危険な深淵へ赴く前に、君の不器用な抱擁を想う
帝都魔法学院の清晨、空気にはまだ青草と湿った土の冷ややかな匂いが漂っていた。
ルシアは一人用の宿舎で携行装備を整え、外套の留め金を留めると、静かに部屋の外へと足を踏み出した。
この学院に着任して二ヶ月が過ぎ、彼女はようやく神殿へ赴くためのすべての事前準備を完了させていた。
この期間、彼女は自らの切り札である「錬金手札」に徹底的な改良を加え、より実戦向きの機能へと仕立て直していた。
いまやその手札は、あらかじめ術式を刻み込んでおくだけでなく、特殊な空間の結節点を組み込むことで、専用の収納領域すら内包している。
手元に収めておきたい錬金道具や刻印鋼板、予備の武装などはすべてその中へ直接送り込むことができ、必要となれば微量の魔力を手繰り寄せるだけで、瞬きの間に手元へと呼び出すことが可能となっていた。
しかし、そのどれほど便利な道具とて、「十分なエネルギーの供給」という冷酷な前提の上に成り立っていることに変わりはない。
あいにくルシアの生来の体質は、帝都魔法学院の基準に照らせば、魔力の総量においてほぼ不全と呼んで差し支えない代物だった。
この一見すると利便性の高い空間召喚も、高密度の激戦という極限状態のもとで魔力が底を突けば、身を守る道具一つすら手札から引きずり出せなくなる致命的な急所へと反転しかねない。
空間内に高純度の蓄魔水晶を備蓄してはいるものの、その自救策すらもやるせない循環を孕んでいた。空間から水晶を取り出すのに魔力を費やし、水晶を砕いてエネルギーを補給するのにもまた魔力の誘導を要する。
昇格術式によって機械梟の「刻刻」を進階形態へ移行させれば、錬金回路の同調共鳴によって消費を大幅に抑え込むことはできるが、それとてエネルギーの利用効率を引き上げたに過ぎず、干からびた魔力の器を外から満たしてくれるわけではないのだ。
ルシアは、自らの脆弱さを誰よりも冷徹かつ客観的に見定めていた。
彼女が手にする勝ち筋のすべては、本質的に「技術の世代差」と「情報の非対称性」の上に築かれた薄氷の賭けに過ぎない。
もし情報の差など意に介さず、規格外の純粋な力任せで理屈をねじ伏せてくる強者と対峙してしまえば、待っているのは抗う術もなく屈服させられる結末だけだ――あの白髪紅瞳で、自らの企図をいつも理不尽に打ち砕いてみせる女公爵、カリーナのように。
ルシアは感情を交えぬ面持ちのまま、石畳の回廊を歩み進めた。
今回の辺境「破壊神殿」への遠征において、隊を率いるのは三人の教授である。彼女自身、魔法の天才と謳われるクレア、そして最近になって魔法応用学系の教授へと転任してきたヴァレリー。
同行する隊員については、校内での公募を経て選抜された四名の学生たちであった。
名簿に目を通した時点で、ルシアはその四人の胸中をあらかた見透かしていた。
一人は、先日の講義でどれほど帝都に留まるのかと大胆にも尋ねてきた三年生の女子学生、ジュリア。もう一人は、クレアの後ろに絶えず付き従い、慕情を隠そうともしない二年生の男子学生だ。
ルシアは昔からしつこく付きまとう狂信的な求愛者を好まない。かつて自身もカリーナに対して同じように縋り付いた過去があるとはいえ、ルシアとて所詮は利己的な人間である。
それゆえ、その男子学生には内心で「メガネ男」という雑な渾名を貼り付け、名前を覚える気すら起きなかった。
残る二名は、ヴァレリーが手塩にかけて育てた優秀な学生で、男女が一足ずつ。
これについてもルシアは名前を覚える労力を惜しんだ――過酷な環境を生き延びたなら、いずれ嫌でも覚えることになる。逆に呆気なく命を落とすようなら、死者の名前など頭の片隅に留めておく価値もない。
学院の大食堂に足を踏み入れた瞬間、満ちていた喧騒が潮が引くように止まった。
食事を摂っていた学生たちが示し合わせたかのように一斉に立ち上がり、厳粛かつ熱烈な敬意を込めてこの生ける伝説たる講師へ会釈を捧げる。
