湿っぽく蒸し暑い夜と、多難なる標的
公爵邸の最奥、北境の狼たる彼女の寝殿は、外の者が想像するよりも遥かに静謐で、そして帝国のいかなる宮殿よりも危険で蠱惑的な空気を孕んでいた。
先日のルシアと女刺客の一戦を経て、カリーナの部屋は場所を移され、その内装も一変していた。
黒鉄木とミスリルの冷徹な鋳造による重厚な観音開きの扉を押し開ければ、押し寄せてくるのは軍旅特有の鉄錆や冷気ではなく、まるで溺れ死にそうなほどの濃厚な気配――極北のシダーウッドが持つほろ苦い冷たさ、その底に厳重に包み込まれた、むせ返るほどに熱を帯びたホワイトムスクと月下香の香りだった。
それはカリーナが好んで纏う香の匂いであり、あらゆる天蓋やカーテンの隅々にまで傲慢なほど染み付いている。まるで巨獣が己の巣穴の深奥で、その匂いによって絶対的な縄張りを刻みつけたかのようであった。
室内の採光は極めて抑制されていた。高い格天井からは幽玄な蒼氷晶を彫り込んだシャンデリアがいくつか吊り下げられ、その光量は極限まで絞られている。
極夜の凍てつく湖水のように仄暗く、部屋全体を密やかで曖昧な、冷たいトーンの幽光で包み込んでいた。
暖炉で年中絶えることなく燃えているのは並の薪などではなく、赤々とした微温を放つ溶岩魔石である。吹き荒れる刺すような寒風を分厚い色硝子の掃き出し窓の向こうへ完全に閉ざし、黒曜石の床には血の色のように揺らめく影を落としていた。
何よりも胸をざわつかせるのは、この部屋のいたるところに見え隠れする、神経症的なまでの豪奢と監禁の気配だった。
部屋の中央に鎮座する異様なまでに広大な天蓋付き四柱ベッドには、北境で最も希少とされる純白の雪原魔狼の毛皮絨毯が一面に敷き詰められている。
その長く柔らかな毛並みは、身を沈めた者を跡形もなく呑み込んでしまいそうであり、天井から垂れる深紫色のベルベットの帳の縁には、暗金色の刺繍糸でグラフィエン家の茨狼紋が緻密に縫い込まれていた。
帳が下ろされたとき、そこは外界と完全に隔絶された、光の届かぬ温かな檻と化すのだ。
ベッドの傍らに置かれた黒クルミ材の長机には、北境軍団の血塗られた軍報や冷たい短剣が無造作に散らばる一方、その隣には異様なほど不釣り合いな品々が、これ以上なく丁重に飾られていた――精緻なクリスタルの花瓶に挿された、恒温魔法の加護を受けて極北の厳寒の中で咲き誇る、咲くはずのない漆黒のチューリップ。
その脇には、ルシアが書き殴った錬金術の草稿の束と、散らばる真鍮の歯車が幾つか、几帳面に積み重ねられている。
ルシアに属するささやかな痕跡のすべてが、まるで神の遺物を蒐集するかのように、カリーナの最も私的な視界の内にただの一つも漏らさず囲い込まれていた。
あらゆる足音を吸い込む深紅の絨毯、一角に半ば開け放たれたミスリル彫刻の衣装部屋、安楽椅子の上に無造作に投げ出された、未だ生々しい体温の残る漆黒のビロードのナイトガウン、そして空気中に漂う消えやらぬ冷香と情熱の残り香。
ここに北境統帥としての厳格な威儀などありはしない。あるのはただ、重装の鎧を脱ぎ捨てた一頭の猛獣が、公爵邸で最も高価で最も柔らかな温床を用いて丹念に編み上げた、独占欲と深甚なる執着に満ちた巣穴だけであった。
漂う空気の一筋一筋までもが、あの黒髪の錬金術師がここへ足を踏み入れ、そして余すところなく喰らい尽くされる瞬間を、声もなく待ち侘びているかのようだった。
北境公爵の寝室内は、息が詰まるほど濃密に熱を帯びていた。
極北のシダーウッドが放つ冷たい苦みと、甘く濃密な熱気が混ざり合い、仄暗い氷晶の灯火の下で静かに燻っている。
