時を巻き戻し執着者と、神殿へ至る途
バルコニーの外に広がる夜色は、塗り重ねられたばかりの冷たい油彩画のように深遠であった。
地上百メートルの天空において、帝都の秋の夜風が白石の欄干を軽やかに吹き抜け、宴会場から漏れ出る頽廃的な酒気と熱を散らし、極限まで透き通った冷涼さだけを残していく。
遥か彼方を望めば、帝都の灯火は漆黒の平原に横たわる煌びやかな天の川のようであった。薄霧の向こう、幾万もの魔導街灯が黄金や淡青の柔らかな光を揺らし、古城の尖塔や整然とした街並みの輪郭をおぼろげに浮かび上がらせている。
そのさらに上空、遮る雲一つない天空は深い濃紺の絹織物のように静まり返り、冴え渡る銀月が中天に掛かって、砕けた霜のような冷ややかな光を地上へと降り注いでいた。
月光は白大理石の床を濡らすように滑り、凝った装飾の手すりが落とす影を長く引き伸ばし、石壁を這う夜光蔦の葉を幽玄な菫色の光で縁取っている。
風が吹き抜けると、バルコニーの静寂の中に残るのは、遠くから潮騒のように微かに届く管弦楽の残響と、夜風が髪を梳くかすかな擦れ音だけであった。
月華と夜気があたりを優しく包み込むその世界で、クレアの長い睫毛がかすかに震え、影の中からゆっくりと持ち上がった。
ルシアは、その白く冴え渡る月光の真下に佇んでいた。
身に纏う夜色のシルクドレスは深海のごとき冷たい光沢を放ち、大胆に開いた背の象牙色の柔らかな肌は、霜雪の月明かりと遠くの街灯りに照らし出されて、透き通るほど白く、息を呑むほどに精緻であった。
夜風が耳元のほつれ毛を優しく掬い上げ、深淵を湛えた深緑の瞳の先を掠めていく——それは人間界の栄華をその身に映しながらも、俗世の塵を一切留めない、古く冷たい氷底の泉のようであった。
対して、石段の陰に佇むクレアは、静寂の夜をひそやかに流れる清らかな泉そのものであった。深紫の波打つ髪が端正な肩へと零れ落ち、菫色に澄んだ宝石のような双眸が、月光の屈折を受けて儚い水光を湛えている。
その瞬間、二人の視線は音もなく絡み合った。
それは、極限の静寂であった。
言葉もなく、呼吸の波立ちすら消え失せていた。深緑と菫色、二つの眼差しは数歩の距離を隔てた冷たい夜風の中、霜のような月明かりの下でただ静かに見つめ合っていた。
月華が薄いヴェールとなって二人の間に降り注ぎ、ルシアの瞳に宿る鋭い警戒と値踏みの色も、クレアの眼差しの奥に滲み出て夜の色に溶け込みそうな繾綣と暗流も、すべてを夢幻のように美しく、そして切なく染め上げていく。
まるで、この瞬間だけ時間が停止したかのようであった。風は流れ、灯火は揺れている。しかし二人の瞳に映り込んでいるのは、ただ月下に息を呑むほど美しく際立つ、互いの横顔だけであった。
ルシアには、クレアの胸中を吹き荒れる激しい感情の波など知る由もなかった。
しかし、そのわずかな視線の交錯において、彼女はその深く澄んだ菫色の瞳の底に、背筋を凍らせる異様な光を確かに捉えていた——それはカリーナの持つ気質と同質であり、むしろそれ以上に昏く、偏執的な光彩であった。
それは、相手の翼をへし折ってでも、手段を選ばずに己の傍らへと縛り付けておきたいという強烈な欲望線であった。
その直感的な危険信号に、ルシアの指先は無意識にドレスの脇で縮こまり、一見すれば無害そのものに見えるこの令嬢に対し、強い警戒の壁を築き上げた。
だが、ルシアが知る由もないことだが——クレアが彼女に向けているその偏執の根底は、あまりにも純粋で、あまりにも絶望的なものであった。
前世において、グラフィアン公爵家は致命的なまでの壊滅的打撃に見舞われた。
老公爵は病に倒れ、先代公爵は暗殺によって落命し、外敵が四方から牙を剥く中、わずか十代半ばであったカリーナが、そのか弱い肩一つで傾きかけた北境の巨木を支え上げねばならなかったのだ。
