と振り返って宴会場の薄暗い衝立の陰へと突進すると、そこに潜んでいた黄色い道服の女に向かって張り裂けんばかりの怒声を浴びせかけた。
「大金を払えば確実に降霊できると豪語していたではないか! なぜこんなことになる! あれだけの金を毟り取っておいて、このザマは何だ!」
衝立の陰から姿を現した骨鈴を持つ女は、顔を険しく歪め、富豪の罵倒に怯むこともなく冷笑を返した。
「目が見えないのかい? お前の目の前に座っているのは長女の魂そのものだろうが! 保存状態のいいあの肉体が無事である限り、いくらでも祭壇を組み直してやり直せるんだよ。何を血迷って喚き散らしているんだ!」
降霊……? 遺体の……保存?
言葉のひとつひとつが、猛毒を塗った氷の楔となって脳髄へと深々と突き刺さった。ルシアの思考が完全に凍りつく。
堕天使の精神攻撃などではない。
ここは地球だ。彼女がかつて生きていた、元の世界だった。
試練の第二段階へと引きずり込まれたのではない。異世界の地下神殿で【天刻全装・アルファ・オメガ・キャノン】を放った瞬間、因果の反射によって肉体が瀕死に陥り、魂が激しく揺らぎ遊離したのだ。
その隙を突き、地球側で発動していた強力な降霊の法陣が、肉体を離れた彼女の魂を強引に異世界から手繰り寄せ、引きずり戻したに過ぎなかった。
「姉さん――ッ!」
時雨と朝雨は、薄れていくルシアの魂を目の当たりにし、狂乱のパニックへと叩き落とされた。時雨はなりふり構わず飛びかかり、力を失っていくルシアの左肩を狂ったように抱きしめた。
殴り倒されていた朝雨も這いずるようにして駆け寄り、ルシアの右手首を必死の形相で握り締めた。
少年の爪が血の気のない彼女の肉に食い込み、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃに歪ませながら、震える手でその冷えた呪符の白粥を彼女の口元へと無理やりに押し付けようとする。
「村雨姉さん! 昔の僕たちが悪かった! 姉さんを蔑ろにして本当にごめんなさい……! だからお願い、ここに残って! このお粥を一口食べるだけでいいんだ! 飲み込んで、早く!」
二人の絶叫は窒息しそうなほどの絶望を帯びていたが、ルシアは極めて冷酷にその歯を食いしばり、頑なに唇を閉ざし続けた。
理解したのだ。彼らが無理やりに口をこじ開けて流し込もうとしないのは、この降霊術の根底にある鉄則が「自発的な受供」だからだ。
召喚された死者の魂が、自らの意志でこの魂を繋ぎ止める供物を飲み込み、因果の契約を結ばない限り、魂をかつての抜け殻へと完全に封印することは叶わない。
もし先ほど、彼らのあの歪んだ溺愛の茶番劇を信じ込み、朝雨の差し出した「スープ」を一口でも飲み込んでしまっていたら――彼女は遅すぎた後悔という名の牢獄に永遠に閉じ込められ、彼らの思い通りに扱われる操り人形へと成り下がっていたはずだった。
胸の奥深く、沈黙していた灼熱の感覚が一気に爆発した。
それは魔力回路が引き裂かれるような激痛であり、【刻刻】の体内で無数の歯車が超高速で噛み合う狂乱の共鳴だった。異世界にある瀕死の肉体が、魂へ向けて強烈な引力を放ち始めている。次元を引き裂く凄まじい反動が、怒涛の濁流となって彼女の全存在を呑み込んでいく。
戻るのだ。あの戦場へ。
「嫌だ! 姉さん! 私が悪かったの……お願い! 私のそばにいて! 行かないでえぇぇぇッ!」
時雨はその場に崩れ落ち、急速に冷たくなり、指の隙間から光の粒子となって零れ落ちていくルシアの魂に顔を埋め、獣のような絶望の慟哭を響かせた。
彼らは失敗したのだ。もう二度と取り戻すことのできない、美しくも気高い家族の魂を、自らの手で永遠に喪失した。
村雨。
物心ついた頃から無関心と冷遇のなかで育った日陰者として、彼女はこの家族からひとかけらの寵愛すら施されたことはなかった。
