最後の切り札と、燃え尽きた人形の少女
地底平原を吹き抜ける狂風は、灼熱の灰燼と焦熱の悪臭を孕み、刃となって徹底的に薙ぎ払われた神殿の瓦礫を削り取っていた。
ルシアはそのガラス化した溶岩と砕石の山の上に、ただ一人立ち尽くしていた。
彼女の肉体は、もはや原型を留めぬほどに損壊していた——帝国錬金術師の栄光を象徴する黒金の法衣は、主砲の殉爆と因果の反射による衝撃によって無残な襤褸切れと化し、火炎に焼かれ引き裂かれた柔肌が灼熱の大気へと無防備に晒されている。
左肩の関節は完全に脱臼して位置を失い、力なく体側に垂れ下がり、その腕は糸の切れた操り人形の四肢のように不気味な角度で歪んでいた。内側に深く陥没した肋骨は、微弱な呼吸を繰り返すたびに尖った骨片が肺胞を削り取り、内臓の破片の混じった暗赤色の血泡を気管から喉元へと容赦なく押し上げる。
右腕に刻まれた錬金術の紋様はさらに惨烈を極めていた。過負荷のバックラッシュに耐え切れず、精密極まる魔力伝導線はことごとく破断。弾け飛んだ肉の裂け目からは青白く焦げ付いた筋腱が露出し、力なく垂れた指先から滴る鮮血が、赤熱した焦土に落ちては「ジュッ」と蒸発音を立てていた。
しかし、今にも息絶えそうなその壊れた肉身でありながら、彼女の四肢には震えも、躊躇いも微塵として存在しなかった。
呻き声すら、ただの一度も漏らしてはいない。
ルシアは顔を仰ぎ、わずかに小首を傾げた。割れた額から伝い落ちる温く粘つく鮮血が、透き通るほど蒼白な頬を滑り、唇の端に一筋の紅い血珠を結ぶ。
彼女はそれを拭おうともせず、深淵の古潭を思わせる深緑の双眸を細めると、ゆっくりと舌先を伸ばした。鉄錆の匂いと硝煙の苦味を帯びたその血糊を、静かに、どこか戯れるようにして口内へと舐め取ったのだ。
舌先を刺す血生臭さと塩気が、最も劇烈で猛毒めいた強心剤となり、神経末梢の痛覚を瞬く間に焼き起こす。
だがその刹那、彼女の意識は戦慄を覚えるほどに澄み渡っていた。
瀕死特有の混濁も、脳の酸欠による眩暈も、ましてや先刻まで地球の葬儀場に引きずり戻されていたことへの惑いなど欠片もない。脳内ではかつてない極限の速度で、眼前の戦局が冷徹に再構築されていた——堕天使の攻撃間隔、大鎌が虚空を断ち切る軌道、クロノに残された二枚の浮遊鏡盾の耐久限界、そして自らの体内に残存する魔力量。
あらゆる数値、あらゆる確率、あらゆる死線からの勝機が、その視界の中で克明に解体され、推計されていく。
血泥と灰塵に塗れた精緻な顔立ちに、凡俗の恐れなど何一つ浮かんでいない。
それどころか、その深緑の瞳の最奥には、氷のように冷徹で、獰猛極まりなく、狂気じみた戦意が爛々と燃え盛っていた。それは永夜の深淵に投げ込まれた導火線が、轟然と火花を散らしたかのような光彩であった。
たとえ全身の骨の半分が砕け散ろうと、全身の魔術回路が破滅の悲鳴を上げようと——。
彼女は裂けた唇の端をわずかに吊り上げ、歯列の隙間から再び血を滲ませながら、虚空に座す傲慢な神の造物を野獣のような眼光で射抜いた。
まだ、死んでなどいない。手札を切り尽くしていない以上、この盤面を投了する気など毛頭なかった。
「ルシア――ッ!」
渦巻く濃煙と熱波を突き抜け、悲鳴にも似た絶望の泣き声が、崩壊した神殿のアーチの向こうから響き渡った。
クレアの声だ。
ルシアはそこで初めて現実に引き戻されたように、血煙に霞む視線をわずかに横へと向けた。彼女はようやく理解したのだ。たとえ先ほど自らの魂が地球へと強制送還され、肉体が仮死状態に陥っていたとしても、クロノの巨大な鋼鉄の軀が完全に崩壊せぬ限り、その中枢コアに刻まれた防衛術式が決して途切れることはないということを。
高密度の重金属流体で形成された「水銀の障壁」は、今なお難攻不落の絶壁として戦場を完全に封鎖し、クレアたちを絶対安全圏の外側へと縫い留め続けていた。
障壁の向こうでは、クレアがすでに涙に暮れ、流動する金属の表面を狂ったように両手で叩き続けていた。その隣では、常に誇り高く泰然としていたヴァレリーの端麗な顔が紙のように蒼白に染まり、杖を握る指先を激しく震わせている。その法衣は魔力を極限まで搾り取られた深い疲弊を滲ませていた。
