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重度カードゲーマー女子、過労死転生した異世界でも恋愛をプレミして詰んだ件  作者: 酣睡


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12/112

重愛なる女公爵と、逃げ惑うカナリア

昼夜の寒暖差が尋常ならざる北境。まだ太陽の昇らぬ早朝の冷気は、いつだって理不尽なまでの横暴さを孕んでいる。


鉛色の薄明かりが重厚な彫刻の施された格子窓を通り抜け、無垢材の床一面に青白い霜の気配を静かに敷き詰めていた。


窓の外では寒風が吹き荒び、外側の防風板を叩いては低く単調な慟哭を響かせている。一方の室内では、暖炉の炭火が一夜のうちに燃え尽きて灰白色の残滓と化し、部屋の温度は見る間に急降下していた。


だが、布団の中だけは別世界だった。


そこは柔らかく、ふくよかで、自らの体温でじんわりと温められたぬくもりに満ちた、あらゆる外界の喧騒を拒絶する絶対的な避難所であった。


ルシアはほんのわずかに意識を取り戻したものの、反射的に頬を綿布団の最も深いところへと埋め込んだ。頭頂部の乱れた黒髪を、ほんの数筋だけ外に残して。


一ミリたりとも動きたくない。


布団を跳ね除けようという意志など、芽生えた瞬間に生存本能によって無残に踏み消された。


寒すぎるのだ。


北境の朝の空気は、まるで砕いた氷の粒が混じっているかのようで、布団の外へ晒された鼻先から息を吸い込むだけで、鼻腔の奥にツンとした鋭い痛みが走る。


さらに致命的だったのは、一晩の休息を経て、案の定ストライキを起こしたこの満身創痍の肉体だった。


「……っ」


ルシアは布団の中でわずかに脚を縮こまらせようとしたが、つま先をほんの少し動かしただけで、まるでロードローラーで三度往復して轢き潰されたかのような激しい筋肉痛が、あらゆる筋肉の繊維、あらゆる関節の深部から凶悪に跳ね返ってきた。


全身が悲鳴を上げている。


両腕は十キロの鉛でも流し込まれたかのように重く、両脇の肋骨の下は、二重魔力回路のオーバークロックに耐えた反動でズキズキと疼く。まるで焼けた無数の鈍針で神経の末端を何度も抉られているかのようだ。


腰に至っては完全に凝り固まって軋み、寝返りを打つことすら、途方もなくコストに見合わない巨大事業に思えた。


これこそが、定命の肉体で無理やり【天刻の騎士】を駆動させ、二つの錬金回路を過負荷で背負い込んだ反動である。


昨夜の死線で湧き出たアドレナリンが引いた後、そのツケは「全身の筋繊維の微細な断裂」という、極めて身も蓋もない現実となって、この家庭教師兼任の社畜の頭上へ容赦なくのしかかっていた。


「……動けない」


ルシアは布団の中でくぐもった熱い息を吐き出した。瞼は工業用接着剤で塗り固められたかのように重い。


優秀なエンジニアとして、装置が過負荷を起こし、システムが警告を発し、さらに外部環境の温度が極度に劣悪な状況に直面した際、理性に最も適った唯一の解――それは、その場でシャットダウンし、待機時間を延長することである。


公爵家の朝の定例会議だろうが、刺客の襲撃に関する事後報告だろうが、果てはあの真意の読めない白髪の女公爵だろうが……。


今やたとえ天が落ちてこようとも、布団の中が暖かい限り、彼女はこのベッドから一歩たりとも足を出すつもりはなかった。


「クルル……」


その時、枕元からごく微かなゼンマイの噛み合う音が聞こえた。


手のひら大の真鍮のフクロウ・ココが、首をゆっくりと百八十度回転させ、鈍く光る二つの硝子玉のような瞳を灯して、主の生命兆候を確認するかのように見つめていた。


ルシアが冬眠中の幼獣のように小さく丸まっているのを見て、ココはその冷たく小ぶりな金属の鉤爪を器用に引っ込め、パタパタと布団の端を踏みしめると、最後はマスコットのように、布団の外に覗く乱れた黒髪のすぐ隣へちょこんと寄り添った。


