合わせ鏡に増殖する修道院と、見えざる掟
骨の髄まで軋ませるような悪路の揺れに耐え忍び、その果てにオンボロ馬車は荒涼とした神殿の外縁部でようやく車輪を止めた。
帳が開いた瞬間、ルシアは極めて屈辱的な格好のまま、クレアの両腕によって「お姫様抱っこ」の体勢で車外へと運び出された。
普段のクレアが見せる姿は、深窓で過保護に育てられた、針一本すら重がるような華奢な貴族令嬢そのものだ。
しかし如何せん、長年の拒食によってルシアの身体はあまりに小柄で干からびており、その骨組みは枯れ枝の束のように軽かった。
それゆえ、クレアのように一見すればか弱そうな女性であっても、肉体強化の魔力を一片たりとも通すことなく、やすやすと彼女を胸元へ抱きかかえたまま歩を進めることができてしまったのだ。
「ク、クレア教授……それは、いったい……」
後方を走っていたさらに粗末な馬車から降り立ち、ようやく体勢を整えた四名の学生のうち、分厚い眼鏡を押し上げた「メガネ男」がその光景を真っ先に目撃した。
彼の足は縫い止められたようにその場に凍りつき、血の気が引いてはまた青ざめ、生きたハエを生呑みさせられたかのような複雑極まりない表情を浮かべた。
クレアに対する彼の執着に満ちた熱烈な思慕は、報われぬ片思いの中で、密かで歪な独占欲へと肥大化していた。
帝都魔法学院において、クレアは誰もが冒すべからざる聖なる偶像であり、普段他の貴族子弟が彼女に視線を向けるだけでも、メガネ男の胸の底には黒々とした嫉妬が渦巻くほどだったのだ。
それなのに今、彼が心の中で崇拝してやまない無垢な女神が、他ならぬ誰かを慈しむような笑みをたたえてその腕の中に抱き締めている――たとえ抱かれているのが、名声轟く底知れぬ天才学者ルシアであったとしても、胸の肉を生きたまま抉り取られるような嫉妬と悔しさが、彼の理性を焼き焦がしていた。
「皆さん、心配しないでくださいね。ルシア教授が道中で不意に腰を痛めてしまわれて、自力で歩くのが難しい状態なのです。ですから、私がこうしてお運びしているだけですよ」
クレアは学生たちの探るような視線を受け止め、非の打ちどころのない笑みを唇の端に浮かべた。柔らかく、それでいて真摯な声音で事の経緯を説明すると、極めて理路整然とこう付け加えた。
「神殿の内部に潜む凶険は未知数です。私たちが携行している万能薬や回復薬は、隊全員の命を繋ぐ最後の砦。一時的な筋骨の捻挫ごときに軽々しく浪費しては、あまりに勿体ありません。死地へと足を踏み入れる前に、すべての重要物資は厳格に節約すべきですから」
大局を見据えた、寸分の隙もないその物言いに、常に無駄を嫌い合理性を重んじるルシアは反論の言葉を見つけられなかった。
理詰めで言い返せないと悟ったルシアは、自棄気味に瞳を閉じ、下腰の奥で神経を苛む鈍い痙攣に身を任せながら、クレアの甘い温もりのある胸元へと全体重を預けてしまった――どうせ少し骨を動かすだけで激痛に息が詰まるのだ、無償の足代わりがいるのなら、わざわざ拒む義理もない。
しかし、その傍らで腕を組んでいたヴァレリーは冷ややかな琥珀色の瞳を細め、内心で容赦のない嘲笑を漏らしていた。
ルシアはそのもっともらしい建前に騙されているかもしれないが、同じく酸いも甘いも噛み分けた教授であるヴァレリーには、クレアの底にある手口が手に取るように見透かせていた。
帝国屈指の共振術師たるクレアの治癒術は、ほぼ奇跡の領域に達している――対象にかろうじて息があり、心臓の鼓動が完全に止まってさえいなければ、肉体を再生させる周波数の共振によって、冥府の淵から力ずくで引き戻すことすら可能なのだ。
腰椎の椎間関節の捻挫や急性の筋肉の挫傷程度、クレアにとっては高位術式を起動するまでもなく、指先に微かな魔力を通して半小節の旋律を口ずさむだけで、数秒のうちに患部を完全に修復できるはずだった。
それなのに、彼女は塵ほどの魔力すら使おうとせず、あまつさえ万能薬を盾にして言い訳を繕っている。
