あなたの名前は?――訊いているのは、もう一つの名前
北の公爵邸から帝都魔法学院への道のりは果てしなく遠い。沿道に巣食う魔獣を膨大な魔力反応で刺激しないよう、車隊は利便性の高い空間転移を避け、最も確実であり、そして最も時間を浪費する馬車を選んでいた。
車輪が規則正しく軋む重苦しい音だけが、車内に響いている。ルシアは分厚いクッションに身を預け、眉をひそめながら、正面で優雅に腰掛けるヴァレリーを信じられないといった目で見つめていた。
当初の予定であれば、この波乱を呼ぶことしか能のない女は、あの頭のネジが外れたチンピラ貴族ルーカスと共に、とうに出発していたはずだった。
「どうしてアンタがここにいるのよ?」
ルシアの声には、これっぽっちも歓迎の気配がない。初めて会ったとき、己の力量を測るためだけに何の前触れもなく魔法を放ってきたあの瞬間から、二人の関係は冷え切った利害一致のビジネスに過ぎないのだ。
もっと言えば、この投機屋特有の生臭さを全身に漂わせる女に対して、ルシアは微塵の好意も持ち合わせていなかった。
「もちろん、貴女に会いたかったからよ」
ヴァレリーは片手で頬杖をつき、甘ったるく媚びを含んだ口調で囁く。
「こんな冷酷で、簡単に人が死ぬ異世界で、せっかく手に入れた同じ元の世界の同郷人なんだもの」
ルシアは視線を向けることすら億劫だった。車内にいるのは二人きりだが、御者台で手綱を握るフェリンの感覚は猟犬のように鋭い。この車内から漏れ出た言葉が、いつ致命的な刃となって跳ね返ってくるかわかったものではないのだ。
「そんなに警戒しないでちょうだい」
ヴァレリーは小さく笑い、身を乗り出した。その瞳の奥には、底知れぬ探求の色が揺らめいている。
「そういえば、まだ貴女の名前を聞いていなかったわね」
「……は?」
喉の奥から短く洩れた声には、心底からの呆れが混ざっていた。ルシアには、この女の思考回路がまるで理解できない。
思えば皮肉な話だ。この女が現れてからというもの、彼女の日常に平穏など一日たりとも訪れなかった。
カリーナという名の暴君を無駄に嫉妬させ、結果として骨を砕かれ、部屋に軟禁される羽目になった。元凶がヴァレリーではないと頭では分かっていても、この女の存在自体が歩く厄災のように思えてならず、どうにも相性が最悪だった。
「私に家名なんてないわ。ただのルシアよ」
冷たく吐き捨て、瞼を閉じようとしたその時、対面のヴァレリーからふっと軽薄な笑みが消え失せた。彼女は細く白い人差し指を紅い唇にそっと当て、不気味なほど厳かな声音で告げた。
「そうじゃない……もう一つの名前よ。錬金術師のルシアじゃない、あの世界で死んだ貴女の名前」
その一言は、錆びついた鑿のように、ルシアが長らく固く閉ざしていた心の扉を容赦なくこじ開けた。
ルシアは微かに息を呑んだ。転生してからの日々はあまりに血生臭く騒がしく、かつて生きていた文明世界の輪郭など、記憶の彼方へ薄れかけていたはずだった。
だが、骨の髄まで染み付いた冷え冷えとした記憶の棘は、触れられた途端に今もなお鈍い痛みを放っていた。
「……村雨」
長い沈黙の末、ルシアは低く絞り出すように呟いた。
「苗字なんてとっくに忘れたし、思い出す気もないわ」
笑ってしまうほど雑につけられた名前だった。あの偏った愛しか注げない両親は、彼女が生まれる前から腹の赤子にこれっぽっちの興味も抱いていなかった。
母親の妊娠が発覚した日、祖父が骨董市からたまたま拾ってきた模造刀の銘が「村雨」だったから——ただそれだけの理由で、その名が彼女の頭上に無造作に投げつけられたのだ。
誰にも気に留められない、通り雨のように。