だが彼女は生涯を通じて、その骨の髄に刻まれた不撓不屈の意地だけを頼りに、自らの光を放ち続けた。独力で非の打ち所のない優秀なエンジニアへと登り詰め、カードゲームの対戦台においては、絶望的な後攻からカードへの深い理解と戦術だけで幾度となく盤面を覆してきた屈指のトッププレイヤーだった。
彼女はその細やかで熱い情熱のすべてを、深夜の配信画面の向こうにいる見知らぬ視聴者たちへと注ぎ込み――そしてある夜、徹夜の対戦配信の最中、酷使され続けた心臓が静かにその鼓動を止めた。
配信中の突然死であったがゆえに、異変に気付いた視聴者によって迅速に通報がなされた。救急隊が安アパートの粗末な部屋の鍵を破って突入したとき、キーボードの上に突っ伏したその華奢な身体には、まだ微かな温もりが残されていたという。
やがて、激昂したファンやネットユーザーの手によって、村雨の真の出自が白日の下に晒された。
表舞台でスポットライトを浴びる名士の父、貴婦人のごとき母、寵愛を一身に浴びて名門校に通う妹、何不自由なく育てられた弟――その眩い一族の陰で、長女だけが雨漏りのする湿気たアパートでカップ麺を啜り、孤独死を遂げていたという残酷な真実。
怒涛のように吹き荒れた世論の嵐は、この名家が誇る名声を無残なまでに粉々に粉砕した。その破滅の淵に立たされて初めて、盲目で傲慢だった家族は、途方もない恥辱と後悔、そして取り返しのつかない喪失の激痛の中で目を覚ましたのだ。
だが、死者に悔恨は届かない。手遅れの愛など、道端の雑草よりも価値がない。
狂気に憑りつかれた時雨は莫大な私財を投じ、禁忌の呪術に通じた霊媒を呼び寄せた。
冷凍保存されていた村雨の遺体を彼女が最後に息を引き取ったアパートへと運び込み、生前の生活の痕跡と遺品を依り代として魂を手繰り寄せ、三時間以内に祭壇の中で法力を込めた白粥を自発的に口にさせれば、死の運命を覆して魂を肉体へ封じ込めることができる――霊媒はそう請け負った。
時雨たちはその儀式の前段階を完璧に整えた。至れり尽くせりの溺愛を演じ、生前の罪を埋め合わせるかのように甘い罠を張り巡らせた。
だが、彼らには決定的な誤算があった。
村雨がすでに別の世界で幾多の死線を越え、深淵と神々の狭間で命を賭して戦い抜く「ルシア」へと変貌を遂げていたことを、彼らは知る由もなかったのだ。
血と炎の中で研ぎ澄まされた冷徹な警戒心、そして神殿の試練に囚われているという誤認が生んだ徹底的な深謀遠慮が、ルシアの手の中で何よりも強固な盾となった。
彼女は目の前に差し出された偽りの温もりを一瞥のもとに拒絶し、生者たちが繰り広げるグロテスクで身勝手な贖罪の狂騒劇を、冷酷に踏みにじって打ち砕いた。
突風が吹き荒れ、光の粒子が完全に掻き消える。
宴会場の供物台の前には、ただ虚無の冷気と、燃え尽きようとする二本の折れた線香だけが残されていた。
そしてルシアの魂は、胸中に再び燃え盛る狂暴な魔力を従え、次元の障壁を轟音とともに突き破りながら、あの焦土と化した地下神殿へと一直線に舞い戻っていった!
焦燥と白熱の静寂の中、肺腑を満たした最初の一息は、煮えたぎる硫黄と電離したオゾンの熱気、そして喉を引き裂かんばかりの生々しい血の匂いを含んでいた。
湿気て黴臭い安アパートの弁当の匂いでもなければ、霊堂に漂う生々しい線香や濁り水の腐臭でもない。
これこそが、本物の戦場だ。
ルシアの睫毛が激しく震え、息の詰まるような嗄れた咳き込みとともに、彼女は粉砕されガラス化した瓦礫の底で勢いよく見開いた。全身の骨という骨が軋み、悲鳴を上げている。
天刻全装・アルファ・オメガ・キャノンの天変地異のごとき破壊力が、堕天使の因果律「受難の同調」によってそのまま反射された瞬間、彼女の肉体はすでにボロ雑巾のように打ち砕かれていたのだ。
ローブは嵐の中で黒い燃え殻と化し、左腕はあり得ない角度に折れ曲がり、胸が上下するたびに折れた肋骨が内臓を擦り上げる激痛が走る。
だが、彼女は生きている。
決して運命に屈服しない野性と激昂を抱き、その魂は、亀裂だらけのこの器へと確かに力づくで叩き込まれた!