その日を境に、かつて時に少女らしい表情を見せていたカリーナは完全に笑顔を失い、ただ重責と殺戮のためだけに稼働する、血肉の通わぬ冷徹な兵器へと成り果てた。
当初、そのすべてを冷ややかに傍観していたクレアは、カリーナの周囲に纏わりつく黒髪の少女に対して強い嫌悪と警戒を抱いていた。
彼女の目には、ルシアの献身的で卑屈にすら見える情熱的な求愛は、平民が権力にすがりつき、公爵家の莫大な富を掠め取ろうとする浅ましい悪あがきにしか映らなかったのだ。
あの雨の煙る午後が訪れるまでは。
その日、クレアはいつものように気配を消し、華美な装いを捨てて一般市民へと扮し、帝都の外縁にある闇市で情報を買い集めていた。
その雑踏の中で、彼女は偶然にもあの小柄な後ろ姿を見かけたのだ。
ルシアは、凶悪な無頼漢や荒くれ者たちが蠢く下層の市場を、ただ一人で縫うように歩いていた。
そして古びた鞄の底から、異様な銀の輝きを秘めた薬瓶を慎重に取り出し、顔に傷のある強欲な闇商人相手に粘り強く価格の交渉を重ねていた。
やがてクレアの驚愕の視線の前で、普段は客を骨の髄まで貪り尽くすはずの狡猾な商人が、幾度も薬品を鑑定した末に、震える手で重みのある金貨の詰まった革袋を差し出し、ルシアへ恭しく手渡したのである。
ルシアが外套を深く被り直して足早に立ち去った後、不審を拭えなかったクレアは密かにその商人の前に歩み寄り、大金を積んで問い詰めた。あの一見地味な薬が、なぜそれほどの莫大な富に値するのか、と。
裏社会で数十年の修羅場を潜り抜けてきた老商人は、まるで神仏を拝むかのような畏怖に満ちた平淡な声で、こう答えたのだ。
「……この大陸広しと言えど、死の淵にある者に『真の蘇生』をもたらす奇跡を調合できるのは、あのお方ただ一人ですよ」
それこそが、前世のルシアが隠し持っていた最大の切り札であり、莫大な対価を引き換えにできる至高の傑作——【返魂の甘露】と呼ばれる、禁忌の蘇生薬であった。
肉体から生命の火が消え去り、息絶えてから三時間以内であれば、死神の指の隙間から消えゆく魂を力ずくで肉体へと引き戻すことができるという、絶対の秘薬。
クレアが裏から調査を進め、ルシアが闇社会に命を狙われる危険を冒してまで、大陸規模の戦争の火種となり得るその神薬を手放した理由が——公爵家の養子であるルーカスへ、最高峰の錬金術教材を買い与えるためであったと突き止めた時、彼女の頭上を雷が撃ち抜いた。
さらなる調査によって暴かれたのは、公爵家の内部に巣食う汚職に塗れた執事たちがルシアの給金を横領し、教育に必要な素材の費用すら難癖をつけて一切経費として精算していなかったという醜い実態であった。
冷酷で、猜疑に満ち、過酷な冷遇と侮蔑が渦巻くその泥沼のような環境の中で、あの華奢な少女は、ただカリーナへの一途な想いだけを胸に抱き、奥歯を噛み締め、あらゆる屈辱を呑み下して耐え忍んでいたのだ。
しかし、運命が用意していた結末は、これ以上なく残酷で、嘲笑に満ちたものであった。
その神薬によって人知れず無数の北境の将兵や重傷を負った貴族たちの命を救い、他者へ生の奇跡を分け与え続けたルシアが、あの誰にも看取られぬ凍てつく夜、理不尽な災禍と絶望に呑まれて落命したその時……冷え切った公爵邸の誰一人として、彼女の命を繋ぐ薬がどこに隠されているのかを知らなかったのだ。
ルシアの訃報を耳にした瞬間、クレアの理性は完全に崩壊した。
彼女は周囲の制止を振り切ってルシアの狭く暗い地下工房の扉を蹴り破り、狂乱したように床一面に散らばる廃棄原稿や壊れた歯車を掻き分け、爪が剥がれて血を流すのも構わずに探し回った。
そして、埃を被った古い歯車箱の底から、温かな銀光を放つ起死回生の秘薬を震える両手で掬い上げた時——
無情なる刻限は、取り返しのつかない三時間の限界をとうに過ぎ去っていた。
