帝国の初恋? ずいぶんと臆病者なのね
修道院の内部を満たす空気は、凍りついたように淀みきっていた。風化した石灰の粉っぽさと、幾星霜ものあいだ光を拒み続けてきたカビの堆積が混じり合い、肺腑を満たすたびにツンと刺すような赤錆の臭みが鼻腔を突く。
側廊の両脇に並ぶはずの、かつて聖徒の蝋燭を捧げた青銅の燭台は無残に腐食し、枯れ果てた白骨のような異形へとねじ曲がっていた。
見上げる尖頭リブヴォールトはあちこちが無残に崩落し、垂れ下がる乾いた蔦はまるで幾重もの絞首輪のように、割れた気窓から射し込む薄暮の光の中でかすかに揺れている。
ルシアは単衣の上から片手を強く下腰へと押し当て、急性捻挫によって激しい痙攣を繰り返すその部位を力任せに押さえつけていた。
神経が引き攣れるたび、数秒おきに脊椎の根元から脳天を突き抜ける激痛が走り、血色を失った薄い唇を一文字の硬い白線へと結ばせる。
彼女は鉛を引きずるように重く鈍い足取りで、長廊の右手にある半開きの斑らな木扉の前で立ち止まった。
黒漆はとっくの昔に剥げ落ち、虫食いによって無数の空洞が穿たれた黒ずんだ木肌が剥き出しになっている。
ルシアは魔力を一切呼び起こすことなく、不健康な青白さを帯びた右手をただ伸ばし、氷のように冷え切った錆びた鉄取っ手に指先を添えて、内側へと軽く押し込んだ。
――ギギィ……。
耳障りな蝶番の軋みが、がらんとした廊下に唐突に響き渡る。
扉は抵抗なく押し開かれ、その奥には無残に破壊された告解椅子が散乱する告解室がぽっかりと口を開けていた。砕け散ったステンドグラスの破片が、埃の積もった床の上で鈍く冷たい光を撥ね返している。
ルシアは感情を殺した無表情のまま扉を引き戻した。「カチャリ」と、ラッチが元の位置に落ちる音が響く。
背後を振り返ったルシアは、斜め後ろで警戒を露わにしているジュリアへと視線を向けた。
「あなたが来て。同じ扉を開けてみなさい」
「はい!」
ジュリアはすぐさま歩み寄り、先ほど切り裂いたばかりの、いまだ生々しい血痕がこびりつく人差し指を取っ手に添えた。息を呑み、渾身の力を込めて一気に押し下げる。
だが――先ほどルシアの掌の下であっさりと回ったはずの鉄取っ手は、まるで石壁の内部へ溶接されたかのように微動だにしなかった。
ジュリアは顔を真っ赤に染め、生まれ持った二重回路の魔力を暴発寸前まで流し込んで強引にねじ伏せようと試みる。しかし、木扉の表面がわずかな埃を払っただけで、ミリ単位の隙間すら開く気配はない。
「駄目です……ルシア教授。扉の向こう側から、抗いようのない重い圧力に吸い付かれているみたいで……」
ジュリアは悔しげに手を引き、その双眸に拭い去れぬ挫折と怯えを滲ませた。
ルシアは応じることなく、少女の横を冷ややかに通り過ぎ、回廊の反対側に位置する彫刻入りの石扉へと足を向けた。
内殿の側廊へと続くアーチ型の通路。半尺もの厚みを誇る重厚な花崗岩の扉であり、その鴨居には風化の進んだ太古の十字架が刻まれている。
腰椎を引き裂くような疼きを逃がすため、ルシアはわずかに身を前傾させながら、冷たくざらついた石の肌へと再び掌をそっと重ねた。呪文の詠唱もなければ、錬金回路の共振励起もない。
ただ低く滑らかな摩擦音とともに、大の男が三人がかりで押し出さねば動かないはずの石門が、まるで重さを奪われた羽毛のように、人が一人すり抜けられるだけの開口部を易々と開け放った。
暗がり沈む廊下と、その先に広がる底知れぬ無数の部屋の重なりが音もなく繋がり合う。合わせ鏡の奥を覗き込んでいるかのような錯覚。
ルシアが手を離すと、石扉は重力に引かれるように緩やかに元の位置へと閉ざされた。
そのまま視線を斜めへと転じ、深緑の瞳が深淵のような冷たさをたたえて、すぐ近くで腰を押さえているロドを射抜く。彼の下腰もまた、先ほどクレアの手によって不可視の衝撃波を叩き込まれ、損傷を負ったばかりだった。
「ロド、次はあなたよ」
ロドは焼き鏝を押し当てられたような腰の激痛を必死で噛み殺し、クレアの前で失った面目を拭い去ろうと、血走った眼で石扉へと駆け寄った。腕の青筋を浮き上がらせ、石の壁面へ向かって狂おしく両手を叩きつける――!