その背後に潜む、剥き出しで浅ましい真の企みなど明白だ――この女はただ、堂々と大義名分を掲げて、ルシアを自らの腕の中に囲い込んでおきたいだけに過ぎない。
戦場における陣営の駆け引きや損得勘定に対しては野獣じみた嗅覚を誇るヴァレリーだったが、ことこうした生々しく歪んだ感情の修羅場となると、こめかみが痛むのを禁じ得なかった。
ルシアに対するクレアの息の詰まるような独占欲は、もはや実体化しそうなほどに満ち満ちている。
そして遠く北境にあって、気に入らぬ者を即座に鎖で繋ぎ、手足を折って屈服させる暴君公爵カリーナもまた、ルシアを不可侵の私有物として見なしているのだ。
よりによって、影で互いに牙を剥き出しにして同じ獲物を奪い合っているその二人は、血の繋がった従姉妹同士である。
表面上は温和に見えながら、水面下で毒が渦巻くそのグロテスクな茶番を冷眼で見つめながら、ヴァレリーの口元は微かに引きつった。
この奇怪な関係性をどう定義づければよいのか、彼女には見当もつかない――ただ一つ確かなのは、今まさに世を儚むような顔でクレアの腕に抱かれ、目を閉じているあの黒髪の女こそが、この血生臭い渦の中心点に立たされているということだけだった。
隊の全員の状態を確認し終えると、腰の負傷で動きを制限されているルシアを除き、残る六名は魔力を満たした万全の戦闘態勢にあった。束の間の点検を終え、一行はようやく今回の遠征の終着点――「破壊神殿」へと視線を据えた。
しかし、幾万の帝国軍の屍を飲み込んできたとされるその禁忌の地が実際に露わになった時、全員の顔に浮かんだのは、予期していた畏怖や戦慄ではなく、筆舌に尽くしがたい困惑だった。
草木一本すら生えぬ荒涼たる死の平原の果てに佇んでいたのは、黒曜石で築かれた威容ある巨廟でもなければ、古代の神聖文字が明滅する天を衝く尖塔でもなかった。
視界に飛び込んできたのは、とうの昔に時の風化に晒され、見る影もなく崩れ落ちた旧帝国様式の荒れ果てた修道院だった。
建物全体が、死に瀕した灰白色に覆われている。かつて天を突いていたはずの鐘楼は中ほどから無残にへし折れ、交差する梁の残骸を剥き出しにして、荒野に突き刺さった白骨の如く斜めに傾いでいた。
外壁には枯死して黒ずんだ蔓の残骸がびっしりとこびりつき、まるで石壁に凍りついた毒蛇の死骸のようだ。
剥落し窪んだ無数の石材の奥からは赤黒い粘土層が覗き、重苦しい曇天の下で、長年堆積した血の跡のような禍々しさを漂わせていた。
修道院の正面を飾るはずだったアーチ型の縦長窓は、ステンドグラスの破片すら残さず砕け散り、錆びつきねじ曲がった数本の鉛の枠だけが虚しく風に揺れている。
吹き抜ける突風がその空洞を通るたび、今際の際にある老人の喘鳴に似た、甲高い笛のような異音を響かせていた。
そして、固く閉ざされた青銅の観音開きの大扉の真上――かつて人々を庇護する神像が祀られていたはずの円形龕には、鈍器によって執拗に顔面を叩き潰された、首のない聖母の石像だけが無残に佇んでいた。
そこには神聖さも威厳の欠片もなく、ただ荒野に千年も遺棄された文明の乾いたミイラのように、死の風塵の中で吐き気を催すほどの虚無感を放っていた。
「……これが、近衛軍を一飲みにした破壊神殿の正体?」
ヴァレリーは目を細めてその崩れかけの粗末な建物を品定めし、琥珀色の双眸に冷徹な嘲笑を宿らせた。
天地を覆すような魔力の重圧もなければ、息を呑むような殺戮の防衛結界も見当たらない。
しかし、「神殿」という名から徹底して乖離したこの破滅と平庸さこそが、常識と論理を根底から踏み躙るような奇怪な不条理を醸し出していた。
一行は砕石を踏みしめて前進し、力を合わせて修道院の重い両開きの大扉を押し開けた。
蝶番が軋む耳障りな金属音が静寂の荒原にやけに響き渡り、扉が開かれたその刹那、最初に視界を射抜いたのは、前庭の梁に掲げられた風化の激しい石造りの扁額だった。そこには古代文字で、あの解き難き謎かけが刻まれていた――『完全なる存在は非ず』。