あの黒髪の少女は、冷たい石の床の上で完全に物言わぬ骸と化しており、その深緑の瞳すら閉じられぬまま、あまりにも無残な最期を迎えていた。
その瞬間、クレアはその冷え切った薬瓶を胸の奥へ押し当て、指関節が青白くなるほど強く握り締めた。
底知れぬ悔恨とやり場のない憤怒が、毒蛇のように彼女の魂を喰らい尽くしていく——なぜだ。なぜ自分は、あのくだらない傲慢と沈黙を守り続けてしまったのか。
もし自分がもっと早く、この真実をカリーナの前に叩きつけていたならば、カリーナはあのような冷酷な手段で彼女を傷つけることはなかったのではないか。
二人は手を取り合って愛し合うことができたのではないか。この少女が最期を迎える瞬間まで、一欠片の温もりすら報われないまま終わるなどという結末を防げたのではないか。
クレアは幼き頃より息を呑むほどの美貌に恵まれ、その精神は恐ろしいほどに早熟であった。
彼女は人間の持つ醜い本性を、あまりに早くから見透かしていた。
自らの水のように柔らかな振る舞いがどれほど容易に万人の好意を惹きつけるかを知っており、その肉体と魂が、傲慢な選ばれし者たちにとって攻略し屈服させたい獲物として映ることも弁えていた。
誰よりも冷徹に世界を理解していたからこそ、彼女は誰に対しても真の心を開かず、俗世に転がる愛などという欺瞞を激しく拒絶してきたのだ。
彼女の目には、世の「深情」を謳う求愛のすべてが、裏面に明確な代償と見返りの請求書を貼り付けた取引にしか見えなかった。
手を出してはならない温情を受け取ってしまえば、残りの生涯を尊厳と妥協の返済に費やす羽目になる。
ゆえに彼女は、自らを誰も手の届かぬ冷たい月へと造り変えた。誰もが触れられる夜空に掲げられ、人々の心の水面にその姿を映しながらも、誰一人として己の孤島へ踏み入ることを許さなかったのだ。
ルシアの死が、灼熱の鉄槌となってその堅牢な世界を粉微塵に打ち砕くまでは。
その時、彼女は戦慄とともに知ってしまったのだ。この世には、損得の勘定すら存在しない本物の愛があるということを。
どれほど無情に突き放されようと、どれほど全身を切り裂かれ血を流そうと、胸の中に一筋の息が残っている限り、愛する者の前途を照らすためだけに、自らのすべてを燃やし尽くす愛が存在することを。
その愚直なまでの生き様は、滑稽なほどに哀しく、そして神聖なまでに純白であった。
ルシアが逝去した後、カリーナは完全に狂気に呑まれた。
北境の防衛線は総帥の自暴自棄によって瓦解寸前へと追い込まれ、その破滅的な災厄を前に、クレアは骨の髄まで思い知らされたのだ——ルシアという魂によって一度点火され、そして突如として吹き消された命が、どれほど凄惨な破壊を引き起こすのかを。
最終的に、世を捨てた隠者の下を訪ね、禁断の古文書を掘り起こし、因果の理を歪める「時間回帰の禁術」をカリーナの手へともたらしたのは、他ならぬクレア自身であった。
彼女は時を巻き戻した。公爵家を救うため、カリーナの命を繋ぐため……だが、幾千の眠れぬ夜の底で、その魂が誰にも告げられずに秘めていた哀しい渇望は、ただ一つだけであった。
——もう一度だけでいい、あの少女に逢いたい。
彼女は、あまりにもあの愛に飢えていた。
謀略もなく、損得もなく、冷たい計算など微塵も介在しない、ただ一人の人間を深く愛するためだけに魂を灰へと焼き尽くす純真さ。
その光はあまりに眩しく、あまりに熱く、クレアが二十年かけて築き上げてきた冷徹な心の防壁を、跡形もなく焼き抜いてしまったのだ。
バルコニーの夜風が激しく吹き荒れ、三人の美貌の令嬢たちの髪とドレスの裾を翻す。
クレアは月明かりの陰に身を置き、ルシアの小さく繊細な顔立ちを無言のまま見つめながら、心の奥底で芽吹いた渇望に問いかけていた。
(……私だけのルシアは、一体いつ現れてくれるのかしら?)