純白の狼毛が敷き詰められた巨大なベッドの中央で、ルシアは泥沼のような柔らかい寝具の中にすっぽりと沈み込んでいた。絹の掛け布団が、紅い痕にまみれた華奢な肢体をかろうじて覆い隠している。
指一本すら持ち上がらない。濡れた黒髪は紅潮と汗に塗れた頬に乱れ散り、全身がだるく震え、体内からは最後の一滴の魔力も気力も徹底的に絞り尽くされたかのようだった。
まさかあの北境の狼の体力が、ここまで人外じみた恐怖の領域にあるとは思いもしなかった。カリーナの魔法の効果によって互いの感覚は完全に連結されていたというのに、ルシアがもう限界を迎えて意識すら失いかけている横で、カリーナ自身はまだ準備運動すら終えていないとでも言いたげな様子だったのだ。
空間魔術によってこの誂えられた私室へと強引に連れ戻された後、カリーナは息をつく暇すら与えなかった。「帝都魔法学院に勝手に留まっていた罰」という名目で彼女をベッドに組み伏せ、際限なく愛を貪り続けたのだ。
血のように紅い狼の双眸には、失ったものを取り戻した偏執が渦巻き、吹きつけられる熱い吐息は幾度となくルシアの理智を掠め奪っていった。
神よ、証人になってくれ……ルシアは白目を剥きそうになりながら、現代のエンジニアとしての魂が脳内でけたたましく鳴らす警報を聞いていた。
このままでは、歴史上初めて「ベッドの上での過労」によって命を落とす転生者になってしまうのではないか。そんな死に様が現代に伝わろうものなら、転生者の恥晒しとして一万年は笑い者にされるに違いない。
薄れゆく意識のなかで彼女は本気で思っていた。前世、光の届かぬ瓦礫の下で高位の火球に胸を呆気なく貫かれたことのほうが、よほど潔く華々しい殉職だったのではないか、と。
ルシアの意識が朦朧とし、懇願するようなかすれた吐息すら消え入りそうになったその瞬間、激しい葛藤を滲ませた少女の声が、重々しい寝室の扉の向こうから救いのように控えめに響いた。
「こ、公爵様……皇室より届きました密書がございます。ご査収ください」
扉の外のフェリンは、実のところとっくに到着していたのだ。
皇室の封蝋が施された密書を手に、冷え切った廊下で優に三十分近くも直立不動のまま立ち尽くしていた。
有能な従者として、主の「大事な時間」を邪魔すればどうなるかなど身に染みて弁えている。
だが、部屋の中から漏れ聞こえるルシア先生の仔猫のような喘ぎ声や甘い悲鳴が次第に小さくなり、果てには「魂が肉体を抜け出して昇天しかけている」ような静寂が漂い始めたのを感じ取り、フェリンは主の怒りを買って魔獣の餌にされるリスクを冒してでも、救いの声を上げたのだった。
ベッドの上の動きが、ぴたりと止まった。
カリーナは名残惜しそうに身じろぎを止めながらも、なお執着を込めて顔を寄せ、紅い痕が幾重にも散らばるルシアの白い首筋に何度も貪るように口づけを落とした。湿っぽく粘やかな水音が室内に響く。
「やり逃げするような女じゃないわ」
ルシアの瞳に浮かぶ焦点の定まらない虚ろさに気づいたのか、カリーナは汗に濡れた彼女の蟀谷を愛おしげに撫でた。声色こそ傲然としていたが、そこには繕いきれない僅かな焦燥と真摯さが滲んでいた。
「無責任だなんて、思わないで」
そう言い残し、その節くれ立った長すぎる指が、湿り気を帯びた熱い秘所からようやく名残惜しそうに引き抜かれた。
毛布にくるまったルシアには毒づく力すら残っておらず、ただ心の中で魂の抜けた悲鳴を上げていた――神様、手加減というものを知らないのか?
カリーナのやつ、底知れない魔力量だけでなく、指まで無駄に長くて骨張っているだなんて、完全に規格外の身体的チートじゃないか!
