病的な収奪の女公爵と、欺かれた忠誠の侍女
地球の幾つかの宗教や哲学の典籍では、世の人々に対して、万事万物に過剰な執着を抱いてはならないと常に繰り返し戒められている。
金銭に執着せず、情愛に囚われず、そうして己が完全に手放し、水のように凪いだ心で渇望を骨血から削ぎ落とした時、かつて求めて得られなかった宝物が、まるで当たり前のように巡ってくるのだと。
ルシアは昔、工房で昼夜を問わず図面を引いていた頃から、この手の玄妙ぶった説法を心底嫌悪していた。
渇望していた時には血を吐く思いをしても欠片すら施さないくせに、心が冷え切り、もはや必要としなくなったその時に限って、無理やり懐にねじ込んでくる――こんなもののどこが幸福だというのか。運命のあからさまな嫌がらせであり、理不尽な押し付けに他ならない。
それはまるで、空腹を抱えた客がレストランに入り、温かい料理を注文したのに、その料理がいつまで経っても運ばれてこないかのようだ。
仕方なくリュックの底をあさり、見つけた一枚のパサパサに乾いた乾パンを一口ずつ飲み込み、どうにか腹に収めて鋭い空腹を抑え込んだその時になって、給仕がすっかり冷め切った料理を遅ればせながら運んでくる。
さらに馬鹿げているのは、その注文のキャンセルすら許されないことだ。
だがその時、当人にはもうナイフやフォークを手にする食欲など残っていない。
これが嫌がらせでなくて、一体何だというのだろう?
ベルベットの敷かれた乱れた寝台の上で、ルシアは薄く透ける絹の寝衣を身に纏い、まるで脆く砕けやすいガラス細工のように横たわっていた。
彼女は寝宮の天井に彫られた複雑で絢爛なレリーフをぼんやりと見つめ、その深緑の双眸は焦点を失い、虚ろに濁りきっている。
そして彼女の眼前で、大陸全土を震撼させるあの白髪の女が身をかがめ、病的な愛着を帯びた薄く冷たい唇で、青紫の痣が浮かぶ首筋の繊細な肌を、鎖骨に沿って一筋ずつ丹念に舐め啜っていた。
湿った熱い吐息が極寒の松とローズマリーの冷冽な香りと混ざり合い、目に見えない蜘蛛の巣のように、ルシアを息の詰まる泥沼の中へと固く縛りつけていく。
カリーナの愛はあまりに重く、ほとんど血の匂いが漂うほどだった。
しかし、ルシアを何よりも生理的な吐き気と悲哀へと突き落としているのは――自分がとうに息絶えた亡霊「アリエル」の身代わりであるという、紛れもない自覚だった。
何という皮肉だろうか。
前世の彼女は、まるで尾を振って憐れみを乞う犬のように、健気な真心を両手に抱えてカリーナの後を追いかけ、青春と才能をすり減らした果てに得られたのは、冷酷な無視と、理不尽極まりない業火の中での死だけだった。
それなのに今世では、死者に似た皮肉な肉体を持って生まれたというただそれだけの理由で、かつて夢にまで焦がれ、今となっては窒息しそうなほどの「偏愛」をいとも容易く手に入れている。
運命とは悪意に満ちた脚本家だ。ぬくもりなど一滴も求めなくなったこの瞬間に、腐って悪臭を放つ深情けを、無理やり喉の奥へと押し込んできたのだから。
カリーナは少女の肌の甘美さを存分に味わい尽くすと、ゆっくりと顔を上げた。
血のように赤い双眸は深淵の如く、ルシアの死に絶えた深緑の目を逃げ場もなく捕らえている。カリーナは自分がいかに汚らわしく、吐き気を催すほど残酷なことをしているか、誰よりも理解していた。だが、それがどうしたというのか。
彼女は元より、地獄の最底辺から這い上がってきた悪鬼なのだから。
この広大で混沌とした異世界は果てしない大海によって七つの大陸に分かたれ、それぞれの大陸が過酷な天候の法則に従っている。そして彼女が治める帝国北境は、全土で最も危険な、名状しがたい魔獣が蠢く揺籃の地だった。
北境の風は、大陸全体の天候の根幹を成している。
海から湿った南西の風が吹けば、数週間に及ぶ冷たく陰鬱な雨が降り注ぎ、穏やかな温風が吹き込めば、凍土は束の間だけ青々とした新芽を芽吹かせる。
だが大半の日は、極北の氷原から吹き降ろす寒風が、天地を覆う猛吹雪をもたらすのだ。