おそらく道中の極度の緊張が糸を引いていたのだろう、ヴァレリーが扉を押し広げた腕の力は必要以上に強すぎた。
分厚い扉の板が両脇の風化した石壁に激突し、凄まじい轟音とともに埃が舞い散る。
その衝撃を受け、元より頼りなくぶら下がっていた石扁額は留め具ごと脱落し、真っ逆さまに地面へ落下すると、砕石の上で粉々に砕け散ってしまった。
「……神殿の備品、壊しちゃったんじゃない?」
クレアの腕に抱かれたままのルシアは呆気に取られ、思わず口を挟んだ。
規則の解明どころか、敷居を跨いだ瞬間、その規則が書かれた看板そのものを粉砕してしまったのだ。これでは最初から禁忌を踏み抜いてしまったのではないか。
「わ、わざとやったんじゃないわよ!」
ヴァレリーの声は上ずり、あからさまに取り乱していた。神殿の仕掛けなど彼女にも見当がつかず、この不用意な粗忽がどれほどの災厄を招くかなど測りようもない。
だが、ここまで来て引き返すことなど、彼女の性分が許さなかった。
焦ったヴァレリーは前へ踏み出し、魔力を発動させて、散り散りになった石片を宙に浮かせてもう一度元の位置へ接合しようと試みた。
しかし、彼女の魔力がその石片に触れたその瞬間――肌を粟立たせるような異様な波動が、一行の足元から唐突に炸裂した。
虚無の中から突如として吹き荒れた狂暴な気流は猛烈な渦を巻き、逃げる暇すら与えず全員の身体を根こそぎ宙へと巻き上げ、薄暗い神殿の深淵へと吸い込んでいった。
背後で「ズダン!」と重苦しい地鳴りのような音が響き、開かれていたはずの大扉は不可視の巨手に引き戻されたかのように隙間なく閉じ合わされ、完全に施錠された。
身体が浮き上がった刹那、クレアの反応は恐ろしく迅速だった。
彼女は爪先で微かに宙を蹴り、吹き荒れる乱流の中に凝縮された魔力で幾重もの半透明な足場を構築した。
まるで虚空を踊るかのように軽やかに宙を駆け、あらゆる衝撃を逃がしながら、最後は埃にまみれた石畳の上へと音もなく着地してみせた。
だが、残る者たちにはそのような神業じみた魔力制御など望むべくもなかった。
漏れ出た呻きと悲鳴を連ねながら、二男二女の生徒たちは糸の切れた凧のように地面へと激しく叩きつけられ、粗削りの床面を数メートルにわたって無様に滑り転がってようやく止まった。
もっとも悲惨だったのはヴァレリーだ。突風に巻き上げられた彼女は体勢を立て直す間もなく、自らの魔力で浮遊させていたあの頑丈な石の扁額の後頭部直撃を喰らった。
「ゴン!」という鈍い打撃音が響き、額の脇にみるみる大きな瘤が盛り上がる。そのまま地面へと叩き落とされた彼女は、独楽のように床を何回転も転がり回った末、ようやく石柱の根元に埃まみれで倒れ伏した。
傍らでそれを見ていたルシアは、見ているこちらまで痛覚が走る思いで引きつった笑いを浮かべた。
探索の幕が本格的に開きすらしていないというのに、出だしからここまで滑稽なほど無様でどうするのか。この先に待ち受ける危難など、想像するだけで気が滅入ってくる。
ルシアはクレアの肩を軽く叩き、地面に下ろすよう促した。
クレアの伏せられた紫の瞳の奥に、一瞬だけ異様な光が過ったが、表面上は何事もなかったかのように従順に身を屈め、ルシアを静かに床へと立たせた。
しかしその離れ際、クレアの柔らかく薔薇の香気を纏った唇が、偶然を装いながらも、抗いがたい執着を込めてルシアの冷えた唇の端をかすめていった。
それは剥き出しの渇望だった。いつ命を落としてもおかしくない死地の中であっても、彼女の胸の底にある病的な独占欲は膨れ上がるばかりだった――あるいは、いつ終わりを迎えるとも知れぬ極限の危機だからこそ、ルシアに触れる機会を一瞬たりとも逃したくないのだ。
もしこの遠征が死によって幕を閉じる運命にあるのなら、最期の瞬間までこの女の体温を自らの骨の髄に刻みつけておきたい。それが彼女の執着だった。