カリーナはベッドから身を起こすと、傍らの絹の布を無造作に手に取り、指先に残る透明な水滴の跡を極めて自然な手つきで拭い去った。それからゆったりとした深紅のナイトガウンを羽織り、銀白の長髪を整えると、優雅で満ち足りた足取りで部屋を後にした。
重厚な彫刻扉が静かに閉ざされ、部屋を支配していた極限の略奪感はようやく霧散していった。
数秒の後、扉が細く開かれた。
フェリンが怯えた小リスのように忍び足で入り込み、背後で扉をきっちりと閉めた。天蓋のベルベットの帳を掻き分け、ベッドの上で壊された精巧な人形のように無惨な姿を晒すルシアの姿を認めるや、彼女の瞳には深い同情と畏敬の念が満ち溢れた。
「せ、先生……ご無事ですか?」
フェリンはベッドサイドに小走りで駆け寄って膝をつき、魔術師用の広い袖口から淡い金色の微光を放つ万能薬の小瓶を慌ただしく取り出すと、力なく横たわるルシアの冷たい掌にそっと握らせた。
「先生、お疲れ様でした……」
完全に生気を吸い尽くされたルシアの死んだ魚のような目を見て、フェリンは思わず声を落として慰めた。
「残酷な現実ですが、このような日々は……きっとこれからも毎日続くのでしょうね。どうか耐え抜いてください」
ルシアの専属侍女であるフェリンはよく知っていた。ルシアのあの神業のような錬金術をもってすれば、公爵邸に常備されているこの程度の万能薬よりも何百倍も優れた回復薬など造作もなく調合できるはずなのだ。
ただ不運なことに、これはカリーナの意図的な仕業だった――あの底知れぬ女公爵は、ルシアの手足から魔力も体力も余さず奪い去り、立ち上がることすらできぬよう、羽をもがれた雛鳥のように己の胸の中にぐったりと閉じ込めておきたいのだ。
普段は冷静沈着な特任教授が、己の下で蕩けた春の水と化す姿を見届けることこそ、あの支配欲の強い北境の狼にとって、何物にも代えがたい達成感なのだろう。
ルシアは指先を微かに動かし、温もりの残る小瓶を握りしめると、額の青筋をピクピクと怒りに震わせた。
「毎日……こんな風に弄ばれてたら……」
黒髪の女性は白く乾いた唇を噛み締め、水分を失って掠れた声で、熟練社畜としての極限の憤怒を爆発させた。
「――明日からの講義にどうやって出勤しろっていうのよ!」
あの狂った女が何を恐れ、何を不安がっているのかは分かっている。その重苦しく病的な愛情の裏に、どれほどの罪悪感と怯えが押し殺されているかも知っている。
だからといって、ただの非常勤学者に過ぎない自分が、あの有り余る体力を持て余した北境の狂犬の相手を毎晩ベッドで務めなければならない筋合いなどない!
工房でサボりながら石板の研究を進めさせてもらえなければ、骨の髄まであの女にバラバラに解体されてしまう!
ルシアは震える右手を伸ばした。普段ならばマイクロメートル単位のルーンを狂いなく刻み込み、精密機械の軸受を寸分違わず組み上げる高位錬金術師の手が、今は嵐の前の枯れ枝のように激しく打ち震えていた。
白くなった下唇を噛み、万能薬の金属栓を抜こうと渾身の力を込める。しかし、筋肉の深部から這い上がる酸痛と虚脱感のせいで、ボトルの栓を抜く程度の握力すら振り絞ることができない。
手のひらから金属の瓶が二度すっぽ抜けると、ルシアは耳まで真っ赤にして顔を茹で上がった蛸のように染め上げ、北境の狂狼に喰い散らかされた屈辱と憤怒で頭をいっぱいにした。
社会人としての最後の尊厳すら、無慈悲に踏みにじられたような気分だった。
見かねたフェリンがたまらず手を伸ばす。
「先生、無理をなさらないでください……」
少女は小さくため息を漏らすと、零れ落ちそうになっていた細首のガラス瓶を受け取り、手際よく「ポン」と栓を抜いた。
汗ばんだルシアの後頭部を労わるようにそっと支え、かすかな光を帯びた薬液を、乾いた唇へ優しく一滴ずつ流し込んでいく。
喉元を通り抜けた温かな薬効がじわじわと広がり、枯渇しかけていた神経と筋肉に痺れるような熱が戻り始める。どうにか上体を起こして座るだけの骨気を取り戻すことができた。
だが、掛け布団の海の中でかろうじて一息ついたルシアの衰弱ぶりを見つめるフェリンの双眸には、いささかの安堵も兆してはいなかった。