さらに悪いことに、雪嶺の奥深くに潜む高位の魔獣たちは、寒冷の中で通常の数倍もの凶暴性と攻撃性をむき出しにする。
ここは過酷極まる試練場だ。
この地の最高統帥として、彼女は毎朝目覚めるたびに目まぐるしく変わる天候を読み、軍略を巡らせ、膨大な物資を配分しなければならない。
昨日は防衛線の兵士に厚手の毛皮を着せていたかと思えば、今日は地脈の急変に合わせて熱を下げる氷晶魔石を緊急配給することもある。
しかし、この危険に満ちた寒冷の要塞は、七大陸の交易路が合流する唯一無二の心臓部でもあった。
隊商が安全な海路を迂回すれば数ヶ月を要するところを、この北境の雪道を抜ければ、わずか五日で各国の帝国の中心地へと到達できる。
驚くべき暴利に惹かれ、何千何万という商人の命知らずたちが、この地を第一の経路として選んでいた。
気候は移ろいやすく、魔獣の襲撃に晒され、日夜血みどろの殺戮が続くこの肉挽き器のような地で確固たる地位を築き、七大陸の商路の安全を維持し続けること――
そんな屍の山と血の海を越えて王座に就いた女性統治者の骨の髄に、安っぽい温情など残っているはずがなかった。
人類の文明とは経典や対話で築かれたものではなく、血に塗れた刃と圧倒的な暴力によって打ち立てられた鉄則なのだ。カリーナが北境の至高の富と権力を手に入れたのは、神の慈悲によるものでは決してない。
彼女が大陸中のあらゆる怪物よりも強く、冷酷で、容赦のない存在だったからだ。
カリーナは軽く身を起こし、細く冷たい指先でルシアの顎をすくい上げ、折れた翼を持つ金糸雀のような女を見下ろした。その声は優雅で澄み渡り、上位者としての逆らいがたい威圧感を帯びている。
「何か欲しいものはあるか? 自由と、私自身の健康な身体、そして命以外のものなら……望むものを何でもやろう」
これは施しなどではなく、暴君が引き直した絶対の境界線だった。
カリーナはルシアを己の掌中に独占したいと渇望していた。だがその前提は、彼女自身が何者にも揺るがせぬ強大さを保ち続けることだ。
ルシアが要塞中の黄金を望むなら一夜で調達できるが、カリーナ自身の眼球一つ、腕一本を望んだとしても、それは絶対にあり得ない。
片目を失えば空間把握に遅れが生じ、戦闘力にわずかな隙が生まれてしまう。そして自分が一度でも弱くなれば、目の前の金糸雀は躊躇なく刃を向け、鎖を断ち切って去っていくだろうからだ。
人間を完全に縛りつけるための唯一の真理は、相手が決して勝つことのできない全盛の絶頂期を、常に自分自身で維持し続けることなのだ。
愛で感化する?
臆病者の戯言にすぎない。
かりそめの仁慈や愛で平和が手に入るなら、とっくの昔に彼女は北境の凍土の骨となっていた。
深情けだけで愛する者の命を留め置くことができるなら、前世の彼女が神々を殺し尽くし、己をここまで無残な狂気に追い落とす必要などなかったはずだ。
カリーナは己の下で唇を強く噛み締め、悔しさに涙を浮かべながらも、決して屈服の言葉を口にしないルシアを見つめた。
女の屈辱と無念に濡れた涙の光は、細い針のようにカリーナの凍てついた心臓を微かにチクリと突いた。
神経の先端から極めてかすかな罪悪感が湧き上がったが、それもほんの一瞬のことで、直後にはより凶暴で凄まじい独占欲に呑み込まれていった。
カリーナは再び身をかがめ、冷たく香る唇を敬虔かつ強引にルシアの目尻へと重ねた。
そして舌先を伸ばし、少女の目尻からこぼれ落ちる熱い涙を一滴残らず口に含み、絶望の混ざった塩辛さを丹念に味わった。
ルシアはカリーナのものだ。
これは彼女が前世から魂の奥底に刻んできた罪と罰なのだから。
かつて己の手で深淵に突き落とし、その眼前で命を散らさせてしまったこの女に、もう二度と己の掌から逃げ出す隙を与えるつもりは毛頭なかった。
ルシアが固く唇を閉ざし、対話を完全に拒絶していることを確認すると、カリーナの瞳の奥に残っていた微かな温もりは静かに消え去った。
怒るでもなく、余計な言葉を発するでもなく、彼女は冷然と起き上がり、毛足の長い豪奢な羊毛の絨毯を素足で踏みしめ、仕立ての良い白銀の絹の部屋着を無造作に羽織った。