ルシアはカリーナの愛した女だ。その肉体も、その魂も、前世から今世に至るまでカリーナの刻印で満たされている。
ならば、クレア自身の救済はどこにあるというのか。
この広大な世界のどこかに、幾度拒絶し冷たく突き放そうとも、冷え切った己の淀んだ泉を照らし出すためだけに、すべてを投げ打って燃え上がってくれる二羽目のルシアなど、存在するのだろうか。
いるはずがない。この空の下に……ルシアという奇跡は、二つと存在しないのだから。
その絶望的な確信が、クレアの眼差しを静かに変質させていった。
かつて清らかな泉のようであった柔らかな菫色の双眸は、鋭く細められ、普段の温和な仮面からは想像もつかない凶悪なまでの切っ先を露わにした。
それは絶望が生み出した飢餓であり、荒野を彷徨う獣の渇き。
カリーナが独占するその愛への激しい嫉妬と、彼女の手からその唯一無二の「光」を強引に引き剥がし、己の深淵へと永久に閉じ込めたいという、狂気じみた独占の衝動。
欲望、渇愛、嫉妬、壊滅的な執着。
ドロリとした実体を持つかのような漆黒の情念がクレアの瞳の中で渦を巻き、聖女の皮を剥ぎ取った深淵の怪物が顔を覗かせていた。
その眼差しに射抜かれたルシアは、全身の空気を吸い尽くされたかのような重圧に足を縫い止められ、背筋を駆け上がる凄まじい悪寒に、冷や汗を止め処なく流していた。
ルシアは、目の前に佇む菫色の髪と瞳を持つ女が、決して正常ではないことを肌で明確に察知していた。
それは見ず知らずの他人が初めて顔を合わせた時に浮かべるような色では断じてなかった。
しかし、彼女には読心術など使えるはずもなく、どれほど理性を高速回転させたところで、クレアが一体何に執着しているのかなど導き出せるはずもない。
切羽詰まった状況の中、社畜として培った危機回避の本能が即座に頭をもたげた——カリーナはクレアの従姉であり、爵位と権力の面においても、カリーナは北境の軍政を一手に握り、生殺与奪の権を振るう堂々たる女公爵であるのに対し、クレアはどれほど優秀であろうと名目上は侯爵家の令嬢に過ぎない。
この厳格極まりない階級差による圧力を踏まえれば、カリーナという太い大木にしがみついてさえいれば、理論上はクレアの得体の知れない執念を遮断する、堅牢な防火壁を築くことができるはずだった。
だが、ルシアがどれほど首を傾げても理解できなかったのは、前世において自分とクレアの間にはまともな接点など一つもなかったという事実だ。
彼女の記憶の中のクレアは、誰に対しても淡く、穏やかで、決して一線を越えず、決して贔屓をすることもない。
まるで万物を静かに潤す細雨のように、傍らにいるすべての人々を分け隔てなく慈しむ存在であったはずなのだ。
それなのに、いま目の前にいるクレアは何なのだ。
まるで今世において突如として変貌を遂げたカリーナと同じように、その瞳の奥には、ぞっとするような謎めいた渇望が渦を巻いている。
……まさか、自分が前世で無残に死を遂げた後、何かしらの奇妙な隠しルートを誤って解放してしまい、そのせいで今世では「全員ヤンデレの攻略対象たちから取り合われる乙女ゲームの主人公」にでも仕立て上げられてしまったというのだろうか。
我ながら情けない話ではあるが、ルシアは前世において理系学部を卒業した筋金入りのエンジニアであり、来る日も来る日も研究室に籠もっては冷たいデータやコードと睨み合っていた人間だ。
