深吻の余温と、紫眸の奥に宿る違和感
オーケストラピットの中央で、宮廷楽団のコンサートマスターが不意に弓を振り上げた。
その澄んだ合図の音とともに、それまで緩やかだった宮廷ワルツの旋律が一気に跳ね上がり、めまぐるしくも熱烈な大輪舞曲へと切り替わっていく。
それは帝国最古の栄誉を誇る名曲、『黄金の冠の戴冠式』であった。
純白の象牙から彫り出された十二台のハープが一斉に弦をつま弾き、冷たい翡翠に散る清泉のごとき音色を響かせる。
その足元では数十挺のチェロとチューバが重厚な低音を敷き詰め、揺るぎない威厳と風格を底支えしていた。
高位の拡音ルーンを施されたフルートとヴァイオリンが絡み合って舞い上がり、鋭くも華麗な音符は実体を持った黄金の飛沫となって、大礼堂の天井を埋め尽くす幾重もの浮彫や壁画の上を伝い、その場にいるすべての者の鼓膜を震わせていた。
舞踏場の中央では、その調べに応えるように数百組の若い男女が一斉に動き出した。
男子生徒たちの纏う仕立ての良い深紅の軍礼服は灯火の下で整然と並び、腰に佩いた儀礼用のサーベルは、ステップに合わせてリズミカルな金属音を微かに刻む。
女子生徒たちのドレスの裾は、突風に煽られた艶やかな花畑のように広がり、幾重にも重なるレースや金粉を散らした薄絹、色とりどりの豪奢なベルベットが、激しい旋回の中で惜しみなく咲き誇っていた。
ダイヤモンドの烈火のような煌めき、サファイアの奥深い幽光が、手を取り合い、背を預け、抱え上げられ、すれ違うたびに交錯し、幻惑的な浮華の光彩を放つ。
大理石の床を踏み鳴らす革靴の小気味よいリズムは、オーケストラが刻む一拍ごとの重音と寸分の狂いもなく噛み合い、権力と美貌が渦巻くこの宴を、狂乱に近い高潮へと押し上げていた。
だが、その黄金に輝く渦の中心にあって、ルシアはただ胃の腑が裏返るような激しい息苦しさを覚えているだけだった。
ヴァレリーとクロードがグラスを交わし合い、優雅な作り笑いと一分の隙もない外交辞令で牽制し合っているその隙を突き、黒髪の少女は躊躇うことなく身を引いた。
人混みが交錯する死角を縫うように、まるで闇に溶け込む幽霊のごとく、誰にも気づかれぬまま静かに広間の端へと後退していく。
あまりにも騒がしすぎた。弦の震えは神経を直接やすりで削られているかのようで、空気中に漂う濃厚すぎる龍涎香、高価な美酒、高位の魔力香が混ざり合った甘ったるい匂いは、吐き気を催すほどだった。
四方八方から注がれる視線は、まるで探照灯のように熱を帯びていた。背中を大胆に開いたドレスから覗く白い素肌を卑しく値踏みし、彼女が操る錬金術体系の軍事的価値を虎視眈々と狙っている。
前世と今世を通じて、静かな工房に引きこもって歯車を削り出すことだけを望み、欺瞞に満ちた社交の席を何よりも嫌悪してきた魂にとって、ここに留まる時間は一秒一秒が理性を削り取る責め苦でしかなかった。
ルシアは無表情のまま、銀のトレイを掲げた給仕たちを器用にすり抜け、重厚な真紅のベルベットカーテンを指先で払いのけると、壁際にひっそりと佇む彫刻硝子の扉を押し開けた。
カチリ。
背後で扉が隙間なく閉ざされる。
その瞬間、耳を聾するヴァイオリンの狂詩曲も、床を踏み鳴らす複雑なステップも、杯を交わす耳障りな喧騒も、防音結界によって完全に別の世界へと遮断された。
先ほどの豪奢な宴のすべてが、まるで荒唐無稽な幻であったかのように遠のいていく。
遮るもののない夜風が、真正面から吹き抜けてきた。
帝都の秋の冷気は肌を刺すほどに清冽で、剥き出しになった肩と背中を容赦なく撫でていく。
華奢な身体が思わず小さく震えたが、その冷え切った空気が肺腑へと満ちた刹那、酸欠で鈍っていた頭蓋の奥が瞬く間に澄み渡っていった。
「……はぁ」
ルシアはようやく、冷淡で人を寄せつけない教授の仮面を剥ぎ落とし、骨を抜かれたかのようにだらしなく、長いため息を吐き出した。
軋む足首を庇いながら白石造りの手すりへと歩み寄り、冷え切った大理石に脱力した両手を預け、疲労に任せて全体重をあずけた。
