狡猾なる投資家と、暴虐の激奏曲
荒れ果てた修道院の外殿は、まるで掘り返されたばかりの屠殺場そのものだった。
鼻を突く焦げた悪臭と濃密な血生臭さが、氷のように冷え切った大気の中に重たく澱み、いつまでも晴れる気配を見せない。
ロドは、背骨を引き抜かれた死に損ないの野犬のように、砕石と焼け焦げた肉塊が散乱する石畳の上に無様に突っ伏していた。
その左腕は、すでに跡形もなく喪失している。あの狂暴極まりない溶岩の火獅子に生きたまま噛みつかれ、無理やり力ずくで引きちぎられた成れの果てだった。
断裂した部位は、整った傷口などでは断じてない。皮膚も筋肉も無残に引き裂かれた肉の空洞であり、黒く炭化した壊死組織と、砕け散った白骨の断面が無秩序に入り乱れて露出していた。
粘つく熱を帯びた黒ずんだ血液が組織液と混ざり合い、壊死した血管の縁から抑えようもなく滲み出て、ボロボロになった学者長袍の裾に巨大な暗赤色の染みを広げ続けている。
「ゲホッ……ハッ……うぐっ……」
微かな痙攣が走るたび、彼の喉の奥底から血の泡が破裂する音が漏れ聞こえた。
普段は塵一つなく磨き上げられ、彼の身なりと知性を象徴していたはずの金縁眼鏡は、とうの昔にどこかへ吹き飛んでいる。
砕け散ったレンズの破片は無惨にも眼窩の縁に突き刺さり、彼の顔の半分面を血肉塗れの惨状へと変え果てさせていた。
彼がまだ息絶えていないのは、ただひたすらに、生き延びようとする生物としての本能が、体内に残された最後の微弱な魔力回路を無理やり駆動させているからに過ぎなかった。
淡い青みを帯びた微弱な魔力が、風前の灯火のように激しく震えながら、左肩の引き裂かれた肉塊の周囲を死に物狂いで塞ぎ止めている。
だが、魔力を強制的に収縮させるたび、神経を生きたまま焼き尽くされ、骨髄を濃い塩水に浸けられたかのような人外の激痛が走る。
大量の失血と体温の低下によって彼の全身は狂ったようにガタガタと震え、唇は死人のような鉛色に染まり、焦点の合わない視界はとっくに二重三重に滲んでいた。
それほどまでに人の形を保てぬ無様な惨状に叩き落とされながらも、ロドの唯一残された右手は、泥濘と化した血溜まりの中で、神経質に石畳の隙間を引っ掻き続けていた。
爪は一寸ずつ剥がれ割れ、指の肉の間には、仲間の焼け焦げた肉片の混ざった砂利がぎっしりと食い込んでいる。
冷たく汚らわしい石板に頬を擦りつけ、充血して濁りきった眼球で、彼は小部屋の固く閉ざされた木扉だけを死に物狂いで見つめ続けていた。そして、気管の奥から擦り切れた音の破片を絞り出す。
「ク……クレア……教授……」
彼はまだ、己を欺く甘美な妄想に縋り付いていたのだ。
先ほどの無様な足掻きを英雄的な自己犠牲であったと思い込み、この息を繋ぎ止めてあの扉が開く瞬間を待ちさえすれば、あの清廉潔白で非の打ち所のない女性が、心を震わせ、痛ましさに涙を浮かべながら、この傷だらけの身体へと駆け寄ってきてくれるはずだと――本気で信じ込んでいた。
しかし、現実は最も残酷な姿をもって、彼の最後の妄執を粉々に踏みにじった。
ロドが崩れ爛れた肉体を引きずり、まるで蛆虫のように這いつくばって神殿の出口へ逃れようとしたその刹那、上質で仕立ての良い革の長靴に包まれた細く美しい脚が、音もなく彼の眼前へと歩み寄り、静止した。
ロドは血肉に塗れた重い頭を、軋む首を捻って辛うじて持ち上げた。