最初から冷え切った家庭であったなら、まだ諦めもついた。けれど数年後、妹が産まれた。
その瞬間から、あの家はまるで初めて「本当の子供」を迎え入れたかのように一変した。家族の全員が妹を中心に回り始め、誰もが愛おしそうに目を細める中、村雨はリビングの隅に漂う空気同然の存在へと成り下がった。
幼い頃、妹が一粒でも涙をこぼせば、両親も祖父母も空の星さえ毟り取って機嫌を取ろうとした。対して村雨は、学費どころか日々の生活費さえ顔色を伺わなければもらえなかった。
高校を卒業した瞬間、実家からの金銭的支援は当たり前のように打ち切られた。工学系大学の法外な学費と実験器具代を工面するため、彼女は昼間に講義を受け、深夜はコンビニのレジと工場の組み立てラインを死に物狂いで往復した。
何年もすり減らし、這うようにして社会に出た後、長年の栄養失調でボロボロになった身体を引きずって実家へ戻った彼女の目に飛び込んできたのは——高級な滋養品を惜しみなく注ぎ込まれ、透き通るような白肌を保った、無邪気で尊い妹の姿だった。
妹は明るいリビングのソファに腰掛け、何不自由なく海外留学の支度をしていた。テーブルには高級な輸入果物と燕の巣が並び、村雨の薄汚れたトートバッグの底には、食費を浮かせるために買った硬い見切り品のパンが押し込まれていた。
同じ血が流れているはずなのに、どうして主従ほどの差がつくのか。
けれど、その時の村雨には、嫉妬する気力すら残っていなかった。ただただ、心が麻痺していたのだ。生きることそのものに押し潰され、自分は生まれつき借金を背負わされた透明人間に過ぎないのだと言い聞かせるしかなかった。
ラクダの背骨を折る最後の一藁となったのは、彼女が二十六歳を迎えた年のことだ。
八年間付き合ってきた恋人が、吐き気を催すほど蒸し暑い雨の夜、何の感情も浮かべない無機質な顔で別れを告げてきた。
男は取り繕うことすらせず、あっさりと浮気を認めた。そして彼女を捨てる理由として、笑えないほど陳腐な言葉を並べ立てたのだ——村雨は退屈で、暗く、生きる屍のように張り合いがない女だと。
何より、幼少期から愛されず安心感を飢えさせていた彼女が「身体を重ねるのは結婚してから」という最後の防壁を死守していたことを、男は都合よく「冷酷で閉鎖的な女」と責任転嫁した。
あの日、村雨はカビの臭いが立ち込める狭小アパートの廊下に立ち尽くし、電話のプツリという終話音を聞いていた。
世界が、唐突に死に絶えたように静まり返った。
家族からは雑草のように扱われ、生活には家畜のように酷使され、唯一の浮木だと信じ込んで八年間寄り添い続けた男にすら、雑巾のように捨てられた。
湿気で歪んだ鏡に映る、血の気の引いた青白い顔と窪んだ目元を見つめながら、村雨は悟った。自分の人生は、最初から最後まで一片の価値すらない喜劇だったのだと。
泣く気力すら湧かなかった。ただもう、どうでもよくなった。破滅しようが消え去ろうが、誰も気に留めはしないのだから。
転機が訪れたのは、残業で深夜に及んだある日のことだった。
冷や汗と疲労でシャツを張り付かせた村雨は、アパートの冷たい床の上でカップ麺を啜りながら、目的もなくスマートフォンをスクロールしていた。
ネット上では、先攻勝率が99%に達するという、過酷極まりない硬核カードゲームの話題で持ちきりだった。極端にインフレし崩壊したその環境において、後攻を引いたプレイヤーはただ殴られるだけのサンドバッグ同然だった。
嘲笑と罵詈雑言が飛び交うタイムラインの中で、誰もが一つの新登場テーマを取り沙汰していた。運営が後攻特化として鳴り物入りで実装したものの、苛烈すぎる環境についていけず、主流デッキに一方的に蹂躙され、満場一致で「産廃のゴミ」と笑い者にされていた哀れなテーマ。