澄んだ夜風が、銀の簪で留められた黒髪のほつれ毛を揺らし、張り詰めていた神経をほどいて、浮き出た鎖骨と微かに寄せられた眉間を涼やかに撫でていく。
履き慣れないヒールは甲を痛めつけ、喉元を締めつける黒曜石のチョーカーも呼吸をわずかに苦しくさせていたが、指を伸ばして緩める気力すら起きなかった。
ルシアはそっと顔を上げ、遥かなる夜空へと視線を投げた。
大礼堂の外壁に張り出すように設えられたこの高台から見下ろせば、帝都に灯る幾千もの家々の灯火が、地上に落ちた銀河のごとく視界の果てまでどこまでも連なっていた。
数多の謀略と黄金によって築き上げられた、大陸で最も繁栄を極める帝国の心臓部。
しかし、底知れぬ深緑の瞳の奥に映るその輝きは、あまりに空虚で、冷たく、隔絶されたものに思えた。
「社交なんて……どこの世界に行ったところで、命を無駄遣いする一番くだらない仕事だわ」
零れ落ちた呟きは泡のように脆く、唇を離れた途端に吹き抜ける風にかき消されていった。
草薬の苦い香りと、噛み合う歯車、黄ばんだ設計図が散らばるあの静かな一室へと、今すぐ戻りたかった。砂糖を入れない濃い苦茶を淹れ、刻刻の規則正しい発条の音に耳を傾けながら、ただぼんやりと過ごしたかった。
だが、宿舎の机の上に鎮座している、鈍い闇の光を放つ漆黒の遠距離転送箱を思い出すと、ようやく緩みかけていた眉間が、再びぎゅっと強く引き絞られてしまうのだった。
そして、その胸を騒がせる予感を証明するかのように——次の瞬間、嗅ぎ慣れた冷たい香りを纏った影が、何の前触れもなく背後から覆い被さってきた。
肌寒かった夜風が唐突に遮られ、代わりに訪れたのは、温かく、強引で、いかなる拒絶も許さぬ抱擁だった。
二本のしなやかな腕がルシアの背後から腰を巡り、細い胴を柔らかくも逃げ場のない力で自らの胸元へと抱き留める。
極北の凍原に育つシベリアモミの香りと、凛とした雪氷の冷気、そして微かな魔力の残り香。それはルシアにとって、たとえ灰になろうとも忘れようのない、あまりに馴染み深い気配であった。
「こんな人気のない場所に一人で抜け出して……誰かを待ってでもいたのかしら?」
カリーナの低く掠れた、それでいて信じられないほど甘やかな声が、ルシアの耳朶をくすぐるように囁かれた。
長旅の疲れを滲ませながらも、それ以上に、失われた宝を再び手中に収めたことへの執着と情愛が色濃く滲み出ている。
ルシアは全身を強張らせ、虚を突かれたまま、その抱擁に身を任せるしかなかった。
前世の自分は、攻略に無残に失敗し、最後には冷たい獄舎に繋がれた道化に過ぎなかった。
あの頃のカリーナは冷酷で、猜疑心が強く、激昂しやすく、気まぐれそのものだったはずだ。
それなのに、いま背後から自分を抱きしめているこの女は、獰猛な棘のすべてを抜き取られたかのように優しげで、ルシアはふと疑ってしまう——前世のあの身を切り裂くような冷遇と死は、単なる悪夢に過ぎなかったのか、それとも目の前の現実こそが神の紡ぎ出した幻惑なのかと。
ルシアは腕の中で身じろぎし、苦々しく振り返った。
顔を上げ、鼻先が触れそうな距離にあるカリーナの息を呑むほどに整った美貌を見つめると、現実感のなさは一層色濃く渦を巻いた。
前世での絶望的な死を経験して以来、ルシアは自らが「異世界転生者」であるという天真爛漫な幻想をとうにかなぐり捨てていた。
自分が世界の法則に選ばれ、無条件に愛される天命のヒロインなどではないことくらい、嫌というほど思い知らされている。
地球にいた頃に読み漁った低俗な小説の数々は、血の滴る現実を前にしては滑稽な笑い話にすらならなかった。
そうした三流の物語が好んで描くのは決まって、権勢を誇り万物を動かす冷徹な覇王が、ヒロインの流した一筋の涙のために巨額の契約を投げ打ったり、痴話喧嘩のために一族の存亡や地政学的な危機を顧みず狂態を晒すといった安直な展開だ。
だが、社会の仕組みを少しでも知る人間であれば、現実の権力の頂に立つ者がそこまで愚かになり得るはずがないことなど明白だった。