次いで我先にと席を空け、教授はどこに座りたいのかと尋ねながら、最も日当たりの良い上席を譲ろうと申し出てきた。
ルシアは気取る風もなく、ただ神殿遠征隊の面々と合流する予定であることを穏やかに告げ、全員で作戦を話し合える大きな長机を空けてほしい旨を伝えた。
学生たちはその言葉を聞くや否や、素早い手つきで広々とした一角を整えてみせた。
ヴァレリーが神殿攻略を目論んでいることは、とうに公然の秘密となっていた。
当初、周囲はあの偏執的な女教授の誇大妄想と冷ややかに受け止めていたが、ルシアが現れ、さらには屈指の実力者であるクレアの参戦が決まったことで、無謀な特攻と見なされていた遠征は、一転して底知れぬ可能性を秘めた未知の賭けへと姿を変えていたのだ。
かつて、帝国による神殿開拓は常に大軍の動員を前提としていた。
小規模な軍団で数百人、大規模ともなれば数万人規模に達する。数万人を投入する大軍団は、決まって苛烈な波状攻撃の戦術を採った。
前衛が傷つけば強引に退かせ、同胞の血溜まりを踏み越えて後続の兵が押し寄せるのだ。
その野蛮な消耗戦の代償は凄惨を極めた。帝国は莫大な物資と数世代に及ぶ精鋭たちの命を溝に捨てたが、得られた情報など微々たるものだった――
神殿の名と表層の基本規則を知るのが関の山で、その奥底に潜む守護者がいかなる姿形をし、いかなる攻撃を繰り出してくるのか、生きて持ち帰った者など誰一人として存在しなかったのである。
のちに聡明な学者が気づいた。神殿に足を踏み入れる生者の数と、内部の防衛機構が撒き散らす狂気は、極めて厳密な正比例の関係にあるのだと。人数が増えれば増えるほど、発動する殺戮の陣はより凶悪なものへと跳ね上がる。
それゆえにヴァレリーは、学院の掲示板に貼り出した招集状において、厳格な七人の枠を定めたのだ。三人の教授を除けば、過酷な代償を背負う覚悟のある精鋭の学生は、四名で過不足がなかった。
当初の名簿には古株の教授であるビクターの名も連なっていたが、彼は自らの年齢と経絡の衰えを自覚し、死地へ踏み入る無茶を最終的に思い止まった。
ルシアが依頼を引き受けることを決めた日、ビクターはわざわざ妻に襁褓に包まれた幼子を学院へと抱いてこさせ、ルシアにその赤子を抱いてほしいと丁重に頼み込んできたことがあった。
人生の大半を無慈悲な殺戮と冷徹な学究に捧げ、中年となってようやく同僚の女性教授と家庭を持ち、子を授かった男である。彼はその柔らかく儚い小さな命へ、生涯に一度あるかないかの温もりを注いでいた。
はじめ、ルシアはその厳格な教授の意図を図りかねていた。
だが、刻刀と冷えた鉄塊を握ることに慣れきったその両腕で、微かな鼓動と乳の匂いを放つ柔らかな温もりを恐る恐る抱き上げた時、傍らに立っていた痩躯の中年男は、掠れた声で静かに口を開いたのだ。
術式を説くこともなく、戦略に触れることもない。ただ幾多の風雪をくぐり抜けてきた男の静かな口調で、彼は「命の重み」を彼女に語った。
かつて恐れられた「夜魔」という禍々しい二つ名よりも、いまの彼が最も誇りとしている肩書きは、ただ「父親」の二文字なのだと。
ビクターは、これから未知の死地へ赴くルシアに対し、冷酷な戦いの中で命の意味を見失わないでほしいと願っていた――それは彼女が率いる隊員たちのことのみならず、ルシア自身の華奢な身体に宿る命に対しても向けられた言葉だった。
生死の境をあまりにも長く彷徨ってきたからか、あるいは生涯の中で屠られ、狂っていく者を数多く見届けてきたからか、この教授は他者の瞳の中に「生への執着」が存在するか否かを、野獣のような鋭さで見抜く直感を持っていた。
ルシアの全身には、あまりにも深い摩耗の痕跡が刻まれていたのだ。
それは単なる疲労ではない。幾万もの砂嵐に削り取られ、摩滅しきった古びた石像のような死寂。ビクターの見立てに狂いはなかった。
目の前の小さな少女の魂の底に、すでに二度もの生死を跨いできた重苦しい業が沈んでいることなど、彼に知る由もない。その底知れぬ喪失感がどこから生じたのかを解き明かす術も持たなかった。