ルシアが意識を失っていた間、二人がこの水銀の壁を穿ち、自分を救い出そうと、ありとあらゆる超規格の高階位攻撃魔法を乱射し続けていたことは明白だった。そして後方に控えるジュリア——日頃は崇拝の眼差しで付き従うあの少女は、神罰という概念すら超越した光景に膝を屈し、地べたにへたり込んで身動き一つ取れずにいた。
この神殿の試練の過酷さは、最初からルシアの想定を遥かに逸脱していた。
謎を解き明かした当初、彼女はその冷徹な思考力をもって軽々と暗号を破り、守護者への入り口を見つけ出したことで、「神殿の守護者とてこの程度か」という驕りすら抱いていた。だが今、彼女は現実の鉄槌によって完全に目を覚まされたのだ。謎解きは謎解き、戦闘は戦闘なのだと。
「破壊」の名を冠するこの神殿の根底を流れる論理は、足を踏み入れたその瞬間から明白に刻まれていた。
すなわち、場そのものを引き裂く純粋なる破壊をもってのみ深淵へと至る螺旋階段は姿を現し、そしてその門扉を押し開かんとするならば、侵入者は神の御前で「己の偽装を徹底的に破壊」し、名誉、家柄、身分、そして自尊心という虚飾の衣を脱ぎ捨て、最も赤裸々で真実の姿のまま運命を迎え撃たねばならない。
それこそが、貴族としての体面を命よりも重んじる異世界の住人たちが、代々この神殿を踏破し得なかった所以であった。
だが……それを看破したところで何になるというのか。
虚空に浮かぶ、真実を象徴する全裸の堕天使は、果たして人の身で乗り越えられる領域の存在なのか。絶対不可侵の受難同調、万象を両断する断罪の大鎌。それは「強き者ほど、速やかに死に至る」という理をルールそのものに組み込んだ、理不尽極まりない詰みの盤面ではないか。
現在の彼女は、その眼底に猛り狂う戦意を宿しながらも、突きつけられた現実は氷の刃のように冷徹だった。魔力は枯渇し、クロノのパーツは限界を迎え、手札は尽き果てた。先ほどの加農砲の一撃で、持ちうる通常戦力はすべて撃ち尽くしてしまったのだ。
だが——真の勝負師の手の内には、いつだって道理を覆す「最後の一枚(切り札)」が残されている。
血に染まったルシアの華奢な顔に、不意に狂気じみた嘲弄の笑みが浮かんだ。
水銀障壁の向こうで張り裂けんばかりに響くクレアの悲鳴を余所に、ルシアは唯一動く、肉の弾け飛んだ右手を静かに持ち上げた。杖を手に取るでもなく、錬金薬を掴むでもない。その血泥と肉片に塗れた五本の指先を、自らの陥没した左胸、肋骨の隙間へと冷ややかに宛がった。
次の瞬間——。
ドスッ!
何の躊躇いもなく、何の迷いもなく。細い指先は鋭利なメスのように、骨が強引に押し拡げられ軋む鈍い音とともに、皮膚と折れた肋骨の合間を無慈悲に貫き通した。
傷口から滾る鮮血が間欠泉のように噴き出し、彼女の手の甲を真っ赤に染め上げる。ルシアの右手は半ばまで薄い胸腔の奥深くへと埋没し、逆巻く血潮と灼熱の臓腑のただ中で、瀕死に喘ぐ心臓そのものを鷲掴みにした。
「う……ッ! ぐ、あああぁッ……!」
言葉を絶する激痛が、幾億もの焼き鏝となって中枢神経を一瞬にして蹂躙した。ルシアの肉体は弓のように張り詰め、喉の奥から瀕死の野獣のごとき悲痛な呻きを絞り出し、蒼白な額に青筋を浮かび上がらせる。
彼女は己の手で、その拍動する心臓を直に握り潰し、搾り取っていた。
生命を燃料へと圧縮し、魂の痛撃を着火剤として、枯渇した体内の錬金回路を再び轟然と駆動させるための一滴の魔力を購うために。
痛い。骨髄が溶け落ちるほどに痛い。だが、それがどうしたというのだ。
この神殿の掟が「偽装の破壊」であり、「万象の蹂躙」であるというのなら、己のこの壊れかけの肉親ごと、心臓ごと、無残に破壊し尽くして見せるまで。
決して屈しはしない。荒涼たる瓦礫の彼方で、クロノの巨躯が今なお己のために神の威圧を押し留めているからだ。その身に宿るすべての歯車が、一度たりとも諦めることなど選んではいないのだから。
ブシャッ——!
