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重度カードゲーマー女子、過労死転生した異世界でも恋愛をプレミして詰んだ件  作者: 酣睡


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ひとつの雨、ふたつの世界、そして残された宿題

細やかな雨糸が煙の如く、霧の如く、廃墟と化した処刑広場の上で音もなく蒼涼たる帳を織り上げていく。


焦土と化した泥濘と水たまりの中、交差していた二振りの長剣が、死寂の中でようやく緩やかに離れた。


ミスリルと古き鋼が擦れ合う微かな金属音が微風の中に溶け消え、残されたのは、凍てつく雨幕の中で紙一重の距離を隔てて無言のまま対峙する、スラリと立つ尊き二つの姿だけであった。


風は大気中に漂うかすかな鉄錆と硝煙の匂いを吹き払うことはできず、むしろこの雨を、全く異なる二つの世界へと分かち描いていた。


細雨がクロードの顔に降り注ぎ、額に乱れて張り付いた黄金の髪を伝って曲がりくねりながら流れ落ちる。それは瞳の奥に澱む拭い去れぬ灰敗の色と混ざり合い、無言のまま流れる幾筋もの屈辱の涙痕のようであった。


帝国で最も眩く、そして最も孤独な皇太子は、今や顎を微かに上げ、目の前で神のごとく冷ややかに佇む女公爵を射抜くように見据えていた。


普段は優雅と体面を保ち続けているその端麗な顔立ちのすべての肌が、冷雨に侵されて激しく強張り、極限まで歪んだやるせなさと不甘を露わにしている。


あまりにも報われない。


彼は深宮の奥底で幾万の毒矢を呑み下し、血肉の凡躯をもって運命に抗い続けてきた。暗黒の深淵の中で非難と裏切りに晒されながらも、己の意志を貫き通して玉璽を捺したのは、ただルシアに純粋無垢なる自由を与えるためであった。


自らの成したすべての事、張り巡らせた策謀の一手一手、ひいては先刻の己の体面をかなぐり捨てたあの暴虐の一撃に至るまで——そのすべては、永き夜の底でもがき苦しむ一人の凡人が、渇望してやまない同類へと差し伸べた、最も卑しく、最も不器用な救いの希求であったのだ。


それなのに、彼の身に降りかかるこの雨は、どこまでも冷たく、骨を刺すように重く、永遠に陽の射さぬ監獄のようであった。


雨水が彼の目蓋を越えて溢れ、瞳の奥に宿る砕け散った問いを洗い流していく——なぜだ? 己が魂と血涙を削り尽くしてもなお得られぬあの振り返りを、なぜ生まれながらにすべてを授かりし目の前の天驕は、これほどまでに容易く腕の中に抱きしめることができるのだ?


そして、切っ先の対極、カリーナの身に降り注いでいるのは、全く異なる雨であった。


吹き乱れる銀白の長髪が微風に優美に揺れ、透き通るような雨滴が、彼女の長密な白い睫毛に細やかに宿る。それは純粋なるピジョンブラッドのルビーの如き紅き双眸を、かつてないほどに澄み渡らせ、鋭利で果断な輝きへと洗練させていた。


氷玉の如く彫り深き無瑕の顎の輪郭を伝い滑り落ちる細雨は、彼女の纏う傲岸さを洗い流すどころか、その玄黒の軍装をより一層、不可侵の神聖さをもって際立たせていた。


頬を撫でるその雨粒は、まるで風雪の極地より舞い降りた甘霖のように、穏やかで、深遠で、世のあらゆる権謀術数や大義を睥睨する従容たる気配を漂わせている。


カリーナは、クロードの瞳に渦巻く怨嗟と痛楚に、一瞥すら向けてはいなかった。


彼女の眼差しは深淵の如く深く、冷鉄の如く硬い。それは傲慢などではなく、凡俗の争いを遥かに超越した、決して揺らぐことのない絶対なる守護の意志そのものであった。


クロードの瞳に映る世界は、泥濘の中でもがく「愛されたい」「認められたい」という渇望であり、打算と苦痛と独占欲で築き上げられた檻に過ぎない。


対して、カリーナの瞳に映る世界は、背後にいるあの黒髪の少女の呼吸と温もりだけに、余計な夾雑物の一切なく純化されていた。


ルシアのためならば、彼女は【事項干渉】をもって世界の理すら転覆させ、公爵の名の下に剣を抜き放って帝国全土の皇権に真っ向から立ち向かい、この果てなき運命の嵐の中に、自らの肉体をもって決して崩れることのない巍然たる雪山を築き上げてみせる。