背後の寝台に横たわる無残な少女を振り返ることもせず、常に変わらぬ冷徹で威厳のある声で、扉の影に向かって命を下す。
「フェリン、湯と着替えを」
「かしこまりました、公爵閣下」
フェリンの姿がカーテンの奥から音もなく現れ、頭を下げて控えた。
主が脱いだ寝衣を受け取ろうと歩み寄ったその時、カリーナの冷たい視線が乱れた寝具の上を無造作に走り、庭園の枯れ枝を剪定するよう命じるかのような淡々とした声が落ちた。
「寝台の……あの血に汚れた絹地を綺麗に切り取って、私の私設執務室へ届けておけ」
「……御意に」
フェリンの呼吸がほんの一瞬、かすかに強張った。だが彼女は瞬時に頭をさらに深く垂れ、恭しく命を受けた。
フェリンはカリーナの腹心の中で並ぶ者のない筆頭であり、その信頼は血縁や功績によるものではなかった。遥か昔、北境の荒れ果てた辺境の町で行われた、ある取引がきっかけだった。
当時、骨と皮ばかりに痩せこけていたフェリンは、弟ばかりを溺愛する両親の手で、博打の借金を返すための身売り証文に無理やり拇印を押され、町で最も下劣で不潔な売春宿に売り飛ばされる寸前だった。
絶望の淵に立たされていたその時、巡察で通りがかったカリーナが無造作に投げ捨てたずっしり重い金貨の袋が、彼女を生ける地獄の入り口から引きずり戻してくれたのだ。
カリーナがいなければ、今のフェリンはとうに薄汚い男たちに弄ばれて死に、破れ筵に包まれて乱葬崗に投げ捨てられるだけの死骸となっていただろう。
これこそが、この世界の最底辺に生きる女たちの悲哀だった。神に見捨てられた片隅において、弱者の尊厳など紙屑同然であり、人権など蝉の羽よりも薄っぺらい。
この広大な公爵邸と、帝国全土を震え上がらせる北境鉄騎兵の面々の多くもまた、似たような血と涙の過去を背負っていた。
両親が死んで葬儀の金すらなく途方に暮れていた戦士には、カリーナ自らが墓を建ててやり、家族が重病で治療費もない衛兵には、軍の医師を派遣して命を救ってやった。
だが何より多かったのは、身内に家畜のように売られた子供たちだった。ある者は富裕層の娯楽のために闘技場へ、ある者は娼館の愛玩物として売られた。
白髪の女公爵の介入がなければ、彼らの辿る末路は地獄よりも惨憺たるものになっていたはずだ。
だからこそ、カリーナはフェリンのような侍女を全幅の信頼を置いて身辺に仕えさせ、この寝宮の最も秘められた姿まで、彼女の目の前に晒していたのだ。
だが、その絶対的な「信頼」こそが、今この瞬間においては最も鋭い刃となって、ルシアの最後の精神の防壁を残酷に切り刻んでいた。
自分がカリーナの下でどのように貪られ、圧倒的な力の差にどれほど惨めに震え、恥ずかしい悲鳴を上げたか……そのすべてを、同じ女の冷たい眼差しの中で晒されていたのだ。
ルシアは寝具の奥深くに力なく沈み込み、全身の骨が脱力感で軋むように痛んだ。下腹部の奥からは、裂けるような鈍痛が絶え間なく引かない。
カリーナはすべてを奪った後になって優しくすることを思い出し、口づけで宥めようとさえしたが、それも暴虐の後の自己満足にすぎない。
悪鬼のように強大な女公爵も、男女の事においては何の経験もない初心にすぎず、病的な独占欲と相まった最初の強引な略奪は、ほとんど処刑台の拷問と何ら変わりがなかった。
純白の絹のシーツの上に、目を背けたくなるような赤黒い染みが痛々しく広がっている。
それは愛の証などではなく、ルシアの心身が無残に踏みにじられた、剥き出しの恥辱の血痕だった。
フェリンは小ぶりで精巧な銀の鋏を手に、静かに寝台の傍らへと歩み寄った。
そして、その視線がルシアを捉えた瞬間――鋏を握るフェリンの指の節が、微かに青白く強張った。
寝台の上の黒髪の少女は両目を大きく見開いたまま、その深緑の瞳には光の欠片すらなく、青ざめた頬の上で涙の痕が乾くままに任せている。
その細い身体はまるで魂を抜き取られた精巧な人形のようで、触れれば脆くも砕け散ってしまいそうだった。
フェリンの胸の奥から、鋭い痛みが不意に込み上げてきた。
