金色の鳥籠とマカロン
昼夜の寒暖差が過酷を極める北境の地において、猛威を振るい続けていた朔風が、抜けるような青空の広がる午後、ようやくその咆哮を収めた。凍てつく世界に、久方ぶりの微かな温もりが満ちてゆく。
手入れの行き届いた庭園では、過酷な寒冷に耐え抜いた耐寒植物の数々が瑞々しい翠の芽を吹き、力強い生命の脈動を誇示していた。
庭園の管理を任された老庭師は、皺の刻まれた顔に素朴で温厚な笑みを浮かべ、温室から摘み取ったばかりの、未だ白い薄霜をまとった瑞々しい鮮橙を恭しく両手に掲げ、ルシアの目前へと捧げ持った。
だが、その老庭師が深く腰を折り、果実を差し出した刹那――粗末な麻布の袖口の奥、皮膚の露出した僅かな隙間に、鈍い燐光を湛えた禁忌のルーン文字が密やかに浮き彫りとなっているのを、ルシアは見逃さなかった。
ルシアは感情の抜け落ちた面持ちのまま、その果実を受け取った。指先は、氷の塊のように冷え切っている。
通常の戦闘概念において、己の膂力がいかに絶望的なまでに無力であるか、彼女自身が何より痛感していた。錬金術師たる彼女が、あの『錬金手札』を召喚して辛酸を舐めさせ、勝利を掠め取ってきた数々の死線――その本質は、一から十まで「圧倒的な情報格差の悪用」に過ぎない。
この世界の土着民には到底理解の及ばぬ微視的な化学反応、極限の公差計算、そして予兆なき爆轟の連鎖。
だが、そうした罠や奇策を一切剥ぎ取られ、純粋な肉体の強靭さと魔力総量の土俵に引きずり出されれば最後、この城の女主人はおろか、ただ腕を一振りするだけで鋼鉄を粉砕せしめる目の前の「老庭師」にすら、彼女は指一本触れること叶わず圧殺されるのだ。
「先生、紅茶の湯気は未だ熱うございます。召し上がる際はどうぞ火傷にご留意を」
傍らに控える専属の給仕頭は、一切の無駄を削ぎ落とした優雅な所作で、まずは芳醇な茶香を放つ最高峰のダージリン紅茶を白磁の碗へと満たした。
次いで、湯気の立つ濃厚な温牛乳を惜しげもなく注ぎ入れ、仕上げに琥珀色に澄み渡る野生の百花蜜を一匙、静かに落とす。
まるで幼子を慈しみ、甘やかすためだけに調合されたような極上の蜜糖茶が、この上なく自然な恭しさでルシアの卓上へと差し出された。
要塞の如き威容を誇るこの広大な公爵邸において、仕えるすべての従者や衛兵は、例外なく彼女に対して「先生」と最大の敬意を込めて呼びかける。
表向きの理由は、彼女が若君ルーカスの学問と錬金術を導く正当な家庭教師であるからだ。しかし、使用人たちが陰で交わす密やかな囁きを拾うまでもなく、屋敷の誰もが確信していた――平民の出に過ぎぬこの小柄な錬金術師こそが、北境の最高峰に君臨する、あの誇り高き高嶺の孤花を完全に陥落せしめたのだと。
かつて帝国の長老院を前に「生涯を武に捧げ、何人にも嫁がぬ」と冷徹に宣誓し、凡俗の情愛を塵芥と見下していた白銀の女公爵が、いまやこの少女ひとりのために、自ら神聖なる誓いを踏みにじろうとしているのだ、と。
