どうやら私、ただの身代わり(代わり)だったらしい?
北境の夜は骨の髄まで凍てつくほどに冷え込み、昼間の乾燥した酷暑との間には、まるで刃物で切り裂かれるかのような凄まじい寒暖差を生み出していた。
だが今、グラフィエン公爵邸の本館大広間は煌々と灯火に照らされている。数頭の巨大なシャンデリアが放つ光が一斉に降り注ぎ、見渡す限りの大理石の床面を、さながら修羅場のごとく浮き彫りにしていた。
空気中には濃厚で粘りつくような鉄錆の臭気と硝煙が立ち込め、並外れた腕前を持つはずだった無数の刺客たちが、無残な骸となって血だまりの中に転がっている。
ある者は両断され、ある者は氷塊と化して砕け散り、深紅の鮮血が大理石の継ぎ目に沿って曲がりくねりながら広がっていた。
ルシアの身体は小柄で華奢であり、歩みを進めるたびに、足元に折り重なる屍や肉片を慎重に避けなければならなかった。その姿は警戒心に満ち、どこか足取りもおぼつかない。
その大広間の中央、誰もが目を奪われずにはいられない場所で、カリーナは静かに佇んでいた。
白髪赤瞳の女公爵は、一般的な剣よりも遥かに細くしなやかで、蝉の羽のように薄い奇妙な刀を提げていた。
一見すれば脆そうに見えるその刀身だが、カリーナの怒濤のような魔力が注ぎ込まれることで、刃先からは不可視に近い空間の微光が揺らめいている――いかなる鋼鉄の重装甲も付与魔法の盾も、肉体ごと一瞬で両断せしめる鋭利な輝きだ。
カリーナは息を殺して怯える従者たちへ、整然と現場の後始末や注意事項を言い渡していた。銀鈴のように優雅でありながら冷酷な声が、がらんとした広間に木霊する。彼女が身体を巡らせ、最後の箝口令を下そうとしたその瞬間、その赤い双眸が微かに震えた。
彼女の視界に、あの小柄な黒髪の姿が飛び込んできたのだ。
カリーナの背丈は高く肉感的で、一般的な成人の貴族男性よりも頭半分ほど高い。
普段の彼女がふと向きを変えた際、精巧な人形のように小さく痩せ細ったルシアの姿を見落としてしまうこともあった。しかし今この瞬間、その紅い瞳は瞬時に引き寄せられ、奥底には言葉にできぬ波瀾が渦巻いていた。
カリーナは一面の血糊と肉片を踏みしめ、長刀を手に、一歩、また一歩とルシアへ向けて歩み寄る。
だが数歩進んだところで、女公爵の足が突如として止まった。
彼女の視線はルシアを越え、その背後にぴったりと従う鋼鉄の騎士へと注がれた――【天刻の騎士・ベテルギウス】。
帝国全土はおろか他大陸の国々においてすら指折りの強者であるカリーナは、真の「強さ」とは単に自身の魔力や武芸に秀でていることだけではなく、初見の刹那において相手の急所と勝敗の確率を正確に見極められるかどうかにこそあると熟知していた。
だが今、この冷徹な金属光沢を放つ機械騎士をつぶさに観察したカリーナの瞳孔は、抗いようもなく収縮した。
――隙がない。
重厚な鋼鉄の装甲は寸分の狂いもなく噛み合わされ、胸の中心にある恒星のように脈動する魔動力炉からは、心胆を寒からしめるほどの恐るべきエネルギーの波動が波状に放たれている。
その広大にして深遠な魔力量は、大魔導士である自分自身と比べても遜色がないほどだった。
つまり……この人造機械は、純粋な破壊の力において人間の肉体の極限すら超越している可能性がある。
生身の肉体による戦いは、どうしても体力、神経の伝達速度、そして疲労に縛られる。百戦錬磨の剣術の達人であれば、瞬時に無数の的確な攻撃ルートを編み出して勝利をもぎ取れるかもしれない。
しかし目の前の機械騎士は、純粋な錬金術式と冷徹な歯車によって駆動する異形の怪物だ――一秒の間に数十万回に及ぶミクロン精度の超高速斬撃を放つことができ、魔動力炉は全面的な防御と全方位への制圧を同時に成立させる。
何よりも致命的なのは、それが疲れることも、恐れることもなく、乳酸の蓄積という生理的限界を持たないことだ。