彼女には、クロードのやり場のない無念を理解する必要などなく、その執念を憐れむ理由すら持ち合わせていない。


彼女の剣はここに立ち、彼女の心はここに留まる。たとえ皇権が傾き軋み、天地が崩壊しようとも、あの華奢な背影が己の背後にある限り、彼女は永遠にあらゆる深淵を断ち斬る絶対の刃であり続けるのだ。


天地の間には、ただ細やかな雨音だけが微かに響いていた。


同じ一つの細雨でありながら、クロードの顔を伝うそれは一人の凡人の最後の矜持を打ち砕く狼狽と破滅の冷雨であり、カリーナの顔を撫でるそれは守護者の無瑕なる魂を映し出す神聖にして確固たる氷雪であった。


目に見えぬ深淵を隔て、雨風の中に立つ二人は、誰一人として言葉を発することはなかった。だが、その魂の交錯において、勝敗と永遠の隔絶はとうに宣告されていた。


ルシアがカリーナとクロードの無言の対峙を呆然と見つめ、その思考が雨水に溶かされかけていた、まさにその刹那。背後の冷たく粘つく泥濘が、突如として比類なき柔らかさと温もりを帯びた気配によって一掃された。


白くしなやかな、されど激しい胸の痛みに微かに震える優しい素手が、音もなく彼女の脇の下と膝裏へと滑り込む。


脱力による朦朧とした意識から立ち直る間もなく、ルシアの全身は極めて優しく、されど抗うことを許さぬ絶対の力を伴って、血と泥に塗れた地面からそっと抱き上げられた。


懐かしい香りが瞬時に彼女を包み込む——それは帝国の初恋の象徴であり、深遠にして濃密、そして尽きせぬ慈しみを湛えた絢爛たる薔薇の艶香。


「……捕まえたわ、私の意地っ張りで馬鹿な小さなお嫁さん」


耳元に届いたのは、極めて低く、柔らかく、それでいて歯を食いしばるような嗚咽と安堵が混ざり合った囁きであった。


クレアの上品で豪奢な外套が細雨の中に揺れ、上質な絹糸の如き紫の長髪が風に舞う。彼女はルシアの体にこびりついた血泥や焦げ跡が己の高価な衣を汚すことなど露ほども厭わず、ただ固く下唇を噛み締めながら、骨折に軋み、枯葉のように軽いその華奢な肉体を、温かく柔らかな己の胸の中へ寸分の隙もなく掻き抱いた。


常に悪戯っぽい光と知謀を宿していたあの麗しき紫の瞳は、今や完全に涙の膜に覆われ、自らの最も愛おしき宝物が無残に折られたことに対する、途方もない痛惜で溢れ返っていた。


そして泥水の中、ルシアが抱き上げられたことで不意にその腕から離されたミアは、呆然と指先を微かに動かした。


涙と雨水に濡れた小さな顔を懸命に持ち上げ、無意識に頭上を仰ぎ見る——。


視界に飛び込んできたのは、その魂すらも激しく震わせるほどの、息を呑む絶景であった。


斜めに煙る雨の帳。


前方には、白髪紅瞳のカリーナが剣を手に凛と立ち塞がり、帝国のすべての悪意と嵐を遮断する不落の雪嶺の如く、冷冽に、果断に、その絶対の武をもって高みに立つ皇太子を抑え込んでいる。


そして後方には、紫髪紫瞳のクレアが雨風の中に咲き誇る一輪の至高の薔薇の如く、傷だらけの英雄を優しく抱き上げ、極限の温もりと揺るぎなき包容をもって、重傷に沈む黒髪の少女のすべての疲弊と苦痛を受け止めていた。