冷静で、合理的で、論理を重んじる外見を纏ってはいたが、その分厚い専門性の殻の下に隠された本質は、生粋の重度なオタク女子であった。
命を削って働く社畜エンジニアへと成り果てる前、彼女はありとあらゆるサブカルチャーを貪り尽くしていた。
巷に溢れる美少女ゲームの全ルートを踏破した熟練プレイヤーを自認し、数々のネット小説の作者たちにとっては、設定の矛盾や陳腐な展開を最も手厳しい言葉でレビュー欄から撃ち抜く「最悪の読者」ですらあったのだ。
ただその後、彼女自身が時代の波に乗り切れぬ「機械梟」のような存在と巡り合ってしまった。
あの不器用な機械の造物をこの冷酷な世界で輝かせるためだけに、彼女は己の健康も、心血も、最後の一滴の命すらも燃やし尽くし、世俗の娯楽や趣味のすべてを捨て去ってしまったのだ。
だがそうだとしても、魂の奥底に染み付いたオタクとしての本能は、今この瞬間も疑念を叫ばずにはいられなかった——
自分は転生の瞬間に、何かの間違いで歪んだヤンデレ二次創作のスピンオフにでも迷い込んでしまったのではないか、と。
大局的な因果律という点においては、ルシアの推測は皮肉にも核心を突いていたのだが、彼女の根深い理系思考は、このような非科学的極まりない混沌とした展開を到底受け入れられずにいた。
ルシアの思考が完全にパンクし、月光の下で激しくフリーズしていたその時、石畳を急激に打ち鳴らすハイヒールの甲高い音が、露台の張り詰めた空気を破って響き渡った。
「ルシアちゃん! 私、もう少しで成功しそうなの! あと少しで神殿に挑めるわ!」
ヴァレリーがワインレッドの豪奢なベルベットドレスの裾を翻し、宴会場の通用扉から勢いよく飛び出してきた。
その華やかな美貌には隠しきれない熱狂が満ち満ちており、結果としてルシアの窮地を見事に救う形となった——もっとも、あの気位の高い魔法の天才が、殊更にルシアを庇うために駆けつけたわけではなく、ただ己の悲願を果たす絶好の好機を掴んだに過ぎないことは明白であったが。
神殿に挑む?
ルシアは我に返り、目を見張った。
この異常な女たちによる度重なる精神的消耗のせいで、彼女はすっかり失念していたのだ。
自分がヴァレリーの誘いに乗り、魔法学院の特任教授の座を引き受けた真の目的は、帝都郊外に眠る古代の神殿へと挑み、空間を切り裂く七枚の石板を集め、地球へと帰還する路を切り開くためであったということを。
カリーナに軟禁され、宴会場では魑魅魍魎のような貴族たちに囲まれ、その最重要戦略目標を頭の隅へと追いやっていた自分に、ルシアは強い羞恥と反省を覚えた。
「帝都の郊外にある神殿の挑戦権を得るには、評議会へ三名以上の教授による連名同意書を提出しなければならないのよ」
ヴァレリーが歩み寄り、その金色の瞳に野心と狂気じみた輝きを宿して告げる。
「貴女は先ほどの試験を突破して正式に特任教授になったし、あのヴィクトルの古狸も気前よくサインをくれたわ。これで私たちの手札は三票! あと一人、最後の一人の教授の署名さえ揃えば、神殿の重い扉は私たちの前で開かれるのよ!」
夜風に響くヴァレリーの高揚した声を聞きながら、ルシアは思考を切り替え、深く沈思へと落ちていった。
帝都魔法学院の教授ともなれば、大陸全土にその名を轟かせる大魔導士ばかりだ。その神殿へと足を踏み入れるためだけに、三名以上の教授による免責と保証の連名署名を義務付けている——それも「三名ぴったり」ではなく、「以上」と定められているのだ。