ルシアは、喉が焼けるほど甘美な蜜糖茶に小さく口をつけた。その双眸の奥底には、度重なる極限状態で麻痺しきった、冷たい虚無のみが沈澱している。
カリーナの手によって逃走路をことごとく断たれ、この黄金に輝く豪奢な鳥籠へと完全に幽閉されてから、すでに二週間もの暗澹たる月日が流れていた。
この幽閉の最中、帝都魔法学院の入学選考へと旅立つ直前のルーカスが、思い詰めた形相で密かに彼女の寝所を訪れたことがあった。少年は隠しきれぬ焦燥と屈辱に身を震わせながら、試験直前の錬金術の猛特訓をルシアへと懇願してきたのだ。
その時、ルシアは唯一の教え子である彼に対し、微かな希望を託して救いを求めようとした。師弟の誼に免じて、この狂気の館から逃れる手助けをしてほしい、と。
しかし、少年の口から返ってきたのは、その年齢には似つかわしくない、底知れぬ懊悩と狂熱的な執着を孕んだ深紅の双眸、そして逃げ場を塞ぐような曖昧な言の葉であった。
『先生……僕たちはかつて、同じ無二の存在を失いました。だからこそ……もう二度と、失う隙など与えるわけにはいかないのです』
共有する情報の決定的な食い違いによって、ルシアは当然のように、自分がかつて死に別れたという「アリエル」なる亡霊の代用品として扱われているのだと解釈した。
過去の凄惨な過ちにおいて、彼らは己と瓜二つの風貌を持つ少女を無残に喪失したのだろう。だが、そんな他人の因果が、この自分と一体何の関係があるというのか?!
その理不尽な身勝手さに、ルシアは幾夜ものあいだ、寝床の中で激しい憤りを煮えたぎらせていた。
まさかその真実が、どれほど血みどろで絶望的な狂気の上に成り立っているかなど、彼女は露ほども知り得ない。カリーナとルーカスが狂乱の果てに失ったもの――それこそが、他ならぬ「前世のルシア自身」であったのだから。
時の因果を逆流させるため、億単位の同胞を屠り、修羅の海を渡ってきた二匹の凶獣は、ルシアから「死者の面影に狂う異常者」と軽蔑される道を進んで選んだのだ。前世の記憶を明かすことなど、断じて許されない。
かつての己たちが、如何なる無理解と冷酷な暴力をもって彼女を絶望の死へ追いやったかを骨の髄まで知るがゆえに――ひとたび真実が白日の下に晒されれば、ルシアが現在辛うじて見せている表面上の平穏すら、万劫に消えぬ猛毒の憎悪へと反転してしまうことを、彼らは誰よりも恐れていた。
現在のルシアにしてみれば、かつてカリーナに執着して擦り切れた過去の情熱に疲れ果て、目が覚めたからこそ自由を渇望しているに過ぎない。
まさか転生を果たした果てに、赤の他人の身代わりとして監禁され、骨の髄まで蕩かされるような歪んだ溺愛に呑まれるなど、想像を絶する喜劇であった。
さらに彼女の理性を混乱させたのは、ルーカスの見せる、卑屈なまでに恭順な温情であった。あの傲岸不遜で、己に対して罵詈雑言を浴びせかけていたはずの公爵家の若君が、本当にこの痛々しい忠誠を捧げる少年と同一人物なのか?