白銀と幽紫、雪嶺と薔薇。


平時であれば、そのどちらか一人だけでも大陸全土を狂喜させ、凡俗の身では仰ぎ見ることすら叶わぬ尊貴なる天之驕女が、今、この薄汚れた地獄のような廃墟の中に同時に降臨している。


象徴たる皇権のクロードに視線を向ける者はなく、地に転がる無残な残骸や近衛軍の存在を気にかける者もいない。彼女たちの刃のすべては外へと向けられ、その温もりのすべては内へと向けられ、ただ一つ、あの小柄な姿を守り抜くためだけに注がれていた。


ミアのエメラルド色の瞳は、一瞬にして涙の光と眩い輝きによって満たされた。


激しく脈打つ心臓が胸を打ち、生還の震えと極限の憧憬が入り混じった激情が少女の胸中に嵐の如く吹き荒れ、心の底から何度も、何度も、息を呑むように叫ばずにはいられなかった。


——すごい……本当に、すごい……!


これこそが、ルシア様の奥様たちなのだ。普段は誰よりも後ろに隠れているように見えながら、運命の断頭台の前では自らの血を流し尽くして戦うあの黒髪の女性が手に入れた……最も眩しく、決して揺らぐことのない帰るべき場所なのだと。


細雨はしとしとと降り注ぎ、煙の如き銀糸が無残な処刑広場を静かに撫でていく。


焦げ落ちた黒曜石の石畳は雨水に洗われて冷たい微光を湛え、水たまりに描かれる波紋は幾重にも広がり、音もなく消えてゆく。


風は折れた石柱と倒壊した時計塔の瓦礫を吹き抜け、冷ややかな湿り気と硝煙の残滓を巻き込みながら、あの対峙する二人を撫でる時には、信じがたいほどの優しさへと変わっていた。


固唾を呑んで見守る幾多の視線の下、交差する刃の間に満ちていた狂暴で凶悪な重圧が、何の予兆もなく不意に霧散した。


クロードの剣を握る手首が、微かに力を抜いて下がる。カリーナの佩剣と噛み合っていたミスリルの切っ先が静かに離れ、極めて低く、澄んだ金属の余韻を鳴らした。


彼は目の前に聳える白銀の防壁を二度と見ようとはせず、ただ極めて優雅に、極めて静かに手首を返し、皇権を象徴する長剣を微光へと変え、「カチリ」と寸分の狂いもなく鞘へと納めた。


すべての殺気と禍々しさは、刃が鞘に収まった刹那、跡形もなく沈殿した。


クロードは緩やかに背を向けた。カリーナに背を向け、クレアの腕に抱きしめられるルシアに背を向け、肩の金糸の刺繍が細雨に濡れるに任せている。


彼は深淵の如き瞳を微かに伏せ、微塵の波風も立たぬ淡々とした声音で、あたかも定められた真理を口にするかのように呟いた。


「……そなたの覚悟、余が確かに受け取った」


冷やかな声音が雨幕を通り抜け、死寂に包まれた広場の廃墟の上空へと静かに広がっていく。


クロードの言う「覚悟」が、一体誰を指しているのかを知る者はいなかった。


泥濘の中で粉骨砕身し、凡人の力のすべてを燃やし尽くして血祭の宿命を打ち破ったルシアの覚悟か。それとも最後の土壇場で元老院と教廷のあらゆる脈絡を根回ししてこの死局を解体し、己の名望と命を賭して修羅場へと佩剣を抜き駆けつけたカリーナとクレアの覚悟か。


居並ぶ近衛軍の生き残りと群衆にそれを知る術はなかった。だが、その場にいるすべての者の目には、あの黒髪の少女も、この世に二つとない公爵と至高の天驕も、彼女たちが互いのために示した覚悟は、帝国が「絆」と呼ぶ概念の極限を遥かに超越していた。