その過酷な条件が突きつける現実はただ一つ。悠久の歳月に封じられたあの神殿の内部は、常人の想像を絶する危険と死に満ちているという冷厳な事実であった。
ヴァレリーが一体どこから命知らずな三人目の教授を引っ張ってくるつもりなのかとルシアが考えを巡らせていた、その時——ずっと影の輪郭に溶け込むように佇んでいたクレアが、不意に柔らかな口を開いた。
「最後の一枠が足りないというのでしたら、私が署名いたしましょう」
少女の声音は、岩肌を滑る清らかな清水のように澄み渡り、穏やかで、聞く者の心を鎮める魔力を秘めていた。
「そうすれば、望み通り挑戦権を得られますわね? ルシア教授」
クレアの眼差しは淡く、その唇には欠点の一片すら見出せぬ完璧で柔らかな笑みが浮かんでいる。
しかし、その何気なく放たれた一言は、ルシアの耳元で炸裂した重爆弾に等しかった。彼女の思考は、今度こそ完全に処理落ちを起こして停止した。
……は? 彼女が?
クレアも教授だというの……!?
普段は冷淡で無機質な表情を崩さないルシアが、あまりの衝撃に言葉を失い、ぽかんと呆気に取られているその顔を見つめ、クレアの瞳の底に澱んでいた昏い影がわずかにほどけた。
大人の女性であるはずの彼女が見せたその滅多に見られない愛らしい姿がおかしくてたまらないとでも言うように、彼女は細い指先をそっと唇に当て、目元を弓なりに細めて、普段の仮面にはないどこまでも明媚で燦然とした笑顔を零した。
月光が銀の滴のように降り注ぐ露台で、惜しげもなく咲き誇ったその笑顔は息を呑むほどに美しく、美貌の類に一切の耐性を持たないルシアですら、刹那の間、目を奪われて息を止めてしまったほどだった。
「——帝都魔法学院、魔法解析系正教授、クレア・シルヴィアと申します」
クレアは優雅に笑みを収めると、完璧な所作で学者的敬礼を執った。そして、深みのある妖艶な光を宿した菫色の瞳を持ち上げ、三分ばかりの悪戯っぽさと、七分もの測り知れぬ深意を込めて、涼やかに言葉を継いだ。
「未来の公爵夫人様。これより始まる神殿の探索におきましては……どうぞよろしくお願いいたしますね」
慇懃無礼とも取れるそのあからさまなからかいに、ルシアの耳朶はカッと熱くなり、自分の唾液でむせそうになった。
その一方で、傍らに佇んでいたカリーナは、その呼び名が耳に届いた瞬間、全身を包んでいた氷刃のごとき威圧感を一瞬にして霧散させ、紅い瞳の奥に隠しきれぬ愉悦の炎を爆発させていた。
露台の暗がりで先ほどまで鋭い刺を剥き出しにし、ルシアに対して狂気じみた独占欲を滲ませていたはずのクレアが、手のひらを返したように、これほど自然に、からかいを交えてルシアを「未来の公爵夫人」と呼んだのだ。
カリーナにとって、その言葉は疑いようもなく最高級の政治的宣誓であり、情愛への公認であった——
常に他者を寄せつけず冷徹な侯爵令嬢が、心の底からルシアの地位を認め、ルシアがやがて自分と手を取り合って婚礼の契りを交わし、共にグラフィアン公爵家を統べる未来を受け入れたのだと。
カリーナは満足げに唇の端を吊り上げ、クレアへと向ける視線に確かな賛許の色を滲ませた。
だが、この見えない嵐の中心に立たされているルシアだけは、一見すれば水のように穏やかでありながら、その深淵で昏い暗流を脈打たせているクレアの菫色の瞳を見つめ、背筋を這い上がる悪寒が消え去るどころか、夜風の中でいよいよ冷たく研ぎ澄まされていくのを、ただ戦慄とともに感じていた。