肉体的な疲弊など、ほんの前菜に過ぎないことをフェリンは重々承知していたからだ。公爵邸の深淵には、この屋敷ごと粉微塵に崩壊させかねない真の激戦が、音もなくこの黒髪の教授を待ち構えている。
その事実には、今や家令長から厨房の皿洗いに至るまで、公爵邸に仕える使用人の誰一人として気づいていない者はいなかった。
カリーナ公爵と、帝都の評議会から遥々やって来た従妹の侯爵令嬢クレア。名目上は血を分けた従姉妹同士であるはずの二人が、互いを視界に捉える際の眼差しは、もはや親族の交わす挨拶などでは断じてない。白刃の交わる如き、相手を微塵切りにして八つ裂きにせんばかりの冷酷な敵意に満ちていた。
氷点下へと凍りつくようなその重圧は、日ごとに廊下や応接間に音もなく広がり、給仕に回る使用人たちを震え上がらせ、冷や汗を流させていたのだ。
屋敷の者たちは陰で一様に首を傾げていた。
一方は帝国の北境において生殺与奪の権を握る高貴な鉄血の女公爵。もう一方は皇家魔法解析系に君臨する、優美の極みたる侯爵令嬢。
帝国の権力構造の頂点に座し、皇子からの求婚にすら目もくれぬ最高位の貴族令嬢二人が、貴族の後ろ盾すらない平民出身の非常勤客員教授を巡り、影で醜い嫉妬の炎を燃やし合っているというのだから。
事情を知らぬ者は「ルシア教授はあの夜魔すら正面から打ち倒した人物だから」と己を納得させ、あの雲の上の高貴な二人が、彼女の底知れぬ力に魅入られたのだろうと解釈するかもしれない。
だが、傍仕えのフェリンには痛いほど分かっていた――決して「強さ」などという理由だけではない、と。
カリーナとクレアの周囲には、赫々たる武勲を誇る軍団長や、純血の高位魔導士など掃いて捨てるほどいる。戦力や地位の優劣だけで語るなら、ルシアよりも遥かに見栄えのする名門の俊英など幾らでもいたのだ。
だが、ルシアという存在には、ある種致命的な「魅力」が宿っていた。
彼女は権力に群がる野心家でもなければ、力に狂う破綻者でもない。社会の最底辺で運命と現実に無慈悲に打ちのめされながら、あらゆる残酷と利用を見届けた後もなお、その魂の奥底に病的とも言える冷徹な清明さと強靭さを飼い慣らしている。
彼女はあまりに醒めていて、そしてあまりに壊れやすかった。
とりわけ、身に纏う錬金武装の一切を脱ぎ去り、分厚く白い毛皮の奥深くに身を縮めている時の、北風ひと吹きでどこかへ吹き飛んでしまいそうな痩せた身体。
そして、いつでもすべてを放り出して立ち去ってしまいそうな、瞳の奥に宿る隔絶感。それらが、すべてを手にしてきた支配者たちの心の奥底に眠る、最も歪で暴虐な独占欲を掻き立てるのだ。
何としてでも腕の中に閉じ込め、吹き荒ぶ風雪から守り抜いてやりたいという執念。それと同時に、跡形もなく壊してしまいたいという衝動――あの美しく静謐な瞳の中に、自分ひとりの姿だけを永久に焼き付けたいという狂気。
もっとも、その嵐の渦中に叩き込まれているルシア自身には、己に向けられた底知れぬ狂おしい執着に対する自覚など微塵もなかった。
舌の上に広がる万能薬の苦味を味わいながら、ルシアは冷たいベッドの柱に背を預けて深く息を吐き出した。その深緑の瞳には、プロジェクトの炎上を前にしたベテラン社畜特有の苛立ちと算盤勘定だけがぎらぎらと渦巻いていた。
「……カリーナのやつ、手加減のタガが外れすぎてるわ。フェリン、私の革製のアタッシュケースを持ってきて。ついでに評議会から溜まってる書類の決裁分も全部」
愛憎劇だの魂の救済だの、そんなものは全部犬にでも喰わせておけばいい。
今の彼女の頭にあるのは、明日まともに学院へ出勤できるのか、あの飢えた狂狼の監視をかいくぐって神殿の石板をどうやって持ち出すか、そして――あの体力馬鹿の女公爵を完全に沈黙させるため、枕元の睡眠導入オイルに筋弛緩剤をどのくらいの比率で混ぜてやるべきか、それだけだった。
ルシアは深く息を吸い込み、腰と太ももの内側から突き上げる鈍痛を気合でねじ伏せると、片手で乱れた寝具を押し込んで上体を起こした。
漆黒の長い髪が無造作に肩へと零れ落ち、首筋に残る生々しい紅痕を覆い隠す。