クロードは歩みを進めた。


革靴が泥水を踏み砕き、孤独で澄んだ足音を響かせる。だが、数歩進んだところで、その長身の影が何の予兆もなく細雨の中に立ち止まった。


彼は振り返ることはなく、ただ引き締まった顎の輪郭を微かに傾け、平淡でありながら一言一言が重く、その場にいるすべての者の耳に届く声で、静かに告げた。


「余は、諦めぬぞ」


わずかな沈黙。それは心の奥底で渦巻く感情を押し殺すかのような間であり、やがて、その言葉の刃は偏執的なまでの決意を帯びて翻った。


「故に、もしもいつの日か……そなたたちが彼女を不要とする時が来たら。傷つけるでない。余に告げるがよい」


それは妥協などではなかった。皇太子クロードの、最も荒唐無稽で、最も剥き出しの執着であった。


彼はルシアが今手にしている幸福を邪魔立てもせず、力づくで奪い去りもしなかった。だが彼は全近衛軍の前で、この処刑広場に注がれるあらゆる視線の前で、自らの誓いをこの焦土へと楔の如く打ち込んでみせたのだ——己は永遠にルシアの最後の後ろ盾であり続ける、いついかなる時も、いかなる場所にあろうとも。


言葉を落とし終えると、クロードはもはや一瞬たりとも足を止めなかった。


視線を投げかけることすらなく、冷たい風雨にマントを翻し、スラリとした長身を真っ直ぐに保ちながら、息を呑む近衛軍の包囲を堂々と通り抜けて去っていく。あたかも、永遠に高みに君臨し、何者にも揺るがせ得ぬ帝国の覇者そのものであるかのように。


しかし。


誰の視線も届かぬ、曲がり角の深き陰の底で。あの懐かしい香りと温もりから完全に遠ざかった、まさにその刹那——。


常に高潔に掲げられ、皇室の無上の尊厳を象徴していたその頭が、ついに力なく、無様に項垂れた。


黄金の乱れ髪が眼前に垂れ下がり、あらゆる光を遮り塞ぐ。


やるせなさ、不甘、激痛、そして愛する者の世界から己が完全に締め出されたという絶望が、この一瞬にして熱き涙となって溢れ、蒼藍の瞳から容赦なく決壊した。


熱き雫は冷たい細雨と混ざり合い、クロードの青白い頬を伝って音もなく泥濘へと落ち、一瞬にして土へと砕け散っていった。


クロードの気高くも孤独な背中が回廊の影へと完全に消え去るまで、凍りついていた大気はようやく息を吹き返した。


「ミア——っ!!」


張り裂けんばかりの泣き叫ぶ声が、その死寂を打ち破った。デイジーはようやくこの怒涛の如き生と死の激動から我に返り、大魔法師としての普段の端麗さも優雅さもかなぐり捨て、水たまりと焦土を足をもつれさせながら駆け抜け、狂ったように飛びついてミアを腕の中に掻き抱いた。


「よかった……無事だったのね……本当によかった……っ、うわぁぁぁん……!」


デイジーは妹の華奢な肩に顔を埋め、声を上げて号泣した。その涙はまるで決壊した濁流の如く、この間に胸の奥底に積もり積もっていた恐怖、自責、そして絶望のすべてを吐き出していた。


ミアは息が詰まりそうになりながらも、赤くなった瞳から涙を零し、両手を伸ばして実の姉を強く抱きしめ返した。姉妹二人の泣き声は、次第に止みゆく細雨の中に木霊し、九死に一生を得た最も純粋な温もりを帯びていた。


そしてその慟哭の傍らで、重厚で確かな足音が水たまりを踏みしめた。


特化ロケット弾の洗礼を受けて焦げた敷石を踏みしめながら、ビクターは揺るぎない歩調で、クレアの腕に抱かれるルシアの前へと歩み寄った。


大陸にその名を轟かす「夜魔」は、今なお噴飯ものの装いを保ち続けていた——上半身は煤で真っ黒に汚れ、下半身は熱波で微かに焦げたボロボロのトランクス一丁。


手には相変わらず蒼穹をも引き裂くあの漆黒の長剣を無造作に逆手にぶら下げている。だが皮肉なことに、法令線の深く刻まれたそのやつれた面には極限まで冷淡で平然とした色が漂い、己のその極めて無様な姿など完全に無視して、泰山崩れるとも眉一つ動かさぬ大宗師の凄まじい威風を放っていた。