ルシアは強張った指先を布団の縁から恐る恐る一寸だけ伸ばし、ココのひんやりとした金属の翼に触れると、躊躇することなく鳥ごと布団の奥へと引きずり込んだ。


「……あと、五分」


少女は目を閉じたまま、自暴自棄な呟きをシーツの中にくぐもらせた。


「いや……あと三十分。誰かがノックしても、死んだふりしよう」


ルシアは知る由もなかった。今この瞬間、固く閉ざされた重厚な無垢材の扉の外で、ルーカスがすでに彫像のように立ち尽くしていたことを。


背筋を伸ばした大柄な白髪の青年は、わずかに首を垂れていた。幾千の鍛錬を重ねた高位武者としての鋭敏な聴覚は、扉の向こうの極めて微かな気配――シーツが擦れ合う微かな衣擦れ、少女の二度寝特有の不明瞭な寝息、そして小さな歯車の回転音――を克明に捉えていた。


中の主が未だ深い眠りの床から起き上がる気配がないのを確かめると、ルーカスは中空に掲げたままであった手を、結局のところ下ろした。


彼はただ静かに手を引っ込め、その双眸の奥に極めて複雑な苦笑を浮かべる。


目下のところ、ルーカスは発狂せんばかりの致命的な難問に直面していた。今世の帝都魔法学院の入学試験は、あろうことか丸三年前倒しされていたのだ。


前世の彼は、十八歳の頃など北境公爵家で傲慢かつ横暴に振る舞うだけの、絵に描いたような道楽息子に過ぎなかった。


丸三年の歳月を空費し、ルシアが制御を失った火球の下で命を落とした時、彼はようやく底知れぬ悔恨の中で目を覚まし、憑かれたようにルシアの遺品である講義ノートを抱え込んで必死に受験勉強を始めたのだった。


そして、その後に続いたのは……億を超える生命の血を啜り、二十年以上にわたって血海を彷徨った煉獄の日々であった。


カリーナの時間回帰の大陣に必要な、無数の生命の血髄と怨嗟の魂を集めるため、ルーカスは地獄の修羅と化し、肉塊飛び散る戦場で夜を日に継いで剣を振るい、首を刎ね、敵の胸を引き裂いては心臓を抉り取ってきた。


その二十数年にも及ぶ、生臭い血潮と千切れた四肢に塗れた虐殺の記憶は、平和な時代に蓄えるべき学問の知識を、とうの昔に綺麗さっぱり押し流してしまっていたのだ。


前世でルシアが遺してくれたあの錬金術の講義録、そこに記されていた過去問の解法、公式の導出、思考の死角を突く註釈など、彼は完全に忘れ去っていた。


そして今、輪廻を経て、タイムラインは無慈悲にも原点へと引き戻された――かつて幾千の夜に彼を悔し涙に暮れさせたあのノートは、今世のルシアの手によって未だ一文字たりとも書かれてはいないのだ。


出題の要点はすべて忘却の彼方。その上、間もなくあのヴァレリーという女と共に帝都へ向かわねばならない。


途方もない重圧が、万斤の巨岩となって少年の胸を圧迫していた。


帝都魔法学院の試験規則は極めて冷酷である。全受験生は一次選考の段階で全科目の合格点を叩き出さねばならず、その基準点を突破した者だけが、入学後に己の適性に応じた専門学部へと振り分けられるのだ。


課される通常科目は多岐にわたる。


剣術および近接格闘、高位魔法、機能性ルーンの刻印(肉体の強靭化など)、基礎的な創傷治癒術と戦場医学、民生および野戦拠点の構築を含む工学、さらにはサバイバルにおける実用毒物と薬草の識別。


これらは、死山血海を二十年潜り抜けてきたルーカスにとって、頭を使うまでもなく、脊髄反射だけで容易に満点を取れるものばかりだった。


ただ、最後のひとつを除いては――基礎錬金術。


これこそが、二度の生を経てもなお、ルーカスが決して越えられない呪いのような絶望の天塹であった。


ルーカスは決して生まれつき愚鈍なわけではない。むしろ、世俗的な意味では最高峰の天才であった。しかし彼の天才たる所以は、すべて野獣じみた「直感」と「感覚」によって駆動している――剣をいかなる角度で振り下ろせば人を両断できるか?


感覚さえ掴めば、一瞬で体得できる。魔力をいかなる周波数で共鳴させれば城壁を砕けるか? 感覚さえ合致すれば、息をするように放てる。


だが、錬金術という学問は、悲しいかなその「直感」と徹底的に絶縁していた。


錬金術の体系において、それは精密無比にして冷酷な、ミクロの工学体系そのものである。要求されるのは、小数点以下三桁まで正確なモル濃度、温度変化に伴う分子結合の切断と吸熱反応、滴下する触媒の秒単位での厳密な制御。


ルーカスに錬金術を教えるなど、拳を振るうことしか知らぬ幼稚園児の野獣に、量子化学の反応方程式を丸暗記させるようなものであった。


前世、命尽きる瞬間まで己の職責を全うしたルシアの優しさを追憶するため、ルーカスは不惑の歳になろうという頃でさえ、行軍の幕舎で毎夜取り憑かれたようにルシアのノートにかじりついていた。