外殿の崩落した天蓋から差し込む薄紅の微光を背に受け、彼が心焦がしてやまなかった女が、氷のように冷徹な眼差しで彼を見下ろしていた。
クレアのその完璧な相好には、彼が夢想したような動揺も、慈悲も、胸を痛める涙の色すらも一片たりとも存在しない。
その深紫の双眸に湛えられていたのは、見渡す限りの氷原を思わせる絶対的な嫌悪と、凍てつく嘲笑だけであった。
そして何よりロドの瞳孔を極限まで収縮させ、その精神を破裂寸前にまで追い込んだのは――普段であれば指先一本触れることすら凡俗に許さぬその白い玉腕の中に、衣服を乱し、全身に生々しい口づけの痕を刻まれたルシアが、固く抱き留められているという光景だった。
ロドの濁った唯一の眼球が激しい痙攣とともに見開かれるなか、クレアの唇の端が微かに弧を描いた。
そして彼女はおもむろに首を傾げ、極めて優しく、吐息が絡み合うほど甘美に、昏睡するルシアの唇の上へと口づけを落としてみせたのだ。
ちゅ、と小さく重なった唇の淫らな音は、先ほど彼の腕を噛みちぎった火獅子の牙よりも、何万倍も猛毒に満ちて彼の魂を切り裂いた。
「実を言うとね、私、あなたのことが心の底から大嫌いだったのよ」
クレアの涼やかな鈴の音のような美声は、普段と寸分違わず耳に心地よかった。しかし、その口から紡ぎ出される言葉は、濃硫酸に浸された鋼の針のように、ロドの剥き出しの神経へ一本ずつ深々と突き刺さっていく。
「身の程を弁えない一方的な好意なんて、最初から反吐が出るほど鬱陶しかったわ。私があなたのその下劣で安っぽい『一途さ』に、感謝でもすると本気で思っていたのかしら?」
帝国全土から持て囃された「帝国の初恋」が、その生涯において初めて他人の面前で聖女の仮面を自ら引き裂き、長年にわたって澱のように溜め込んできたドス黒い悪意を、一切の容赦なく吐き出していた。
もっとも皮肉なことに、今のロドは全身を炭化させ、引きちぎられた四肢から血を垂れ流しており、もはや正常な人間の枠組みにすら収まってはいなかったのだが。
「そん……な……クレ……ア……教授……私……私はあなたに……」
ロドの喉から、空気の漏れる壊れた鞴のような喘鳴が吹き荒れた。胸が激しく上下する。それは彼の生涯において味わったことのない絶望と心痛だった。
しかし、その深淵の底で、ロド自身が何よりも痛感していたのだ――クレアが口にした言葉のすべてが、残酷なまでの真実であるということを。
彼は、一線を越えすぎていた。
人気のない執務室に忍び込んではクレアが履き替えた靴下や手袋を盗み出し、獣のように顔を埋めてその匂いを貪り嗅いだ。クレアが採点に使った羽ペンを隠しては、その軸を舌でいやらしく舐め回した。
あまつさえ、クレアに学問の教えを乞おうと近づいた若き貴族の生徒たち全員に対し、見えない陰から陰湿で皮膚の爛れる呪いの魔法を仕掛けて排除してきたのだ。
これらの薄汚く下劣な所業を、彼はことごとく実行してきた。そして、クレアがそれに感づいていないはずがないということも、薄々は察していた。
しかし、過去のクレアは社交界の体面と淑女の仮面を保つため、彼を徹底的に断罪し排除することをしなかった。
それゆえに彼は、甘い蜜を与えられた狂犬のごとく、「自分は許されているのだ」「これは自分だけに許された特別な恩寵なのだ」と、都合の良い妄想を膨らませて自惚れ続けてきたのだ。
命の灯火が消えゆくこの最後の瞬間に至って、ようやくクレアはその本性の牙を剥き出しにした。