かつて売春宿へ売り飛ばされかけた底辺の女として、フェリンはこの眼差しを痛いほどよく知っていた。暗い部屋に閉じ込められ、服を剥ぎ取られて客の品定めを受ける少女たち。
彼女たちの顔に浮かんでいたものこそ、抗うことを完全に諦め、絶対的な悪意の前にすべてを失った、この虚無の灰色の光だったのだ。
言い換えるなら……もしあの日カリーナに出会っていなければ、自分自身が辿っていたかもしれない無残な姿そのものだった。
抗いようのない暴力に直面し、助けを求めることすら無駄だと悟った者の深い絶望。それが、北境の風雪の中で冷たく硬く鍛え上げられてきたフェリンの心を、激しく揺るがした。
彼女は、己の神と崇めてきた主人に対して、生まれて初めて抑えがたい悪寒と疑念を抱いてしまったのだ。
カリーナは常に潔癖の権化のような人物だったはずだ。
北境の軍中において、カリーナは捕虜を犯そうとした貴族将校を躊躇なく自らの手で八つ裂きにして処刑した。
力に任せて他者の意思を踏みにじって奪う行為を、誰よりも嫌っていたはずなのだ。
それなのに、これほどの年月を経て、フェリンはその気高い氷雪の主が、自ら掲げた原則を粉々に踏みにじる姿を目の当たりにしてしまった。
カリーナが高貴な仮面を脱ぎ捨て、ルシアの前でこれほどまでに凶暴で、病的な貪欲さを剥き出しにした醜い本性を晒したのを、初めて見てしまったのだ。
あんなものは愛ではない。
人食い(人を喰らう)。
この血生臭い言葉が、フェリンの胸の奥で音もなく芽生え、広がっていった。
カリーナは金糸雀を飼い慣らそうとしているのではない。目の前にいる、かつて瞳に知性の光を宿し、精巧な機械を組み上げていた錬金術師の骨を砕いて髄を啜り、皮も肉も丸ごと貪り食らっているのだ。
カチリ。
銀の鋏が閉じる音が静かな部屋に鋭く響いた。フェリンは無表情のまま、少女の初夜の血を吸った白い絹地を綺麗に切り取り、丁寧に折り畳んだ。
だが、主の背を追って寝室を出ようと踵を返したその時、重い敷居の手前で、彼女の足が一瞬止まった。
視界の端が、寝台の上の生気を失った身体を再び捉える。
かつて抱いたことのない不忠の念が、これまで揺るぎなかった忠誠の隙間から、音もなく芽を伸ばしていた――
……もしも、次の機会があるのなら。
もし自分にその機会が巡ってきたなら……この哀れな老師のために、あの氷に閉ざされた鳥籠の格子を密かにこじ開け、逃亡の活路を切り開いてやるべきなのではないだろうか?
これから先の日々の中で、この黒髪の女性がこの薄暗く豪奢な寝室で、幾度も幾度もあの狂気の主に求められ、傷つけられ続けるのだと思うと、フェリンの胸には言い知れぬ苛立ちと重圧が澱のように溜まっていった。
彼女は深く息を吸い込み、身を滅ぼしかねない決意を固めた。
フェリンは足音を殺し、昼の光の縁を漂う幽霊のように、誰にも気づかれぬ足取りで寝台の傍らへと引き返した。
あらゆる視線を避けながら、幅広のメイド服の袖の奥深くに手を差し入れ、温もりを帯びた小ぶりな、無数の星屑の輝きを湛えた水晶の瓶を抜き取った。
そして、ルシアの冷たく力のない手を引き寄せると、骨折を一瞬で癒す天文学的な価値を秘めたその「万能薬」を、少女の掌の中へと強く押し込んだ。
「ルシア老師……」
フェリンは声を極限まで潜めた。その声には自分でも気づかないほどの震えと自責が滲み、瞳には同病相憐れむ重苦しい憂いが宿っていた。
「肌身離さずお持ちください。それから、この薬の出所については決して誰にも話さないでください、私は……」
だが、彼女が己の胸中を語る重々しい前置きを最後まで言い終える必要など、最初から全くなかった。
水晶の小瓶が指先に触れたその瞬間――先ほどまで虚ろな瞳で泥のように横たわっていたはずのルシアの右腕が、獲物に飛びかかる豹のような凄まじい瞬発力を爆発させたのだ!
パキッ!
ルシアは一瞬で瓶の首を掴み、慣れた手つきで親指を跳ね上げて栓を飛ばすと、貴族の作法などどこ吹く風とばかりに喉を反らせ、琥珀色の神薬を「ゴクッ、ゴクッ」と凄まじい勢いで一気に喉へ流し込んだ!