その結果がどうだったか。数多の敵を屠ってきた血塗れの修羅が、最も初歩的な「無水エタノールの精製」にすら散々手こずり、フラスコを三度も爆破させ、危うく兵糧庫ごと消し炭にしかけたのだ。


今や時は巻き戻り、あのチート染みた解答ノートもなければ、前世にあった三年間の猶予という名の付け焼き刃の猶予すらない。


ルーカスは、敵の喉笛をやすやすとへし折れる己の掌を見つめた。それが今や、焦燥のあまり微かに震えている。喉仏が苦しげに上下した。


文字通り、年貢の納め時であった。


もし自分が試験場で錬金術の赤点によって即座に叩き落とされ、帝都中の面前でグラフィアン家の面目を丸潰れにしたら……いや、そんな恥などまだマシだ。


最も恐ろしいのは――あの部屋の中で小さく丸まり、昨夜は命懸けで刺客から自分を守ってくれた黒髪の少女が、心血を注いで育てた教え子が最も基礎的な試薬の調合すら台無しにしたと知った時、どれほど失望に満ちた目を向けてくるかということだった。


少年の背筋が凍りついたように強張り、冷や汗が無言のまま下着を濡らしていった。


「ずっと突っ立って、何か考え事かしら?」


静謐の中にどこか気だるげな色気を滲ませた低い声が、唐突に背後から響いた。


ルーカスの全身の神経が、強敵を前にしたかのように瞬時に張り詰めた。彼は弾かれたように振り返る。


薄暗い廊下の逆光の中、カリーナが腕を組んでゆっくりと歩み寄ってきていた。肩に散る白銀の髪、薄暗がりの中で妖しい燐光を湛える真紅の双眸。


見下ろすようなその眼差しは、大柄な青年が必死に覆い隠そうとしていた動揺を、いとも容易く見透かしていた。


「……叔母上」


ルーカスは喉を鳴らし、惨めそうに視線を逸らした。その声は酷く乾いている。


「僕はただ……ルシア先生に入学試験の重点を伺おうと……」


口にした瞬間、ルーカス自身、穴があったら入りたいほどの屈辱に苛まれた。


この無様な窮状は、すべて前世で放蕩に耽った報いだった。かつて机に向かえていた平穏な日々を慈しまなかった罰として、運命がやり直しの機会を与えてくれた今でさえ、自分はまた同じ泥沼に足を取られて無様に転んでいるのだ。


カリーナは、甥の胸中にあるちっぽけな少年の自尊心などを解きほぐしてやる気など毛頭なかった。


歩みを止めることすらなく、彼女の細く白い指先が真鍮のドアノブにかかり、音もなく押し下げられた。ルシアのために誂えられたその客室の扉が、静かに開け放たれる。


室内は静寂に包まれ、空気中に僅かな歯車の駆動音だけが残されていた。


カリーナは柔らかな毛足の長い絨毯を踏みしめ、ベッドの傍らへと音もなく歩み寄り、優雅に腰を下ろした。


薄い羽毛布団が小さな膨らみを作っており、呼吸の音すら意図的に押し殺されている。


カリーナは手を伸ばすまでもなく、鋭敏な魔力感知だけで、布団の中の小柄な身体が硬直しているのをはっきりと感じ取っていた――あの黒髪の少女は決して眠ってなどいない。


警戒を露わにする小動物のように耳をそばだて、布団の外のあらゆる物音に全神経を集中させているのだ。


ツンとした痛みを伴う愛惜が、カリーナの瞳の奥に静かに滲んだ。


ルシアは確かに変わってしまった。


前世のように、自分への憧れに瞳を輝かせ、どれほど冷たくあしらわれようと不器用に向かってきたあの情熱的な少女の面影はない。


今の彼女は不可侵の高壁を築き、もはや誰も盲目的に信じようとはせず、すべての視線、すべての挙動において、冷静にコストとリターンを天秤にかけている。


彼女は己を捧げ尽くそうとする献身を綺麗にしまい込み、他人のために命を燃やすことなど金輪際やめてしまった。


だが、カリーナはそれを毫も意に介していなかった。


それどころか……打算と利益に塗れた今のルシアのほうが、愛おしくてたまらないとすら思っていた。


なぜなら、前世のルシアが求めていたもの――「真実の愛」や、魂の無条件の共鳴などというものは、あまりにも曖昧で実体がなさすぎたからだ。


カリーナは、そのような清らかな御伽噺など端から信じていない。


世人の謳う真実の愛とは、寛容と成全である。愛する者が自由を求め、己の腕の中から飛び立とうと願うのなら、笑って檻の扉を開けてやることだという。


だが、カリーナ・グラフィアンはそのような善人ではない。


彼女はこの生涯において、ルシアを手放すつもりなど微塵もなかった。もしある日、この小さな金糸雀が翼を広げて飛び去ろうとするならば――彼女は眉ひとつ動かさず、その白く脆い小骨を自らの手でへし折り、己の寝宮の最奥に永久に繋ぎ止めるだろう。この腕の中でしか呼吸できぬよう、永遠に。