彼女はロドを嫌悪していた。否、自分を崇拝の眼差しで見つめてくる身勝手な求愛者のすべてを、心の底から軽蔑していたのだ。
欲望の対象として勝手に値踏みされることへの反吐が出るような拒絶――なぜなら彼女の本質は、誰よりも身勝手で凶暴な「捕食者」だったからだ。
あの北境の冷徹なる女公爵である従姉の愛人すら、平然と奪い去って貪り喰らうほどの飢えた狩人だったのだから。
「私にとって、あなたが生きてこの世に息をしているその一日一日が、耐え難い苦痛だったのよ」
クレアの顔に、常軌を逸した歪んだ快感が花開いた。その双眸には、弱者を完膚なきまでに踏みにじるサディスティックな残虐性が満ち満ちている。
「だから……お願いだから、さっさと死んでくださらない? 私はこの腕の中の可愛い人と、もっと愛し合いたいのだから」
言い終えるが早いか、クレアは所有権を見せつけるかのように、ロドの目前で再び顔を寄せた。その艶やかで柔らかい紅い唇を開き、ルシアの露出した華奢な鎖骨へと情け容赦なく噛みついたのだ。
白い素肌に、鮮血が滲み出るような赤々とした歯形を吸い上げる。
道徳という名の枷を叩き壊し、長年自分にまとわりついてきた汚らわしい男を泥濘の中に踏み躙る感覚――その背徳の歓喜に、クレアの指先は歓喜で微かに震えていた。
「帝国の初恋」という重苦しい看板の下で窒息しかけていた長年の怨嗟が、いまや巨大な鉄槌となって、目の前のすべてを粉砕していた。
「あらあら、鬱憤晴らしを見るのは実に結構な見世物だけれど……」
クレアがその嗜虐の快楽に陶酔しているまさにその時、背後からヴァレリーが気だるげに歩み寄ってきた。
学者の外套のポケットに両手を突っ込み、完全に他人事といった軽薄な調子で、猫なで声の忠告を投げかける。
「けれど私、以前の神殿生存者の手記にあった噂を思い出したのよね。『破壊の神殿において、絶望を抱いて息絶えた者は、その肉体と執念を神殿の呪いに同化され、通常の手段では殺し得ない守護獣へと異形化する』……クレアお嬢様、そんな風に彼を精神崩壊させちゃって、その場で変身したりしないかしら?」
クレアの動きがピキリと凍りついた。弾かれたように顔を上げると、悪意と抜け目のなさを爛々と光らせたヴァレリーの金の瞳と視線が正面から衝突する。
「……そんな重要な情報を、なぜ出発前の作戦会議の場で共有しなかったの?!」
クレアの声音が、一瞬にして殺気を帯びて凍てつく。
「だって、その情報が本当かどうか、この目で確かめてみたかったんですもの」
ヴァレリーは無責任に肩を竦め、寒気の走るほど薄情な笑みを浮かべた。
「さっきの心中したバカップルは、満足して逝ったから微塵も変異する気配がなかったでしょう? 学術研究ってものには、対照実験が必要不可欠じゃない?」
現代の金融市場で数字を弄んできた社畜・ヴァレリーの思考回路は、極めて単純明快だった。
神殿を二度目に攻略する際の勝率は、すべて基礎となるルールの徹底的な把握にかかっている。
死に損ないのゴミを一つ使って、神殿の隠されたトリガーの限界値をテストする――これほどリスクのない利ざや稼ぎの検証を、彼女が見逃すはずがなかった。
二人の女性教授が凍りつくような視線を交錯させていたその時、クレアの腕の中で、ルシアが微かな吐息とともに意識を取り戻した。
激痛によって無理やり意識を引き戻されたルシアは、ぼやける視界の焦点を合わせる間もなく、目に飛び込んできた光景に全身を硬直させた。
――ギチ……ギチギチギチッ……!