だが現在のルシアは前世の輪郭すら擦り切れて色褪せており、目の前に広がる底なしの泥沼を生き抜くことだけで、思考のリソースは限界を迎えていた。
何より、カリーナの抱く独占欲は、すでに人の領域を完全に踏み外していた。
この二週間の間、ルシアは幾度となく脱出の布石を打った。しかしその悉くが露見し、その都度、最上位の治癒魔法によって完全に再構築されたばかりの右足の骨を、あの冷徹で優美な白銀の手によって無残に握り潰されたのだ。
最も狂気に染まりきっていたあの夜、彼女の両足は「治癒と新生」そして「生身の圧砕」という終わりのない劫火の円環の中で、一晩のうちに千回近くも寸断された。
北境に君臨する冷徹無比の女公爵は、ルシアの骨節をミリ単位で圧し折りながら、冷汗に濡れそぼる少女の胸元に顔を埋めて狂おしく落涙し、幼児のように壊れた謝罪を延々と繰り返したのだ。
『ゆるして……ルシア、お願いだから、許して……っ。私だって、こんな残酷な真似……あなたにしたくなんてないの。痛いでしょう? 苦しいでしょう……? でも、あなたが私の腕からすり抜けようとするから……あなたが、私にこんな酷いことをさせるのよ……』
狂気などという陳腐な言葉では、もはやその深淵を測ることすらできない。
ルシアが今こうして無気力極まりない怠惰な態度を演じているのは、純然たる絶対暴力の壁を前に、己の手持ちの切札をすべて使い果たしてしまったからに他ならない。
彼女の展開する錬金瞬身術式では、カリーナが操る神出鬼没の空間跳躍に対し、起動速度の次元において到底追いつけない。
ルシアが座標の極限を指定してどれほど遠方へ空間転移を試みようと、領内百里を一息に掌握する女公爵の凶悪な魔力感知からは、決して逃れ去ることは叶わないのだ。
三日前の深夜、ルシアはついに明確なる殺意をその胸に宿した。
枯渇寸前の二重魔力回路を極限まで酷使し、機械眷属たる刻刻を、近接格闘特化の完全戦闘形態――【天刻の騎士・参宿四】へと階位昇華させたのだ。
その密室における死闘は、堅牢を極めた寝宮の半壊という惨状を招いた。超高周波合金ブレードの猛威を前にしてはカリーナとて一瞬の退避を余儀なくされたものの、「時空封鎖」の権能を掌握する大公爵は、その近接機動兵をあっさりと折り畳まれた次元の狭間へと幽閉した。
ルシアが張り巡らせた無数の化学トラップ、不活性化毒霧、指向性凝縮爆轟――そのことごとくを、カリーナは最も暴力的な魔力障壁の一閃で蹂躙した。
解体し得る術式はその場で粉砕し、防ぎきれぬ攻撃は己の強靭な肉体で受け止め、肉体を貫く傷は無尽蔵の生命力によって即座に再生せしめる。
カリーナはその圧倒的な武威をもって、覆すこと叶わぬ「絶対的な力量の次元格差」とは何かを、工科の理に縋る少女の魂へと冷酷に刻みつけたのだ。
追い詰められたルシアは激情のままに骨髄の魔力すら絞り尽くし、参宿四を更なる未踏の極限形態へと強行昇華させた。
――【天刻全装・始源終焉加農砲(クロノ・フルアーマー・アルファ・オメガ・キャノン)】。
それは虚空へと浮上し、絶対的な破滅の予兆を撒き散らす、白金色の合金で鋳造された巨大機動要塞であった。
下半身は脆弱な二脚歩行機構を完全に排し、重装甲の攻城巨艦を思わせる重厚かつ凶悪な半円形の浮遊砲座へと変貌を遂げている。
砲座の周囲には層状の流線型整流装甲が幾重にも噛み合わされ、底部および背面に配された十二基の推進噴射口が咆哮を轟かせ、数丈に及ぶ蒼青のプラズマ火焔を噴射する。
大気を両断する耳を聾する衝撃波とともに、数トンの超重量を瞬時にトップスピードへと乗せ、物理法則を嘲笑う超高速の三次元折角機動を展開する。