人間がこれと刃を交え、初手で圧倒的に粉砕できなければ、長期戦に持ち込まれた時点で待っているのは力尽きて斃れるという唯一の結末だけである。
カリーナは深く息を吸い込み、胸を衝く震撼を強引に押し殺した。
魔力の感知を研ぎ澄ませていくにつれ、彼女はこの壊滅的な騎士の核となる魔力回路が、ルシアの傍らで普段は間抜けそうにしている黄銅の機械梟「刻刻」のそれと瓜二つであることに気づいた。
あの小鳥が……まさか、これほどの神殺しの兵装が圧縮された姿だったとは。
カリーナの瞳に驚愕の色が走ったが、彼女はすぐにその警戒と動揺を思考の外へと追いやった。
眼前の究極の兵器などよりも、小さく青白い顔を上げているあの華奢な姿こそが、彼女の世界を繋ぎ止める絶対の重力源だったからだ。
長刀を無造作に鞘へと収めると、カリーナは足早に歩み寄り、その小柄で柔らかな身体をふわりと抱き上げ、自身の温かく豊かな胸の中へと強引かつ愛おしげに掻き抱いた。
「どうして私の部屋で大人しく待っていなかったの? 外は危険なのに」
カリーナの声は、自分自身ですら気づかないほどの震えと愛惜に満ちていた。刺客が自身の私室にまで踏み込んでいたことなど知る由もなく、ただルシアが外の騒ぎを聞きつけて危険を冒して出てきてしまったのだと思い込んでいたのだ。
ルシアの薄く冷えた身体を抱きしめながら、カリーナの鼻の奥にツンとした痛みが走る。
前世におけるあの絶望の光景が、焼き鏝のように彼女の魂を容赦なく灼き焦がした――自身の手から過って放たれ、夜空を切り裂いたあの狂乱の火球。それが、ルシアの胸を無残に貫いた光景。
滾る鮮血、次第に光を失っていった少女の墨緑の瞳は、その後のカリーナにとって、夜毎の眠りの中で胸を掻きむしる悪夢となった。
自分を心の底から愛し、その瞳のすべてを自分に向けてくれていた少女を、自らの手で殺めてしまったのだ。
だが、幸いなことに……すべてはまだ間に合う。
魂を引き裂くほどの過ちを贖うため、前世のカリーナは狂気の淵へと堕ちていった。
大陸中のあらゆる禁足地と遺跡を巡り、ついに伝説の隠棲せる賢者を見つけ出し、神々に呪われし秘術を手に入れたのだ――億兆の生霊の血肉と魂を薪として焚べ、時間の輪を巻き戻す輪廻の儀式を。
祭壇が完成したその日、カリーナは躊躇うことなく帝都で血の政変を引き起こした。甥であるルーカスを地獄の修羅と化させ、北境と辺境の最も凄惨な肉挽き器たる戦場へと送り込んだのだ。
ルーカスが剣を振るったのは国を護るためではなく、死屍累々の戦場から儀式を発動するに足る怨嗟の魂と生血を集めるためだった。
そしてルーカスが血の海の中で力尽きて果てた後、カリーナは折り重なる皇族と近衛兵の首なし死体を踏み越え、血塗られた月輪の下、帝国全土の民の半数を生贄として祭壇へ捧げ、暴虐にも時空の命運を巻き戻した。
この粘りつき、薄汚れ、底知れぬ罪業にまみれた記憶を、カリーナは魂の最深部に封じ込めている。
自らの魂がとっくに腐敗し、両手が決して洗い落とせぬ穢れに染まっていることは自覚していたが、彼女に後悔の念など微塵もなかった。
なぜなら今、この腕の中で微かに息を弾ませ、確かな体温を宿している少女が、紛れもなく生きてここに戻ってきたのだから。
カリーナは堪えきれずに顔を伏せ、自らのひんやりとした頬を、ルシアの柔らかな頬へと愛おしげにすり寄せた。
ルシアの髪から漂う淡い薬草とインクの香りを貪るように吸い込み、やがて自らの取り乱しを覆い隠すように、ルシアにとって思いもよらぬ願いを優しい声音で口にした。
「そういえば……ルシア、頭痛を和らげる錬金道具は作れるかしら? できるだけ小ぶりで、持ち歩けるようなものがいいの。もし可能なら、聖歌や清らかな泉のような音色で、旋律を通じて精神の痛みを鎮めてくれるような……そんなもの、作れる?」
豊かな温もりに抱きすくめられたルシアは、完全に呆気に取られていた。
……その説明、現代地球の「オルゴール」そのものではないか?