耳障りで、湿った布地を無理やり雑巾絞りにしたかのような骨の軋みと炸裂音が、がらんとした外殿の空間に響き渡った。
ロドの、本来なら死にかけていたはずの残骸が、肉眼ではっきりと視認できる異常な速度で膨張を始めていたのだ。
引き裂かれた左肩の傷口から、壊死した黒い肉が沸騰したアスファルトのようにブクブクと泡を立てて盛り上がる。
皮膚を突き破り、数十本もの白く鋭利な骨の槍が肋骨から異常増殖し、蜘蛛の脚のように宙を神経質に掻き毟り始めた。
その脊椎は信じがたい角度で後方へと弓なりにへし折れ、皮膚の真下では何万匹もの巨大な百足が狂ったように蠢いて、身にまとっていた長袍を粉々の布切れへと吹き飛ばしていく。
さらに奇怪を極めていたのは、その四肢だった。ロドの手足の筋肉は完全に融解してドロドロに崩れ、まるで茹ですぎた麺類のように血溜まりの上を無力に滑り、のたうっていた。
しかし、まさにその奇怪極まりない関節の構造のまま、彼の胴体は重力を無視するかのように、地面から一段、また一段と無理やり立ち上がったのだ。
その頭部は百八十度回転し、背中側を向いていた。かつての理知的な面影は完全に裂け散り、口は耳元まで裂け、鮫のような黄黒く不揃いなヤスリ状の牙が何列も露出している。
濁っていた眼球はドロリと黒い油となって流れ落ち、眼窩の奥には、怨嗟と嫉妬の業火が宿る赤黒い二つの空洞だけが残されていた。
――ジャキンッ!
異形へと変異し、醜悪な肉腫に覆われたその右手首が、骨と肉の擦れ合う不快な音を立てながら、黒血に塗れた腰の佩刀を引き抜いた。
刀身から暗赤色の呪詛の霧が暴虐に噴出し、修道院の頑丈な石畳が、理不尽なまでの魔力の重圧に耐えかねて蜘蛛の巣状に砕け割れていく!
目覚めたばかりのルシアの脳内処理は、一瞬で過負荷を起こして停止しかけた。
(……何なの、この息が詰まるほどの威圧感は……?!)
目の前に現れたこの奇怪な異形の化け物は、前世でプレイした高難易度の死に覚えゲームで、第二形態に突入してマップ全域を即死攻撃で埋め尽くしてくる絶望のボスモンスターそのものだった。
ルシアの網膜には、あまりの不条理さに幻覚すら浮かび上がっていた――視界の上部に、血の滴るような深紅の巨大なHPゲージがゆっくりと引き伸ばされ、その下におぞましい銘が刻まれているかのような錯覚。
【怨嗟と執妄の奇形胎・ロド】。
「……あなたたち二人、」
ルシアの顔面は蒼白に染まり、口元を引き攣らせながら、噛み締めた奥歯の隙間から掠れた声で痛烈なツッコミを絞り出した。
「いったいどれだけの力技を使えば……状況をここまで最悪に仕立て上げられるわけ?」
神殿で絶望して死ねば呪いによる変異が起きることくらい、彼女とて知っていた。
だが、自分が意識を失っていたわずかな時間の間に、この二人の性悪女はあの惨めな男にどんな言語道断の精神的リンチを加えたというのだ?
劣等感の塊だった一途な男を、ここまで純度百パーセントの嫉妬と怨念の魔物へと孵化させるなど、常人の仕業ではない。
「ルシア、心配する必要はないわ」
クレアは腕の中の黒髪の少女をより強く胸へと抱き寄せた。菫色の長髪が無風の空間でフワリと舞い上がり、二人を包み込むように強固な結界が展開される。
その双眸は冷徹無比に研ぎ澄まされ、魔法の天才としての冷酷な殺意が、この瞬間に完全に解き放たれていた。
「元はと言えば、私に対する執着が生み出した穢れよ。私の手で、塵一つ残さず磨り潰して差し上げるわ。起きたばかりなのだから、こんなゴミ屑のために気力を浪費しては駄目よ」
そう言い終えると、クレアは首だけをわずかに巡らせ、その深紫の瞳を絶対零度の氷柱へと変えて、傍らで面白そうに観戦しているヴァレリーを射抜いた。