カリーナこそが、ルシアを冷厳な現実に叩きつけ、その痛烈な教訓を骨の髄まで刻み込んだ張本人であった。
北境の軍政を一手に握り、国をも傾けうる富を持つ女公爵が、ある人間を欲したならば、甘やかな口説き文句など弄する必要すらない。
特権を振りかざして城門を封鎖し、自邸の奥底へ連れ去って軟禁してしまえば、帝国全土の誰も異を唱えることなどできはしないのだ。
かつてルシアが逃亡を企てた折、カリーナは何の躊躇もなくその脚をへし折ってみせた。そして国境の防衛線に不穏な兆しが生じ、領内の政務が山積すれば、彼女は何日ものあいだルシアを玩具のように侍女へ預け、視線の一つすら寄越さずに放置した。
愛する者のためにすべてを擲つなど、ただの絵空事だ。
数万の民の生き死にが懸かった現実の天秤の上で、ルシアという存在が優先されることなどあり得なかった。
それこそが、本物の支配者という生き物なのだ。
情愛の欠片を持ち合わせていないわけではない。だが、果てしなく重い権力と責任、そして現実の損得を前にすれば、女も、愛も、ただ冷徹に計算される籌に過ぎない。
いま目の前でカリーナが向けてくる情愛がどれほど純真で熱烈なものであろうと、ルシアの瞳に映るのは、いつ足元が崩れるかも知れぬ薄氷の不安だけであった。
「カリーナ……貴女を愛してしまうなんて、本当に救いようのない悲劇ね……」
公爵邸に力ずくで閉じ込められ、そうかと思えば、今はこうして狂おしいほど甘やかされている。
前世において、あの凍てつく氷山を必死に追いかけ、擦り切れ、最後には砕け散っていった愚かな自分を思い返し、ルシアの口元に痛々しい自嘲の笑みが零れ落ちた。
魂の底から湧き上がる、偽らざる本音を吐露するように。
「つまり……ルシア、お前は私を愛しているのだな?」
カリーナは否定しなかった。
怒りの色すら浮かべなかった。目の前の華奢な娘が、己の執着ゆえに一度命を落としたことを誰よりも知っていたからだ。自分という名の凶器に焦がれることが、この世で最も残酷な呪いであることも。
それでも、数々の苦痛を味わった後でさえ、ルシアの口から零れたのは「貴女を愛してしまうのは悲劇」という言葉だった。
それは、たとえ憎み、恐れていようとも、ルシアの心の中に今なお自分が息づいている証左に他ならない。
転送陣を酷使し、肉体の疲労を顧みず帝都へ駆け戻ってきたカリーナにとって、その言葉は責め苦などではなく、荒涼とした深淵を照らし出す狂喜そのものであった。
カリーナはルシアの冷え切った手を壊れ物を扱うように両手で包み込み、自らの鋭利で侵略的な輪郭を持つ頬へとそっと押し当てて、愛おしそうに擦り寄せた。
「ならば、一生分の覚悟をすることだ」
カリーナの真紅の瞳に昏く歪んだ炎が揺らめき、低く誓いを紡ぐ。
「この悲劇を……私が終わらせてなどやるものか」
露台を照らす月光は白銀のように冴え渡り、カリーナは黒髪の少女の瞳に浮かぶ揺らぎと砕け散りそうな光を見つめ、ついに理性の箍を完全に失って、その唇へと貪るように食らいついた。
ルシアの唇は驚くほど柔らかく、女特有の温もりと、長年調合してきた薬草の淡い苦甘い香りを微かに宿していた。
その温度はカリーナの凍てつく唇と激しい対比を成し、まるで凍原に落ちた火種のように、カリーナの渇望を狂わせた。
腕の力を際限なく強め、抱きしめた身体を骨の髄まで己の血肉へと溶かし込もうとするかのように、乱暴なまでに息を奪い合っていく。
「ん……っ!」
息が詰まりそうになったルシアは、理性を失った雌狼を押し退けようと、咄嗟に両手を伸ばした。
しかし、カリーナの胸元へと平手を当て、力任せに突き放そうとした瞬間——その掌は、信じがたいほどの豊満でしなやかな弾力の中へと、深々と沈み込んでしまった。
「…………」
ルシアの動きが完全に静止した。
手のひらに伝わる、到底同じ生き物とは思えぬ圧倒的な質量を前に、ルシアは己の理性が横面を張られたかのような衝撃を覚え、頬が一気にカッと熱くなるのを感じた。
……ふざけているのかしら?