「ジュリア、神殿の大扉が開くかどうか確かめて」
ルシアはクレアの熱を帯びた視線から何気なく目を逸らし、普段から自分を盲信している三年生の女子生徒へ冷静に命を下した。
名目上の引率教授として、ここで自分までもが動揺を見せれば、学生たちは恐怖に呑まれてあっという間に命を落とす。
新米の臨時教授という肩書きであろうと、この極限状態にあっては、彼女たちが縋る唯一の精神的支柱を演じ切らねばならなかった。
「は、はい、ルシア教授!」
名を呼ばれたジュリアは慌てて立ち上がり、震える膝を叩いて扉へと駆け寄った。しかしルシアの予想通り、ジュリアがいくら両肩をぶつけ、魔力を叩き込もうとも、重厚な石の扉は微動だにしなかった。
「開きません……扉の向こう側から、目に見えない巨大な圧力で押し固められているみたいです。鍵穴なんて一つもないのに、防壁の強度が異常すぎます!」
報告を受けたルシアは、短く思考を巡らせた。かつての帝国軍の生還記録から察するに、神殿は攻略に失敗した際に撤退すること自体は許されているはずだ。
ならば、この扉には必ず何らかの解除機構が存在する。退路を断たれた以上、あてもなく守護者を探し回るよりも、まずは脱出の筋道を割り出すことこそが最優先だった。
もっともルシア自身にとってみれば、すでに二度の死を経験した身であり、自分の命など惜しむべき宝でも何でもなかった。
死んだところで意識が虚無の底へ溶け去るか、あるいは以前のように、見知らぬ時系列のどこかで唐突に目を覚ますだけの話だ。
しかし、その骨の髄に染み付いた探究心が、冷え切った胸の奥で燻り始めていた。
神殿の守護者とは、いったい如何なる規格の神威を受け継いでいるのか?
その力の根底にある論理とは何なのか?
未知の謎を突きつけられた瞬間、彼女の胸の奥底には、その法則と知恵比べをしてやりたいという危うい衝動が湧き上がっていた。
それに……生きることに未練などないはずなのに、あの短気で身勝手なカリーナの怒り狂った顔が脳裏をかすめると、ルシアの口元が微かに歪んだ――生きて帰り、あの北境の狂犬が自分を巡って苛立ち右往左往する様を眺めるのも、そう悪くはない。
「ひとまず内部の構造を洗うわよ。扉に触れただけで近衛兵が消し飛ぶような場所なんだから、安全を確保した状態で修道院の間取りを把握するのが先決よ」
ルシアは錬金術の手札をかざし、微かな魔力の共鳴とともに、手のひらサイズの人造精霊「刻刻」を呼び出した。
ルシアの指示を受けた刻刻の全身から不可視の波紋が広がり、精密な音響識別領域がレーダーの網のように修道院の奥深くへと瞬時に浸透していく。
石柱の亀裂、壁面の厚み、宙を漂う微細な塵の揺らぎに至るまでが、明瞭な情報となってルシアの知覚へと還元されていく。
だが、刻刻の放った魔力の波紋が回廊の奥へと連鎖し、立体的な空間配置として彼女の脳裏に組み上がった瞬間――背筋を凍りつかせるような寒気が、ルシアの脊髄を駆け上がった。
魔力の波紋が描き出した空間構造は、寸分の狂いもなく向かい合わせに置かれた「合わせ鏡」そのものだった。
映し出された空間は虚無の中で無限に自己増殖し、どこまでも連鎖を繰り返している。
回廊の先には別の回廊が口を開け、扉の奥には瓜二つの扉が重なっている。波紋が探知限界に達して掻き消えるその果てまで、視界を埋め尽くしていたのは、終わりなく連なる無数の部屋と通路の連鎖だった。
ここはただの修道院などではない。無限に増殖する部屋の集積によって組み上げられた、概念の迷宮だった。
ルシアの冷え切った顔立ちが、今度こそ昏く沈み込んだ。なぜこの破壊神殿が有史以来誰の手にも落ちなかったのか、その理由を彼女は完全に理解した。
空間の論理を嘲笑うこの無限の入れ子構造の中では、帝国がどれほど山を穿つ大魔導師を送り込もうとも、守護者の真の居場所を特定できぬ限り、圧倒的な武力など虚空を薙ぎ払う滑稽な戯れ言に過ぎない。核心に眠る石板の回収など、夢のまた夢だった。