歯を食いしばり、まだ動く右手の爪を熱を帯びた岩肌に深々と食い込ませながら、彼女は血溜まりの中から半身を強引に持ち上げた。極めて無様でありながら、何よりも強靭な意志をもって起き上がる。
視界は流れ込む血によって真っ赤に染まっていたが、その滲む紅の彼方に広がる光景を捉えた瞬間、ルシアの心臓は激しく締め付けられた。
地底平原の彼方、かつて空を覆い尽くすほど傲然と天を衝いていた機械の巨神が、今まさに軋むような金属の悲鳴を上げている。
刻刻だ。
ルシアの意識が降霊術によって強制的に引き剥がされ、仮死状態へと陥っていた間、【刻刻】はマスターからの即時命令を完全に喪失していた。
だが、その中枢核の最深部に刻まれた第一論理は、敵の殲滅などではない――「いかなる代償を払おうとも、ルシアを護れ」。
それは攻撃することができなかった。全裸の堕天使はあらゆるダメージをルシアへとそのまま跳ね返す不気味な権能を有している。刻刻が拳を振るい、砲撃を放つたび、その一撃は愛する主の命を刈り取る致死の猛毒へと変貌するのだ。
かつて深淵の魔獣どもを震え上がらせた魔導の暴君は、反撃の許可すら得られぬ絶対の死局において、もっとも不器用で、もっとも絶望的な選択肢をただ愚直に遂行していた――自らの鋼鉄の肉体を肉の盾とし、徹底的な受動防御に徹すること。
巨神の聳え立つ巨躯には、無数の生々しい亀裂が走っていた。山をも砕いたはずの左腕は肩口から無残に両断され、高熱の大鎌によって溶断された太いケーブルや駆動軸が千切れ飛び、青白い火花をバチバチと撒き散らしている。
禁忌の魔法すら反射し、絶対の防御力場を形成していた複合浮遊鏡盾は、いまや蜘蛛の巣のようなヒビを刻まれた最後の三枚を残すのみとなっていた。
そして、ルシアが目を開いたまさにその瞬間――
轟ッ!
虚空を裂いて、音もなく白銀の弧光が薙ぎ払われた。堕天使の手にある断罪の大鎌が無慈悲に振り下ろされ、金属の断末魔とともに、刻刻の傍らに浮遊していた鏡盾のさらに一枚が爆散した。尖った無数の黄銅の破片が、激しいスコールのように大地へと降り注ぐ。
残り、わずか二枚。
巨神の頂点に位置する凶悪な西洋竜を模した金属の頭部は、ルシアの倒れる瓦礫の地をその広大な影の中に匿うように、低く低く垂れ下げられていた。
びっしりと並んだ鋭利な鋼鉄の牙の隙間からは、制御を失った青白い熱波が吐き出され、背部に林立する十数本の排気バルブは高圧の蒸気を甲高く噴き上げている。冷却回路全体が、自爆寸前のレッドゾーンを振り切っていることは明白だった。
一方的な処刑のような猛攻の前に、巨神はスクラップ寸前まで追い詰められていたのだ。
だが、それでも。
頭部で赤く明滅する機械の巨瞳は、足元で微弱な生命反応が再び灯ったことを感知した瞬間、激しく光彩を明滅させた。
「……ごめんね、刻刻」
乾き、血のにじんだ唇から、掠れた呟きが零れ落ちた。
申し訳なさと愛おしさで目頭が熱く焼けるようだったが、その瞳の奥にあった迷いは、この一瞬で完全に灰燼へと帰した。
自分は相棒を置き去りにしたのだ。
刻刻がたった一体で神の如き一撃を受け止め、彼女を守るために装甲を削り落としていた間、自分はあの下らない地球へと引き戻され、偽善とまがい物の愛に塗れた祭壇の前で時間を浪費していた。
その瞬間、三十年ものあいだ魂の深淵に根を張っていた劣等感も、無力感も、被害者としての甘えも、彼女自身の両手で根こそぎ引き抜かれ、焦土の大地へと叩きつけられて粉砕された。
この世界の万物に主があろうと、自分が生まれながらに何も持たざる者であろうと――それがどうしたというのだ。
自分は、雨漏りのするアパートで誰にも看取られず、カップ麺と端金のような投げ銭にしがみつき、キーボードの上で孤独に息絶えた情けない配信者・村雨などではない。
自分はルシアだ。
幾多の陰謀と詰み盤面において、最低の手札を握りしめながら胴元のテーブルをひっくり返してきた生粋の勝負師。歯車と禁忌の錬金術を研ぎ澄まし、神を討つ兵器を自らの手で鍛え上げた、ノーランド帝国至高の錬金術師ルシアだ!
胸の中で停止していた魔力回路が、神経ネットワークの再接続とともに、火山の噴火のごとき熱い咆哮を上げて再始動する。ルシアは血反吐を吐き捨て、血に染まった唇を吊り上げ、冷徹で狂気じみた笑みを浮かべた。
「戻ったよ、刻刻」
彼女は唯一動く右手を天へと掲げた。破れた袖口が熱風の中で激しく翻る。意識の共振が奔流となって叩き込まれ、巨神の体内で過熱していた冷却液が嘶きを上げ、万の歯車が再び超高速の噛み合わせを取り戻していく。
「防衛ターンは終わった……ここからは、全力で行くよ!」