村雨は、そのキーカードのイラストをタップした。
そこに描かれていたのは、煤けた真鍮の歯車とゼンマイを無数に噛み合わせて作られた、一体の「機械のフクロウ」だった。闇属性、機械族。
ガラス細工のような冷たい金属の瞳を見つめた瞬間、村雨の呼吸が止まった。
彼女は画面の向こうのそれを、まるで自分自身を見つめるように見つめていた。
——設計が劣っているわけじゃない。この子が努力していないわけじゃない。ただ、置かれた環境が、この世界の理不尽なルールが、最初から公平なチャンスを与えてくれなかっただけなのだ。
その夜、村雨は何かに憑りつかれたかのように土砂降りの雨の中を走り、場末のカードショップへと駆け込んだ。
有り金を握りしめ、カウンターの奥に埃を被っていたストレージボックスを指差し、震える声でその機械フクロウのシリーズをすべて買い占めたいと告げた。
店主は金を受け取ろうとすらせず、気味の悪いものを見るような目を向け、鼻で笑いながら束になったカードをカウンターに放り投げた。
「持ってけよ、金なんかいらねえよ。半年も倉庫の肥やしになってたゴミだ。タダでくれてやるから、机の脚のガタつき止めにでも使いな」
冷え切ったカードの束を抱きしめて再び雨幕の中へ飛び出した時、村雨は唇を噛み切り、雨水に紛れて止めどない涙を流した。
このフクロウが不憫でならなかった。そして何より、自分自身の境遇が骨の髄まで惨めだった。
だがその瞬間、二十数年もの間死んだように眠っていた凶暴なまでの執念が、麻痺していた彼女の心の底で爆発的に燃え上がった。
ふざけるな。
世界が不公平だからって、どうして私が大人しく諦めなきゃいけない?
生まれつき最悪の後攻を引かされたからって、一生踏み躙られるゴミのままでいろって誰が決めた?!
納得できるわけがない。
あの日から、村雨の生き方は狂い始めた。ゲームにオンライン版が存在することを確認した瞬間、狂気の歯車が噛み合って回転を始めたのだ。
昼間は工場で家畜のように十二時間搾り取られ、退勤後はアパートの中古パソコンの前に籠城した。配信を立ち上げ、無表情でカメラの前に座り、デッキの構築をミリ単位で調整し、手札の微細な確率と連鎖の公差を計算し尽くしながら、丸々八時間ものあいだ後攻ランクマッチに潜り続けた。
残された四時間は、洗濯と入浴、そして冷えた食パンを二口ほど胃に流し込むだけで消し飛んだ。実際に眠りにつく時間など二時間にも満たなかった。
週末になれば疲弊という概念すら切り捨て、極限の計算と神経衰弱の狭間を行き来し続けた。
誰もが彼女を狂人だと嗤った。けれど村雨の心はかつてないほど満たされ、歪んだ幸福感すら覚えていた。
彼女はただカードをプレイしていたのではない。すり減った己の魂を、あの真鍮のフクロウの躯体へと縫い付けていたのだ。
世界中がゴミだと嘲笑うのなら、技術屋の偏執的なまでの精密さと冷徹さで、このガラクタを神をも屠る凶器へと造り替えてやる。
奇跡は、本当に起きた。
幾度となく迎えた深夜の配信で、嘲笑と冷やかしに塗れていたチャット欄は、いつしか息を呑むような沈黙へと変わり、やがて地鳴りのような熱狂へと変貌していった。
画面の向こうの視聴者たちは目撃したのだ。「村雨」と名乗る血走った目の女が、環境トップの主流デッキにライフを残り数十ポイントまで追い詰められた絶望的な状況から、冷酷に歯車を噛み合わせ、あの笑い者だった機械フクロウを駆使して、並み居るプロランカーを逆転で叩き潰していく様を。