ルシアは顔を微かに上げ、墨緑の瞳に困惑と疑念を宿らせた。この世界の技術体系には精密な音櫛やピン付きシリンダーという概念など存在しない。
カリーナは紛れもなくこの異世界の先住民であり、その物言いからも実物を見たことがないような響きがあるというのに、なぜ……これほど的確に、まるで本物を知っているかのように製品の仕様を口にできるのか?
ルシアの心臓が、トクンと嫌な跳ね方をした。
まさか……この公爵邸の中で、転生してきたのは自分一人ではないというのか?
カリーナもまた前世の記憶を保持して戻ってきており、だからこそ今世の自分に対してこれほど異常なまでの甘やかしと優しさを見せているのか?
しかし、そんな突飛な疑念が湧き上がったのも束の間、ルシアの冷徹な理性がそれを無情にも打ち消した。
あり得ない。
前世の記憶において、カリーナはいつだって高慢で、自分に対して値踏みするような嫌悪の眼差しを向けていたのだ。
公爵の目には、家庭教師という立場を利用して権力に取り入ろうとする、身の程知らずな平民の娘としか映っていなかったはずだ。
もしカリーナに前世の記憶があるのなら、警戒してさらに遠ざけるはずであって、今のように狂気じみた甘やかしを注ぎ、自らの骨肉に溶かし込もうとするかのように抱きしめてくるはずがない。
(……バタフライエフェクト、かしら? 今世の私が付き纏うのをやめたせいで、何か未知の性格の歪みが生じただけ?)
ルシアの頭では、そうした理屈で辛うじて自分を納得させるしかなかった。
その時、連続した高負荷の演算による疲労が、津波のように意識を飲み込み始めた。
カリーナの芳しい温もりに包まれているせいで、ルシアの思考は鈍く混濁していく。丸一日眠りこけていたはずだというのに、瞼が鉛のように重くなってくる。
だが次の瞬間、ひどく狼狽し、震える青年の叫び声が、晴天の霹靂のように斜め前方から轟いた――
「アリエル姉さま……?! あなた、とっくに死んだはずじゃ……?!」
ルーカスの声だった。
その声には信じがたい動揺と歓喜が滲んでおり、その切迫した叫びに、閉じかけていたルシアの目がハッと見開かれた。
「……アリエル?」
ルシアはカリーナの柔らかな胸元から苦労して小さな頭を覗かせ、怪訝そうに声のした方を見遣った。
壊れかけた柱の傍らに立っていたルーカスは、ルシアの墨緑の瞳と視線がぶつかった瞬間、頭から氷水を浴びせられたかのように硬直した。
その瞳に灯っていた激しい光は粉々に砕け散り、代わりに浮かんだのは、痛々しく苦い自嘲の笑みだった。
「あ……なんだ、ルシア先生か。すみません……見間違えました」
少年がひどく落胆し、きまり悪そうに項垂れる姿を見て、ルシアの胸中の疑問はさらに深まった。
アリエルとは誰だ?
前世においてルーカスの家庭教師を務めた丸三年の間、彼からも、公爵邸の使用人の誰からも、そんな名前は一度たりとも聞いたことがなかった。
もし、あの不遜な公爵家の跡取りをこれほど取り乱させるほど重要な人物であるなら、三年もの間、何の噂も耳に入らないなどあり得るだろうか?
ルシアの探るような視線に気づいたのか、ルーカスは口元を引き攣らせ、乱れた白髪をぎこちなく掻きながら小声で弁解した。
「その……叔母上が幼い頃、別邸で共に育った少女がいたんです……僕にとっても、グラフィエン家全体にとっても、かけがえのない大切な人でした。先生と同じようにとても小柄で、綺麗な黒髪をしていて……遠目から背格好が見えたものだから、一瞬気が動転してしまって。失礼しました」
ルーカスの説明を聞き、ルシアの胸に渦巻いていた疑雲は、奇妙なまでの滑稽さによって綺麗さっぱりと霧散した。
なるほど。すべての辻褄が、この瞬間に完璧に合致したのだ。
なぜ今世の自分が求愛を引っ込め、分別を弁えて生きるようになってから、カリーナがこれほどまでに優しく接してくるのか。
なぜあの気高く尊大な女公爵が、あんな正気を失ったような熱い視線を自分に向けてくるのか。
……要するに自分は、早世したその親友「アリエル」の身代わりとして扱われていただけなのだ!