同じ女でしょう? どうして北境の吹雪の中で魔獣を斬り刻んでいるような奴が、よりによってつくべきところにばかり完璧に栄養を蓄え込んでいるのよ。
先ほどまで胸を満たしていた宿命的な悲愴感も、前世の傷痕も、零れそうだった哀愁も、あまりに理不尽な身体の格差の前に無残にも粉微塵に吹き飛んでしまった。
言葉を失ったルシアは情緒のすべてを投げ捨て、心底どうでもよくなった表情で二本の指を突き出し、カリーナの唇の間へと無遠慮に差し込んで、貪るような深吻を強制的に遮断した。
「……ルシア?」
息を乱したカリーナが、紅い瞳を瞬かせて困惑と理不尽な中断への不満を露わにした。
あんなにも熱く交わし合っていたはずなのに、なぜ一秒でこれほど冷淡な拒絶へと急降下したのか、彼女には見当もつかない。
そしてルシアとしても、胸元の圧倒的な格差を前に惨敗を喫し、精神に深刻な打撃を受けたなどと白状できるはずもなかった。
ルシアが何かしらの言い訳を取り繕おうと頭を巡らせたその時、視界の端が予期せぬ人影を捉えた。
クレアがいつの間にか、足音もなく露台の片隅へと佇んでいたのだ。
仕立ての良い深色のドレスを端正に着こなし、その手には北境の刻印が封じられた公爵家の密書を静かに携えている。
露台で抱き合う二人の姿を目にしても、狼狽も不快感も一切見せず、ただ伏し目がちに影の中に寄り添い、二人の戯れが一段落するのを気遣うように待っていた。
「誰か来ているわよ、公爵様」
ルシアは心の中でクレアに詫びを入れつつも、その身体はこれ幸いとばかりに彼女の存在を利用し、カリーナの圧迫感に満ちた柔らかな抱擁の隙間から、するりと抜け出した。
この人生の時間軸において、自分とクレアには「何の接点もない」はずであり、初対面の冷淡な距離感を保たねばならなかった。
ルシアの知る由もないことだが、クレアもまた前世の悔恨を背負う転生者であり、カリーナの狂おしい求愛を影から支える最高位の参謀に他ならなかった。
ルシアの認識において、クレアという女は、帝国中の誰もが思い描く初恋の偶像そのものであった——生きている人間であれば、彼女を好かずにいられる者など存在しないかのように。
今夜、露台と宴会場に揃った女たちを並べてみれば、それぞれが極めて鮮烈で異なった輪郭を描いていた。
カリーナの美しさは侵略そのもので、純白の毛並みを誇りながら獲物の喉笛をいつでも噛み破る孤高の雪狼のごとく、凡人ならば目を合わせることすら恐れ慄く。
ヴァレリーは真夏の太陽のように眩しく、傲岸な才気と奔放さを纏い、見る者を射抜くほどに華麗で熱い。
そしてルシア自身は、外見こそあどけなく小柄でありながら、世を儚むような深緑の瞳には歳月と苦難に削り取られた冷めた諦観が澱み、傍から見れば壊れやすくも危険な気配を放つ黒髪の人形のように映る。
だが、クレアは全く異なる理の上に立っていた。
彼女は水そのものだった。淡く、無害に見えながら、誰もが生きていくために渇望してやまない命の滴。
人知を超えた洞察力を持ち、瞬く間に周囲の人間の嗜好や癖、果ては禁忌までも密かに記憶し、少しも恩着せがましくなく、相手の立場に立ちきって行動してみせる。
息を呑むほどに美しいが、その美貌は決して刺々しく誇示されない。誰よりも秀でていながら、常に春風のような謙虚さを崩さない。
そのような女は、深い森の奥を流れる清らかなせせらぎに似ていた。水の音は微かに響くが、それは森の静寂を乱すどころか、より一層の深遠さを際立たせる。