彼はクレアの腕にすっぽりと収まり、全身を包帯で巻かれて骨折に虚脱する黒髪の少女を冷ややかに見下ろし、その深邃なる灰色の瞳をわずかに伏せて、いつもの全く抑揚のない、氷のように平板な口調で口を開いた。


「今回ばかりは、ルシア、お前には途方もない借りができたな」


ルシアが口元を歪めてしてやったりと言わんばかりの笑みを浮かべようとした刹那、ビクターの眼光が急変し、その死んだ魚のような瞳が危険なまでに細められた。


「——だが、貸し借りは貸し借りだ。だからといって、お前が学院でサボり散らかしてきた数々の悪行が帳消しになるわけではない」


「……え?」


ルシアは凍りついた。脱力していた小さな顔に、瞬く間に冷や汗が滲む。


「学院史上最年少の実習教授として」


ビクターは冷ややかに鼻を鳴らし、その声音は元老院の死亡宣告を読み上げる書記官の如く機械的であった。


「お前の講義のサボり回数、小テストを助手に丸投げして誤魔化した回数、そして研究討議会から逃亡するために公爵邸で仮病を使った回数は、すでに学院創立七百年の歴史における底を完全に突き破っている」


彼はルシアを見下ろし、乾いた唇の端を極めて威圧的な角度に吊り上げた。


「院長と評議会は昨日、全会一致で議決を下した——お前の極めて悪質な勤務態度に鑑み、帝都魔法学院の歴史上未だかつて前例のない最高懲罰を科す。『任期の三年強制延長』、ならびに三年生ダブルサーキット(双回路)クラスの担任業務の強制兼任だ」


その言葉を聞いた瞬間、ルシアを抱きしめるクレアですら思わず口元を手で覆い、艶やかな低い笑い声を零した。カリーナもまた腕を組み、その真紅の瞳に珍しく呆れと微かな笑みを浮かべていた。


帝都魔法学院の正教授の席といえば、大陸中の無数の頂点たる魔法師や貴族たちが血道を上げ、骨肉の争いを演じてもなお手が届かぬ至高の栄誉である。


その職に就いた者は誰もが薄氷を踏む思いで職務に励み、審査で不合格となって放逐されることを恐れるものだ。


だが、目の前のこの黒髪の小怪物だけは、徹頭徹尾の異端であった。


彼女の学院入りは最初から無理やり押し込まれたものであり、着任初日からその聡明な頭脳で考え続けていたことはただ一つ——「どうすれば円満かつ正当にクビになれるか」であった。


彼女の最大の野望は、毎日心安らかに、何の後ろめたさもなくグラフィエン公爵邸の柔らかく豪奢な天蓋ベッドに転がり、カリーナの纏う清冽で覇道たるシベリアモミの香りを吸い込みながら、クレアが直々に口へ運んでくれる極上の菓子をつまみ、何一つ憂いのない、完全に二人の富豪の妻に養われる自堕落なヒモの隠居生活を送ることであったのだから。


「ちょ、ちょっと待ってください……師匠?! そんなの懲罰の規約にないじゃないですか!」


ルシアは胸の肋骨の軋むような鈍痛も忘れ、クレアの腕の中で激しくジタバタともがきながら抗議した。墨緑の瞳には、天が落ちてきたかのような驚愕と絶望が満ち満ちている。


「規約通りなら、教員評価が赤点なら即座に罷免、その場で叩き出すのが筋でしょうが! クビにしてくださいよ! お願いだから早く私を解雇してください! 任期延長なんて嫌です! 担任なんて絶対にやりたくないぃぃぃ——っ!!」


大宗師との死闘には命を投げ打って挑むくせに、定時出勤の社畜生活だけは断固として拒絶するその崩壊した姿に、かつてあれほど凄惨で重苦しかった処刑広場の廃墟は、完全にこの荒唐無稽で温かな空気に融かされていった。