万能薬の後押しを受け、体内の魔力回路は少しずつ再構築され、熱を取り戻しつつあった。感傷や怒りに割く時間など一秒たりともない。
幽玄な氷晶の光を受け、彼女の深緑の双眸は冷徹で合理的な光を宿していた。前世の熟練エンジニアとしての精密な頭脳が、すでに高速で回転を始めている。
目下のところ、並行して進めなければならない焦眉の「案件」は二つあった。
一つ目は、自身の「対人安全防衛プロトコル」の構築だ。
カリーナという北境の狂狼の体力と支配欲は、どう見ても限界突破している。
この寝室に強制転送されるたびに全身が脱力して声すら出なくなるという惨状を避けるためには、手持ちの素材を用いて「高位肉体強化系」特効の神経遅延ゲルを調合するか、下着の内側に反重力式の衝撃分散術式を刺繍しておく必要がある。
見栄などどうでもいい。生存と最低限の生活機能の維持こそが最優先事項だ。
そして二つ目。それこそが、この狂った女たちの包囲網を脱し、元の世界へ還る手がかりを掴むための核心――古代七大神殿の攻略計画だった。
ルシアはズキズキと痛む蟀谷を指先で押さえ、以前ヴァレリーから密かに得ていた情報を頭の中で手早く整理した。
ヴァレリーの調査によれば、神殿とは一般的な遺跡や地下迷宮の類などではなく、現世の次元から切り離された一種の「概念領域」なのだという。
ひとたび神殿の結界へと足を踏み入れれば、物質世界の物理法則は二次的なものへと格下げされ、その場にいる全員がその神殿の根底を支配するルールに強制的に服従させられる。
規則に背いた者は、神殿という次元そのものから概念規模のバックラッシュと消滅の制裁を受けるのだ。
そして、神殿ごとの「名称」こそが、その領域の至高のソースコードに他ならない。
ヴァレリーが手に入れた断片的な古文書の記述によれば、七大神殿のうち、現在判明している名前はわずか四つ。
【破壊】、【忘却】、【老化】、【虚言】。
その四つの言葉を頭の中で反芻するだけで、ルシアの背筋には冷たいものが走った。どの名も、高位の魔導士すら発狂せしめる悪意と脅威に満ち満ちている――精神を蝕む忘却、時間を削り取る老化、認識を狂わせる虚言、そして最も直接的かつ凶暴な、純粋なる破壊。
残る三つの神殿の名が未だ白紙のままである理由は、あまりにも残酷で救いようがなかった。
歴史上、その三つの領域に足を踏み入れた探索隊や高位軍団の中で、現世へ生きて情報を持ち帰った者はただの一人も存在しないのだ。
攻略やコアの石板の回収どころか、神殿の内部に「守護者」が存在するのか、それがどのような姿をしているのかすら判明していない。完全に死によって塗り潰された絶対の空白地帯だった。
そして、あの世の混乱を何よりも愛する歩く火薬庫――ヴァレリーが最初の攻略目標に定めたのは、ノーランド帝国の国境に最も近接する領域、【破壊の神殿】だった。
ルシアは内心で乾いた冷笑を漏らさずにはいられなかった。
破壊、だと?
面制圧と火力投射しか頭にないあの戦闘狂の女にとっては耳触りのいい名かもしれないが、ルシアから見れば「危険度最高、構造極めて不安定、死亡率トップ」という文字がこれ見よがしにデカデカと貼り付けられているようなものだ。
神殿内に入れば、通常の防御結界や物理構造、果ては術者自身の魔力回路すら、無差別に引き裂かれる極限状態に晒されることを意味している。
可能であるならば、こんなハイリスク極まりないクソ案件など絶対に引き受けたくはなかった。
だが、渦中のど真ん中に放り込まれ、もはや退路など残されていない以上、ヴァレリーが全方位を爆破し、カリーナが力任せに突貫を試みる前に、想定されるあらゆる「ルール」への対抗策を机上で完璧にシミュレートしておかなければならない。
彼女が求めるのは、英雄的な自己犠牲の叙事詩などではない。互いの利害を一致させ、報酬をきっちり回収した上で、全員が五体満足で撤退するための精密な攻略だ。
「フェリン」
ルシアは首を巡らせ、深緑の瞳を微かに細めると、一切の抑揚を排した冷徹な声で告げた。
「ケースを机の上に置いて。それから……一番純度の高い『阻霊石の粉末』を二本取ってきて。カリーナの親衛隊には、絶対に気づかれないようにね」