彼女の傍らに立つ者は、張り詰めた戦士であれ、猜疑心に凝り固まった政客であれ、無意識のうちに警戒の鎧を解き、心の底からの安らぎに浸ってしまうのだ。
静かに立ち尽くすクレアを見つめながら、ルシアの社畜の魂は、前世で読んだありふれた粗悪なネット小説の数々を激しく冷笑せずにはいられなかった。
そうした物語は決まって劇的な対立を煽るため、「誰もが認める清純な初恋の令嬢」を悪辣な女として描き、世界中の誰に対しても善人でありながら、ヒロインにだけは陰湿な毒を盛り、嫌がらせを繰り返し、周囲の権力者たちは揃いも揃って節穴のようにその本性を見抜けない、という筋書きを好む。
ルシアはその手の展開を見るたびに鼻を鳴らしたものだ——現実において、社会の頂点に君臨し、刃の山と権謀の泥濘を潜り抜けてきた傑物たちが、揃って人を見る目を持たないはずがないではないか。
一時の猫かぶりならいざ知らず、生涯にわたって善人の皮を被り通すことなど、百戦錬磨の古狸たちの前で通るはずがない。
過酷な現実において、数多の頂点の覇者たちから心底愛され、認められ、重用される人間には、陰湿な仮面など存在しない。
その本質こそが、一点の曇りもなく清らかで、非の打ち所がないほどに優れ、誰一人として落ち度を見出せないからこそ愛されるのだ。
まさに、あのカリーナから全幅の信頼を寄せられているクレアのように——同じ女であるルシアですら、嫉妬の念を抱くことすら烏滸がましいと思わせるほどに。
ルシアは月光の下に佇むクレアを見つめ、しばしのあいだ呆然と立ち尽くしていた。
黄昏を溶かしたような紫の髪と、紫水晶のごとく深遠な瞳を持つこの美貌の令嬢が、いかなる社交の魔術を用いて学院を、ひいては帝国中をその虜にしているのか、見当もつかなかった。
その誰も知らぬ背後には、人付き合いの極致とも呼べる芸術的な手腕でも隠されているのだろうか。
だが、ルシアが理性的な分析をもって相手を品定めしようとしたその刹那、クレアの伏せられていた睫毛がかすかに震え、何の前触れもなくその視線が持ち上がった。
二人の視線が、冷たい夜風の中で不意に絡み合う。
その瞬間、クレアの透き通るような紫の瞳の奥深くに、奇妙な光が掠めた。
あまりにも刹那の瞬きであったが、それはまるで鋭利な氷柱のようにルシアの直感へと突き刺さり、その胸に言い知れぬ違和感を叩きつけた。
……おかしい。何かが、決定的に狂っている。
あの眼差しは、見ず知らずの新任教授に向けるようなものでは断じてなかった。
ほんの半秒にも満たない交錯の中で、前世において数え切れぬ修羅場を潜り抜けてきたルシアの感覚は、クレアの瞳の底に揺らめいた感情を確かに捉えていた。
それは儀礼的な観察でもなければ、公爵の密会に配慮した控えめな遠慮でもない。底知れぬほど深く隠された、息の詰まるような重厚な「独占欲」であった。
まるで……クレアが幾千の夜を越えて彼女を知り尽くし、暗闇の中からずっと、ずっとその姿を見つめ続けてきたかのように。
しかし、今世の時間軸において、二人が相見えたのは今夜が正真正銘の「初対面」のはずだった。
秋の夜風が露台を吹き抜け、ルシアの耳元の黒髪を揺らす。
再び完璧で、優美で、どこまでも柔らかな笑みを湛えたクレアを見つめ返しながら、ルシアの神経は、カリーナの抱擁とはまた異なる、底の見えない深い霧の迷宮の中へと静かに沈み込んでいった。