肉の引き裂かれる音と粘つく血飛沫の飛散とともに、ルシアは何の未練もなく、胸の深奥に沈めていた右手を一息に引き抜いた。
暗赤色の熱血が脱力した指先を伝い、赤熱した岩肌を打つ。水銀の障壁の向こうでは、クレアがすでに声を涸らして泣き叫び、拳を血だらけにしながら流動する金属の壁を狂乱のうちに叩き続けていた。
ルシアは振り返ることすらしなかった。激痛に眉根を寄せることすらない。
だらりと垂れ下がった左腕は脱臼し、神経すら断裂している。だが次の瞬間、胸腔から無理やり絞り出された鮮血が狂暴に発火するとともに、あの焼け爛れ、縁の炭化した「錬金手札」が左手首の虚空へと再び羽音を立てて展開した。
翻る羊皮紙のページの間から、強奪された膨大な生命力と魔力が乱暴かつ精密に圧縮され、結晶化していく。瞬く間に、幽玄な暗紫色の光を放つ二枚の多面体魔力クリスタルが産み落とされた。
晶石は彼女の壊れた左手首の周囲を、まるで極小の死星のように、冷酷で規則正しい軌道を描いて高速公転し、高周波の危険な破断音を響かせ始めた。
虚空の彼方、無一物にして断罪の大鎌を掲げる堕天使が、黒き翼を静かに収めた。
彼は血溜まりの中で今にも砕け散りそうな人形でありながら、深緑の瞳で自身を射抜く少女を見下ろし、その無垢なる貌に初めて敬虔な動容を刻み込んだ。天使の双眸に勝者の嘲りはなく、数千年もの永きにわたり忘れ去られていた熱狂と憐憫が湛えられていた。
「本当に、そなたを傷つけたくはなかった……そなたは、あまりにも美しい」
男声のそれは聖詠のように低く、厳かに、死せる神殿の静寂を揺らした。試練を司る不滅の神造物として、これほどまでに純粋な覚悟を目にするのはいつ以来であろうか。貴族の虚名のためでもなく、英雄の賛美のためでもない。ただ一筋の反骨と傲慢のみを頼りに、神すら傅く死線のただ中で、自らの心臓を抉り出して運命に引き金を引く、眩き人の子の姿。
しかし、ルシアには彼にくれてやる言葉など一言も残されていなかった。
神像と戯れる余力など疾うに尽きている。一息吐くことすら、肺腑に刃を突き立てられるに等しい。彼女は心臓の血に塗れた右手を虚空にかざし、魔力晶石の一つを握り潰した——刹那、最上の魔力嵐が爆ぜる!
血に濡れた口元が、冷酷極まる弧を描いた。
「——場地術式、展開」
清冽で、嗄れ果て、されど何者にも侵されぬ絶対の意志を乗せた言霊が紡がれる。ルシアはこの死局の天秤へと、最後の手札を叩きつけた。
「虚構空洞・星骸葬場」
フォォォン――ッ!
