砕かれし仮面と、悪意に満ちた芳香
甘美にして、ねばつくような濃密な気配が、修道院の打ち捨てられた偏室の死寂の中に、いつまでも重たく澱んでいた。
石壁の隙間から漏れ入るわずかな外光すらも、この部屋に充満する熱気と爛れた気配に呑み込まれ、息を潜めている。
クレアは指先を微かに跳ね上げ、水魔法の術式を無詠唱で起動させた。空間の湿度が瞬時に収束し、彼女の目の前に、揺らぎのない一面の楕円形の水鏡が凝結する。
鏡面に映る自らの姿を、彼女はじっと見つめた。その瞳に浮かぶ感情は、冷淡であり、機械的であり、どこか遠い他者を観察しているかのようでもあった。
クレアは何かに憑りつかれたように、しかし寸分の狂いもない手つきで、乱れに乱れた自らの菫色の長髪をすき、衣服の襟元を整えていく。
引き裂かれそうになっていた布地の皺を一つひとつ指先で撫で下ろし、肌に張り付いた乱れ髪を払い、やがてその薄い唇の端に――あの、初春の柔らかな陽光を思わせる、寸分の狂いもない淑やかな温もりの笑みを、完璧に蘇らせてみせた。
「帝国の初恋」。
ノーランド帝国の全土から雲の上の存在と崇められ、純潔にして無垢なる象徴、至高の標本と讃えられた美姫が、何食わぬ顔で、またしても完璧に息を吹き返したのだ。
鏡に映るこの、吐き気を催すほどに虚偽に満ちた己の貌を見つめながら、クレアの胸の底にはただ、絶対零度の冷え切った自嘲だけが渦巻いていた。
だが――彼女はもはや、どうでもよくなっていたのだ。
貴族としての自尊心であろうと、帝国屈指の名媛としての体面であろうと、そんなものは肥溜めや泥沼の中に投げ捨ててしまえばいい。
他人の敷いたレールの上で完璧な聖女を演じることなど、この瞬間を境にすべて灰燼に帰した。
少なくとも今の彼女は、この生涯において唯一、己の掌の内に死ぬまで縛り付けておきたい人間を見つけ出したのだから。
たとえ将来のいつか、あの尊大で傲慢極まりない北境の従姉――カリーナと同じ寝所の前で、この小さく脆い獲物を分かち合わねばならぬ日が来ようとも、今のクレアにとっては、それすらも甘美なる歓喜の一部に過ぎなかった。
パチン、と指を鳴らすと、水鏡は微かな水気となって霧散し、静かな大気の中へと溶けて消え去った。
クレアは身を翻し、その菫色の視線を、冷たい石台の上に横たわるルシアへと静かに落とした。
帝立学院の崇高なる威信を象徴していたはずの、あの厳格な学者長袍は無情にも引き裂かれ、見る影もなく無惨な襤褸の布切れへと成り果てている。
露出した紙のように青白い肌の上には、触目驚心な紅斑と、飢えた獣が貪るように噛み締めた無数の口づけの痕が、鮮烈な対比をなして散らばっていた。
腰を痛め、自力で起き上がることすら叶わぬまま、自らの手によって徹底的に打ちのめされ、深い昏睡の底へと沈み込んだこの黒髪の少女。
その痛々しくも無防備な無力さを見下ろすうち、病的なまでに熱く昂ぶる充溢感が、クレアの胸中を狂ったように駆け巡り、全身の血を沸騰させていく。
クレアとて、自らをサディズムに溺れる精神異常者だとは思っていない。他人に無意味な悪意を振り撒き、無抵抗な生類を嬲るような下劣な女であるはずもなかった。
彼女はあくまで、洗練された帝国の貴族令嬢として育ち、教育を受けてきたのだ。
だが――厳格な身分階級が存在し、誰もが仮面の下で互いを食い物にするこの腐敗した社会において、己の内奥に巣食う醜悪さを徹底的に暴き立て、あまつさえその劇毒のごとき醜態を、冷徹な理性と共犯関係の冷笑をもって余すところなく受け止めてみせた相手を、人はどうして愛さずにいられようか?