そして砲座の頂に鎮座するのは、神話の巨神を想起させる機械の半身。
人体の骨格比率を完全に無視した、二本の長大な合金アームが左右へ異様に垂れ下がり、その切っ先には冷酷な光彩を放つ四爪の鋭利な破砕クローが備わっている。
両腕の装甲表面には特殊な鏡面反射偏光装甲が蒸着され、直撃するいかなる高位魔法をもマイクロ秒単位で屈折・散逸せしめる。
さらに機械爪の各関節部は毎秒数億回という超高周波で微細振動し、その摩擦熱とマイクロ波によって周囲の大気を歪んだ真空の波紋へと変換、巨竜の甲殻であろうと古代の禁呪結界であろうと、触れるものすべてを一撃で分子レベルに引き裂く絶対的破壊威力を秘めていた。
機体の周囲には数十基の菱形フローティング・ミラーシールドが攻防一体の軌道を描いて旋回し、背部および肩部装甲の内側からは多連装重副砲が威容を現して、大地を薙ぎ払う白熱の弾幕を無慈悲に吐き散らす。
だが、この機神の真に恐るべき戦略兵装は、その腹部の深淵へと秘匿されていた。
平時は何ら魔力を帯びぬ同心円状の装甲パネルに偽装されているが、最大出力の臨界指令が下された刹那、幾重もの物理ロックが解除されて外殻が展開し、底知れぬ微小粒子衝突リングがその姿を現す。
――重力崩壊光束。禁忌の物理法則を顕現させた極大砲撃。
瞬時に超高密度の特異物質を限界点まで圧縮・凝縮させ、人為的に生成した微小特異点の極限重力場をもって、破滅的な高エネルギー・ガンマ線バーストを内包した深黒の光束を撃ち放つ。
光束が掠めるのみで周囲の重力定数は致命的に歪曲し、照準された標的は絶対的な引力の檻に捕らわれてその場に縫い止められ、空間跳躍による回避すら完全に封殺される。
よしんば最上位の神聖防御障壁で直撃を凌ごうとも、放射される致死的な高エネルギー放射線が無孔不入の怨霊の如く障壁を透過し、対象の細胞組織と魔力回路を微観の領域から不可逆的に焼き爛れさせ、壊死に至らしめるのだ。
その一撃は、帝国の魔法評議会に座す大魔導士長老であろうと、展開した大結界ごと虚無へと蒸発させるに足る。
しかし、カリーナという存在は……すでに常理の枠組みで語り得る生物の領域に留まってはいなかった。
返り血に濡れそぼった白銀の狂王は、重力の歪曲がもたらす肉体の軋みと、障壁が砕け散る激痛を力づくでねじ伏せ、微小特異点が爆縮を起こす直前の刹那、神速の限界を突破した超絶機動で機体の死角へと強襲。鏡面装甲を生身の腕で引き裂き、凶刃の如き五指を中枢へと容赦なく突き立てたのだ。
そして――終焉加農砲の胎内深くに埋め込まれていた動力核を、力任せに引きずり出した。
その中枢とは……悲痛な「ギギッ」という軋み音を立て、外装部品を撒き散らした真鍮の機械フクロウ、刻刻であった。
核となる魂を喪失した瞬間、あの白金色の巨大要塞は物言わぬガラクタの山へと崩落した。
戦闘能力のすべてを搾り取られたルシアの末路といえば、戦慄と安堵の綯い交ぜになったカリーナから情け容赦なき折檻を受け、まるで奪い返した戦利品のように、返り血に染まった女公爵に抱き締められ、熱烈な口づけと錯乱した落涙の中で、この息の詰まる天蓋付きのベッドへと連れ戻されることだった。
「……はぁ」
柔らかな日差しの中、分厚い羊毛毛布の下で今なお鈍い熱と痛みを訴える己の脚を見下ろし、ルシアは手元の甘ったるい蜜糖茶を啜りながら、肺の底から重苦しい溜息を吐き出した。
戦って勝つことも叶わず、逃亡の路も潰え、切り札たる機神すら素手で解体された。
自分はこれから死ぬまで、「アリエル」などという亡霊の身代わりとして、この陰鬱な公爵邸で、いつ発狂するか知れぬ病的な女公爵の腕の中、骨の髄まで狂気に浸されながら飼い殺されるしかないのだろうか。