彼女は一握りのガラクタを手に、無数の先攻環境の屍を踏み越え、天梯を駆け上がり、全サーバーの頂点へと君臨した。
その頃には、ファンから送られてきた手作りのフクロウのぬいぐるみが、狭いアパートの部屋を埋め尽くすほどになっていた。
不恰好ながらも温もりのあるぬいぐるみに囲まれ、冷たい床に座り込みながら、村雨は初めて「世界に自分の存在を認められた」と実感した。
運命がようやくほんの少しだけ微笑んでくれたのだと、どんなに泥水を啜っても諦めさえしなければ、透明人間だった自分にも幸運が巡ってくるのだと信じかけた。
だが、神が彼女に返したのは、あまりに無慈悲な平手打ちだった。
連日の過酷な配信によって肉体が限界の警報を鳴らし続けていた、ある朝のことだった。画面の片隅にポップアップした家族のグループチャットの通知が、彼女の視界を刺し貫いた。
そこにあったのは、五つ星ホテルの宴会場でシャンパンを開けて祝杯を挙げる家族の写真だった。誇らしげな文章が添えられている——妹が一流名門大学の博士課程への全額免除特待枠を勝ち取り、一族を挙げて盛大な祝宴を開いているのだと。
そして末尾には、母親からの音声入力によるメッセージが、何気なく添えられていた。
『村雨、あんた外でいつまでくだらない油を売ってるつもり? 見苦しい真似ばかりしてないで、少しは妹を見習いなさい。恥ずかしいったらありゃしない』
それは、猛毒を塗った氷の針のように、寸分の狂いもなく彼女の心臓を穿った。
前兆などなかった。長期にわたる深刻な多臓器不全が、極限の感情の激震によって一気に臨界点を突破した。
村雨はパソコンの前に座り、画面の向こうでは無数のリスナーが彼女の全鯖一位到達を祝福して沸き立っていた。
その無数の視線に晒されながら、世界の理不尽に打ち勝ったばかりの女は、突然視界を暗転させ、遺言の一つすら残す猶予もなく、キーボードの上に崩れ落ちた。
モニターには、ただ耳障りなエラー音が鳴り響くだけだった。
こうして、村雨の人生は呆気なく幕を閉じた。
そして、ルシアとしての不条理な悲劇の幕が上がったのだ。
前世における「納得できない、負けたくない、命を削ればいつか逆転できる」という執念があまりに深すぎたせいで、この異世界で目を覚ました時、彼女は自分が物語のヒロインにでも選ばれたのだと浅はかな錯覚を抱いてしまった。
だからこそ、最初の人生でのルシアは、カリーナという絶対零度の暴君に無謀にもすがりつき、傷つき、立ち上がり——胸を火球で貫かれて命を落とすまで、その現実に気付けなかったのだ。
二度の生を巡って。
村雨であろうと、ルシアであろうと、運命の手のひらで藻掻くだけの道化に過ぎなかった。憐れで、不条理で、滑稽極まりない道化に。
「……そういうことよ」
ルシアは意識を現在へと引き戻し、車窓の向こうを流れる荒涼とした雪景色から視線を外した。その薄い唇に、微かな、自嘲に満ちた冷ややかな笑みを浮かべる。
「誰も見向きもしない紙切れのために、自らを過労死させた大馬鹿者。……この答えで満足かしら、ヴァレリーお嬢様?」
他人の目には惨めで救いようのない過去を、ルシアは淡々と開陳した。その声には悲壮感すら滲んでいない。
彼女にとって、それは恥じるべき汚点ではなかった。自暴自棄にならず、誰も傷つけず、あの凍てつくような世界で、命を擦り減らしながらも真っ当に生きてみせたのだから。
何より、命が尽き果てる最後の瞬間において、彼女は己の頭脳と腕だけで、誰もがゴミと呼んだ「落ちこぼれ」を世界の頂点へと押し上げてみせた。