他者から向けられる過剰な期待と羨望。その重圧に耐えかねて「聖女」という名の仮面を被り続け、長い年月を過ごすうちに、人は自分が本来どのような顔をしていたのかすら忘れてしまうものだ。
そしてその強固に癒着していた仮面を――ルシアは、自らの骨を軋ませながら、細く冷たい指先で粉々に叩き割ってくれたのだ。
クレアは、自らが身につけていた上質で精緻な仕立ての外套を静かに脱ぎ払った。そして、今にも砕け散りそうなほど冷たく華奢なルシアの肉体を、慈しむように、壊れ物を扱うように丁寧に包み込んだ。
次の瞬間、獲物を縄張りに囲い込む雌獣のごとき執着を込め、彼女はその身体を自らの腕の中へと強く強く抱き寄せる。
自身の長靴の爪先を前に突き出し、クレアは重苦しい木扉を一蹴りで蹴破り、外の冷気漂う空間へと歩み出た。
バタン、と鈍い音を立てて開け放たれた扉の外。
風化した斑らな石壁に気だるげに背を預けていたヴァレリーが、煙草の煙でも吐き出すかのような気怠さで、緩慢にその上体を起こした。
クレアの腕の中に抱きかかえられた、外套の隙間から黒髪を覗かせる生気のない影を一瞥し、ヴァレリーは片方の眉をわずかに吊り上げた。
その唇から漏れ出た声音には、隠しようもない露骨な戯れと嘲弄の色が満ち満ちていた。
「……ずいぶんと容赦のないことね。高貴なる『帝国の初恋』様が、まさか発情した野獣と見分けがつかないだなんて。中の凄まじい物音を聞いたときは、本気で壁を突き破って化け物でも乱入してきたのかと思ったわよ。帝都であなたに下手糞な愛の詩を捧げている貴族の坊ちゃんたちが見たら、元老院ごと大騒動に発展するんじゃないかしら?」
先ほどまで、あの薄い扉の向こうで繰り広げられていた長きにわたる狂宴。
密閉された空間から漏れ聞こえてきた息を殺した嬌声、シーツや布地が擦れ合う微かな摩擦音、そしてルシアの細い骨が軋む音。
それらを外で聞き耳を立てていたヴァレリーは、ルシアの細い命が本当にクレアの腕の中でへし折れて終わるのではないかと、本気で疑ったほどだった。
だが――初めから終わりまで軍隊じみた圧倒的な覇道と軍事力で暴虐に圧殺してくるカリーナに比べれば、クレアの振るう暴力には、胸焼けがするほど濃密で粘度の高い「情念の交歓」と、救いようのない狂乱が混ざり合っているようではあったが。
「私という人間が、元からこういう質だったというだけのことよ」
クレアはヴァレリーの品定めするような視線を正面から受け止め、取り乱す様子もなく平然と言い放った。その透き通った声には、自らの醜悪な本性を暴かれたことに対する狼狽など微塵も存在しない。
「くだらない賛美と、身の丈に合わない空虚な肩書に長年目を眩まされすぎて、飢えた野獣が目の前の生肉に噛みつくという当然の摂理すら、私自身が忘れかけていただけの話よ」
彼女は視線をわずかに落とし、腕の中で青ざめて生気を失っているルシアの横顔を見つめた。
そして再び顔を上げると、その菫色の双眸に万象を洞察した冷徹な嘲りを宿し、視線の切っ先をヴァレリーへと真っ直ぐに向け直した。
「それに……私、この破壊神殿の真のルールが完全に分かったわ。肉体の物理的な損傷なんて、初めからこの神殿の扉を開くための鍵じゃなかったのよ」
クレアの口元の笑みがゆっくりと広がり、周囲の空気を凍りつかせるような絶対的な冷たさを帯びていく。
「最初から何ひとつ障害もなく、この場所の扉を押し開けることができた……ヴァレリー教授。あなたの心の底も、十分に醜悪で薄汚いということよ」
クレアの放った痛烈な挑発を受け、ヴァレリーの口元が微かに引き攣り、頬の表面にある細かい筋肉が神経質にピクピクと痙攣した。
だが、ヴァレリーは反論しなかった。