物思いに沈み、次第に焦点を失ってゆくルシアの虚ろな横顔を見つめ、傍らに佇んでいた専属侍女のフェリンは、微かに伏し目になりながら、銀のトレイを掲げる後方の侍女たちへ極めて密やかな目配せを送った。
足音すら立てぬ幽霊じみた身のこなしで数名の給仕が進み出て、帝国の皇室晩餐会においてのみ供される、贅を尽くした彩り豊かなマカロンの皿を、ルシアの卓上へと音もなく配膳した。
繊細な砂糖の衣は真珠のような光沢を放ち、ラズベリーとバニラの芳醇な甘い香りが微かに漂う。
しかし車椅子に身を預けた黒髪の少女は、それを億劫そうに見遣るばかりで、同年代の娘が甘味に見せるはずの僅かな高揚すら覗かせず、まるで価値のない木屑でも眺めるかのように視線を漂わせていた。
その時、先頭に立つフェリンの口元に冷ややかな笑みが浮かんだ。レースをあしらった広い袖口から、水晶で作られた細頸の小瓶を滑らかに取り出し、マカロンの皿の中央へと静かに据え置いた。
瓶の内部で揺らめいているのは、砕けた星屑を集めたかのように澄み切った、淡い黄金色の液体――万霊薬。
死線に瀕した者すら呼び戻し、粉砕された四肢の骨であっても数秒で完全に再生せしめる、値のつけようもない至宝の霊薬。
「――ッ!」
ルシアの死に体の深緑の瞳が、その淡い黄金の燐光を捉えた瞬間、飢餓感にも似た激しい光が爆発した。
あれを飲み干しさえすれば。
あの霊薬を喉へと流し込みさえすれば、毛布の奥底で粉砕され、身動きを奪われている脚の骨が一瞬にして蘇る。
誰かの意のままに弄ばれる無力な廃人などではなくなり、再び錬金術式の空間転移を起動させ、己の両足で、自由という名の扉へと駆け出すことができる――
しかし、脈拍が狂ったように跳ね上がった次の瞬間、ルシアの思考は急激な覚醒を果たした。
違う。
背筋を貫く鋭利な悪寒が、尾てい骨から頭頂部へと一瞬で駆け上がった。
ルシアは重い首を、ミリ単位でゆっくりと持ち上げた。
視線の先にいたのは、己を見下ろすあの専属侍女――手入れの行き届いた整った顔立ちには、極めて精巧に貼り付けられた、眼球の笑っていない歪な笑みが張り付いていた。
細められた瞳の奥には、下僕が宿すべき謙譲の色など微塵もなく、メスのように冷徹で残酷な解剖と査定の視線が横たわっている。
嵌められた。
この侍女の名はフェリン。幼少期よりカリーナの影として北境の死線をもがき抜け、女公爵に絶対の忠誠を誓う狂犬。
先ほどのさりげない所作は、親切な茶会の余興などでは断じてない。翼をもがれた金糸雀を試すための、周到で悪意に満ちた実験――平民が一生拝むことすら叶わぬ豪奢な菓子と、折られた四肢を治す至高の霊薬。今のルシアにとって、どちらが真に琴線に触れるのかを値踏みしたのだ。
答えはあまりに露骨だった。
孤児の平民であれば、目の前の贅を尽くした環境に眩暈を覚え、豪奢な甘味に溺れるのが自然な反応である。
だがルシアは、富も、権力も、美食も、凡人を狂わせるすべてを一瞥しただけで切り捨て、唯一「脚の自由を取り戻せる」活路に対してのみ、血の匂いを嗅ぎつけた猟犬のような熱情を滾らせてしまった。
それは即ち、彼女が逃亡の意志を一片たりとも捨てていないことの証明に他ならなかった。
あの無気力も、従順も、すべては牙を隠して寝首を掻くための偽装なのだと。
冷汗が数秒のうちに薄い下着を濡らし、掌には湿った汗が滲む。気づいた時には手遅れだった。罠は踏み抜かれ、すでに完全に噛み合っている。
動揺してはならない。
エンジニアとしての冷徹な思考が、乱れかけた呼吸の中で顔筋の引きつりを無理やり押さえ込んだ。