だが、彼は痛いほどに見抜いていた――ルシアという女は、自らの命をいつ何時であっても、平然とした顔で賭け台の上に放り出せてしまう人間なのだと。
それは極めて危うい振る舞いだった。しかしそれは強欲や狂気によるものではない。「生きている」という事実そのものが、彼女にとってはいつ失っても構わない安っぽい端金に成り果ててしまっているからに他ならなかった。
ビクターはクレアを案じてはいない。紫髪紫眸のあの娘は世界のあらゆる命を慈しんでおり、当然ながら自分自身も例外ではない。
自らの血肉は両親から授かったものであり、命を疎かにすることは両親への最大の裏切りになると信じているからだ。
ビクターはヴァレリーについても案じていなかった。あの狂気を孕んだ女は、生き永らえることに対して病的なまでの執念を燃やしている。
かつて幾度となく遭遇した九死に一生の過酷な任務にあっても、ヴァレリーは自らの生命力を削り、神経を焼き千切って禁忌の魔法を行使し、魔神と殺し合ってすら、明日の陽光を拝むために泥を啜ってきたのだから。
彼女たちには、揺らぐことのない信念という錨がある。
だからこそ、ビクターは彼女らを案じない。彼の瞳に宿る深く重い憂色のすべては、初めから終わりまで、淡々とした表情のまま今にも風に溶けて消えてしまいそうな、あの黒髪の女へ注がれていたのだ。
ルシアは卓の前に静かに腰を下ろし、買ってきたばかりの温かい珈琲の紙蓋を外した。立ち上る白く苦い湯気が、朝の光の中にゆっくりと溶けていく。
彼女は冷めかけたサンドイッチを手に取り、深い森の瞳を伏せながら、ひどく苦痛そうに小さな一口を嚥下し始めた。
ルシアにとって、「食事」とは決して歓びなどではなく、肉体と精神が苛まれる過酷な刑罰に等しかった。どれほど身体を休めようと、その体躯が病的なまでに細く、幼いまま留まっている真の元凶がここにあった。
まだ地球という場所で「村雨」と呼ばれていた頃から、あの息の詰まる暗い家庭は、すでに彼女の魂にこの精神の首枷を嵌め込んでいたのだ。
幼い頃から、両親の視線も温もりも、愛嬌のある妹だけに惜しみなく注がれていた。
そして村雨の頭上に降り注いだものといえば、明けても暮れても繰り返される理不尽な罵倒と、骨の髄にこびりつくあの侮蔑の言葉だけだった――「陰気な役立たずのくせに、人より早く飯を食らうこと以外、あんたの人生に何の取り柄があるっていうの?」
その言葉はあまりにも無数に繰り返され、幼い魂を焼き尽くす潰瘍となって、やがて癒えることのない病魔へと変じ果てた。
大人になってからも、咀嚼するたび、飲み込むたびに、脳の深奥でけたたましい警報が鳴り響き、足元から罪悪感が押し寄せてくる。
胃袋に食べ物を詰め込むという行為そのものが、誰かの生存権を卑しくかすめ取っているかのように思え、自らが強欲で許されざる屑であると思い知らされるのだ。
身体が熱量を求めていることは頭では理解していたし、胸を蝕むこの悪夢から抜け出したいと何度も願った。
だが、現実は無情だった。あの世界で過労の果てに命を落とすその瞬間まで、彼女が自分自身を救い出すことは叶わなかった。
そしてこの世界へと流れ着き、彼女が唯一、安らかに食事を喉へと通すことができるのは――カリーナの傍らにいる時だけだった。
あの理不尽で傲慢な白髪の女は、ルシアを苦痛の過去から強引に引き摺り下ろす術を、なぜか無数に心得ていたからだ。
もっとも、カリーナの繰り出す手管はどれもまともとは言い難く、どこか通俗的な物語の傲岸な権力者が口にするような悪趣味な誘い文句に満ちていた――「もう一口食えば、私の耳に触るのを許してやる」「吐き出そうとするなら、口移しで流し込んでやるぞ」といった具合の呆れた手口に、ルシアはいつも言葉を失い、辟易することすら忘れて、気づけば生を繋ぐための食事を無理やり胃袋へ押し込まれていたのだ。