カリーナは誰よりも弁えていた。自らのこの泥濘のように重く病んだ独占欲が、「真実の愛」などという言葉に到底値しないことを。それは罪であり、略奪であり、救いようのない深淵である。


ゆえに、これでいいのだ。


利益を計算できるルシアのほうが、実体のない愛を渇望するルシアよりも、遥かに御しやすい。


提示する駒が十分に重く、公爵家が帝国中の誰も真似できぬほどの素材と富、そして庇護を提供できる限り、計算高いあの社畜の少女は、自らの最適解のために喜んで歩みを止めるはずだからだ。


カリーナの唇の端に、極めて淡く、されど狂気に満ちた独占の笑みが冷ややかに浮かんだ。彼女は手を伸ばし、分厚い布団の上から、その小さな輪郭を残酷なまでに優しく撫でた。


そしてカリーナがそっと布団を引き剥がし、潤んだルシアの双眸と視線を絡ませたその刹那――少女が唐突に投げかけた問いかけが、カリーナの顔から余裕の笑みを凍りつかせた。


「あの……私、帝都魔法学院へ進学したいのですが、よろしいでしょうか?」


布団の隙間からわずかに顔を覗かせたルシアは、寝起きの微熱を帯びながらも、青白い肌のままだった。その深緑の瞳には動揺の欠片もなく、恐ろしいほどに明晰で、事務的なまでの冷徹さが宿っていた。


少女の頬を優しく撫でようとしていたカリーナの手が、中空でピタリと止まる。


指先はルシアの赤らんだ頬からわずか半寸の距離で静止し、あたかも目に見えない絶対零度の氷に囚われたかのようだった。


「……私から、離れたいと?」


カリーナの声は極めて低く、研ぎ澄まされた氷の刃のように薄く、その語尾には押し殺しきれない神経症的な震えが微かに張り付いていた。


「私は……公爵家に長居する器ではないと思いますので」


ルシアは「感情」の泥沼を巧妙に避け、使い古した退職の定型句を口にした。彼女の認識では、身の程を弁えた身代わりにとって最善の礼儀とは、本物の記憶が生々しく暴走する前に自分から身を引き、後々疎まれるのを避けることに他ならなかった。


室内の温度が、その一瞬で氷点下へと叩き落とされた。


北境の気候はいつだって気まぐれで極端だ。朝の光が窓を射す時にはまだ乾燥したぬくもりを残していても、次の瞬間には吹き荒ぶ烈風が骨髄まで凍てつかせる――そして、この広大な屋敷の女主人の気性たるや、北境の天候以上に移り気で、常軌を逸していた。


深緑の瞳の奥にある、平穏で、理性的で、されど決して揺るがぬ去り難い意志をはっきりと見届けた時、女公爵の瞳の奥に残されていた最後の温情が、音を立てて砕け散った。


中空に静止していた手の軌道が、唐突に変貌を遂げる。


優しい撫撫でも、愛おしむような接触でもない。最上位の強者が放つ空気を裂く速度と絶対的な膂力を伴って、鋼の万力と化した五指が、ルシアの白く華奢な頸部を情け容赦なく締め上げた!


「が……ッ」


ルシアは温かな布団の中から無理やり引きずり出され、脆弱な気管を一瞬で押し潰された。喉の奥から、苦悶に満ちた喘鳴が漏れ出る。


「本当に……私から逃げられると思っているの?」


カリーナがゆっくりと身をかがめ、その妖艶で整った顔貌がルシアの眼前へと迫った。垂れ落ちる銀白の長髪は、少女の逃げ道を完全に遮断する蜘蛛の巣のようであり、深淵を湛えていたはずの真紅の双眸には、今や狂気と殺意が渦を巻いていた。