前世の自分もまた同じく小柄な黒髪で、あろうことか分を弁えずにカリーナへ媚びを売り、毎日所構わず発情していた。
立場を置き換えて考えてみればいい。もし亡くなった親友と瓜二つの女が、毎日油ぎった下心全開の視線で自分を口説いてきたとしたら……カリーナでなくとも、反吐が出るほど鬱陶しくて張り倒したくなるに決まっている。
論理は完全に閉じた。
胸の奥に残っていた最後の自意識過剰な波風は完全に凪ぎ、代わりに広がったのは、乾いた諦念と安堵だった。
(まあいいわ……身代わりなら身代わりで。帝都魔法学院への推薦状さえ無事に手に入るなら、誰の代わりにされたって痛くも痒くもないし)
張り詰めていた神経が緩んだ瞬間、極限の脱力感がルシアの意識を猛烈な勢いで呑み込んでいった。彼女はもう抗うことをやめ、熱を持った頬をカリーナの温かい懐へと深く埋め、肉体の制御を完全に手放した。
昼間に一度眠っていたとはいえ、天刻の騎士を行使し、凡庸な肉体で二つもの錬金回路の反動を受け止めた代償は、この病弱な身体に深刻な活動停止の警告を叩きつけていた。やはり自分は、戦場になど立つべき人間ではない。
ルシアの呼吸が規則正しく穏やかなものへと変わっていくにつれ、傍らに沈黙を保っていた【天刻の騎士・ベテルギウス】の輪郭が淡く光を失っていった。
重厚な鋼鉄の甲冑も、無数に噛み合っていた精密な歯車も、夜気の中で砂のように崩壊し、無数の藍色の星光となって虚空へと溶けていく。
やがて残されたのは、手のひら大の黄銅の歯車で組まれた機械梟「刻刻」だけであり、冷たい金属の翼を羽ばたかせると、ルシアの頭の上に静かに降り立ち、その複眼の光をゆっくりと落とした。
そして、機械騎士の肩に担がれていたあの片腕の女刺客は、「ドサリ」と重い音を立てて冷たい大理石の床へと投げ出された。
刺客は苦痛に呻き声を上げ、薄く瞼を開けたが、その視界に飛び込んできたのは、万年氷のごとく冷酷に自分を見下ろす、ルーカスとカリーナの二組の紅い瞳だった。
カリーナは首を垂れ、胸の中で安らかに眠る少女の寝顔をこの上なく愛おしげに見つめながら、額に張り付いた髪を指先でそっと払った。
ルシアが完全に深い眠りに落ちたことを確かめると、女公爵の口元に、支配欲を孕んだ冷徹な弧線がゆっくりと刻まれた。
彼女は片腕でルシアの柔らかな太腿をしっかりと抱き支え、空いたもう片方の手を伸ばして、傍らに立つ大柄な青年の白髪を、褒めるように優しく撫でた。
「流石は私の甥ね。よくやったわ」
カリーナの声は極めて低く、冷ややかで、支配者特有の余裕に満ちていた。
カリーナとルーカスは互いに口裏を合わせずとも理解し合っていた。二人は共に自らが「転生者」であるという真実を隠し通さねばならず、ルシアは極めて聡明で、異常や危険を嗅ぎ分ける猟犬のような勘を持っている。
ほんのわずかな綻びすら、彼女の警戒心を跳ね上げる原因になりかねない。
だが、ルーカスが今しがた見せた予兆なき即興の芝居は、まさに神懸かり的な一手だった――この時間軸においては未だ影も形もなく、生まれてすらいない完全に架空の人物「アリエル」。
その稚拙でありながら筋の通った「身代わり」という物語が、ルシアのあらゆる疑念の連鎖を完璧に封じ、黒髪の少女の心の壁を跡形もなく打ち砕いたのだ。
ルーカスは撫で回された白髪を手で押さえ、叔母の腕の中で眠るルシアを見つめた。その血赤の瞳の深淵には、病的なまでの狂おしい執着と苦い痛みが渦巻いていた。
これは、血の海から這い上がってきた二人の狂人が、最愛の少女のために紡ぎ出した、最も優しく、最も偏執的な嘘だった。
ルーカスは体側に垂らした拳を強く握りしめ、過剰な力のために指の節々を白く浮き上がらせていた。
前世の彼は、この黒髪の少女を心底から嫌悪していたのだ。
当時の彼は傲慢で、自らを高貴な公爵家の正統なる後継者と信じて疑わず、裏では従者たちに彼女の食事を減らさせ、その存在を冷遇することを黙認していた。