前世のカリーナも、あのような女だったのだろうか。それとも、いま目の前にいる女公爵が見せる不器用な優しさすら、すべては精巧に織り上げられた幻影に過ぎないのだろうか。
ルシアの指先が微かに震え、胸の奥から吐き気を催すような澱がせり上がってきた。
嫌悪感を抑え込むことができず、彼女の脳裏に、かつて地球で八年もの歳月を共に過ごした元恋人の姿が蘇る。
八年間の青春と信頼の果てに待っていたのは、寄り添い合う未来などではなく、あまりにも浅ましく薄汚れた裏切りだった。
一方的に彼女を捨て去ったその男はある日、充血した目を潤ませてアパートへと転がり込み、床に膝をついて涙を流しながら復縁を乞うてきたのだ。
お前がいなければ駄目なんだ、お前が一番なんだと、口から出まかせを並べ立てて。
村雨が絆され、壊れかけた関係を拾い上げようとしたわずか数日後、残酷な真実は腐臭を放つ泥水のように彼女の頭上から浴びせかけられた――男にはとっくに新しい女ができており、二人は裏で歪んだ主僕の命令遊戯に興じていたのだ。
その女が男に下した「罰の命令」こそが、「あの退屈で陰気な村雨」の元へ戻って都合のいい復縁を演じ、忠実な犬のように村雨を手玉に取ってみせろというものだった。
そして二人は影で、村雨が真剣に返した引き止めの文面を嘲笑いながらベッドの上で交わり、彼女の踏みにじられた誠意と苦痛を、互いの情欲を煽る下劣な調味料として消費していたのだ。
彼らは薄暗い物陰に潜みながら彼女の一途さを嘲弄し、一人の女が半生をかけて紡いだ真心を、ただの退屈しのぎの興行として弄んだ。
すべてを知った日、村雨の世界は音を立てて崩壊した。胃液と胆汁を吐き散らし、喉を引き裂くように慟哭した。
だからこそ、異世界の光の中で目を覚ました時、彼女はあまりにも浅はかにも、運命がようやく情けをかけ、前世で無惨に引き裂かれた情の欠片を埋め合わせるために転生を与えてくれたのだと思い違いをしてしまったのだ。
思い返せば、「村雨」としての生において、親の情と男女の愛という二つの血塗られた裂け目を除けば、彼女の歩みは十分に満ち足りていた――
技術者としてその才を燃え尽きるまで捧げ、あの見向きもされないマイナーなカードゲームにあっては、個人の研鑽と執念のみを武器に、底辺と嘲笑された後攻デッキを凡百の人間が届かぬ全国の頂へと押し上げたのだから。
あの息の詰まる家族の檻と、尊厳をズタズタに引き裂いた薄汚れた男の記憶さえなければ、彼女の人生に思い残すことなど何一つなかった。
だが、それがあるからこそ――眼前に迫る危機は致命的だった。
ヴァレリーがまとめた資料によれば、神殿の深層に敷かれた防衛機構の中には、侵入者の心に巣食う最も暗く、最も爛れた傷跡を具現化して引き裂く罠が存在するという。
それが意味するところは明白だった。神殿に足を踏み入れた後、あの悪臭に満ちた過去の残像の只中にあって、己の精神が崩壊することなくどれほどの時を持ち堪えられるかなど、客観的な見通しすら立てられないのだ。
そして、危険を孕んでいるのは自分一人にとどまらない。
ルシアは深い森の瞳を細めた。鋭敏な直感が告げていた。あの博愛と慈悲を湛えたクレアもまた、その背中に誰にも明かせぬ暗い古傷を背負い込んでいると。
礼節を弁えるならば、その傷口に土足で踏み入るような真似はできないが。
そしてヴァレリーに至っては……あの地球への帰還に執着する女の胸中など、容易に透けて見えていた。
いつ息を引き取ってもおかしくない病床の母、そして莫大な医療費を工面しようと高レバレッジの投機に手を染め、最後には破滅へと転落した博徒――ヴァレリーの心の亀裂は、いつ誘爆してもおかしくない火薬庫そのものだった。
ルシアは冷めかけた珈琲に口をつけ、苦い液体をほんの少しだけ喉へと流し込み、指先に残ったパサついたパン屑を静かに払い落とした。
隊を率いる三人の教授は、揃いも揃って魂の奥底に歪みを抱え、その傷口からは等しく生々しい血が滴っている。