息の詰まるような威嚇の匂いが立ち込め、寒気に包まれた公爵の寝室は、刹那のうちに人間をずたずたに引き裂く修羅場へと変貌した。


ルシアの視界は、瞬く間に灰色の斑点と闇に呑まれ、肺胞に残された僅かな酸素が残らず絞り出されていく。


少女の華奢な四肢が窒息の苦痛によって痙攣を始め、深緑の瞳から光が失われかけた――まさにその瞬間、喉を締め上げていた拘束が不意に緩められた。


「ゲホッ……ハァッ……ハッ……!」


刃のような冷気が喉を掻きむしりながら肺腑へと流れ込み、ルシアは乱れたベッドの上へ力なく崩れ落ちた。胸を激しく波打たせ、寝間着は冷や汗で肌に張り付いている。


生理的な涙が目尻から際限なく溢れ出し、激しい圧迫と咳き込みによって、口元からは透明な唾液が無様に一筋零れ落ちた。


死の眩暈から立ち直る間もなく、ひんやりとした柔らかな感触が、彼女の唇の端へとそっと押し当てられた。


カリーナが顔を寄せ、その仕草はほとんど神聖なまでに慈しみに満ちていた。彼女はルシアの首筋に寄り添い、真紅の瞳を微かに伏せると、湿り気を帯びた舌先で、少女の口元を汚す唾液をひとしずく残らず、愛おしそうに舐め取ったのだ。


それはまるで、自分だけの壊れやすい神に傅く信徒のようでありながら、骨の髄まで凍りつかせるような異常な執着に満ちていた。


「お前に、私の側を離れる資格などない」


女公爵の声は低く、氷のように冷たく、妥協の余地など欠片もなかった。だが、その赤い瞳の奥底で渦巻く情念と妄執は、溺死を誘う劇薬のように濃密で、恐怖に震える黒髪の少女を底なしの闇へと沈めていく。


細い指先が、ルシアの額に張り付いた乱れ髪を優しく梳いた。カリーナの薄い唇がその耳朶に触れ、呪詛のような宣告を囁く。


「契約書にその名を刻んだ瞬間から、お前の骨の一本、血の一滴、果てはその呼吸のすべてに至るまで、完全に私の所有物なのだ……分かったか? 私の、ルシア」


極限の恐怖が、寒波となって神経を駆け巡った。


ルシアは激しく喘ぎながら、頭の中で警報を乱れ打たせていた。この女は身代わりを探してなどいない――これは優雅な皮を被り、いつ骨まで噛み砕いて貪り食うかも知れぬ、狂気の生贄の儀式だ!


生存本能があらゆる打算を凌駕した。ルシアは奥歯を噛み締め、カリーナの豊かな胸元へ両手を押し当てると、残された全力を振り絞って、この恐ろしい猛獣を突き放そうと抗った。


だが、その微弱な抵抗は、カリーナの目にはもっとも許しがたい裏切りと映った。


女公爵の瞳の奥の病的な優しさが、底知れぬ暗濁へと塗り潰される。


刹那の間。カリーナは何の気負いもなくもう片方の手を伸ばし、布団の下へ引っ込められようとしていたルシアの、白く細い右のふくらはぎを正確無比に掴み取った。


幾多の戦場で大剣を振るい、鋼鉄の重装甲すら引き裂いてきたその手は、冷徹な鋳鉄の枷のごとく、寸分違わず締め上げられていく。


ルシアの全身が硬直した。深緑の瞳が、針の先ほどに収縮する――カリーナの掌に集約される破壊的な膂力を肌で感じ取り、その赤い瞳の奥にある、絶望的なまでに残酷な決意を悟ったのだ。


「待っ……カリーナ、やめ――」


慈悲を乞う言葉すら、最後まで紡ぐことは叶わなかった。


メキッ、バキィッッ――!!!


耳朶を打つ生々しい骨の破砕音が、静まり返った薄暗い寝室に無残に炸裂した!


焼けた鉄槌で殴りつけられたような純粋な激痛が、コンマ一秒のうちにルシアの全身の神経網を貫いた。骨髄を素手で圧し折られる激痛は、人間の許容量を遥かに超えていた。


少女は悲鳴を上げることすらできず、水揚げされた魚のように背を弓なりに反らせ、額からは滝のような冷汗が噴き出した。


カリーナは眉ひとつ動かさず、握りしめた姿勢を保ち続けた。掌の下で脆い骨が砕け散り、筋肉が激しく痙攣する感触を確かめると、その唇の端が、痛ましさと安堵が綯い交ぜになった、歪みきった笑みへと緩やかに綻んでいく。


「これで……」


白銀の女公爵は身を屈め、激痛に身を震わせ視界を失いかけているルシアを、壊れ物を扱うようにそっと抱き締めた。青褪めたその頬に唇を寄せ、甘く狂気じみた囁きを落とす。


「もう、どこへも行けないな? 私の愛しい小鳥」

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