――ドォンッ!
鈍く重い打撃音が長廊を震わせた。だが、石扉は微動だにせず、埃ひとつ零しはしなかった。
跳ね返ってきた凄まじい反動が、受傷したばかりのロドの腰筋を容赦なく襲う。視界を真っ白に染め上げる激痛に、彼は無様に二歩、三歩とたたらを踏み、壁にしがみついて荒い息を吐き散らした。
その顔からは、血の気が一滴残らず引き絞られていた。
――開く者と、閉ざされる者。
同じひとつの扉でありながら、身動きすらままならぬ重度の損壊を抱えた者の前では無抵抗の抜け道となり、肉体が十全であり、単なる皮肉の傷を負った程度の中途半端な者にとっては、決して越えられぬ絶壁と化す。
ルシアはかすかに震える己の掌を見つめ落とした。その厭世的な貌には、謎を暴いた悦びなど微塵も浮かんでいない。ただ眉間に刻まれた、底知れぬ冷酷な険しさだけが濃密さを増していた。
クレアが視線を外し、石壁に刻まれた古代ルーンの配列を冷ややかに吟味し始めたその刹那、ヴァレリーが音もなく背後から間合いを詰めてきた。
無駄な言葉は一切ない。彼女はごく自然な仕草で横から手を滑り込ませると、ルシアの細い指の隙間へと強引に自らの指を絡め、十指をきつく固く結び合わせた。
肌と肌が触れ合う極小の隙間で、魔力回路が無音のまま噛み合う。ヴァレリーが独自に編み出した秘匿通信魔法――空気の振動を介さず、思考と意識を直接相手の識海へと焼き付ける、外界の盗聴を完璧に遮断する精神の回線。
『――あんた、クレアがおかしいってことに本当に気づいてないわけじゃないわよね?』
脳裏に直接響くヴァレリーの声は直截で鋭利であり、戦場を潜り抜けてきた古強者特有の警戒に満ちていた。
『さっきの女、誰よりも慈愛に満ちた聖女みたいに微笑んで、声なんて甘く蕩けそうなくらいだったけど……あの指先に凝縮されてた殺気は本物よ。へっ、あたしは戦場で腐るほど見てきたのよ、あの目つき。獲物の喉笛を噛み千切る寸前の、ハイエナの助走そのものだわ』
誤魔化す気などさらさらなかった。一歩ごとに殺意が仕掛けられたこの死地において、地球から流れてきた唯一の同胞が、本物の間抜けなのか、それとも狂気を演じているだけなのかを確かめる必要があった。
だが――十指の繋がりを通して返ってきたルシアの思念は、さざ波ひとつ立たぬほどに凪いでいた。
『クレアがおかしいなんて、最初から全身隙間なく狂ってるじゃない。何を今更言っているの?』
ルシアの返答は、明日の天候を口にするかのごとく平然としており、脈拍の揺らぎすら感じさせない。
『あの女の腹積もりなんて見え透いているわ。全員がこの神殿の死角に踏み込んだ瞬間、神殿の掟を利用してあんたたち全員を事故に見せかけて綺麗に始末する。そして残った私の手足をへし折って、自らの鳥籠の中に一生閉じ込めるつもりなのよ』
感情の欠片すら交えぬその言葉が識海を満たした瞬間、ヴァレリーの背筋にびっしりと粟立つような鳥肌が立った。
理解の範疇を超えていた。目の前にいるこの黒髪の女は、大型犬の一匹にすら食い殺されかねないほどに脆弱で、全盛期の戦闘力をもってしても北境のカリーナという暴力の天険を越えることなど到底叶わない。
奸計と共振魔術を操るクレアを相手にしても、純粋な戦力差において絶対的な劣勢に立たされているはずなのだ。
檻に引きずり込まれる寸前の「獲物」でありながら、なぜこれほどまでに冷然と、麻痺したかのような従容さを保っていられるのか。
指先から伝わるヴァレリーの硬直と困惑を敏感に察知したのだろう、ルシアの唇の端が微かに嘲るように吊り上がった。彼女は己の脳裏にある氷の手術刀を、さらに深く突き立ててみせる。