ルシアは背もたれに気だるげに身を預け、表情を消したまま、胸の内で冷徹な結論を導き出していた。
今回の神殿遠征、もし通常の筋書き通りに事を進めるならば、この傷病兵の寄り合い所帯のような顔ぶれは、最初の精神試練に直面した時点で全員揃って討ち死にする可能性が極めて高い。
であるならば、心の強靭さなどという不確定要素をあてにするのは単なる自己欺瞞だ。
出発の時を迎える前に、手持ちの冷えた鉄と錬金術を総動員して、精神の防壁が瓦解しようと、たとえ意識を失って卒倒しようと強制的に息の根を繋ぎ止める物理的な防護札を、己と隊員たちのために叩き出しておかねばならなかった。
冷えきった紙コップの縁を指先でなぞりながら、ルシアは睫毛を伏せた。滅多に波立つことのなかった心の防壁に、見過ごすことのできない迷いの亀裂が走る。
彼女は本当に……そこまでして往かねばならないのだろうか。
この神殿行きなど、突き詰めてしまえばヴァレリーの身勝手な執着に過ぎない。
この異界の地において唯一、かつて同じ世界に身を置いていたというだけの同郷の縁のために、すでに擦り切れ、壊れかけているこの命を、底知れぬ賭け台の上に再び差し出す価値が果たしてあるというのか。
過去の二度の結末を思えば、骨の髄を凍りつかせるような寒気が、音もなく項を這い上がってくる。
最初の生にあっては村雨として、家族の呪詛と元恋人の下劣な弄玩の中で抜け殻となり、ディスプレイの光の前で誰にも看取られず息絶えた。
二度目の生にあっては異界へと渡り、雪原の果てで高潔なあの背中を追いすがり続け、最後には命の灯火を燃やし尽くして無念のうちに瞳を閉じた。
彼女はすでに二度死んでいる。そのどちらの幕引きも、世界に見捨てられた惨めさと屈辱に塗れていた。
三度目の生においてようやく息を継ぐだけの余白を手に入れたというのに、自分はまた同じ過ちを繰り返し、他人の願いのために命を投げ出そうというのか。
疑念の渦が際限なく広がりかけたその刹那、ルシアの脳裏に、唐突なほど鮮烈にあの乱れた白髪が、そして兇猛さを湛えながらも自分を見つめる時だけは必死に爪牙を隠そうとする、あの紅い瞳が浮かび上がった。
彼女は本当に、カリーナに逢いたかった。
冷ややかな香気と酒の匂いを纏い、けれど胸の内の昏い影を焼き払うほどに熱を帯びたあの抱擁が恋しかった。
二人きりの夜の静けさの中で、横暴で聞き分けがないくせに、どこか見ていて笑みがこぼれるほど不器用に寄り添ってきたあの姿が、たまらなく愛おしかった。
ルシアには痛いほど解っていた。戦場において敵軍を震撼させ、幾千の首を刎ねてきたあの北境の狼が、根っからの女誑しなどでは決してないことくらい。
三流の読み物に登場する傲慢な支配者の台詞を真似た強引な甘言も、押し付けがましく差し出される親愛や命令も、そのひとつひとつを口にするたび、カリーナの冷酷な面輪には誤魔化しようのないぎこちなさと照れが浮かんでいたのだから。
そんな真似、あの女が得意なはずがなかった。
それでも彼女は奥歯を噛み締めてそう振る舞い、寄りかかることのできる強き守護者の仮面を不器用に演じ続けていた。
理由はただ一つ、彼女がルシアを愛しているからであり、自らの知りうる限りの術を用いて、いまにも霧散してしまいそうなルシアを、この人の世へと繋ぎ止めておきたかったからに他ならない。
ルシアは指先に力を込め、紙コップに残されたわずかな温もりを掌に押し当てた。
彼女は、静かに己に問いかけていた。
もしこれから足を踏み入れる神殿の深淵が、侵入者の魂に潜む最も爛れ、最も穢らわしい心の傷を余すところなく暴き立ててくるのだとしたら――
前世の罵声、嘲笑、辱め、そして裏切りの記憶が、底知れぬ悪意の幻影となって彼女を呑み込もうとするその時。
魂の至るところに亀裂が走り、息をすることすら億劫に思っているこの自分が、ただカリーナへの想いだけを頼りにして、精神の瓦解という泥沼の底で、最後まで立ち続けることなどできるのだろうか。