爆発も、轟音もなかった。術式が定礎されたその刹那、加農砲によって薙ぎ払われた神殿の瓦礫も、ガラス化した溶岩も、天を覆う威容を誇っていた巨大なアーチすらも、一瞬にしてすべての色彩と「実体感」を剥奪された。
それは概念層における「抹消と置換」。
現実の物質次元は、中心から猛火に焼かれた古びた絵巻のように、ルシアとクロノを中心として音もなく外側へと剥落し、崩壊していった。空間の裂け目がもたらす奇妙な無重力感とともに、万象は底知れぬ絶対の死寂へと力づくで引き摺り込まれていく。
戦場は完全に変貌を遂げた。
もはや息苦しい地底神殿ではない。視界を埋め尽くしたのは、荒唐無稽なまでの広漠であった。
足元に広がるのは、見渡す限りの死灰の焦土。幾千万年もの歳月をかけて鍛造された冷鉄のごとき硬度を誇り、その上には幽微な燐光を放つ死滅の星屑が薄く降り積もっている。そして視線をわずかに上げるだけで、認識の限界を押し潰す宏大な天幕がそこには広がっていた。
頭上に空はなく、岩盤もない。それは「うしかい座ボイド」を彷彿とさせる、数億光年を跨ぐ絶対の深空。
光を失った漆黒の宇宙を背景に、数億を数える巨大な星骸が漂っている。かつて灼熱を放ち自転していた恒星は疾うに燃え尽き、砕け散り、斑模様の冷たき黒色矮星や金属片と化して、不可視の重力によってこの虚構の領域に繋ぎ止められている。
群星の残骸の隙間には、数百丈に及ぶ巨大な黄銅の歯車と歪んだ長針が虚空と大地を貫いて聳え立ち、錆びつき、噛み合わさりながら、古代の深海巨獣の鼓動のような鈍い「ガシャリ」という音を響かせていた。
極度の冷気が支配していた。光すら凍結し、大気の熱量ことごとくが吸い尽くされるほどの絶対零度。ただ術者であるルシア一人を除いて。
聖なる微光を纏っていた堕天使の全裸の肢体は、果てなき星骸の深空を前にして、あまりにも矮小だった。底なしの深淵に落とされた一粒の塵芥にすぎない。
何より致命的だったのは、「生と死」の概念すら抜き取られたこの死寂の空洞において、彼が誇りとしていた神聖なる威圧が、反響すべき媒質を何一つ見出せないことであった。
ここは、生者が足を踏み入れてよい領域ではない。
諸天の星々を埋葬するために穿たれた、宇宙規模の死体安置所。
常理と次元を引き裂く名状しがたき怪異の降臨を許す、唯一の温床であった。
ルシアは唯一動く、熱き心臓の血に塗れた右手を静かに掲げた。
震える指先が虚空を薙ぐ。それは優雅な筆致ではなく、命のすべてを死線に張った賭徒の乱暴さそのものであった。彼女の背後の虚空が軋みを上げ、直径数十丈に及ぶ極めて精緻な黒金の錬金陣盤が、無数の遥かなる星明かりを背に轟然と旋回を始めた。
「――昇格術式、輪転階位上書き」
乾いた唇から、掠れた冷徹な言霊が零れ落ちる。
炉心を焼き尽くし、装甲の随所が裂けて黒煙を噴き上げるあの巨大なる「始源終焉加農砲」が、不可視の引力に引かれ、錬金陣盤の渦の中心へと沈降を始めた。
その動作は、極めて緩慢であった。
それは機構の不調による引っかかりなどではない。一つの別れを告げる、重々しい引き摺りであった。幾多の死線を潜り抜け、凡人から神殺しの道へと歩みを共にしてきた旧き兵器が、傷だらけの鋼鉄の身を横たえ、自らが解体され、次なる深淵への薪として投じられる既定の運命を静かに受け入れているかのような。
歯車と指針が沈降の中で最後の微弱な「カチリ」という悲鳴を上げる。その緩やかな沈みゆく様は、ルシアが歩んできた孤注一擲の人生の縮図そのものであった——引き返す道などない。己の築き上げたすべてを、我が手で虚無へと贄として捧げるほかないのだ。
加農砲の砲身が陣盤の深淵へと完全に没した瞬間、すべての次元の色彩を洗い流すほどの熾烈な閃光が、死寂の星骸戦場を撃ち抜いた!
しかし、予期された破滅の爆発は訪れなかった。
頂点に達した眩い白光は、何の前触れもなく内側へと収縮し、潰滅した。天地のあらゆる音が力づくで奪い去られ、余波も、塵埃もなく、先ほどの天地を揺るがす術式など初めから存在しなかったかのように、ただ虚無の静けさだけが沈殿していた。
虚空の中、神聖なる堕天使は微かに眉をひそめた。不滅の守護者が幾千年の時を経て初めて抱いた当惑——加農砲は消え失せ、力の波動は凪いだ。眼前の、今にも息絶えそうな壊れた人形のごとき女は、一体何をしたというのか?