ルシアのその天を裂かんばかりの悲痛な絶叫を前にしても、ビクターは眉一つ動かさなかった。ただ無感動に口の端を引かせ、あの憎たらしいほど死んだ魚の目で彼女を一瞥すると、冷徹極まりない言葉を吐き捨てた。


「しっかり働け」


言い放つや否や、ルシアにそれ以上の悪あがきや抗議を挟む余地すら与えず、彼は踵を返し、今なお抱き合って啜り泣く姉妹の傍らへと大股で歩み寄った。


微かに焦げたトランクス一丁の男は、極めて無駄のない無造作な動作で両腕を伸ばし、片手で軽々とデイジーを抱え上げ、もう片方の手で華奢なミアを軽々と横抱きにした。


「……えっ? ビクター? ちょっと!」


「義兄さん……?!」


取り乱すデイジーの驚きと、目を赤くしたミアの呆然とした視線の中、ビクターの足元から突如として極限まで精緻で晦渋な深藍の幾何学魔法陣が炸裂した。


大気をねじ伏せる空間の共鳴音。


次の刹那、底知れぬ膨大な魔力の奔流が彼の体内から一切の出し惜しみなく解き放たれ、虚空に眩い銀白の亀裂を切り開いて三人の姿を完全に飲み込んだ。


瞬きの暇すらなく光が収束した時、焦げた石畳の上には微かな魔力の燃え殻だけが残り、三人の姿は疾風の如く掻き消えていた。


高階層の集団転移魔法。


大気が無理やり真空へと圧縮されて残されたその歪みの痕跡を見つめ、先ほどまで喚き散らしていたルシアは、ぴたりと口を閉ざした。


術式構築の専門家として、彼女はそれが何を意味しているのかを誰よりも正確に理解していた。高位の空間転移はそれ自体が禁呪級の負荷を強いる術式であり、転移させる生命体の数が増え、質量が増すほど、消費される魔力量は幾何級数的に跳ね上がる。


ビクターは先刻、彼女の放った破城の聖騎巨槍を真っ向から受け止め、至近距離から特化ロケット弾の狂乱の洗礼を浴びたはずなのだ。そんな「重傷」の状態で、彼は眉一つ動かすことなく、膨大な魔力を無造作に引き出して一挙に三人を連れ去ってみせた。


これが力尽きかけただと? 最初から海ひとつ分どころではない手加減をしていた証拠ではないか。あの男は真の手札も必殺の奥の手すらも切っておらず、純粋に時間稼ぎの茶番劇に付き合ってくれていただけなのだ。


「は……はは……」


途方もない無力感と極限の脱力感が、ルシアの張り詰めていた最後の神経を完全にへし折った。


あらゆるアドレナリンと生存本能がこの瞬間に潮の如く引き去り、折れた肋骨、骨折した右脚、そして干からびて痙攣する魔力回路が、一斉に万本の針に刺されるような鈍痛と疲弊を爆発させる。


ルシアはもはや虚勢の姿勢を保つことすらできず、骨を抜かれた軟体動物のように、力なく、完全に、クレアの柔らかく温かな胸の中へと崩れ落ちた。


煤と血泥に汚れた小さな顔を、クレアの首筋を覆う豪奢な布地の中へと無力に埋め、鼻腔いっぱいにあの濃厚で懐かしい薔薇の香りを貪るように吸い込みながら、彼女は重たい目蓋を閉じた。


神の寵愛、血統の力、怪物と天才たちが跋扈するこの異世界において……。


二世分の知恵と策謀を賭け、【刻刻】を砕き、【おにぎり】という切り札まで晒し、命すら投げ打って足掻いた果てに、自分は手を抜きまくっていた大宗師一人すら突破できず、挙句の果てにはクロードの最後の狂気の刃を前にして、己の肉体を盾にすること以外、何一つできなかったのだ。


ルシアは心の底で、自嘲の息を小さく吐き出した。


この荒唐無稽で理不尽な異世界において……自分の戦闘力など、本当に、涙が出るほど弱っちいものなのだろうな、と。

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