ルシアは眼球を滑らかに動かし、あたかも先ほどは単にあの美しい金色の小瓶の造形に目を奪われていただけであるかのように装い、万霊薬を素通りして、淡紅色のラズベリーマカロンをつまみ上げた。
サクサクとした外殻が舌の上で崩れ、ルシアは全身の演技力を総動員して口角を持ち上げ、幼子のような、幸福と依存の入り混じった完璧な笑みを浮かべてみせた。
「……とても美味しいです。夢のように甘くて……もし許されるのなら、毎日でもいただきたいくらい」
敵陣の真っ只中において、退路を断たれ、絶対的な力量差で組み伏せられている時、最も合理的な生存戦略は尾を振って無害な家畜になりすますことだ。
己がカリーナにとって執着すべき「貴賓」であり続ける限り、時間と機会はいつか必ず巡ってくる。
フェリンは見下ろす視線のまま、ルシアの絞り出した従順な笑みを受け止めていたが、その瞳の奥の冷酷な審査の色は毛頭消えていなかった。
彼女は優雅な仕草で万霊薬を回収し、再び広い袖口の中へと滑り込ませた。北境の雪解け水を思わせる柔らかい声色。だがその語気に込められた殺意は、氷柱のようにルシアの鼓膜を容赦なく抉った。
「先生にお気に召していただけて、何よりでございます……許されるのなら、わたくしめがこのように、生涯……先生のお側でお仕えしたく存じます」
それは、取り繕うことすら放棄した剥き出しの恫喝であった。
フェリンの双眸は、無言のうちに雄弁に告げていた。
――その浅ましい小賢しさを弁えなさい。次に少しでも逃走の素振りを見せたなら、公爵閣下の許可など待たず、屋敷の敷居を跨ぐ前に、お前の骨を一本残らずへし折って差し上げます。
この手入れされた美しい庭園は、その本質において、血生臭い処刑場に他ならなかった。
生垣を刈り込む老庭師も、トレイを運ぶ年若い給仕も、紅茶を注ぐフェリンすらも――この公爵邸には、ただの使用人など一人として存在しない。
すべては北境の苛烈な辺境戦で傷を負い、一線を退いた歴戦の手練れたち。生死の境をとうに踏み越え、カリーナに魂を売り渡した暗殺者たちなのだ。
正面から挑めば、十歩と進めずに屠られる。
ルシアはそっと首を傾け、微かに震える指先を隠しながら、もうひとつのマカロンを口へと運んだ。
ビロードの敷かれた円卓の端では、手のひら大の真鍮の機械フクロウ・刻刻が、無機質な表情のまま佇んでいる。小さな金属の爪を恭しく揃え、首ひとつ動かさず、まるで魂を抜かれた玩具のように。
数日前、女公爵の手によってクロノ・フルアーマー・アルファ・オメガ・キャノンの胎内から素手で引きずり出され、外装の半分を無残に叩き壊された凄惨な教訓を経て、自律思考を有するこの機械仕掛けの眷属もまた、賢しい沈黙を学んでいた。静まり返り、精巧な標本のように擬態している。
しかしフェリンは知る由もなかった。この館に巣食う、抜け目のない暗殺者たちの誰もが気付いてはいなかった。
服従を装ったその真鍮の身体の最深部、刻刻の胸腔コアを巡る錬金回路が、人知れず極めて隠微な波長の偏移を起こしていることを。
かつて「休眠と待機」を意味していた温かな橙色の燐光は、硝子玉の瞳の奥、死角となった暗がりの奥底で、いつの間にか――導火線が燃え尽きる直前のような、極限まで抑圧された光を宿していた。
――真紅。
最高警戒態勢。
並列演算処理中。
この機械鳥は、周囲の重力係数と警備兵の巡回ルートの計算を、ただの一秒たりとも放棄してはいなかった。甘味を噛み締めながら、作り笑いを浮かべている己の主と同じように。
彼らは等しく、息を殺して待っていた。
この揺るぎなき鋼鉄の鳥籠が、自ら最初の亀裂を晒す、その瞬間を。