その不気味な平穏の正体を彼が測りかねるよりも早く、ルシアの引き裂かれたような声が、無辺の真空の深淵より幽かに木霊した。
低く、掠れ、肺腑から逆流する血泡を含んだ声。しかしその一音一音が、星骸葬場という死の盤面において、現実と理の境界を叩き割る無形の弔鐘となって響き渡る。
「太古の混沌より眠れる胎動を汲み上げ、永遠の虚無を画布として原初を描け。世人が執着する表象を引き裂き、直視能わざる真実を映し出せ。相生にありて輪廻の宿命を断ち、相克にありて諸天の星骸を焼き尽くせ! 深空の天幕に座す冷徹なる巨瞳を開き、沈淪する万象を無へと帰せ。此の刻、群星を永久の眠りにつかせよ――」
ルシアは血に染まった拳を握り締め、深緑の瞳に冷たき光を宿した。
「――【天刻崩星・虚偽なる凶眼】!」
言霊が落ちた瞬間、堕天使の背の翼が戦慄とともに硬直した。
それは視覚的な衝撃によるものではなかった。広大無辺なる星骸の虚空を見渡しても、彼の視界には依然として何一つ存在せず、ただ荒涼たる死寂が横たわっているだけだった。深空が割れることもなく、怪異が飛び出すこともなく、実体を持つ天体すら降臨してはいない。
だが、違っていた。
空間の質そのものが、根底から変質していたのだ。
神聖をも冒涜をも超越した、古く、粘度を帯びた膨大なる殺意が、不可視の深空の巨獣のごとく、彼の周囲のあらゆる次元の隙間に音もなく蟠っていた。それは彼個人に向けられた殺意ではない。この天地そのものが、不可逆なる天体崩壊を迎えようとしている予兆であった。
神殿の守護者は、その悠久の生において初めてこの感情を知った。
全裸の肌から神核の最深部へと、悪寒が突き抜けていく。「死」と呼ばれる冷徹な感触。幾億もの不可視の鋼針が自らの神格の上に吊るされ、何者かの瞬き一つで、灰燼すら残さず圧殺されるのを待っているかのような恐怖。
——死ぬ? 我が生が……ここで潰えるというのか?
彼は手にした断罪の大鎌を振るおうとした。あの無敵の「受難同調」を発動させようと欲した。しかし、彼の本能と神聖なる知覚は狂乱の警報を鳴らし続けていた——標的は何処だ? この圧迫の根源は何処にある? 四方八方は虚無の深空であるにもかかわらず、死はすでに全方位から彼を逃れようもなく覆い尽くしていた。
手遅れだった。凡人にも神にすらも理解し得ぬ因果の絞首縄が、無声のうちに締め上げられていたのだ。
そして戦場の端で、ルシアは虚空に立ち続ける力すら搾り取られようとしていた。
これが本当に、彼女に残された最後の切り札であった。もしこの一撃をもってしても守護者を粉砕できなければ、もはや石板を奪う手立てなど何一つ残されてはいない。
過度の失血による悪寒と激痛が脳髄を呑み込んでいく。朦朧とする意識の中、ルシアの胸中には珍しく、微かな退廃と自嘲が去来していた——地球への帰還など知ったことか。
メインクエストなど知ったことか。最初から素直に従い、ヴァレリーのあの女を言いくるめて異世界に留まらせる道を選んでいれば、心臓を抉り出すような惨状に比べれば一万倍は気楽だったはずなのだ。
いっそのこと……この賭けに敗れ、このまま倒れ伏して、クレアやカリーナに養われて生きるのも悪くないのではないか。豪奢な寝台に横たわり、甘やかされ、愛でられるだけの日々。少なくとも今のように、局面を覆すたびに己の命を雑巾のように絞り上げて血を垂れ流す必要などないのだから。
「カリーナ……」
あの地球の葬儀場を追体験した夢の残滓と、今まさに神経を蝕む極限の疲弊の底で、ルシアはあの見知った温もりと抱擁を無性に恋焦がれていた。
倫理の天秤にかけるなら、クレアを誘惑し、その前で思わせぶりに縋り付いてみせた己の行いは、ある意味でカリーナへの情に対する裏切りに他ならなかった。
だが……前世において、あの冷徹な女が三年もの長きにわたり自分を冷遇し続けたのだ。
ルシアは霞みゆく視界の隅で、血に染まった唇をかすかに歪めた。
裏切りであろうと、何であろうと。
これは……幾年もの時を隔てて届ける、カリーナへのほんの小さな意趣返しにすぎないのだから。