『この世界に、白と黒だけで割り切れるような善人と悪人なんてどこにいるっていうの? 全ての人間は、その場その場の剥き出しの欲望と生存の焦燥に突き動かされて蠢いているだけの獣よ。結果が良ければ世間はそれを高潔と呼び、結果が破滅に転べば悪意だと罵る。詮ずるところ、道徳なんてものは、群れを成す人間たちが自らを野蛮に見せないために発明した安っぽいイチジクの葉に過ぎないわ』
ルシアの意識の奥底を、前世で読み耽った日本の推理小説の巨匠の言葉がかすめる。あの巨匠が描く人間模様には、純粋無垢な悪魔もいなければ、非の打ちどころのない聖者も存在しなかった。
破滅へと転がり落ちていくあらゆる罪業は、その源流を辿れば、運命の歯車に挟まれた市井の人間が、本能の命じるままに選び取った最も浅ましく、最も身勝手な選択の成れの果てに過ぎない。
皮を一枚剥ぎ取ってしまえば、この世の誰が誰より気高くあり得るというのか。
ヴァレリーの指先がかすかに痙攣した。彼女はようやく、ルシアという女の骨髄に巣食う本質を悟ったのだ。
この女は麻痺しているのではない。己の「自意識」という夾雑物を徹底的に削ぎ落とし、絶対的な客観――冷酷無比な俯瞰の視点から自らを標本のように検分し続けているのだ。
自惚れるな、自意識過剰になるな、と絶えず己を冷笑しながら。
ボロボロに軋むこの壊れかけの身体を引きずり、自分に同行して石板を探しに来た理由も、同郷の情に絆されたロマンティシズムなどでは断じてなく、冒険への渇望などでもない。
彼女はただ、致命的なリスクを相殺するための「保険」を買いに来ただけなのだ。
ルシアは誰よりも醒めきっている。カリーナが注ぎ込むあの窒息しそうな偏執的な愛は、今は自分を溶かしてしまうほどに熱烈かもしれない。
だが、広大な北境を統べる冷徹な女公爵が、いつか天秤の片方に「ルシア」を載せ、もう片方に「グラフィエン家の存亡と北境の覇権」を載せざるを得なくなった時、カリーナが果たしてどちらを切り捨てるか。
上位者が垂れ流す愛など、持たざる者が夢想するよりも遥かに安っぽいものだ。
その現実を骨の髄まで弁えているからこそ、ルシアは狂女の寵愛という一本の細い糸に己の余生を託す気など毛頭ない。
いつの日かカリーナが自分を路傍の石のように見捨てたその時、地球へと跳躍できるこの石板こそが、盤面をひっくり返して五体満足で逃げ果せるための唯一の活路となる。
二度の死を経験した彼女は、三度目の生においてすら、愛した者に都合よく捨て去られる野良犬の末路を辿る気など微塵もないのだ。
その退路を確保できるなら、クレアが引き起こす虐殺を見過ごすことなど造作もない。倫理も、原則も、いくらでも踏み躙ってみせる。
英雄でもなければ、絶対の魔王でもない。彼女はただ、手持ちのチップを血走った眼で握りしめ、僅かな生存確率の傾きへと身を投じる、最も浅ましく現実的な境界線のオポチュニスト(日和見主義者)なのだ。
『……ふん。反吐が出るほど達観した女ね』
ヴァレリーは胸の震えを力づくで押し込め、識海へ向けて悪意に満ちた毒を投げつけた。
『そこまで計算高いなら訊くけど、あんた、いつかその算盤が弾け飛んで地下室に鎖で繋がれ、カリーナとクレアの二人の狂女に身ぐるみ剥がされて、夜昼構わず体温を貪り尽くされる恐怖はないわけ?』
肉体的な辱めを孕んだその生々しい問いは、ヴァレリーがルシアの「底」を測るための試しだった。この女の倫理の防波堤がどこまで決壊しているかによって、今後の利害の一致においてどこまで泥沼に踏み込めるかが決まる。
返ってきたのは、短く乾いた嘲笑だった。
『金貨と故郷への執着で頭が煮え滾っている投機狂の分際で、そんな下らないことを訊いて何が楽しいの?』