ルシアは視線を落とし、足元で粉々に砕け散り、断面から冷徹な気配を放っている石扁額の破片を見つめた。青白い唇が微かに開き、刻まれていた古の文言を低く反芻する。
「完全なる存在は非ず……?」
冷酷な推論が、彼女の思考の中で輪郭を結び始めていた。
おそらく、この迷宮が際限なく増殖し続ける異常性そのものが、規則の具現なのだ。この不条理な謎を解き明かさない限り、守護者へ至る唯一の通路は虚無から姿を現すことはない。
その底流にある論理を掴めぬまま闇雲に足を踏み入れれば、無限の部屋の中で精神を摩耗させ、神殿の養分となって果てるだけだ。
さらに推し量るなら、大陸全土に点在する七つの禁忌の地において、今なお外縁の情報すら完全に途絶え、踏み込んだ遠征軍がことごとく消滅した神殿が三つ存在する。
その事実が意味するのは、神殿の生存判定が極めて絶対的であるということだ――規則が定める生門の条件をある程度満たし、あるいは触発させた者だけに、生きて立ち去る資格が与えられる。
あの底知れぬ三つの神殿で全滅した者たちは、おそらく規則の輪郭すら掴めぬまま、退路を断たれて飲み干されたのだろう。
そこまで思考を巡らせた時、ルシアの張り詰めていた神経は、奇妙なことにふっと弛緩した。
帝国の埃をかぶった歴史記録において、この破壊神殿から生還した部隊の記述が複数残されているということは、一つの事実を証明している――この一見すれば解のなさそうな規則は、客観的に見れば、極めて低い条件で達成できる抜け穴を備えているということだ。
さもなければ、頭の固い軍隊の臨機応変さで、何度も生きて逃げおおせるはずがない。
生路が存在するのなら、盤面はまだ詰んではいない。
ルシアは片手を背後に回し、捻挫によって鋭い痛みを訴える腰椎の関節を衣服越しに指先で押さえつけながら、重い足取りで大扉へと引き返した。
冷え切ったもう片方の手を伸ばし、重厚な扉の表面へと触れる。彼女の本来の意図は、錬金術師としての知覚を研ぎ澄ませ、扉に巡らされた防御術式が如何なる系統の構造であるかを暴くことだった。
魔力回路の結節点さえ解析できれば、手持ちの錬金道具で過負荷を起こして局所爆破し、この門を強引にこじ開けられるかもしれないと考えたからだ。
だがその刹那、あまりにも不可解な現象が起きた。
ルシアの手のひらが冷たい金属の表面に触れただけで、破壊の魔力すら流し込んでいないというのに――重々しく、それでいて滑らかな蝶番の回転音とともに、先ほどまで三年生の優等生であるジュリアが全身の魔力を注ぎ込んでも微動だにしなかった大扉が。
ルシアのその手によって、何の抵抗もなく、片手でやすやすと押し開かれたのだ。
外の薄暗い荒原から吹き込む冷たい風が吹き抜け、ルシアの前髪を揺らした。
前庭の空気が、瞬時に死んだような静寂へと凍りついた。
頭のたんこぶを押さえていたヴァレリーはその場に硬直し、その瞳は呆然から驚愕へと見開かれた。
隣のジュリアは自らが命がけで挑んでも揺るがなかった大扉を見つめ、信じられない思いで息を呑んでいる。少し離れた場所で優雅な佇まいを崩さずにいたクレアの紫の瞳すら、微かに収縮していた。
全員の視線が、片手で腰を押さえ、病的な青白さを浮かべたその小柄な背中へと一斉に突き刺さった。
天を焦がすような魔力の奔流などなかった。複雑怪奇な解呪の儀式も経ていない。
ならば……正規の近衛軍すら阻んできたこの神殿の門には、最初から極めて秘匿された古代の錬金回路が仕組まれており、錬金術の頂に立つルシアだけが、無意識のうちに正しい機関連動を触発させたとでもいうのか?
疑念と戦慄が、その場にいる全員の網膜を灼くように広がっていく。
ただ一人、開かれた扉の前に立つルシアだけは、眼前にあっけなく口を開けた生路を見つめながら、喜ぶどころか、その胸を底知れぬ氷の底へと沈み込ませていた。