反論できなかったのではない。この刹那、謎を解き明かしたのはクレア一人ではなく、昏睡したルシアも、そして何よりヴァレリー自身もまた、この破壊神殿が突きつけてくる悪意に満ちた真実に完全に思い至っていたからだ。
この世界に、完璧な人間など存在しない。
それなのに人々は、完璧という名の幻想を追い求めるあまり、己の顔に幾重もの分厚い仮面を貼り付け、偽りの自分を演じ続ける。
初めのうち、クレアは身体に負った傷の深さや、肉体の損壊率の数値こそが、扉を開けられない原因なのだと思い込んでいた。
だが、身だしなみを整え終え、ルシアが完全に昏睡した状態のまま――自分もルシアと一緒にこの部屋に入ったのだから、理論上は現在の自分も扉を開けられないはずだと疑念を抱きつつ、試しにその手を石扉へと触れさせた瞬間。
その「破壊」を象徴する部屋の扉は、何らの抵抗も見せることなく、いとも容易くクレアの前に開かれたのだ。
そして彼女はついに、ルシア、ジュリア、そしてロドという三者の間に横たわる、決定的な差異の正体を完全に理解した。
ルシアは、最初から最後まで客観的に自らの醜悪さを受け入れ続けていた。
他者を利用し、切り捨て、保身を図るという己の薄汚い本性を誰よりも自覚していたからこそ、彼女は生まれながらに神殿の定義する「不完全者」の枠組みに合致していたのだ。彼女はあまりにも透徹し、坦然として、そして醜悪に生きていた。
それに対して、ロドはクレアの前で必死に高潔な紳士であろうと取り繕い、ジュリアは敬愛するルシアの前で必死に頼もしく勇敢な弟子であろうと虚勢を張り続けていた。
この二人が顔の皮に死に物狂いで貼り付けていた「完璧な自分」という名の仮面こそが、前進を拒み、神殿の拒絶反応を引き起こしていた元凶だったのだ。
破壊神殿には危険な存在が潜んでおり、人は無残に死に、人は精神を崩壊させる。
そして、かつてこの絶望の迷宮から逃げ延びた歴代の生存者たちは、例外なく死の極限の恐怖と激痛の中で、己の気高き自尊心をかなぐり捨て、不完全で無様な己の醜悪さを受け入れざるを得なくなった。
だからこそ、皮肉にも扉を開ける資格を得て、生還することができたのだ。
クレアは腕の中のルシアをさらに強く抱き締め、冷汗に濡れた少女の頬を、病的な執着を込めて指腹でゆっくりとなぞりながら、低く掠れた声で笑い声を洩らした。
「どうやら私たち、揃いも揃って神に唾棄された不良品ばかりのようね……ヴァレリー教授」
クレアのその何かに取り憑かれたような、目尻を赤く染めた恍惚たる姿を見て、ヴァレリーの胸の内で最後のパズルが完璧に噛み合った。
ルシアがなぜ、下腰の筋肉を痛めて骨折の危険すら冒しながら、この陰鬱な神殿の小部屋でクレアを挑発し、誘惑したのか。
ルシアは、クレアの顔に張り付いていたあの分厚い仮面を、生きたまま力ずくで引き剥がそうとしていたのだ。
同じく地球の現代社会から転生してきたヴァレリーにとって、道徳や世間体、あるいは貞操観念といった枠組みなど、端から何の価値もないゴミ屑に過ぎない。
あの、投資に失敗して破産した人間が次々と高層ビルから身を投げることすら日常茶飯事だった狂乱の世界において、肉体を資本に換えて活路を拓くことなど、珍しくも何ともないではないか。
あの世界にも、そしてこの世界にも、歓楽街や裏路地のような場所はいくらでも転がっている。
ましてやルシアは、単に己の尊厳を無為に安売りしたわけではないのだ。
すべての利害を冷徹に天秤にかけ、その中で自分が受け入れられる最も損失の少ない解を弾き出す――それは地球という、表向きは平和と人権を装いながら、実際には骨の髄まで人間が人間を食い物にするあの凄惨な資本主義の泥沼において培われた、絶対の生存法則だ。