絡み合う指先にぐっと力が込められた。ルシアの深緑の瞳が前髪の影から僅かに覗き、ヴァレリーの眼光を冷徹に貫く。
『そこまで堕ちたなら、あとは肉体と精神の泥仕合に過ぎないわ。差し出されるチップと利益が十分に釣り合い、私の許容限度内に収まる条件であるなら、尊厳だの誇りだのという安物が何の役に立つっていうの? 最終的に私が骨の髄までしゃぶり尽くされるのか、それとも奴らの権勢を利用して私が欲しいものを搾り取るのか……誰が誰を喰らうかなんて、蓋を開けてみるまで分からないじゃない』
刃のように研ぎ澄まされたルシアの冷酷な思考が、ヴァレリーの脳髄を容赦なく抉り抜いた。
『泥水を啜って生き延びてきた大人同士が、こんな吹き溜まりで清廉潔白な処女のふりをして何になるのよ』
その一言は、毒を塗った槌のように、二人の間に残されていた最後の虚飾の防壁を粉々に粉砕した。
ルシアは、自らの中に巣食う剥き出しの悪意を晒し見せたのだ――私たちは同類だ、と。救いようのない前世を背負い、今世において叶えたい執念に憑りつかれ、手段を選ばぬ浅ましさにおいて誰よりも強欲に成り果てた、同種の獣なのだと。
借金を背負い込み、血走った眼で全財産を株式や先物の鉄火場に注ぎ込む狂乱のギャンブラーたち。彼らは正気を失っているのか?
否、泥濘の底で一発逆転の血の匂いを嗅ぎ取ったからこそ、足元が万丈の深淵であろうとも牙を剥いて飛びつかずにいられないのだ。
彼女たちは、運命の裂け目にへばりついて活路を貪る、貪欲な賭博師に他ならない。
心の最深部に隠していた算盤を丸ごと暴かれたヴァレリーの指が、神経症的な痙攣を起こし、ルシアの華奢な関節を白く軋ませるほど強く握り締められた。
息の詰まる沈黙が二秒。ヴァレリーは肺の底から濁った息を吐き出し、強張っていた指の力を緩めると、警戒と諦観の入り混じった獰猛な笑みを浮かべた。
『……あんた、根っからの性悪ね』
『お互い様でしょう』
精神の回線は、音もなく断ち切られた。
薄暗く湿り気を帯びた回廊の片隅で、対照的な美貌を誇る二人の女が肩を並べて佇み、離された指先が親密に交錯して、冷たい隙間風にスカートの裾を揺らす。
そして、ほんの数歩離れた石門の陰――そこに立つクレアの、本来なら水のように澄み渡っているはずの紫の瞳は、二人が指を絡め合っていたその一点を、狂おしいまでの執念で凝視していた。
だぼついた法衣の袖の奥、掌へと食い込む爪は肉を割り、指の関節を青白く浮き上がらせて激しく震えていた。
その強直と異変に気づきながらも、ルシアは視線を逸らそうとはしなかった。
ただ首を傾げ、隣で怪訝そうに眉をひそめるヴァレリーへ向けて、底意地の悪い意味深な笑みを投げかける。
そして痛みの引かぬ下腰を片手で庇いながら、緩慢で小刻みな歩調を踏みしめ、唇の端に旭光のごとき温和な笑みを貼り付けようと必死に足掻いている侯爵令嬢の前へと、一歩、また一歩と歩み寄った。
ルシアの胸中は鏡のように澄み渡っていた――クレアは嫉妬に狂っている。自らの所有物を汚された獣のような苛立ちが、数メートル離れた場所からでも焦げ付くような火薬の匂いとなって漂ってくる。
だが、それがどうしたというのか? 彼女は徹頭徹尾、手段を選ばぬ日和見主義者なのだ。
そもそも、カリーナと恋仲になるなどと一度たりとも誓った覚えはない。北境に君臨するあの白髪の暴君が、一方的な雇用契約の鎖で己を身近に縛り付け、毎夜のように私物扱いしてその身体を弄んでいるだけに過ぎないのだ。
契約の純粋な本質において、二人はどこまでいっても雇い主と被雇用者であり、恋人などという甘美な関係では断じてない。