村雨としての人生は短く苦いものだったが、あのモニターの前で死線を超え続けた無数の夜の中で、彼女は紛れもなく魂の充足を味わったのだ。
そこまで思いを巡らせ、ルシアは伏し目がちに視線を膝の上へと落とした。
そこには、静かに佇む一体の機械仕掛けの造物があった。
燻んだ真鍮の薄板と、緻密に噛み合うゼンマイによって構成された機械のフクロウ。装甲には鈍い金属の冷気が宿り、ずんぐりとしたフォルムに嵌め込まれた一対のアンバー色のガラス球は、どこか間の抜けたような、この魔法至上主義の世界とは相容れない無骨な工芸感を漂わせている。
まさに、これだ。あのカードショップの店主が机のガタつき止めにでも使えと放り投げ、ネット中のプレイヤーに時代の絞りカスだと嘲笑された、あの機械フクロウ。
ルシアの細く、薄いタコが刻まれた指先が、その冷たい金属の風切羽を愛おしそうに撫でる。
この一見すると鈍重な小鳥こそが、彼女の二世にわたる唯一の精神的支柱であり、「村雨」と名乗っていた暗闇の時代を共に生き抜いた戦友だった。
だからこそ、この異世界において自分が決して選ばれた女主人公などではなく、権力者の気まぐれ一つで磨り潰される羽虫に過ぎないと悟った日、彼女が失われた錬金術のハンマーを振るって真っ先に鍛え上げた召喚獣こそが、このフクロウだったのだ。
名前は「刻刻」。理由は呆れるほど短絡的だった——ゲーム内のカード群が【機械天刻】と呼ばれていたため、フルネームを呼ぶのが億劫で、語感を縮めて刻刻と名付けたに過ぎない。
だが、この世界において、刻刻はもはやピクセルと電子データの塊ではなかった。
胸郭の奥深くに組み込まれた超精密なマイクロギアが、ルシアの愛撫に応えるように「カチ、カチ」と心地よいリズムを刻む。アンバー色のガラスの瞳が瞬き、ひんやりとした金属の額を、擦り寄せるように彼女の掌へと預けてきた。
魂を宿し、喜怒哀楽を理解し、主の感情の揺らぎを誰よりも敏感に感じ取ってくれる。ルシアが苦痛と疲労に押し潰されそうになった幾重もの夜、枕元に寄り添い、冷たい体温で無言の安らぎを与えてくれたのはいつも刻刻だった。
カリーナの歪んだ独占欲が暴走し、公爵邸で逃げ場を失ったあの時ですら、この小さな鋼の鳥は羽を逆立て、狂ったようにルシアの前に立ちはだかってくれたのだ——たとえその時、発展形態である「ベテルギウス」の外装すら完成しておらず、北の暴君が放つ絶対零度の重圧の前には薄氷同然だったとしても。
それでも、ルシアの心は満たされていた。
刻刻に触れることができる。体内で巡るゼンマイの鼓動を聞くことができる。それだけで、彼女にとっては十分だった。元の世界に未練のある人間など誰一人として残っていない。
あの息の詰まるリビングへ戻りたいとも思わなければ、次元の狭間を越える大義など微塵も持ち合わせていない。許されるのなら、刻刻と共にこの異世界の工房の片隅で、一生静かに鉄を叩いて暮らしていたかった。
思考を切り上げ、ルシアは向かいのヴァレリーへと視線を戻した。
頼る者すらいないこの異世界に落ち延びてきた転生者の大半は、碌でもない過去を引きずっているものだ。だが、目の前の野心と打算の塊のような女だけは、出会った当初から「元の世界へ帰る」ことだけに狂気的な執着を燃やし続けている。
「……ところで」
ルシアは姿勢を微かに崩し、刻刻を胸元へと引き寄せながら、珍しく探るような声音を落とした。
「アンタはどうして、そこまでして元の世界へ帰りたがるの? 向こうに……どうしても会いたい人でもいるわけ?」
ヴァレリーは虚を突かれたように目を見張り、それから自嘲するように低く喉を鳴らした。その笑みからは、普段貼り付けている甘ったるい欺瞞の仮面が剥がれ落ち、空虚な疲労感が滲み出ていた。