「それから……ヴァレリー教授。わざと情報を隠匿したこの落とし前は、この神殿を生きて出た後、利息をたっぷり上乗せしてキッチリ清算させてもらうわよ!」
「ええ、いつでも歓迎するわ、侯爵令嬢様」
ヴァレリーは優雅に一歩後退し、その唇の端を病的なまでに爛漫な笑みへと歪めた。
彼女はこの、完全にコントロールを失った混沌を心底から愛していたのだ。
たった一つ、些細な情報を出し惜しみしただけで、これほど巨大な暴落のストレステストを引き起こすことができる。
これこそが情報の非対称性が生み出す最大の果実――先物市場の空売りにおいても、異世界の血生臭い戦場においても、それは決して揺らぐことのない絶対の真理だった。
クレアの指先が、怒りと冷徹さのあまり白く強張った。彼女はヴァレリーのその骨の髄まで染み付いた強欲な面構えに、とっくに我慢の限界を迎えていたのだ。
この異界から迷い込んできた狡猾な女狐は、神殿に足を踏み入れた初期の段階で「今回の攻略の期待値はマイナスである」と独断で切り捨て、この神殿全体をただのデータ収集の場へと格下げしたのだ。
ヴァレリーが生徒たちの惨殺を冷眼で見殺しにし、事態の暴走を放置したのも、すべてはこの「破壊の神殿」の底流にあるルールを完全に丸裸にし、次回の二次攻略において完璧な布石を打つための投資に過ぎない。
次回、彼女は先ほど計測した火獅子の咬合力と魔法抵抗の閾値に基づき、溶岩属性を完封できる高位魔導士を正確に雇い入れるだろう。
そして、「神殿内で絶望を抱いて死んだ者は守護獣と化す」という隠しギミックを実証した今、次に連れてくる使い捨ての駒を選定する際にも、冷酷極まりない除外基準を設けるはずだ。
現在に至るまで、大陸全土に点在する古代神殿の中で、完全に攻略されたものはただの一つも存在しない。
誰もが手探りで命を落とすこの前人未到の荒野において、確実な情報こそが最も暴利を生む硬貨なのだ。
ヴァレリーが生きて外へ出奔し、これらの血塗られた法則に法外な値札をつけて売り払えば、栄誉と功績に飢えた帝都の命知らずどもや大貴族の私兵部隊が、火に群がる蛾のように殺到するだろう。
未知なる神は恐怖の根源だが、ひとたびルールが数値化されれば、人の強欲は恐怖を容易く凌駕するのだから。
そして、神殿の最深部に鎮座する古代の石板について言えば――ヴァレリーは、誰が命を賭して怪物の顎からそれを引っ張り出してこようが知ったことではないのだ。
最終的に自分の手元に転がり込み、そこに刻まれた転移の秘法を己のものとして解析できさえすれば、その過程で何十人の人間が死のうと、彼女の損益計算書の上では単に消失した数文字の数字に過ぎない。
「……あなたという女は、本当に骨の髄まで腐り果てているわね」
クレアは歯の隙間から、氷の結晶のような言葉を絞り出した。
「お褒めに預かり光栄ね。今まで聞いた中で最高の賛辞だわ」
ヴァレリーは慇懃無礼に頭を下げ、一片の申し訳なさもない悪意に満ちた笑みを浮かべ、胸元に手を当ててみせた。まるで帝国最高峰の勲章でも賜ったかのような態度だった。
クレアはもはや、彼女に視線の一欠片すら恵んでやる気はなかった。
この神殿の悪臭も、ヴァレリーの底知れぬ悪意も、そして目の前でのたうち回るこの醜悪な奇形の肉塊も、彼女の矜持の臨界点を狂おしいまでに刺激していた。
ルシアを抱き留める自らの衣服の裾を、これ以上一筋たりとも汚したくはなかった。
クレアは単腕でルシアの華奢な身体をより深く己の胸へと抱き寄せ、空いたもう片方の白い手を、制服の精緻な絹の袖口へと滑り込ませた。
細い指先が摘み出したのは、通常の宮廷魔術師が腰を据えて用いるような重厚な長杖では断じてなかった。純銀と極光の結晶石を鍛え上げて作られた、前腕ほどの長さしかない極めて細身の短杖。