対外的に掲げている「恋人がいる」という言葉にしても、群がる羽虫を払うための都合のいい盾に過ぎず、それが誰を指すのかを定義したことなど一度もない。世間が勝手に都合のいい物語を脳内で紡いでいるだけだ。
淑女の仮面を必死に繕いながら、紫の瞳の奥で暗雲を渦巻かせているクレアを見上げ、ルシアの胸中には滑稽ですらある冷笑が去来した。
現世であれ前世であれ、二人の間に交わされた言葉など数えるほどしかない。帝国の誰もが傅く至高の聖女が、なぜ自分ごときにこれほど息の詰まる執着を向けてくるのか。
まるで、誰も知らぬ遥かな昔から、暗がりの中で己を粘つく視線で見つめ続けてきたかのような錯覚。
「クレア……あなた、本当に強欲な人ね」
ルシアはおもむろに両手を持ち上げた。長年にわたり水銀と冷たい器具を弄び、病的なまでに細く陶器のように青白いその掌が、恐れ気もなくクレアの頬へと添えられる。
帝国の貴賤を問わず、あらゆる男女を狂乱させ、純潔なる初恋の象徴として崇められるその至高の貌へ。
触れた掌の冷たさに、肌が触れ合った刹那、ルシアはわずかに顎をしゃくり上げ、悪意に満ちた挑発をその声に滲ませた。
「でも……嫌いじゃないわ」
クレアの瞳孔が細針のように収縮し、呼吸が喉の奥で凍りつく。
「精々、励むことね」
ルシアの指先が、完璧に整ったクレアのフェイスラインを愛撫するように、しかし冷徹な値踏みを込めてなぞっていく。深緑の瞳には情愛の欠片もなく、横たわるのは凍てつくような駆け引きの光のみ。
「あの暴虐な従姉に敗れ去りたくないのなら、本気で私をときめかせてみせなさいよ? もしかするといつの日か……私がカリーナをあっさり捨てて、あなただけのものになってあげるかもしれないじゃない?」
羽毛のように軽やかなその囁きは、甘美な蜂蜜を塗った劇毒のように、クレアの精神の最も脆い急所へと正確無比に撃ち込まれた。
夜明けの光のごとく完璧だったクレアの微笑みが、音を立てて砕け散る。眉間に張り付いていた神聖な光彩は剥落し、透き通っていた深紫の瞳は、底知れぬ狂気の汚泥を湛えた暗渠へと一瞬で沈んだ。
内側で暴れ狂う、すべてを噛み砕かんとする野獣を、クレアは理性という名のひび割れた鎖で必死に繋ぎ止めていた。
ルシアが自分を誘惑していることなど百も承知だった。これは剥き出しの挑発であり、利用のための甘言だ。
しかし眼前の光景は、鋭利な釣り針の先に光る猛毒の餌そのもの――食らいつけば内臓を焼き爛れさせられると知りながら、捕食者としての狂おしい飢餓感が喉を鳴らして叫んでいる。
いま引けば、この手でルシアを組み伏せる唯一の好機が、永久に指の隙間から零れ落ちてしまうのだと。
背後で息を呑むヴァレリーの驚愕の視線を受けながら、クレアは猛然と腕を伸ばし、小柄で脆いルシアの身体を自らの胸の中へと乱暴に掻き抱いた。
その腕の力は、狂気じみた自制によって極限まで制御されていた。ルシアの下腰を支える手は、触れれば砕け散る薄氷を扱うかのように優しく、損傷した神経を刺激せぬよう細心の注意が払われている。
だが、クレアの白磁のうなじを伝って、大粒の冷や汗がすっと滑り落ちていく。
彼女は狂乱する脳髄へ必死に冷水を浴びせかけていた――ルシアも、そしてクレア自身も痛いほど理解していたからだ。
腕の中のこの命知らずの壊れ物が、あと半歩でも境界を越えて踏み込んできたなら、クレアが選ぶのはただひとつ。その手足をへし折り、神殿の冷たい石畳の上で、内も外も跡形もなく壊し尽くすことだけなのだと。
大人の世界に、純粋な愛などというお伽話の居場所はない。
詮ずるところ、盤上に並べられたチップのぶつけ合いと、利害の精算に過ぎないのだ。