「私? ……そうね」
ヴァレリーは窓の外へと視線を投げ、白銀の雪に閉ざされた荒涼たる平原を見つめた。
「父親が早くに亡くなってね、うちは母親が女手一つで私を育ててくれたのよ。でも、その母が病気になったの。重い、とんでもなく重い病気にね。病院からの請求書が雪みたいに降ってきて……あんな金額、真面目に働いてお給料をもらうだけじゃ、輸入新薬の端数すら払えやしなかったわ」
彼女は唇を歪めた。その瞳に涙はなく、ただ破滅的な賭けに狂った者特有の冷徹さだけが宿っていた。
「だから株に手を出したのよ。レバレッジを限界までかけて、信用取引に突っ込んだわ。私の頭なら、あの人を喰い物にする市場から母の延命費用くらい毟り取れると信じ込んでね。……結果はどうだったと思う? 追証が発生してロスカット、全財産が吹き飛んで、来世までかかっても返しきれない借金を背負わされたわ。母のその日の救急治療費、あとたった三十万足りなかったのに」
ヴァレリーは言葉を切り、手入れされた長い爪を、身に纏う高価なベルベットのスカートへと深く食い込ませた。そして、これ以上なく平然とした声で、最後の一言を零した。
「耐えきれなくなって……だから、飛んだのよ」
絶叫も、涙もない。あまりに静かな「飛んだ」という二文字。けれど、同じように底辺の泥沼でもがき抜いた社畜として、ルシアの胸の奥を鈍器で殴りつけられたような痛みが走った。
その光景が、痛いほど鮮明に脳裏へ浮かんだからだ——管だらけになって病室で息も絶え絶えの肉親と、画面を真っ赤に染め上げる暴落の数値、鳴り止ない取り立ての着信。
吹き曝しのビルの屋上に立ち尽くした二十代の娘が下を見下ろした時、その深淵にはもう逃げ道など残されていなかったはずだ。
「後悔してるわよ」
ヴァレリーの声は微かで、馬車の外を吹き抜ける風雪に今にも掻き消されそうだった。
「私だけがあっさり死んで逃げて、消毒液の臭いが充満する病室に母さんを一人置き去りにして……あの狂った借金取りの群れの中に放り出してきたんだもの。最低のクズよ、私は」
彼女は首を巡らせ、窓ガラスに映る自分自身の、異世界特有の若く艶やかな美貌を睨みつけた。赤く充血した瞳の奥に、狂気じみた執念の炎を宿らせながら。
「今、母が生きてるか死んでるかすら分からない。私が飛び降りた数日後に、後を追って息を引き取ったかもしれない……それでも、死んでも戻って確かめなきゃ気が済まないのよ。向こうで何十年が経っていようと、戻った先に雑草だらけの墓石しか残っていなかろうと……私はその前に膝をついて、額を叩き割るまで詫びなきゃいけないの」
ヴァレリーは深く息を吸い込み、溢れ出しかけた脆弱な感情を無理やり心の底へと押し戻した。その瞳に、ルシアが見慣れたあの心胆を寒からしめる賭徒の光が再び宿る。
「母は私が生き抜くための勇気だった。そして同時に、あの時私が命を投げ出す言い訳にもなった存在よ。だからね、ルシア。私の命なんて、あのビルの屋上で一度死んだものだと思ってるわ——この異世界がどれほど危険に満ちていようと、世界の裂け目をこじ開ける可能性が万に一つでもあるのなら、私はこの命というレバレッジを、元本も利息も全部まとめて張り倒して見せるわよ」
車内は、再び長い沈黙に包まれた。
外では変わらず猛烈な風雪が唸りを上げている。ルシアの腕の中で、刻刻が「カチ……カチ……」と規則正しく微かな音を響かせていた。
それは吹き荒れる極寒の荒野において、小さくとも決して消えることのない微かな熾火のように、深く傷を負った二つの魂を、音もなく温め続けていた。