貴族の宮廷楽団を率いる指揮者が振るうタクトのように繊細で、杖の先端には詠唱を補助する煩雑な魔導核すら存在しない。
ただ、高次元の銀光を放つ無数の即時展開回路が、幾重にも刻み込まれているのみ――己の魔力構築速度と演算能力に、狂気じみた絶対の自負を持つ天賦の才だけが扱うことを許された、「瞬発式の指揮杖」だった。
クレアは首を傾げた。神の彫刻のように研ぎ澄まされたその無垢な横顔に、初春の雪解けを思わせる淑やかな微笑が浮かぶ。
しかし、その深紫の双眸の最奥には、森羅万象を虫けらのように見下す、傲岸不遜な軽蔑と冷酷さが宿っていた。
そして彼女は、怠惰すら滲む極めて優雅な仕草で、怨嗟の刃を抜き放ち咆哮を上げる奇形の肉塊へ向けて、その艶やかな唇を開いた。
「――おやすみなさい」
細身の指揮杖が、虚空を滑らかに切り裂いて完璧な弧を描く。それはまるで、壮大なる交響曲の開演を告げる、マエストロの振り下ろした最初の一拍のようだった。
「残月の激奏曲」
その瞬間、世界を縛る物理の法則が、暴力的な力によって引きちぎられた。
火炎の予兆もなければ、魔力の奔流が巻き起こす前触れもない。
神殿の空気が、瞬く間に絶対の真空へと強制的に収縮させられ――次の刹那、空間そのものを捩じ切る破滅の音律が、無の深淵から炸裂した!
それは、耳に届くような生易しい音響などでは断じてない。クレアの超絶的な魔力掌握によって極限まで圧縮された、「不可視の音響爆弾」の群れだった。
鋭利で、狂暴で、粛清の冷酷さを極めた高位の声楽衝撃波が、数万発の透明な空気の炸薬となって重層的に連鎖し、逃げ場のない立体的な包囲網を形成して、異形化したロドの頭上へと全方位から一斉に叩きつけられたのだ!
――ドォォォォォォンッッッッ!!!!
神殿の巨軀そのものが、耐えかねて悲鳴を上げた。
音波が炸裂した最初の瞬間、あまりの質量とエネルギーの密度に大気そのものが圧壊し、まずは鼓膜を破るような完全な無音の空白が訪れた。
そして直後、天地を覆す破壊のエネルギーが、幾何級数的な津波となって周囲へ狂瀾のごとく吹き荒れた!
大理石の床板は薄紙のように捲れ上がり、一瞬で微細な粉塵へと破砕される。
回廊の両脇に聳え立ち、数千年の風雪に耐え抜いてきた極太の承重石壁は、音波の刃が掠めた刹那、一秒の抵抗すら許されず、無差別の振動によって分子レベルで粉砕され、もうもうたる石煙となって吹き飛んだ。
衝撃波の暴威は留まることを知らず、外殿の両翼に連なるすべての閉鎖された小部屋を貫通していった。
頑強な石壁が次々と吹き飛ばされ、幾世紀もの間、闇の中に秘匿されていた夥しい数の隠し部屋とその内部の調度が、薄暗い天光の下へと無惨に白日の下に晒し出される。
修道院の半身に及ぶ巨大な構造体が、クレアの振るった指揮杖の、たった一振りの戯れによって、瞬時にして瓦礫の山へと変わり果てたのだ。
荒れ狂う風圧と、弾丸のように飛び交う砕石の嵐の只中にあって、クレアの周囲だけは薄羽のように繊細な淡青色の防護結界に守られ、抱きしめたルシアの髪の一筋にすら、粉塵一つ触れることは許されなかった。
彼女はただ、片手で指揮杖を優雅に構えたまま、巻き起こる突風に菫色の髪を柔らかに遊ばせ、音波の嵐によって地面へと押し潰され、狂ったように磨り潰されていく血肉の擂鉢を見下ろしていた。
その口元には、薄く、そして酷薄な冷笑が刻まれている。
半身の神殿を地図から消し去るほどの暴虐な魔法を行使しながらも、彼女の佇まいは依然として、誰も触れることの叶わぬ気高い帝国の至宝そのものだった。
ただ――この瞬間、定命の者たちはついにその目に焼き付けることとなったのだ。
その美しき冠の下に、いかに人を戦慄せしめる残酷な天賦の才と、傲慢なる怪物の血が流れているのかを。