前世の冷え切ったビルの中で足掻いていた社畜の日々と同じだ――雇い主が提示する報酬と待遇に、納得がいくか否か。呑めるなら血を吐きながらでも泥を啜り、割に合わぬなら辞表を叩きつけて立ち去るのみ。
資本の歯車に組み込まれた世界で、安っぽい自尊心や体面が何の足しになるというのか。
上位者が革靴の裏で顔面を踏みにじってくることなど日常茶飯事であり、爛れた夜の街を見渡せば、生きるために追い詰められた女たちが、権力者の垂涎の前に部屋の鍵を受け取って糧を得るか、それを拒んで路頭に迷うかの二者択一を迫られている。
自己陶酔に浸るための道徳の鎖など、どこにもありはしない。
二度の生を無惨に屠られ、世界の悪意と裏切りによって原型を留めぬほどに粉砕された人形であるルシアに、いまさら守るべき倫理の防壁など残されていようはずがなかった。
己の安全と退路を買い取れるだけの値を提示してくるというのなら、誰の誘いに首を縦に振ろうと知ったことではない。ましてやカリーナとて、真の意味で自分を完全に支配し尽くしたことなど一度としてないのだから。
荒く乱れるクレアの吐息の中で、ルシアの双眸の光はさらに冷徹さを研ぎ澄ませた。彼女は最後の一枚のチップを、この危険極まりない賭場の中央へと容赦なく滑り込ませる。
ルシアは痛む腰を堪え、爪先立ちになった。体格の差があまりにありすぎるせいで、華奢な背丈のままではクレアの耳元に唇を寄せることすら叶わない。
次の瞬間、ルシアは脆弱な態度のすべてを脱ぎ捨てた。細い指先に非情な力を込め、クレアの形の良い顎を力任せに掴むと、暴力的なまでの力量で、その誇り高き侯爵令嬢の絶世の美貌を強引に引きずり下ろしたのだ。
病的な熱を帯びた微かな吐息が、逃げ場のないクレアの熱い耳朶へと容赦なく吹きつけられる。
そしてルシアは、最も残酷な毒をその鼓膜へと注ぎ込んだ。
「クレア……あなた、本当に役立たずの臆病者ね」
最後の一線を保っていた理性の鋼線が、その嘲弄によって「プツン」と弾け飛んだ。
クレアの夜よりも深い紫の瞳が凶悪に細められ、胸元が激しく波打った。次の瞬間、その唇の端が、病的なまでの自嘲を孕んだ冷酷な笑みへと歪んでいく。
生まれ落ちたその日から、侯爵家の至宝として、学院の至高の天才として、この帝国に生きる数多の男女が彼女の足元に平伏し、その慈悲と微笑みを乞い求めてきた。
それなのに――野犬一匹にすら劣る戦闘力しか持たず、指先ひとつ触れれば骨ごと砕け散りそうな腕の中のこの壊れ物に、真正面から「臆病者」と罵倒される日が来ようとは。
シルヴィアの名を継ぐ至高の令嬢は、この瞬間、怒りのあまりに心底から吹き出したのだ。
彼女の輪郭を覆っていた、あの神聖で、清らかで、温和な「初恋」の仮面が、灼熱の炎に炙られた蝋のようにドロドロと融解し、剥落していく。
現れたその貌に宿るのは、剥き出しの暴力と、残虐な嗜虐を孕んだ凶暴な捕食者の殺気だけだった。
「……死にたいの?」
歯の隙間から絞り出された冷え切ったその言葉は、骨を凍らせるほどの殺気に満ちていながら、息を呑むほどに美しく、凶悪だった。
そして、偽善の皮を脱ぎ捨て、剥き出しの牙を晒したその姿こそが――ルシアが最もその眼に焼き付けたかった真実だった。
帝国の初恋? 万民を慈しむ聖女?
そんな反吐の出るような虚像が、この汚泥の世界に実在してたまるものか。全ては化けの皮に過ぎない。
腰の奥を走る疼きを受け流し、皮膚のすぐ下に渦巻く相手の危険な殺気を感じ取りながら、ルシアの蒼白な唇は、勝利を確信した弧を描いてみせた。
「なら、試してみなさいよ……私を本気で、あなたに溺れさせてごらんなさい」