詰まるところ、人間の本質など、文明という薄っぺらい包装紙で無理やり包み隠されているに過ぎない。体面を引き裂く機会と口実さえ与えられれば、誰もが恐ろしく貪欲で浅ましい餓鬼へと成り果てるのだ。
ルシアは利益を最大化し、リスクを最小限に抑えるため、カリーナの執着をその手に握り続けながら、同時にクレアを自らに狂わせ、その上で教え子であるジュリアの盲目的な心酔までも手中に収めている。
そして、ルシアが生路の秘密をクレアだけに耳打ちした事実から見ても、彼女は初めからこの三人の教授だけを生かして外へ連れ出す腹積もりなのだと、ヴァレリーは確信していた。
残る四人の生徒など、この神殿の石畳の下で骨となってくたばればいいと、端から見殺しにする気だったのだ。
その具体的な動機や計算までは、ヴァレリーには知る由もなかったが。
今やクレアは己の欲望を剥き出しにされ、この神殿で情欲の果実を貪り食らい、仮面を砕かれたことで規則の条件を達成した。
そしてヴァレリー自身の貪欲さなどは、前世から今日に至るまで隠す気すらなかったため、実際のところ、彼女は最初から扉を押し開ける資格を持っていながら、あえて開けずに陰に潜んでいただけだったのだ。
三人の教授はそれぞれに昏い算盤を弾き、この神性の廃墟の中で互いを利用し合っている。
「あなたのその底なしの強欲ぶりは、ひとまず置いておくとして」
クレアはルシアの胸元を外套で覆い直すと、冷たい菫色の瞳を細め、薄情な声音で言い放った。
「私が中で悦びに浸っているあいだ、外からは骨の砕ける音と悲鳴が聞こえていたわよ。ヴァレリー教授……引率の身でありながら、自分の教え子が引き裂かれるのを指をくわえて眺めていたなんて、助けに行く気は毛頭なかったのかしら?」
ヴァレリーは腕を組んだまま、眉ひとつ動かさなかった。彼女とて外の惨状の理由を正確に把握していたからこそ、あえて助けに行かなかったのだ。
神殿の内部には、必ずや守護者や守護獣が存在する。そして守護獣とは往々にして、神殿の『排除システム』そのものだ。
すなわち、殺すこともできなければ、力でねじ伏せることも不可能な絶対の質量兵器であり、だからこそ過去の生存者たちは無様に逃げ惑いながら神殿を脱出するしかなかったのだ。
ノーランド帝国の貴族や魔術師たちは、騎士道や家名の栄光といった空虚な経帷子に縛られすぎている。
守護獣の前に甲冑を砕かれ、恐慌と絶望の中で這いずり回る彼らは、自らがどのような理屈で条件を満たして脱出できたのかすら、最後まで理解できずにいたのだ。
だが、ルシアとヴァレリーは違った。地球の魂を持つこの二人は、前世で知略を競い合う小説や漫画を浴びるほど消費してきた。だからこそ、この異世界の人間たちよりも遥かに迅速に謎を解き明かすことができたのだ。
「私が連れてきたあの二人の屑なら、もう息絶えたわよ。どうせ死ぬなら、あんな連中のことなんてどうでもいいわ」
ヴァレリーは肩を竦め、まるで三流のありふれた悲劇の恋愛小説でも語るかのような調子で吐き捨てた。
「実に大層なバカップルだったわ。死ぬ間際まで抱き合っていたもの。火獅子に胸部ごと噛み砕かれた瞬間、二人の骨が絡み合って砕けた音なんて、感動的で涙が出そうだったくらいよ」
口では感動などと言いながら、その金の瞳には生命の温もりなど一片も宿っていなかった。
「あなたの所の眼鏡をかけた変態男は瀕死の重傷、ジュリアの小娘は時間を稼いで側廊へ逃げ出したわ。全部でせいぜい一分足らずの出来事よ。あの守護獣の暴れっぷりは、思っていた以上に厄介ね」
ヴァレリーはクレアへ向けて、彼女が最も不快に感じるであろう挑発の笑みを浮かべ、その身に纏う嘲弄の色を一段と濃密に漂わせた。