数滴の金色の雫が青白い唇の端から零れ落ち、鎖骨に残る噛み痕を伝っていったが、彼女はそれを拭おうともしない。
「ぷはぁーーっ! 生き返った!」
ルシアは心の底から安堵したように息を吐き出すと、仕事終わりに冷たいビールを一気飲みしたかのような、淑女らしさの欠片もない声を漏らした。
直後、全身を駆け巡る神聖な薬効が嵐のように吹き荒れ、胃から全身へと煮えたぎるような心地よい熱流が一気に広がった。
カリーナによって幾度も踏みにじられ、神経すら壊死しかけていた脚の骨が、弾けるような音を立てて連続で組み上がっていく。
下腹部の裂けるような鈍痛も、全身を覆っていた脱力感も、圧倒的な生命力の奔流によってほんの数呼吸のうちに綺麗さっぱり消し去られてしまった。
ルシアは乱れた掛け布の上に器用に胡座をかくと、生まれ変わった己の足首をくるくると回してみせた。
その目からは、先ほどまでの世を儚む「死んだ魚のような濁り」など跡形もなく消え去っており、代わって宿っていたのは、企みが完璧に的中した錬金術師特有の、生き生きとした悪戯っぽい輝きだった。
彼女は顔を上げると、固まったままのフェリンに向かって屈託のない満面の笑みを向け、親指と人差し指を交差させて現代の「指ハート」を手慣れた様子で作ってみせた。
「いやぁ、あんた実はめっちゃ良い人じゃん! 薬ありがとね! 安心しなよ、私こう見えて口はめちゃくちゃ堅いからさ。絶対誰にもチクらないって約束する!」
フェリンが公爵の専属侍女でありながら、勝手に神薬を横流ししたことが露見すれば大罪になることくらい、ルシアには百も承知だった。
だが彼女は現代の工科系錬金術師なのだ。もし後からカリーナに脚の完治を怪しまれたとしても、枕の下に隠していた素材を使って自力で高純度抽出液を密造したと言い張り、すべての責任を己ひとりで被ってやることなど造作もない。
この絶体絶命の危機に神薬を差し入れてくれた「親切なNPC」に対し、ルシアは心の底から感謝と好意を抱いていた。
しかし……。
寝台の脇に立ち尽くすフェリンは、まるで雷に打たれたかのように硬直したまま、思考が完全に停止していた。
彼女は呆然と、目の前で生命力に満ち溢れ、満面の笑みで怪しげな「ハート」の形を向けてくる女性を見つめていた。
……先ほどまでの、あらゆる屈辱に耐え、世界に絶望しきっていたあの虚無はどこへ行った?
あの、暴力によって魂を抜かれ、今にも壊れそうだった痛ましい悲哀は、一体どこへ消えたというのか?!
数秒間の死んだような静寂の後、底知れぬ悪寒が何の前触れもなくフェリンの足の裏から頭頂部へと突き抜けた。
フェリンの顔色は、瞬く間に紙のように白く染まっていった。
彼女は、すべてを理解してしまったのだ。
この世の終わりだと言わんばかりの絶望も、冷え切った死灰の心も、圧倒的な暴力の前に崩れ落ちたかのような虚脱も……そのすべてが、完璧な演技だったということを!
目の前の、か弱く誰の手にも容易に揉みくちゃにされそうに見えていた平民の錬金術師――その精神の耐久力は、常人の想像を遥かに超えて強靭極まりないものだったのだ!
カリーナの息の詰まるような暴虐な略奪と絶対的な強権の重圧に晒されながら、ルシアが見せていた屈辱と恭順のすべては、決して心折れた屈服などではなかった。
捕食者の警戒を極限まで引き下げ、己の心身の消耗を最小限に抑え込むための、冷徹極まる隠忍だったのだ。
彼女は、何ひとつ諦めてなどいなかった。
脚の骨を何千回砕かれようと、先ほどどれほど屈辱的な暴行を力づくで強いられようと、翼をもがれたように見せかけたこの金糸雀の頭の中で、最初から最後まで回り続けていた思考は、ただひとつの結末だけだったのだ――
逃げる。
フェリンは、ルシアのあの輝かしく、どこか図太い笑顔を見つめながら、指先を凍りつかせ、背中の制服を冷や汗でぐっしょりと濡らしていた。
騙されたのだ。
北境の暗殺と拷問の泥沼を幾年も潜り抜けてきたあの狂犬が、ただの錬金術オタクの女の演技に、最初から最後まで完璧に手玉に取られていたのだ!