ルシアがカリーナに向けていたあの隠そうともしない熱烈な求愛は、下層の平民が高貴な身分に取り入り、グラフィエン家の莫大な富を貪るための浅ましい手段に過ぎないと、頑なに思い込んでいたのだ。
あの日、カリーナが過って放った火球が、ルシアの胸を穿つまでは。
あの血染めの夜が過ぎ去った後、ルーカスは半ば放心した状態でルシアの遺品を整理した。
その時、彼の目を真っ先に射抜いたのは、工房の隅に山積みにされていた高位の錬金工芸品の数々だった――彼が鼻で笑い、見向きもしなかった小瓶や器具の一つ一つが、帝都の闇市や競売場に持ち込めば、常人には想像もつかない大金に化ける代物ばかりだったのだ。
そしてルシアが夜を徹してそれらを作り続けていた理由はただ一つ、彼の錬金術の講義に必要な巨額の費用を穴埋めするためだった。
自らの愚かな偏見と嫌がらせのせいで、公爵邸の出納官はルシアの給金をことあるごとに差し引き、高価な錬金素材の請求など認めるはずもなかった。
講義の進度を遅らせまいと、あの華奢で病弱な少女は衰弱した身体を引きずりながら、自ら精製した秘薬を闇市で金貨へと換え、自腹で最高品質の素材を買い集めては、笑顔で彼の机の上へと届けてくれていたのだ。
そして、ルーカスの誇りを根底から打ち砕いたのは、ルシアが彼のために手ずからまとめた、あの分厚い錬金術の講義ノートだった。
ぎっしりと並んだ細く端正な筆跡のページをめくった時、熱い涙が羊皮紙の上へとボロボロと零れ落ちた。
そこには、最も平易で直感的な図解と、懇切丁寧な論理展開を用いて、帝都魔法学院の過去最も難解とされた試験問題の解法が解き明かされていた。
それぞれの注釈の傍らには、彼が陥りやすい思考の死角までもが、赤いインクで優しく記されていたのだ。
その瞬間になってようやく、ルーカスは身を切られるような思いで悟った――自分がどれほど冷淡に振る舞い、どれほど嘲笑を浴びせようとも、ルシアは自身の細い命を削りながら、家庭教師としての本分を最後まで全うしようとしてくれていたのだと。
その後、帝国が瓦解し、カリーナが政変を起こした際、ルーカスは阿修羅となって最も過酷な肉挽き器の戦場を駆け巡り、幾度となく致命傷を負った。
胸を抉られ、内臓を引き裂かれ、死の淵へと沈みかけるたび、彼を生の側へと引き戻してくれたのは、ルシアが生前に遺していったあの命綱の霊薬たちだったのだ。
それこそが、あらゆる破壊の魔法を凌駕する、錬金術の持つ最も優しく、最も絶対的な力だった。
世の人々は直接的な殺傷力を持たない錬金術を蔑み、欠陥だらけの下等な技術だと見下す。だが、幾星霜を経ても決して途絶えることのなかったその技術には、凡人には窺い知れぬ必然性が宿っていたのだ。
ルーカスは深く息を吸い、双眸に渦巻く激しい自責と痛哭を押し留めた。彼はゆっくりと手を伸ばすと、その指先を微かに震わせながら、眠りの中で微かに温もりを帯びているルシアの柔らかな頬を、この上なく愛おしげに小さくつついた。
「ゆっくり休んでください……ルシア先生」
少年の低く掠れた声には、心の底からの慈しみが滲んでいた。
名残惜しそうに手を引っ込めると、彼は背筋を伸ばし、顔に浮かんでいた痛々しいほどの情愛を一瞬にして冷ややかに消し去った。
ルーカスは首を巡らせ、すぐ近くで煤けたカーテンを無様に身体へ巻きつけている影へと、あからさまに軽蔑の眼差しを向けた――
帝都で最年少の天才学者と持て囃され、数多の貴族子弟から高嶺の花と崇められていたヴァレリーが、今や全身を黒い灰まみれにし、破れたカーテンで辛うじて下着姿を隠しながら、片方の靴を失った滑稽な姿で佇んでいる。
ルーカスは眉をひそめ、見下すように冷たく二文字を吐き捨てた。
「ぶっさ」
身体を必死に覆い隠そうとしていたヴァレリーの身体がピシリと硬直し、その金色の瞳に羞恥と怒りの炎が瞬時に燃え上がった。彼女は容赦のない視線を鋭く睨み返した。
「アンタに関係ないでしょ!」