「どうせ体裁のいい仮面なんて粉々に砕けたんでしょう? あの男に最後の止めを刺してあげたらどうなの。少なくとも、心底愛した女の足元で息絶えることができるんだから」
そう言いながら、ヴァレリーは自然な動作で両腕を差し出し、手の平を上に向けてルシアを引き渡すよう促した。クレアがロドに体面ある一撃を食らわせる間、昏睡するルシアを預かってやろうという合図だった。
しかし、その場の空気は一瞬にして凍りついた。
クレアはルシアを手放すどころか、縄張りを侵されかけた雌豹のように腕の力を強め、厚手の外套に包まれたその華奢な肉体を、自らの激しく波打つ胸元へとさらに深く押し付けたのだ。
細められた菫色の瞳の奥底から、隠しようのない敵意と冷酷な殺気が噴き上がる。
「その手を引っ込めなさい、ヴァレリー」
クレアの囁くような声には、上位貴族の血肉に染み付いた残忍な傲慢さが満ちていた。
「血生臭いその汚らわしい手で、この娘に触れないで。下劣な妄執に塗れたあのゴミ屑が、獣の胃袋に収まるのは当然の報いよ。私の魔力を一滴でも費やす価値もなければ……この娘を抱くこの腕を解く価値など、あの男にはこれっぽっちもないわ」
教え子に苦痛のない体面ある最期を迎えさせてやることが、引率教授としての最後の責務であることくらい、クレアとて頭では理解している。
だが、彼女は今、ルシアから指一本たりとも離したくなかった。
それどころか、心底にある偽善の皮膜が剥ぎ取られた今、彼女は野蛮極まりないやり方でロドを始末してやりたいという衝動に駆られていたのだ。
「あなたって人は……」
ヴァレリーは壁に背を預けて腕を組み、金の瞳を細めて面白そうにクレアを観察した。
「まさかルシアを抱いたまま、あの男に止めを刺しに行く気? ふん、あの眼鏡男に、心から愛した女が他の女と結ばれ、その腕の中で睦み合っている姿を死ぬ間際に見せつけて、絶望と苦痛の中で息絶えさせたいだけでしょう?」
ヴァレリーには、クレアが巡らせている算段が手にとるように分かっていた。
今やクレアは、あの吐き気を催すような求愛者を精神的に崩壊させ、死にゆく最後の瞬間まで、自分が狂おしいほど愛した女が他の人間と口づけを交わしている光景を焼き付けてやりたいのだ。
自分を好いてなどいない女を一方的に愛し続ける人間に、いかにして最も致命的な痛撃を与えるか――そうした手段を、クレアは熟知しすぎていた。
彼女はこれまで、己に対してヒステリックに執着する男たちをあまりにも多く見てきたからだ。
もしクレア自身に他者を圧倒する強大な実力が備わっていなければ、彼女はとうの昔に、あの醜悪な求愛者たちによって蹂躙され、尊厳を奪い尽くされて死んでいたはずなのだ。
だからこそ彼女は今、ロドの前に立ち、彼が勝手に信じ込んでいるその『一途な愛』を完膚なきまでに踏みにじり、嘲笑ってやりたいと渇望していた。
思えば、もしロドが単なる身の程を弁えた片思いで留まっていたならば、クレアも彼をここまで嫌悪することはなかったはずだ。
だが、恋慕に狂った人間というのは、往々にして己の行動がいかに境界線を越えてしまっているのかを自覚できない。それどころか、その身勝手な振る舞いを『一途な愛』という美名で包み隠そうとするのだ。
本当に……反吐が出るほどに、おぞましい。
クレアの唇の端が微かに持ち上がり、あの絵画のように完璧な淑女の微笑が、夜の帳の中で妖しく獰猛に歪んだ。
彼女は視線を落とし、ルシアの冷汗に濡れた額へと、強烈な独占欲を刻みつけるような口づけを落とした。
そして、腕の中の小柄で無力な少女を抱きかかえたまま、菫色の長髪を揺らし、優雅にして冷徹な足取りで、血飛沫の匂いが充満する外殿へと歩を進めた。
そこまで己に命を捧げたいと願うのであれば――その望み通り、自ら極上の絶望を与えてやるまでだ。




